地平の月

センリリリ

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第五章

1.吉田の爆発

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 バタン。

 バタバタバタ……。

 叫び声。

 なにかが床に落ち、滑っていく音。

 トンネルのなかにいるような、ぼんやりと霞んでしまっている感覚の外側から、色々な物音が、いっぺんに聞こえてくる。
 いつの間にかぎゅっと瞑っていた目を開くと、自分の上に覆いかぶさるようにしていた吉田の身体が、誰かに羽交い絞めにされ、引き離されているところだった。
 その姿には、もう、あの少女の像は重なっていない。

「麗華! やめるんだ!」

 小野原の声がする。

「明!? どうして……」

 もがいていた吉田も、相手が元彼だと気づいたらしい。
 急に、態度がしおらしくなった。

「私は悪くないの、違うの、この人がね、ねえ、明、聞いてよ……」

 手を離した小野原に今度は取り縋り、ぶつぶつと呟いているが、相手にされていない。
 それよりも、カッターを握った手をつかみ、指を一本一本引き剥がすようにして、なんとか取りあげるほうに集中しているようだ。
 そしてそれになんとか成功すると、カッターを床に放り投げたあと思いきり蹴って、手の届かないところへと滑らせた。

「関戸さん、ケガはない」

 なおも自分の理屈を訴えかけている吉田を無視して、小野原が訊いてくる。
 身体を起こしながら、黙って頷くと、よかった、とすこし疲れたような笑顔を見せる。

「明、なんであの女の心配するの。私が、こんなに傷ついてるのよ。どうして私には、訊かないの」

 吉田はといえば、涙を流し始めた。
 もう、理屈がめちゃくちゃだ。自分がどれだけ可哀そうな悲劇のヒロインなのか、歪んだ認知に基づいた話を、延々と続けている。
 それは、まるで呪文のようだった。
 自分で自分にかけている、呪文。
 しかもそれに気づかず、ひたすらに唱え続け、自分で自分を追い込んでいる。
 その姿は、被害者の立場の瑠奈にさえ、惨めで哀れなものに見えた。

「関戸さん、あの……」

 小野原はそんな吉田を突き放すこともできず、困り切っている。
 瑠奈は、ふらつく足で、なんとか立ち上がった。

「私は大丈夫。吉田さん、医務室に連れて行くか、家に帰したほうがいいよ」

「だけど……」

「ケガはしてない。切りつけられるより前に、小野原さんが止めてくれたから。ありがとう」

 言いながら両手を組み、なんとか震えを止めようとする。
 あまり、効果はなかったが。

「いや……」

 さすがにこの状況では、小野原も瑠奈の言葉を真には受けなかった。
 しかし、吉田をなんとかしなければならない、と思っているのも確かなようだ。
 どうしようもない状態に、三すくみのようになっているところで、伊坂が飛び込んできた。

「なんだなんだ、刃傷沙汰が起きてるって本当か」

 そして、小野原に縋りついて、虚ろな目つきでとりとめのないことを呟き続ける吉田に気づくと、眉をひそめた。

「どうなってんだ?」

「吉田さんが、カッターで私に切りつけてきたんです」

 瑠奈は正直に言った。
 伊坂の顔が、みるみる青ざめる。

「ケガ……、ケガは」

「大丈夫です。小野原さんが、途中で止めてくれたので」

「そうか。それはなによりだ。しかし、マジか……」

「マジです」

 小野原が援護してくれた。

「使おうとしたカッターは、あっちにやりました」

 そう言って、顎でさっき部屋の隅に蹴った方向を示す。手は、吉田に縋りつかれて両方とも動かせなかったからだ。
 伊坂はすこし考えたあと、ズボンのポケットからハンカチを出して広げ、それを使って床のカッターを拾った。
 刑事ドラマでよく見るような感じだ。
 たぶん、証拠になるかもしれないので、指紋をつけないようにしたのだろう。

「うっわ、どうすっか、これ……。関戸、警察、呼ぶか?」

 瑠奈は首を振った。

「いえ。ケガしたわけじゃないですし」

「だがなあ……。本当にいいのか?」

「はい」

 実は、さっきからずっと、ひどい頭痛に襲われていた。
 吉田本人のせい、というよりは、あの、像が重なって見えたことによる影響だった。
 だから正直、もう構っていられる状態じゃなかったのだ。

