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第四章
2.嫌な噂
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一か月をかけての、クリアファイル企画の試験運用も無事済み、やっとひと息つけるようになった頃。
久しぶりに、小野原が飲みに誘ってきた。
「成功祝い。だから、ちょっといい店に行こう」
だそうだ。
あの気まずい夜のあとでも変わらず接してくれていたうえ、そうやって懲りずに誘ってくれるのは、瑠奈にとっては嬉しかった。
もちろんふたつ返事で、夜の街へと繰り出す。
先導して連れて行ってくれたのは、いつもの気軽な居酒屋ではなく、高層ホテルの上階にある洒落たバー。いつになく高級な雰囲気にたじろぐ瑠奈にかまわず、さっさと夜景の見える大きな窓のそばにある席についた。
勝手の分かっている様子から、来慣れていることがわかる。
----吉田さんと……?
と一瞬想像しかけて、それ以上はやめた。
ずいぶんロマンティックな店の雰囲気に気圧されそうになりつつも、小野原の勧めで、この店オリジナルだというカクテル『ムーン・ムーン』を頼むことになった。
ジンベースにホワイトキュラソーを使い、わずかに光を含んでいるような白色の液体に、三日月に見立てた形にカットされた、薄切りのレモンが浮かんでいるものだった。
小野原は、ウィスキーのマッカランをロックで頼む。
「あ、この店がいいから来ただけで、ホテルの部屋を使うつもりはないから」
飲み始める前にあっけらかんと言われ、瑠奈は思わず笑った。
小野原のこういう、遠回しを嫌う性格は好きだ。
こちらからは訊きにくかったことが、そうやってあっさり解決すると、とたんにカクテルの味をはっきり感じられる。
「おいしい?」
小野原が訊いた。
頷くと、ニッ、と悪戯っぽく笑う。
「関戸さんの名前、ルナ、って、月って意味だよね」
「うん。よく知ってるね」
「これ初めて見た時に、それを思い出したんだ。だから、一度飲ませてみたくって」
「どういうこと?」
「共食いみたいじゃん」
「……なによ、それ」
「ははは」
瑠奈は、窓の外に目を向けた。
雲の多い、夜空。
しかしかすかな切れ目から、柔らかい月の光がわずかに見える。
「……私には、お姉ちゃんがいたんだ」
「へえ?」
「初瑠、って名前だった。ソル……太陽、っていう意味」
「へえ。お洒落な名前」
「名前の通り、いつも光り輝いてるみたいな女の子だった。私とは大違い」
「じゃあ、仲、悪かったの?」
「ううん。すごくよかった。いつも一緒で。性格が正反対だったのもよかったみたい」
「へえー」
「でも今思うと、性格が全然違ってたのも、なんだか役割分担みたいになってたせいかもしれない。いつも一緒にいすぎて」
「ああ、それ、わかる」
「ホント?」
「友だちがそうだったな。だから家族がいない場所だと、けっこう性格が変わるの」
「へえ?」
「そうなんだよな。だから、なんか見てて面白かったよ。弟がいるときはしっかり者なのに、そうじゃないとすんごい抜けててさ」
「そういえば、小野原さんは兄弟は?」
「俺はひとりっ子なんだよね。兄弟姉妹いる人、ずっと羨ましかったなあ。そういうところも含めて」
そんなふうに他愛もない話をしながら、光の瞬く夜景を遥かに見下ろしていると、いつも心に纏わりついている悩み事も心配も、下界に置いてきたように感じる。
遠い記憶でさえ。
「グラス、もう空じゃん。おかわり頼む?」
小野原が、気を利かせてくれた。
このふわふわとした、どこか現実感の薄い感覚にもっと浸っていたくて、瑠奈は頷く。
