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第三章
4.吉田の影
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鏑木と別れたあとの瑠奈は、不思議と心が軽かった。
どうやら途中で意識が飛んでしまったようだが、相手の態度から見るに、あまり長い時間ではなかったようだし、話には支障がなかったようにみえた。
もっとも、相手は海千山千の相手だ。単に、ポーカーフェイスだっただけかもしれない。
ただ予想していたよりは、ガツガツと話を聞き出そうという姿勢ではなかったし、このすっきりした気持ちは、今まで味わったことのないものだった。
これならまた彼女に会ってもいいか、と感じさせるほどだ。
気分がいいので、さっき通り過ぎたコンビニでスイーツでも買って帰ろうと、行き過ぎた道を引き返すために、急に振り返ったときだった。
すこし離れた電柱の陰。そこに、思いもしなかった人物が立っていた。
吉田だ。
「吉田さん?」
いぶかしんで瑠奈が訊くと、吉田は後退しようとしていた足を止めた。
「あ、あー、関戸さん……、関戸さん? なんでこんなところに?」
わざとらしい態度に、それはこっちの台詞だ、と思ったが、言わないでおいた。
恐ろしいことに、もしかしたら自分を尾行けてきたのではないか、という可能性に急に気づいたから。
とたんに、まるで背中を多足の虫が這い登ってくるような、ざわざわとした感覚が走った。
「近くに住んでるんです。吉田さんこそ、どうしてここに?」
不快な気持ちをなんとか抑えて、すっとぼけて訊いてみる。それをどうも真に受け、うまくごまかせたと思ったらしい。
吉田は狭まっていた肩を開き、顎をあげた。
「ちょっと用事があっただけ。関戸さんが近くに住んでるなんて、知らなかった」
しらじらしい、と瑠奈は心のなかでため息をつく。
この街は典型的なベッドタウンで、暮らすにはそれなりに便利な街ではあるが、わざわざ電車でよそから訪れるような名物やなにかがあるところではない。
つまり、吉田の言い訳にはかなり無理がある。
しかし、確固とした証拠があるわけでもない。そして追及したところで、自分の非を認めるような相手ではないことは、今までの職場での経験でよく知っている。
「そうですか。奇遇でしたね。それじゃ」
だからそう言って、すんなり別れた。
しかしこのまま家に帰ったら、また尾行されて、住所が特定されてしまうかもしれない。
駅までなら、世間話のなかで誰かに話したこともあるだろうからまあ許容範囲だとしても、自宅まで知られるのは、さすがに嫌だ。
どうしたものか悩んでいるうち、ひとつ思いついた。
この近くに、オートロックではない、大きな古いマンションがある。
今はもう引っ越してしまった友だちが以前そこに住んでいて、何度か行ったことがあった。そのため、通路の構造や通り抜けできるルートなどの勝手がわかる。
なので、その場所を利用させてもらうことにした。
家とは別方向に向かう大通りを速足で進み、目的の建物につく。
あいかわらず、戸数の多さのわりに、ひと気のないマンションだ。
古びた造りの正面エントランスは避け、管理人室の前を通らないですむ脇の通路から入り、目当てのエレベーターに乗った。
二階から十階までのボタンを全部押し、自分は二階で降りた。使おうとしている住人には申し訳なかったが、これで階の特定はできなくなるし、時間稼ぎにもなる。
降りてからドアの並ぶ通路を奥まで進むと、扉の向こうに外階段があるのは知っていた。そこを、音を立てないように気をつけながら降りた。
壁伝いに一階のエレベーターホールが見える位置まで忍んで行くと、やっぱりそこに吉田がいた。エレベーター脇にある、停止階の表示灯を不機嫌そうに睨んでいる。
どうやら、作戦は成功したようだった。
それさえわかると、瑠奈は急いでそこから離れ、自宅へと急いだ。
自分のマンション着いてからも、念のためいくつか自分のところではない階数のボタンを押した。
そこまでして帰りつくと、張りつめていた気持ちがようやくほぐれ、精神的な疲れが一気に襲ってきた。
なにもする気力がわかず、靴を脱いだきり、廊下にへなへなと座りこむ。