「あの、早退してもいいですか」

「あ? ああ、もちろん。タクシー、呼ぼうか。領収書もらっておいてくれたら、あとで経費で落とすよ」

「それじゃあ、お言葉に甘えて。荷物、取ってきます」

「ああ、じゃあ、タクシー会社に電話して、呼んでおく」

「はい。お願いします」

「俺、家まで付き添おうか?」

 伊坂の申し出に首を振る。

「お気持ちはありがたいですけど、あの、ひとりになりたいんです……」

「そ、そうか。じゃあ……。でももし、なにか必要になったら、遠慮なく電話してきてくれ」

「はい」

 とにかく、今は、自分ひとりになりたかった。
 ここにいる誰もが、自分も含めて、混乱し、戸惑い、どうしていいか対処に迷っていた。
 そのさなかに、いつまでもいたくない。
 なぜか、このままここに居続けたら、自分を見失ってしまいそうな予感がする。
 吉田に攻撃されたことよりむしろ、今は、そのことが怖かった。



 タクシーを降り、ふらふらとした足取りでマンションの建物内に入る。
 エレベーターのボタンを押そうとして、手の甲に血がついているのに気づいた。カッターの刃のせいだろう。
 ケガはないと言ったが、実際のところは興奮していたせいで、痛みに気づかなかっただけのようだ。もっとも、あまりにも深いものではなく、せいぜい工作の途中で刃が滑ったときと同じ程度のものだった。
 家に入るとすぐに、救急セットを持ち出し、消毒する。
 液がしみたが、そのおかげで、見えない膜にずっと覆われていたようだった感覚が、すこしはっきりしてきた。
 のしかかってきた吉田。
 それに重なった像。
 そして、自分の口から出た----初瑠の名前。
 それらがフラッシュバックのように、脳裏に一気に蘇ってきた。
 あれはいったい……。
 そこまで考えていたとき、まるで思考を邪魔するかのように、スマートフォンの呼び出し音が鳴った。
 表示を見ると、小野原だ。