それから、三日ほど後のことだった。
瑠奈はいきなり、上司の伊坂に、部長室に行くように言われた。
「ちょっと話を聞きたいって。俺も同席しろと言われてるけど、今から行けるか」
「はい」
廊下を一緒に歩きながら、伊坂はうきうきと弾んだ足取りだ。
「企画がうまくいきそうだから、褒められるんじゃないか」
そんな能天気な予想を言っていたが、瑠奈はというと、正直、疑問だった。
以前にだって似たような業務を成功させたことはあるが、こんな風に、わざわざ呼び出されたりはしなかった。
なんとなく、嫌な予感がしなくもない。
部長室に入ると、言い含められているのか、受付の秘書がすぐに奥に通してくれた。
手元の書類を読んでいた米田部長は、瑠奈たちを見るとすぐにそれを置き、部屋の手前の壁際にあるソファに座るよう勧めた。
「関戸さん、ちょっと訊きたいことがあって、来てもらったんだが」
向かいの席に座ると、さっそく米田が切り出す。
名指しをされ、思わず瑠奈は立ち上りそうになった。
「いやいや。座ったままで構わないから」
部長はなだめるように言う。
だが、次のその口から出てきたのは、信じられない言葉だった。
「実は、君に前科があるという噂を聞いてね」
隣の伊坂が、大きく息を飲んだのが聞こえた。
寝耳に水、なのだろう。
ただ、それは瑠奈にしたって同じだった。
「ありません」
動揺をなんとか抑え、きっぱり言い切ってみせたが、米田は半信半疑のようだ。
「本当かね? 虚偽の申告なら、こちらもそれなりの対応をすることになるが」
「本当です」
瑠奈は、自分の頬がしだいに熱をはらんできているのを感じていた。
涙も出そうだ。
それは悲しいからではない。悔しいからだ。
まさか、そんな根も葉もない噂がたつばかりか、上司がそれを鵜呑みにして糾弾してくるとは。
「しかし、噂がね……」
米田はぶつぶつと言う。
「その噂というのは、誰から聞いたのですか」
ひるみそうになる自分をどうにか励まし、できるだけ落ち着いた声を心がけ、訊いた。
「いや、それは……」
そんな瑠奈の臆さない態度にたじろいだのか、米田は言葉を濁しはじめる。
「なんなら、名誉棄損で訴えてもいいです。そうすれば、私の言っていることが嘘じゃないと、わかっていただけますよね」
そこまで堂々と言ってみせると、さすがに疑いが晴れたらしい。
「わかった。私はあくまで、確認をしたかっただけだ。君を疑ったわけではない。業務成績もいいようだし、これからも頑張ってくれたまえ」
よくも、いけしゃあしゃあと言えたものだ。
しかし噂の出処を話すつもりはないようで、そんな風にごまかしたすぐあとに、追い出されるようにして退室を促された。
廊下で茫然と立ち尽くす瑠奈を、伊坂が気の毒そうな目つきで見ている。
正直、ひどくショックだった。
噂がたったことだけでは、ない。
部長に、当然のように疑われたことが。
米田はこの会社の幹部には珍しく、社長の親類縁者ではない、根っからの叩き上げだった。
一族関係者がなにか仕事上の無茶を言ってきたときなどは、やんわり断ったり、逆に部下がいいアイデアを出したときには彼らをうまっくおだてて稟議を通りやすくしたり、といった手腕が、一般社員たちからは絶大な信頼を得ている。
瑠奈だってそのひとりで、ずっと尊敬していたし、部下であることが誇りだった。
そんな人に、あろうことか前科者扱いされたのだ。
しかも、それを隠していても平気な、信頼のおけない人間だとまで疑われた。
それはまるで、濁流のなかで掴まっていた木の枝が、突然ぽきりと折れてしまったような気分だった。怒りだけでなく、不安までも一気に押し寄せてくる。