----そういえばスイーツは買えなかったな。
そんなことを、ぼんやり考えた。
次の朝出社すると、小野原の席の傍に立ち、話しかけている吉田の姿があった。
ちらりとこちらを見たが、口を閉じ、すぐに目を逸らす。
瑠奈からすれば昨日の今日なわけで、なにか言いたいことがあるんなら言ってみろ、という気分だった。
かといって、わざわざ自分から仕掛けてもしかたない。とりあえず、無言で自席についた。
メールを開くと、前島から連絡が来ている。新しい企画、といっていた話だ。
なんでも、缶バッジ企画とは別に、クリアファイルを作るイベントを試してみたいということだった。
内容の根幹は似ているが、こちらだと、大人向けやカップル需要も狙えるのでは、ということらしい。
ついては入札が行われるので、ぜひ見積もりを出して欲しい、そんな内容だった。
瑠奈はそれを上司の伊坂のパーソナルコンピュータに転送する。
前島に礼のメールを送っているうちに、すぐに伊坂からゴーサインも返ってくる。おかげで、ひとまず見積もりの段取りを進めることができる。なかなか幸先のいいテンポだ。
さっそく、クリアファイルをその場で作ることのできる機械がないか、缶バッジの企画で組んだ機材レンタルの会社に問い合わせることから始めた。
とにかく、ここが気合の入れどころだ。吉田が失くした信用をなんとか取り戻すことができれば、せっかくの得意先を失わずに済む。
そうやって必死に手配を始めた瑠奈を、当の吉田はといえば、冷ややかな目で見つめていた。
ただ……。
----知ったことか。
それが、瑠奈の本音だ。正直、そんなことより仕事に集中したい。
だから、そうすることにした。
そうして、一週間があっと言う間に過ぎた。
結局、そんな風に段取り業務にかまけていると、吉田の動向など気にする余裕はなかった。向こうからも、なにかを仕掛けられるようなこともなかった。
でもそれは、好意とか善意とかいったものではないだろう。正面切って攻撃してくるつもりがないのだ。その証拠に、じっとりとした嫌な視線をこちらに向けてきているのは、何度か気づいていた。
つまるところ、そういったことで疲れは溜まっていたらしく、ようやく休みになった土曜日の朝には、いつになく、遅くまでぐっすりと眠ってしまった。そして、昼前に時計のアラームでようやく目が覚めた。
鏑木との約束に間に合うよう、念のためセットしておいたので助かった。
あわてて身支度を整えると、瑠奈は周囲に気をつけながら、例の店に向かった。
----途中でまた吉田がいたりしたら……。
----鏑木との話は、絶対に聞かれたくない。
そう思ったので、用心のため、キョロキョロと何度も周囲を見回しながら歩くしかない。おかげで、たいした距離でもないのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
さいわい、そられしき姿は見ずにすんだ。
店に入ると、そこにいる人間たちから、一斉にじろりと見つめられる。鏑木はまだ着いていないようだ。
いつもだったら、おそらく居心地悪く感じる場面なのだろうが、今の瑠奈には安心できた。
たしかにこれなら、もしも異質な人間--つまりは吉田--が入ってきたら、目立ってすぐにわかるだろう。
鏑木がこの店を指定したのに、今さら感謝した。
席に着き、チャイを頼んで飲んでいると、遅れて鏑木がやってきた。
「ありがとうございます。来ていただいて」
「いえ……」
どうやら、すっぽかされる覚悟もしていたらしい。よくあることなのだろう。
そして瑠奈の立場からすれば、そんな態度に出てしまう人間の気持も、わからないでもない。
「ランチを食べたら、このあいだの続きの話を伺ってもいいですか?」
「はい……」
そう。
瑠奈にしたって、この期に及んでさえまだ、どこかで逃げ出したいという気持ちはある。
それでも、真実を知ってスッキリしたいという欲求のほうが今は強い。だから、ここはひとつ、鏑木に身を任せてみるしかないのだ。
カレーのセットを機械的に食べ、それでも腹に物が入ったことで、多少は緊張が緩んだ。
食後の飲み物には、今度はコーヒーを頼むと、ここで鏑木は待ってましたとばかり、バッグから素早くメモを取り出した。