『ひとりで大丈夫? 俺でよければ、行こうか?』

「吉田さんは?」

『麗華なら、親御さんに連絡して、迎えに来てもらった。俺と一緒にいると、よけい興奮するみたいだったし』

 あそこまで依存しきっていた吉田からすれば冷たい言葉だろうが、小野原にしたところで、どうしようもないのだろう。

「あの、でも……悪いし」

『気にしないでいいよ。麗華が悪いとはいえ、俺が原因っちゃ原因だし……。関戸さんは言わばとばっちりだもんな。お詫び、させてよ』

 瑠奈に負担がかからないように、こんな風に言ってくれるのが小野原らしい。

『それに、俺が言うのもなんだけど……。こういう時、ひとりでいるの、良くない気がする』

 小野原のおしつけがましくない、けれど慮っている調子の声を聞いているうちに、なんだか、目頭が熱くなってきた。

「うん……」

 それだけを言うのが精いっぱいだ。

『住所、メールで送ってくれる? なにか差し入れ持っていくよ。欲しいもの、ある?』

「じゃ、じゃあ……。ココアを。あったかいやつ」

『わかった。ココアな。じゃあ、またあとで!』

 しばらくすると、玄関のチャイムが鳴った。
 ドアを開けると、小野原が立っていた。ココアの缶以外にも、なにかを抱えている。
 いい匂いだ。

「……おでん?」

「つい、買ってきちゃった。あったかい食べ物も、いいかと思って」

「ああ……、うん」

 そういえば、軽めに取った昼食からずっと、なにも腹に入れていない。
 食欲はないが、でも、良い匂いなのは感じる。

「よく考えたら、ココアとは合わないよな。ケーキかなんかにしときゃよかったかな」

 瑠奈の薄い反応に落胆したのか、そう言い訳している。
 だから、首を振ってみせた。

「ううん、いい匂い。食べるの、試してみる」

 その言葉に、小野原が笑顔になった。

『力出すには、まずは食べ物から!』

 ふと、静海がよく言っていた言葉を思い出す。
 仕事が煮詰まるとすぐそんなことを言って、ジャンクフードを買いあさってくるのだ。

『もっと、身体にいいもの、食べればいいのに』

 呆れた瑠奈が言うと、ニヤリと笑ったものだ。

『いや、こういうときはジャンクフードがいいのよ。なんでかね、負けないぞーっ、て気持ちには、味が濃くて脂っこいものが効くんだわ』

 ホントかウソがわからない理屈を言っていた。
 なんだかそれを思い出す。

----そうだ。

----今さら、吉田の悪意になんか、負けたくない。

----これまでだって、嫌味や足の引っ張りになんとか耐えてきたのだ。

----今さら、負けてたまるか。

「あがって。一緒に食べようよ。お皿、用意する」

 瑠奈はから元気だろうとなんだろうと、今できる精いっぱいの元気な口調で、言ってみた。
 ここのところずっと、自分が簡単な食事をできるスペース以外は、物置場と化していたテーブルを急いで片付け、小野原には静海の席に座ってもらう。
 この家に、自分以外のまともな人間がいるのは、ずいぶん久しぶりだ。
 自分の住まいだというのに、照れくさいようなくすぐったいような気持ちで、小野原の持ってきてくれたものに口をつけた。
 ココアと、おでん。
 食べ合わせとしては、最悪に近いと感じる。
 でも、なぜだろう。
 温かさが、有無を言わさず身体に沁みわたるのが、舌ではなく心に美味しい。
 小野原と分け合って食べるのがまた、叔母と一緒に食事をしていた頃に戻ったようで、なんだか落ち着く。

「今日は、わざわざありがとう」

 ようやく落ち着いて、きちんとお礼を言うと、小野原は頭を掻いた。

「いやそんな……。それにさ、実は俺も、あれ、けっこうショックで。ひとりでいたくなかったんだ」

「ああ……」

 そうか。
 吉田は、小野原の前の彼女だ。
 一度は心を通わせた人間の豹変した姿に、衝撃を受けて当然だ。
 自分のことばかりで、そこにまで気が回らなかった自分が情けない。

「小野原さんは、ケガはしなかった?」

「ああ。大丈夫。でもまさか、刃物持ち出すなんて、思ってみなかった……。しかも、職場で」

「……うん……」

 たしかに、瑠奈も驚いた。
 そこまで思いつめていたのか。
 しかも、別に瑠奈と小野原は今のところ、つきあっているというわけでもないのに、だ。
 もしかしたら、ずっと以前から、目の敵にされてていたのは同じ理由からだったのだろうか。
 そして。
 さらに気になるのが、あの、重なった像……。
 そこまで考えると、急にまた、頭痛が襲ってきた。

「あの、ごめん、頭が急に痛くなって……。もう、休もうかと思う」

「あ、ああ、ごめん。急に押しかけちゃって、悪かったよね。じゃあ、俺、帰るわ……」

 申し訳なさそうに言う小野原だって、傷ついているのだ。
 瑠奈は申し出てみた。

「あのさ、隣、叔母の部屋なんだ。まだ片づけしてないから、ベッドなんかもそのままなんだけど、よかったら、そこに泊ってく? もう遅いし」

「え? ええ……、いいの?」

 小野原は躊躇っている。
 瑠奈は言った。

「『こういう時、ひとりでいるの、よくないよ』。あたしも、そう思う」

 さっき言ってくれた言葉を繰り返してみせると、小野原は薄く笑った。

「そうだね……。ありがとう。こんなときに、俺にまで気を遣ってくれて」

「それはこっちの台詞、かな」

「はは。……じゃあ、お言葉に甘えることにする」

 小野原に叔母の部屋の案内を済ませ、毛布は新しいものを出してきて渡す。
 自室に戻り、ベッドに寝転がると、瑠奈は目を閉じた。
 寄り添ってるわけではない。
 それでも、自分以外の人間が隣の部屋に存在しているというだけで、気分が違う。
 このところずっと感じていた、冷たい風しか通らないようだった家のなかが、今だけは変わったような気がした。
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