「まさか、そんな変な噂がたってるとはな……。気がつかなくて、すまなかった」
伊坂が申し訳なさそうに、眉を下げながら言う。
今や、行きのウキウキした態度は、見る影もない。
「いえ、伊坂さんのせいじゃないですから」
「しかし、ずいぶん悪質な噂をたてる奴がいるもんだな。ネットなんかでそういう冤罪めいたのあるってのは聞いたことあるけど、まさか社内でなあ……」
伊坂の言う通りだった。
誰と誰がつきあってるだの、なんとかさんとなんとかさんが犬猿の仲だの、えこひいきされてるんだあいつは、なんていう類の噂話なら、正直腐るほど出回っている。
だが、この類のものを聞いたのは、初めてだった。
「本当に、ひどいです」
「まったくだよ。言い出した犯人がわかったら、本当に訴えてもいいような案件だよな」
伊坂が味方してくれるのが、せめてもの救いだ。
瑠奈はそのまま自席に戻ったが、あんな話を聞いた後だと、なんとなく周りの人間が、嫌な目つきでこちらを盗み見ているような気がしてしかたがない。
いや。
ひとりだけ、違っている。
吉田だ。
にやにやとした笑いを浮かべ、瑠奈を見ている。
その瞬間、わかった。
噂を広めたのが、誰なのか。
----負けてたまるか。
瑠奈は思いきり、吉田を睨む。
するとそこで、自分がにやけていたことに気づいたのか、急に顔を引き締めた。
それでも睨み続けていると、顔を歪ませ立ち上がり、部屋を出ていく。
瑠奈も、立ち上がった。
追いかけて部屋を出ると、隠れるように廊下を曲がる背中が、かろうじて見えた。
「吉田さん!」
名を呼んで追いかけ、自分も角を曲がる。
今まで色々されていたにもかかわらず、こうやって瑠奈から直接働きかけるのは、実はこれが初めてだった。
だが吉田のほうはと言えば、聞こえないふりを押し通すつもりらしかった。足早にどんどん廊下を進んで行く。
とうとう最後には、エレベーターに乗り込んだ。
そうはさせるか、と瑠奈はダッシュする。
なんとか扉が閉まりかかったところで追いつき、迷わず手を突っ込んだ。
意図は成功し、扉が、また開く。
なかには吉田しか乗っていなかった。瑠奈が乗りこむと、奥の壁に背がつくまで後ろに下がる。
「ちょっと、訊きたいことがあるんですけど」
「な……なに、よ」
瑠奈の勢いにのまれているのか、声が裏返っている。
「おかしな噂流してるの、吉田さんですか」
「おかしな噂って、なに」
この期に及んで、しらを切るつもりらしい。
「私が……」
前科者だ、っていう噂です。
そう言いかけて、ふと思い至ったことがあり、口を閉じた。
もしも、だが。
万が一、噂をたてのが吉田ではなかった場合。
自分の口から前科者だのなんだの言うのは、わざわざ弱味を見せることになる気がした。
「だいたい、なんでそんなに、私を目の仇にするんですか」
だから思わず、むしろ根本的な質問をしてしまった。
吉田は、顔をしかめる。
「目の仇なんてしてない。気のせいでしょ」
「そうですかねえ」
「なんなのよ、被害妄想でしょ、そんなの」
----おっと。
瑠奈が間違っている、という話にしようとしているようだ。
「いい加減にしてくださいよ。なんなら、法的手段に出ますよ」
本気だった。
それがわかったのだろう。
とたんに、吉田の目が泳ぎ出した。
「別に、あながち嘘でもないんでしょ」
苦し紛れか、そんな反撃が出る。
「なに言ってるんですか」
「あたし、知ってるんだから」
「だから、なにをですか」
「だって、ネットにあったから。あなたのお姉さんの名前……。初瑠?」
突然、頭を殴られたような衝撃を受けた。
----なんで、その名前を吉田さんが知っている?