そんなアナログなやり方を通しているのには、すこし驚かされる。が、同時に、相手が生身の人間であるという実感が、今さら湧くのが不思議だ。
パラパラとめくり、今日質問しようと書き出しておいたらしいリストのページを確認してから、録音の許可を瑠奈に取り、小型レコーダーもテーブルの上に置いて、質問を始めた。
「お母さまが、そもそも道孝氏と出会ったきっかけを、教えていただけますか……?」
新企画の見積もりは相手の反応もよく、次の週にはさっそく、一か月間の試験運用の受注が正式に決まった。近在の来店客数の多い四店舗を使い、実証してみるのだ。
「やったな」
報告に行くと伊坂に褒められ、にやけた顔で席に戻ると、小野原が笑顔で親指を立ててみせた。それに同じように返してから、改めて安堵の息をつく。
あとは試験運用を成功させれば、ショッピングモールが全国何百と展開している店舗からの依頼を、また請け負えるようになるかもしれない。缶バッジ企画の穴を埋めるには、充分だ。
これでひとまず、願ってもいない再チャンスを、なんとか掴み取ることができた。
こうなると、とにかく来月の第一週め、初回となる開催は、絶対に成功させなくてはいけない。
そのために必要な機材や、人員の手配を本格的に始めると、何日も残業が続いた。
だが週末に、例の店で鏑木と会うことは続けた。そして、いつしかそれは習慣になっていた。
忙しくてもやめなかったのには、理由がある。
彼女に会い、過去のことを話すと、なぜか気持ちが軽くなるのだ。
職業柄グロテスクなことには慣れているのか、瑠奈が話す過去のドロドロした話に対して、大げさな反応をしないのが、なによりありがたい。
どこまで話して大丈夫なのか、少しずつ、少しずつ、瑠奈は内心をぶっちゃけることで、最初のうちはボーダーラインを探った。そして、段階を踏んで、鏑木への信頼を深めていった。
そんな風に、最近のルーティーンがある程度固まっているなかで、それでも度々引っかかることがあった。
最近、吉田と目が合う頻度が高くなっている気がする。
なにか言いたげな目つきで、今までのことから考えても、いい傾向には思えない。
嫌な予感は当たり、ある日とうとう、社の他の人間たちもいる休憩室で、突然、声をかけてきた。
「関戸さん、最近、取材受けてるの?」
一見無邪気そうに響いた言葉に、部屋にいた人間たちが、一斉に耳を澄まし始めたのを感じる。というか、まあ、聞かせたいからそんな大きな声なのだろう。あいかわらず回りくどい手を使ってくる。
「なんでですか?」
瑠奈は、手の中のコーヒーの缶を握りしめた。
ホットを買ったので、ちょっと熱い。
それを我慢しながら、自分の席の脇に、威圧的に立つ吉田を見上げる。いや、睨みつける。
「一緒にいた人、鏑木結理とかいう有名な人でしょ。なんか調べたら、本出したりしてる人みたいじゃない。それも」
ここで、わざとらしく、ひと呼吸おく。
「凶悪事件の実録系の」
まるで瑠奈が犯人でもあるかのように、非難めいた声音を使う。
わざわざ、調べたのか。
それにしても、他人の目があるところでその話をし始めるところが、本当に底意地が悪い。
「なんで一緒にいたの、知ってるんですか」
なので、反撃に出てみることにした。
狙い通り、吉田がすこし怯んだ。
「それは、あれ、あの、あれよ。たまたま、見かけただけ」
「本当ですかあ?」
瑠奈はわざとおどけて訊いてみる。
みるみるうちに、吉田は苛ついた表情を見せた。
「でも、なんでもないですよ。昔の知人について訊かれただけです」
相手の悪意に気づいてないふりをして、よくある世間話のように答えてみせる。
「へえ」
しかし、吉田は納得しきれていないようだった。
だが瑠奈の反撃の言葉から、これ以上突っ込むと、自分のストーカー行為を追求されかねないことにようやく気づいたのだろう。そのまま黙り、休憩室を出ていった。
相手を撃退できた……のかもしれないが、それより、その後の周囲の人間の視線が気まずくて、結局、コーヒーの缶を開けないまま、瑠奈も休憩室を出た。
その日、重苦しい気持ちのままマンションに帰り、玄関の灯りをつけようとして、思わずギョッとなった。
廊下とリビングダイニングを隔てるドアが、少し開いている。
その隙間の向こうに、なにかの気配があった。
----まさか、吉田がストーカーの挙げ句に……?
