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第二章
3.傷
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沈んだ気分のまま家へと帰りつく。
こんなときには、以前なら決まってこの家の元の主に話を聞いて貰ったものだ。
どんな事情でも、かならず瑠奈の味方をしてくれる静海は、いつも心の拠り処になっていた。その存在を失ってしまったのだと、改めて痛感する。
皺の寄った服を脱ぎ、すぐにバスルームに飛び込む。
昨夜からのなにもかもを、洗い流してしまいたかった。
小野原の戸惑った顔。熱い手。自分のいじけた気持ち。情けなさ。
思い返しているうちに涙が出そうになってきて、瑠奈は慌ててシャワーのコックをひねった。
温かい湯を浴びながら、瑠奈は、自分の背中にそっと手を伸ばし、引き攣れた皮膚を撫でた。
いつもは、その存在を忘れている。
というか、忘れるようにしている。
でも小野原の熱い手が、戸惑ったように止まったときに、すぐにその理由に思い当たった。
----これに触れたから。
浴室備えつけの鏡の表面を手のひらでこすって曇りを取り、背中を向けて、映った火傷跡を改めてじっくりと眺める。
いつもは、湯気で曇っているのを理由に見ない。というか、そもそも鏡自体が瑠奈はなぜか苦手だった。
ずいぶん久しぶりにじっくりと見たが、前回見たときよりは、皮膚の変色はもうずいぶんと薄まってきている。でも、表面は引き攣りのせいで不自然に盛り上がったりへこんだりしているのが、あからさまにわかる。
この傷がコンプレックスで、今まで、誰ともベッドを共にしたことがない。
これまでは、それもしかたないと諦めていた。
でも今は、悔しくてしかたがない。
小野原が怖気づいた気持ちに理解を示してくれたのに、自分はそれに甘えることしかできなかった。
身体を預けてもいい、と感じる相手が現れたというのに、いつまでもこれでは、自分は前に進めない。
そんなことを考えながら傷を観察していた、そのときだった。
『ふふっ』
背後から、誰かのかすかな笑い声が聞こえた気がした。
怯えながら振り返るが、当然、そこには誰もいない。
ただ、足元が急にぬるぬるとした感触に変化した。
見下ろすと、床に溜まっていたシャワーの湯が、真っ赤になっていた。
瑠奈は持っていたシャワーヘッドを思わず落とす。
それは神経を逆なでするような、耳障りな音をたてて床にぶつかる。しかも、噴き出している湯が、いつのまにか床と同じ、真っ赤なものに変わっていた。
「やだっ……!」
小さな叫び声をあげ、焦って、裸で浴室を飛び出した。
フローリングの床をペタペタと足音を立てて走る。後ろには、真っ赤な足跡が続いた。
「やめて、やめてよ……」
耐え切れず、瑠奈はダイニングに入ったところで、床にうずくまった。
洗った髪から、ぽたぽたと水が垂れる。その色も真っ赤だった。
「違う。違うの、私じゃない、私じゃないでしょ……」
ぶつぶつと呟き、身体を前後に揺らす。
まともな理性は、どこかに飛んでいた。
なにかが自分に近づいてくる気配に、ただ、身体を震わせていた。
『……を、……し、て…………』
囁く声が聞こえる。
聞きたくないのに、耳を傾けてしまう。
不明瞭な声は、同じ言葉を繰り返していた。
『瑠奈をかえして』
『瑠奈をかえして』
『瑠奈をかえして』
瑠奈は両手で耳をふさぎ、叫んだ。
「なにを言ってるのか、わからない!」
声がやんだ。
そして、また、かすかな笑い声。
『……本当に?』
訊いてくる声。
この声を、知っている。
『いつまで、知らんぷりするの』
急に、頭上から声が響く。
見上げると、少女が立っていた。