すると、瑠奈の動揺に気づいたのだろう。形勢逆転したと思ったのか、吉田がほくそ笑んだ。
「ほら。やっぱり嘘じゃないじゃない……」
しかしその言葉の途中で、エレベーターが止まった。
どやどやと人が乗り込んでくる。
その流れに無理矢理逆らって、吉田は逃げるように降りた。
「あ、ちょっと……!」
それに気づいた瑠奈が自分も降りようとしたが、もたついている隙に、吉田は隣のエレベーターに乗り、行ってしまった。
久しぶりに、小野原が飲みに誘ってきた。
「成功祝い。だから、ちょっといい店に行こう」
だそうだ。
あの気まずい夜のあとでも変わらず接してくれていたうえ、そうやって懲りずに誘ってくれるのは、瑠奈にとっては嬉しかった。
もちろんふたつ返事で、夜の街へと繰り出す。
先導して連れて行ってくれたのは、いつもの気軽な居酒屋ではなく、高層ホテルの上階にある洒落たバー。いつになく高級な雰囲気にたじろぐ瑠奈にかまわず、さっさと夜景の見える大きな窓のそばにある席についた。
勝手の分かっている様子から、来慣れていることがわかる。
----吉田さんと……?
と一瞬想像しかけて、それ以上はやめた。
ずいぶんロマンティックな店の雰囲気に気圧されそうになりつつも、小野原の勧めで、この店オリジナルだというカクテル『ムーン・ムーン』を頼むことになった。
ジンベースにホワイトキュラソーを使い、わずかに光を含んでいるような白色の液体に、三日月に見立てた形にカットされた、薄切りのレモンが浮かんでいるものだった。
小野原は、ウィスキーのマッカランをロックで頼む。
「あ、この店がいいから来ただけで、ホテルの部屋を使うつもりはないから」
飲み始める前にあっけらかんと言われ、瑠奈は思わず笑った。
小野原のこういう、遠回しを嫌う性格は好きだ。
こちらからは訊きにくかったことが、そうやってあっさり解決すると、とたんにカクテルの味をはっきり感じられる。
「おいしい?」
小野原が訊いた。
頷くと、ニッ、と悪戯っぽく笑う。
「関戸さんの名前、ルナ、って、月って意味だよね」
「うん。よく知ってるね」
「これ初めて見た時に、それを思い出したんだ。だから、一度飲ませてみたくって」
「どういうこと?」
「共食いみたいじゃん」
「……なによ、それ」
「ははは」
瑠奈は、窓の外に目を向けた。
雲の多い、夜空。
しかしかすかな切れ目から、柔らかい月の光がわずかに見える。
「……私には、お姉ちゃんがいたんだ」
「へえ?」
「初瑠、って名前だった。ソル……太陽、っていう意味」
「へえ。お洒落な名前」
「名前の通り、いつも光り輝いてるみたいな女の子だった。私とは大違い」
「じゃあ、仲、悪かったの?」
「ううん。すごくよかった。いつも一緒で。性格が正反対だったのもよかったみたい」
「へえー」
「でも今思うと、性格が全然違ってたのも、なんだか役割分担みたいになってたせいかもしれない。いつも一緒にいすぎて」
「ああ、それ、わかる」
「ホント?」
「友だちがそうだったな。だから家族がいない場所だと、けっこう性格が変わるの」
「へえ?」
「そうなんだよな。だから、なんか見てて面白かったよ。弟がいるときはしっかり者なのに、そうじゃないとすんごい抜けててさ」
「そういえば、小野原さんは兄弟は?」
「俺はひとりっ子なんだよね。兄弟姉妹いる人、ずっと羨ましかったなあ。そういうところも含めて」
そんなふうに他愛もない話をしながら、光の瞬く夜景を遥かに見下ろしていると、いつも心に纏わりついている悩み事も心配も、下界に置いてきたように感じる。
遠い記憶でさえ。
「グラス、もう空じゃん。おかわり頼む?」
小野原が、気を利かせてくれた。
このふわふわとした、どこか現実感の薄い感覚にもっと浸っていたくて、瑠奈は頷く。
それから、三日ほど後のことだった。
瑠奈はいきなり、上司の伊坂に、部長室に行くように言われた。