最初に思ったのは、それだった。
すぐに逃げられるように玄関ドアを開けたままにし、靴も脱がずに、声をかけてみた。
「誰かいるの」
静海の幽霊か、とも一瞬思った。
ただまあ、……あまり、そういう陰気なのは、彼女に似合わない。正直。
「静海さん?」
それでも、虚しいと思いながらも、名前を呼んだ。
すると、見えないながらも、気配が動いたような気がした。
その、次の瞬間。
ドアは一寸も動いていなのに、向こうではなくこちら側に、俯いた長い髪の少女が立っていた。
見覚えがある。
ショッピングモールで一瞬見た、あの少女だ。あの人同じ、血まみれの制服姿。
「誰」
震える声を、なんとか絞り出して、問いかける。
『瑠奈をかえして』
すると、急に、言葉が聞こえてきた。
目の前の少女のものだと、なぜか直感的に思った。しかし、声を出しているようには思えない。
頭、もしくは心に、直接響いてくる。SF映画などで見る、超能力者同士が思念で会話するのは、こんな感じなのではないか、といったところだ。
しかしそのことよりむしろ驚いたのは、その言葉の内容--例の手紙と同じ言葉、だった。
「じゃあ、あなたが、あの手紙を出したの」
幽霊が手紙を届ける。
どこかおかしい話だが、今の瑠奈に、それに気づく余裕はなかった。
しかし、次に続いた言葉は、手紙にはないものだった。
『もう、やめたほうがいいよ』
「……なに?」
思わず瑠奈が訊き返すと、その途端、影は消えた。
本当に、一瞬のことだった。
焦った瑠奈は、気がつくと靴のまま上がりこんでいた。勢いのまま、ドアを思いきって開ける。
だが、そこには、誰もいなかった。
なにかがあった痕跡すら、なかった。
それがわかり、瑠奈は身体から力が抜ける。そして、その場にへなへなと座りこんだ。
----どういうことなのだろう。
----どうして、かえしてくれと言うのだろう。
----それとも、あれはなにかの比喩なのだろうか? 迎えに来たとか、帰ってこいとか、そういった意味合いの?
そこまでぐるぐると思考を巡らしていた瑠奈は、急にハッとした。
たいした情報もないまま、こんなふうにひたすら考えていても、なにかがわかるとはとても思えない。
これは一度、色々な情報を集めるのが得意に違いない鏑木に、思い切って頼ってみたほうがいいかもしれない、と考えた。
どうやら途中で意識が飛んでしまったようだが、相手の態度から見るに、あまり長い時間ではなかったようだし、話には支障がなかったようにみえた。
もっとも、相手は海千山千の相手だ。単に、ポーカーフェイスだっただけかもしれない。
ただ予想していたよりは、ガツガツと話を聞き出そうという姿勢ではなかったし、このすっきりした気持ちは、今まで味わったことのないものだった。
これならまた彼女に会ってもいいか、と感じさせるほどだ。
気分がいいので、さっき通り過ぎたコンビニでスイーツでも買って帰ろうと、行き過ぎた道を引き返すために、急に振り返ったときだった。
すこし離れた電柱の陰。そこに、思いもしなかった人物が立っていた。
吉田だ。
「吉田さん?」
いぶかしんで瑠奈が訊くと、吉田は後退しようとしていた足を止めた。
「あ、あー、関戸さん……、関戸さん? なんでこんなところに?」
わざとらしい態度に、それはこっちの台詞だ、と思ったが、言わないでおいた。
恐ろしいことに、もしかしたら自分を尾行けてきたのではないか、という可能性に急に気づいたから。
とたんに、まるで背中を多足の虫が這い登ってくるような、ざわざわとした感覚が走った。
「近くに住んでるんです。吉田さんこそ、どうしてここに?」
不快な気持ちをなんとか抑えて、すっとぼけて訊いてみる。それをどうも真に受け、うまくごまかせたと思ったらしい。
吉田は狭まっていた肩を開き、顎をあげた。
「ちょっと用事があっただけ。関戸さんが近くに住んでるなんて、知らなかった」
しらじらしい、と瑠奈は心のなかでため息をつく。
この街は典型的なベッドタウンで、暮らすにはそれなりに便利な街ではあるが、わざわざ電車でよそから訪れるような名物やなにかがあるところではない。
つまり、吉田の言い訳にはかなり無理がある。
しかし、確固とした証拠があるわけでもない。そして追及したところで、自分の非を認めるような相手ではないことは、今までの職場での経験でよく知っている。
「そうですか。奇遇でしたね。それじゃ」
だからそう言って、すんなり別れた。
しかしこのまま家に帰ったら、また尾行されて、住所が特定されてしまうかもしれない。
駅までなら、世間話のなかで誰かに話したこともあるだろうからまあ許容範囲だとしても、自宅まで知られるのは、さすがに嫌だ。
どうしたものか悩んでいるうち、ひとつ思いついた。
この近くに、オートロックではない、大きな古いマンションがある。
今はもう引っ越してしまった友だちが以前そこに住んでいて、何度か行ったことがあった。そのため、通路の構造や通り抜けできるルートなどの勝手がわかる。
なので、その場所を利用させてもらうことにした。
家とは別方向に向かう大通りを速足で進み、目的の建物につく。
あいかわらず、戸数の多さのわりに、ひと気のないマンションだ。
古びた造りの正面エントランスは避け、管理人室の前を通らないですむ脇の通路から入り、目当てのエレベーターに乗った。
二階から十階までのボタンを全部押し、自分は二階で降りた。使おうとしている住人には申し訳なかったが、これで階の特定はできなくなるし、時間稼ぎにもなる。
降りてからドアの並ぶ通路を奥まで進むと、扉の向こうに外階段があるのは知っていた。そこを、音を立てないように気をつけながら降りた。
壁伝いに一階のエレベーターホールが見える位置まで忍んで行くと、やっぱりそこに吉田がいた。エレベーター脇にある、停止階の表示灯を不機嫌そうに睨んでいる。
どうやら、作戦は成功したようだった。
それさえわかると、瑠奈は急いでそこから離れ、自宅へと急いだ。
自分のマンション着いてからも、念のためいくつか自分のところではない階数のボタンを押した。
そこまでして帰りつくと、張りつめていた気持ちがようやくほぐれ、精神的な疲れが一気に襲ってきた。
なにもする気力がわかず、靴を脱いだきり、廊下にへなへなと座りこむ。
----そういえばスイーツは買えなかったな。
そんなことを、ぼんやり考えた。
次の朝出社すると、小野原の席の傍に立ち、話しかけている吉田の姿があった。
ちらりとこちらを見たが、口を閉じ、すぐに目を逸らす。
瑠奈からすれば昨日の今日なわけで、なにか言いたいことがあるんなら言ってみろ、という気分だった。
かといって、わざわざ自分から仕掛けてもしかたない。とりあえず、無言で自席についた。
メールを開くと、前島から連絡が来ている。新しい企画、といっていた話だ。
なんでも、缶バッジ企画とは別に、クリアファイルを作るイベントを試してみたいということだった。
内容の根幹は似ているが、こちらだと、大人向けやカップル需要も狙えるのでは、ということらしい。
ついては入札が行われるので、ぜひ見積もりを出して欲しい、そんな内容だった。
瑠奈はそれを上司の伊坂のパーソナルコンピュータに転送する。
前島に礼のメールを送っているうちに、すぐに伊坂からゴーサインも返ってくる。おかげで、ひとまず見積もりの段取りを進めることができる。なかなか幸先のいいテンポだ。