「ちょっと話を聞きたいって。俺も同席しろと言われてるけど、今から行けるか」
「はい」
廊下を一緒に歩きながら、伊坂はうきうきと弾んだ足取りだ。
「企画がうまくいきそうだから、褒められるんじゃないか」
そんな能天気な予想を言っていたが、瑠奈はというと、正直、疑問だった。
以前にだって似たような業務を成功させたことはあるが、こんな風に、わざわざ呼び出されたりはしなかった。
なんとなく、嫌な予感がしなくもない。
部長室に入ると、言い含められているのか、受付の秘書がすぐに奥に通してくれた。
手元の書類を読んでいた米田部長は、瑠奈たちを見るとすぐにそれを置き、部屋の手前の壁際にあるソファに座るよう勧めた。
「関戸さん、ちょっと訊きたいことがあって、来てもらったんだが」
向かいの席に座ると、さっそく米田が切り出す。
名指しをされ、思わず瑠奈は立ち上りそうになった。
「いやいや。座ったままで構わないから」
部長はなだめるように言う。
だが、次のその口から出てきたのは、信じられない言葉だった。
「実は、君に前科があるという噂を聞いてね」
隣の伊坂が、大きく息を飲んだのが聞こえた。
寝耳に水、なのだろう。
ただ、それは瑠奈にしたって同じだった。
「ありません」
動揺をなんとか抑え、きっぱり言い切ってみせたが、米田は半信半疑のようだ。
「本当かね? 虚偽の申告なら、こちらもそれなりの対応をすることになるが」
「本当です」
瑠奈は、自分の頬がしだいに熱をはらんできているのを感じていた。
涙も出そうだ。
それは悲しいからではない。悔しいからだ。
まさか、そんな根も葉もない噂がたつばかりか、上司がそれを鵜呑みにして糾弾してくるとは。
「しかし、噂がね……」
米田はぶつぶつと言う。
「その噂というのは、誰から聞いたのですか」
ひるみそうになる自分をどうにか励まし、できるだけ落ち着いた声を心がけ、訊いた。
「いや、それは……」
そんな瑠奈の臆さない態度にたじろいだのか、米田は言葉を濁しはじめる。
「なんなら、名誉棄損で訴えてもいいです。そうすれば、私の言っていることが嘘じゃないと、わかっていただけますよね」
そこまで堂々と言ってみせると、さすがに疑いが晴れたらしい。
「わかった。私はあくまで、確認をしたかっただけだ。君を疑ったわけではない。業務成績もいいようだし、これからも頑張ってくれたまえ」
よくも、いけしゃあしゃあと言えたものだ。
しかし噂の出処を話すつもりはないようで、そんな風にごまかしたすぐあとに、追い出されるようにして退室を促された。
廊下で茫然と立ち尽くす瑠奈を、伊坂が気の毒そうな目つきで見ている。
正直、ひどくショックだった。
噂がたったことだけでは、ない。
部長に、当然のように疑われたことが。
米田はこの会社の幹部には珍しく、社長の親類縁者ではない、根っからの叩き上げだった。
一族関係者がなにか仕事上の無茶を言ってきたときなどは、やんわり断ったり、逆に部下がいいアイデアを出したときには彼らをうまっくおだてて稟議を通りやすくしたり、といった手腕が、一般社員たちからは絶大な信頼を得ている。
瑠奈だってそのひとりで、ずっと尊敬していたし、部下であることが誇りだった。
そんな人に、あろうことか前科者扱いされたのだ。
しかも、それを隠していても平気な、信頼のおけない人間だとまで疑われた。
それはまるで、濁流のなかで掴まっていた木の枝が、突然ぽきりと折れてしまったような気分だった。怒りだけでなく、不安までも一気に押し寄せてくる。
「まさか、そんな変な噂がたってるとはな……。気がつかなくて、すまなかった」
伊坂が申し訳なさそうに、眉を下げながら言う。
今や、行きのウキウキした態度は、見る影もない。
「いえ、伊坂さんのせいじゃないですから」
「しかし、ずいぶん悪質な噂をたてる奴がいるもんだな。ネットなんかでそういう冤罪めいたのあるってのは聞いたことあるけど、まさか社内でなあ……」