さっそく、クリアファイルをその場で作ることのできる機械がないか、缶バッジの企画で組んだ機材レンタルの会社に問い合わせることから始めた。
とにかく、ここが気合の入れどころだ。吉田が失くした信用をなんとか取り戻すことができれば、せっかくの得意先を失わずに済む。
そうやって必死に手配を始めた瑠奈を、当の吉田はといえば、冷ややかな目で見つめていた。
ただ……。
----知ったことか。
それが、瑠奈の本音だ。正直、そんなことより仕事に集中したい。
だから、そうすることにした。
そうして、一週間があっと言う間に過ぎた。
結局、そんな風に段取り業務にかまけていると、吉田の動向など気にする余裕はなかった。向こうからも、なにかを仕掛けられるようなこともなかった。
でもそれは、好意とか善意とかいったものではないだろう。正面切って攻撃してくるつもりがないのだ。その証拠に、じっとりとした嫌な視線をこちらに向けてきているのは、何度か気づいていた。
つまるところ、そういったことで疲れは溜まっていたらしく、ようやく休みになった土曜日の朝には、いつになく、遅くまでぐっすりと眠ってしまった。そして、昼前に時計のアラームでようやく目が覚めた。
鏑木との約束に間に合うよう、念のためセットしておいたので助かった。
あわてて身支度を整えると、瑠奈は周囲に気をつけながら、例の店に向かった。
----途中でまた吉田がいたりしたら……。
----鏑木との話は、絶対に聞かれたくない。
そう思ったので、用心のため、キョロキョロと何度も周囲を見回しながら歩くしかない。おかげで、たいした距離でもないのに、ずいぶん時間がかかってしまった。
さいわい、そられしき姿は見ずにすんだ。
店に入ると、そこにいる人間たちから、一斉にじろりと見つめられる。鏑木はまだ着いていないようだ。
いつもだったら、おそらく居心地悪く感じる場面なのだろうが、今の瑠奈には安心できた。
たしかにこれなら、もしも異質な人間--つまりは吉田--が入ってきたら、目立ってすぐにわかるだろう。
鏑木がこの店を指定したのに、今さら感謝した。
席に着き、チャイを頼んで飲んでいると、遅れて鏑木がやってきた。
「ありがとうございます。来ていただいて」
「いえ……」
どうやら、すっぽかされる覚悟もしていたらしい。よくあることなのだろう。
そして瑠奈の立場からすれば、そんな態度に出てしまう人間の気持も、わからないでもない。
「ランチを食べたら、このあいだの続きの話を伺ってもいいですか?」
「はい……」
そう。
瑠奈にしたって、この期に及んでさえまだ、どこかで逃げ出したいという気持ちはある。
それでも、真実を知ってスッキリしたいという欲求のほうが今は強い。だから、ここはひとつ、鏑木に身を任せてみるしかないのだ。
カレーのセットを機械的に食べ、それでも腹に物が入ったことで、多少は緊張が緩んだ。
食後の飲み物には、今度はコーヒーを頼むと、ここで鏑木は待ってましたとばかり、バッグから素早くメモを取り出した。
そんなアナログなやり方を通しているのには、すこし驚かされる。が、同時に、相手が生身の人間であるという実感が、今さら湧くのが不思議だ。
パラパラとめくり、今日質問しようと書き出しておいたらしいリストのページを確認してから、録音の許可を瑠奈に取り、小型レコーダーもテーブルの上に置いて、質問を始めた。
「お母さまが、そもそも道孝氏と出会ったきっかけを、教えていただけますか……?」
新企画の見積もりは相手の反応もよく、次の週にはさっそく、一か月間の試験運用の受注が正式に決まった。近在の来店客数の多い四店舗を使い、実証してみるのだ。
「やったな」
報告に行くと伊坂に褒められ、にやけた顔で席に戻ると、小野原が笑顔で親指を立ててみせた。それに同じように返してから、改めて安堵の息をつく。
あとは試験運用を成功させれば、ショッピングモールが全国何百と展開している店舗からの依頼を、また請け負えるようになるかもしれない。缶バッジ企画の穴を埋めるには、充分だ。
これでひとまず、願ってもいない再チャンスを、なんとか掴み取ることができた。
こうなると、とにかく来月の第一週め、初回となる開催は、絶対に成功させなくてはいけない。
そのために必要な機材や、人員の手配を本格的に始めると、何日も残業が続いた。
だが週末に、例の店で鏑木と会うことは続けた。そして、いつしかそれは習慣になっていた。
忙しくてもやめなかったのには、理由がある。
彼女に会い、過去のことを話すと、なぜか気持ちが軽くなるのだ。
職業柄グロテスクなことには慣れているのか、瑠奈が話す過去のドロドロした話に対して、大げさな反応をしないのが、なによりありがたい。
どこまで話して大丈夫なのか、少しずつ、少しずつ、瑠奈は内心をぶっちゃけることで、最初のうちはボーダーラインを探った。そして、段階を踏んで、鏑木への信頼を深めていった。
そんな風に、最近のルーティーンがある程度固まっているなかで、それでも度々引っかかることがあった。
最近、吉田と目が合う頻度が高くなっている気がする。
なにか言いたげな目つきで、今までのことから考えても、いい傾向には思えない。
嫌な予感は当たり、ある日とうとう、社の他の人間たちもいる休憩室で、突然、声をかけてきた。
「関戸さん、最近、取材受けてるの?」
一見無邪気そうに響いた言葉に、部屋にいた人間たちが、一斉に耳を澄まし始めたのを感じる。というか、まあ、聞かせたいからそんな大きな声なのだろう。あいかわらず回りくどい手を使ってくる。
「なんでですか?」
瑠奈は、手の中のコーヒーの缶を握りしめた。
ホットを買ったので、ちょっと熱い。
それを我慢しながら、自分の席の脇に、威圧的に立つ吉田を見上げる。いや、睨みつける。
「一緒にいた人、鏑木結理とかいう有名な人でしょ。なんか調べたら、本出したりしてる人みたいじゃない。それも」
ここで、わざとらしく、ひと呼吸おく。
「凶悪事件の実録系の」
まるで瑠奈が犯人でもあるかのように、非難めいた声音を使う。
わざわざ、調べたのか。
それにしても、他人の目があるところでその話をし始めるところが、本当に底意地が悪い。
「なんで一緒にいたの、知ってるんですか」
なので、反撃に出てみることにした。
狙い通り、吉田がすこし怯んだ。
「それは、あれ、あの、あれよ。たまたま、見かけただけ」
「本当ですかあ?」
瑠奈はわざとおどけて訊いてみる。
みるみるうちに、吉田は苛ついた表情を見せた。
「でも、なんでもないですよ。昔の知人について訊かれただけです」
相手の悪意に気づいてないふりをして、よくある世間話のように答えてみせる。
「へえ」
しかし、吉田は納得しきれていないようだった。
だが瑠奈の反撃の言葉から、これ以上突っ込むと、自分のストーカー行為を追求されかねないことにようやく気づいたのだろう。そのまま黙り、休憩室を出ていった。
相手を撃退できた……のかもしれないが、それより、その後の周囲の人間の視線が気まずくて、結局、コーヒーの缶を開けないまま、瑠奈も休憩室を出た。
その日、重苦しい気持ちのままマンションに帰り、玄関の灯りをつけようとして、思わずギョッとなった。
廊下とリビングダイニングを隔てるドアが、少し開いている。
その隙間の向こうに、なにかの気配があった。
----まさか、吉田がストーカーの挙げ句に……?