伊坂の言う通りだった。
誰と誰がつきあってるだの、なんとかさんとなんとかさんが犬猿の仲だの、えこひいきされてるんだあいつは、なんていう類の噂話なら、正直腐るほど出回っている。
だが、この類のものを聞いたのは、初めてだった。
「本当に、ひどいです」
「まったくだよ。言い出した犯人がわかったら、本当に訴えてもいいような案件だよな」
伊坂が味方してくれるのが、せめてもの救いだ。
瑠奈はそのまま自席に戻ったが、あんな話を聞いた後だと、なんとなく周りの人間が、嫌な目つきでこちらを盗み見ているような気がしてしかたがない。
いや。
ひとりだけ、違っている。
吉田だ。
にやにやとした笑いを浮かべ、瑠奈を見ている。
その瞬間、わかった。
噂を広めたのが、誰なのか。
----負けてたまるか。
瑠奈は思いきり、吉田を睨む。
するとそこで、自分がにやけていたことに気づいたのか、急に顔を引き締めた。
それでも睨み続けていると、顔を歪ませ立ち上がり、部屋を出ていく。
瑠奈も、立ち上がった。
追いかけて部屋を出ると、隠れるように廊下を曲がる背中が、かろうじて見えた。
「吉田さん!」
名を呼んで追いかけ、自分も角を曲がる。
今まで色々されていたにもかかわらず、こうやって瑠奈から直接働きかけるのは、実はこれが初めてだった。
だが吉田のほうはと言えば、聞こえないふりを押し通すつもりらしかった。足早にどんどん廊下を進んで行く。
とうとう最後には、エレベーターに乗り込んだ。
そうはさせるか、と瑠奈はダッシュする。
なんとか扉が閉まりかかったところで追いつき、迷わず手を突っ込んだ。
意図は成功し、扉が、また開く。
なかには吉田しか乗っていなかった。瑠奈が乗りこむと、奥の壁に背がつくまで後ろに下がる。
「ちょっと、訊きたいことがあるんですけど」
「な……なに、よ」
瑠奈の勢いにのまれているのか、声が裏返っている。
「おかしな噂流してるの、吉田さんですか」
「おかしな噂って、なに」
この期に及んで、しらを切るつもりらしい。
「私が……」
前科者だ、っていう噂です。
そう言いかけて、ふと思い至ったことがあり、口を閉じた。
もしも、だが。
万が一、噂をたてのが吉田ではなかった場合。
自分の口から前科者だのなんだの言うのは、わざわざ弱味を見せることになる気がした。
「だいたい、なんでそんなに、私を目の仇にするんですか」
だから思わず、むしろ根本的な質問をしてしまった。
吉田は、顔をしかめる。
「目の仇なんてしてない。気のせいでしょ」
「そうですかねえ」
「なんなのよ、被害妄想でしょ、そんなの」
----おっと。
瑠奈が間違っている、という話にしようとしているようだ。
「いい加減にしてくださいよ。なんなら、法的手段に出ますよ」
本気だった。
それがわかったのだろう。
とたんに、吉田の目が泳ぎ出した。
「別に、あながち嘘でもないんでしょ」
苦し紛れか、そんな反撃が出る。
「なに言ってるんですか」
「あたし、知ってるんだから」
「だから、なにをですか」
「だって、ネットにあったから。あなたのお姉さんの名前……。初瑠?」
突然、頭を殴られたような衝撃を受けた。
----なんで、その名前を吉田さんが知っている?
すると、瑠奈の動揺に気づいたのだろう。形勢逆転したと思ったのか、吉田がほくそ笑んだ。
「ほら。やっぱり嘘じゃないじゃない……」
しかしその言葉の途中で、エレベーターが止まった。
どやどやと人が乗り込んでくる。
その流れに無理矢理逆らって、吉田は逃げるように降りた。
「あ、ちょっと……!」
それに気づいた瑠奈が自分も降りようとしたが、もたついている隙に、吉田は隣のエレベーターに乗り、行ってしまった。
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