最初に思ったのは、それだった。
すぐに逃げられるように玄関ドアを開けたままにし、靴も脱がずに、声をかけてみた。
「誰かいるの」
静海の幽霊か、とも一瞬思った。
ただまあ、……あまり、そういう陰気なのは、彼女に似合わない。正直。
「静海さん?」
それでも、虚しいと思いながらも、名前を呼んだ。
すると、見えないながらも、気配が動いたような気がした。
その、次の瞬間。
ドアは一寸も動いていなのに、向こうではなくこちら側に、俯いた長い髪の少女が立っていた。
見覚えがある。
ショッピングモールで一瞬見た、あの少女だ。あの人同じ、血まみれの制服姿。
「誰」
震える声を、なんとか絞り出して、問いかける。
『瑠奈をかえして』
すると、急に、言葉が聞こえてきた。
目の前の少女のものだと、なぜか直感的に思った。しかし、声を出しているようには思えない。
頭、もしくは心に、直接響いてくる。SF映画などで見る、超能力者同士が思念で会話するのは、こんな感じなのではないか、といったところだ。
しかしそのことよりむしろ驚いたのは、その言葉の内容--例の手紙と同じ言葉、だった。
「じゃあ、あなたが、あの手紙を出したの」
幽霊が手紙を届ける。
どこかおかしい話だが、今の瑠奈に、それに気づく余裕はなかった。
しかし、次に続いた言葉は、手紙にはないものだった。
『もう、やめたほうがいいよ』
「……なに?」
思わず瑠奈が訊き返すと、その途端、影は消えた。
本当に、一瞬のことだった。
焦った瑠奈は、気がつくと靴のまま上がりこんでいた。勢いのまま、ドアを思いきって開ける。
だが、そこには、誰もいなかった。
なにかがあった痕跡すら、なかった。
それがわかり、瑠奈は身体から力が抜ける。そして、その場にへなへなと座りこんだ。
----どういうことなのだろう。
----どうして、かえしてくれと言うのだろう。
----それとも、あれはなにかの比喩なのだろうか? 迎えに来たとか、帰ってこいとか、そういった意味合いの?
そこまでぐるぐると思考を巡らしていた瑠奈は、急にハッとした。
たいした情報もないまま、こんなふうにひたすら考えていても、なにかがわかるとはとても思えない。
これは一度、色々な情報を集めるのが得意に違いない鏑木に、思い切って頼ってみたほうがいいかもしれない、と考えた。
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赤い部屋
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ホラー
YouTubeの動画広告の中に、「決してスキップしてはいけない」広告があるという。
真っ赤な背景に「あなたは好きですか?」と書かれたその広告をスキップすると、死ぬと言われている。
東京都内のある高校でも、「赤い部屋」の噂がひとり歩きしていた。
そんな中、2年生の天根凛花は「赤い部屋」の内容が自分のみた夢の内容そっくりであることに気づく。
が、クラスメイトの黒河内莉子は、噂話を一蹴し、誰かの作り話だと言う。
だが、「呪い」は実在した。
「赤い部屋」の手によって残酷な死に方をする犠牲者が、続々現れる。
凛花と莉子は、死の連鎖に歯止めをかけるため、「解決策」を見出そうとする。
そんな中、凛花のスマートフォンにも「あなたは好きですか?」という広告が表示されてしまう。
「赤い部屋」から逃れる方法はあるのか?
誰がこの「呪い」を生み出したのか?
そして彼らはなぜ、呪われたのか?
徐々に明かされる「赤い部屋」の真相。
その先にふたりが見たものは——。
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逢魔ヶ刻の迷い子3
naomikoryo
ホラー
——それは、閉ざされた異世界からのSOS。
夏休みのある夜、中学3年生になった陽介・隼人・大輝・美咲・紗奈・由香の6人は、受験勉強のために訪れた図書館で再び“恐怖”に巻き込まれる。
「図書館に大事な物を忘れたから取りに行ってくる。」
陽介の何気ないメッセージから始まった異変。
深夜の図書館に響く正体不明の足音、消えていくメッセージ、そして——
「ここから出られない」と助けを求める陽介の声。
彼は、次元の違う同じ場所にいる。
現実世界と並行して存在する“もう一つの図書館”。
六人は、陽介を救うためにその謎を解き明かしていくが、やがてこの場所が“異世界と繋がる境界”であることに気付く。
七不思議の夜を乗り越えた彼らが挑む、シリーズ第3作目。
恐怖と謎が交錯する、戦慄のホラー・ミステリー。
「境界が開かれた時、もう戻れない——。」
四匹の猫と君
花見川港
ホラー
死に焦がれる修治は、夕暮れの崖の上で同級生の美少年・常ノ梅清羽に出会った。
怪奇現象が起きると噂の廃屋敷に肝試しに来た、常ノ梅の四人のクラスメイト。そしてなぜか現れた修治の四匹の飼い猫。集った彼らは、寂れた廃屋敷の中に入ることになり……。
——そこには、視てはならないものがある。
※この物語は、法律・法令に反する行為、危険行為を容認・推奨するものではありません。
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