ショッピングモールで見たのと同じ制服姿。血まみれのベージュのジャケット。長いプリーツスカートはガーネットレッドだと思ったら、裾からぽたぽたと血がしたたり落ちている。血で染まったせいで、その色なのだ。
『ねえ、かえして。瑠奈をかえしてよ』
「やめて!」
瑠奈はひたすらに叫ぶ。
「やめて! ○○!」
誰かの名前が、自分の口から出た。
だがその音を理解する前に、意識を失った。
こんなときには、以前なら決まってこの家の元の主に話を聞いて貰ったものだ。
どんな事情でも、かならず瑠奈の味方をしてくれる静海は、いつも心の拠り処になっていた。その存在を失ってしまったのだと、改めて痛感する。
皺の寄った服を脱ぎ、すぐにバスルームに飛び込む。
昨夜からのなにもかもを、洗い流してしまいたかった。
小野原の戸惑った顔。熱い手。自分のいじけた気持ち。情けなさ。
思い返しているうちに涙が出そうになってきて、瑠奈は慌ててシャワーのコックをひねった。
温かい湯を浴びながら、瑠奈は、自分の背中にそっと手を伸ばし、引き攣れた皮膚を撫でた。
いつもは、その存在を忘れている。
というか、忘れるようにしている。
でも小野原の熱い手が、戸惑ったように止まったときに、すぐにその理由に思い当たった。
----これに触れたから。
浴室備えつけの鏡の表面を手のひらでこすって曇りを取り、背中を向けて、映った火傷跡を改めてじっくりと眺める。
いつもは、湯気で曇っているのを理由に見ない。というか、そもそも鏡自体が瑠奈はなぜか苦手だった。
ずいぶん久しぶりにじっくりと見たが、前回見たときよりは、皮膚の変色はもうずいぶんと薄まってきている。でも、表面は引き攣りのせいで不自然に盛り上がったりへこんだりしているのが、あからさまにわかる。
この傷がコンプレックスで、今まで、誰ともベッドを共にしたことがない。
これまでは、それもしかたないと諦めていた。
でも今は、悔しくてしかたがない。
小野原が怖気づいた気持ちに理解を示してくれたのに、自分はそれに甘えることしかできなかった。
身体を預けてもいい、と感じる相手が現れたというのに、いつまでもこれでは、自分は前に進めない。
そんなことを考えながら傷を観察していた、そのときだった。
『ふふっ』
背後から、誰かのかすかな笑い声が聞こえた気がした。
怯えながら振り返るが、当然、そこには誰もいない。
ただ、足元が急にぬるぬるとした感触に変化した。
見下ろすと、床に溜まっていたシャワーの湯が、真っ赤になっていた。
瑠奈は持っていたシャワーヘッドを思わず落とす。
それは神経を逆なでするような、耳障りな音をたてて床にぶつかる。しかも、噴き出している湯が、いつのまにか床と同じ、真っ赤なものに変わっていた。
「やだっ……!」
小さな叫び声をあげ、焦って、裸で浴室を飛び出した。
フローリングの床をペタペタと足音を立てて走る。後ろには、真っ赤な足跡が続いた。
「やめて、やめてよ……」
耐え切れず、瑠奈はダイニングに入ったところで、床にうずくまった。
洗った髪から、ぽたぽたと水が垂れる。その色も真っ赤だった。
「違う。違うの、私じゃない、私じゃないでしょ……」
ぶつぶつと呟き、身体を前後に揺らす。
まともな理性は、どこかに飛んでいた。
なにかが自分に近づいてくる気配に、ただ、身体を震わせていた。
『……を、……し、て…………』
囁く声が聞こえる。
聞きたくないのに、耳を傾けてしまう。
不明瞭な声は、同じ言葉を繰り返していた。
『瑠奈をかえして』
『瑠奈をかえして』
『瑠奈をかえして』
瑠奈は両手で耳をふさぎ、叫んだ。
「なにを言ってるのか、わからない!」
声がやんだ。
そして、また、かすかな笑い声。
『……本当に?』
訊いてくる声。
この声を、知っている。
『いつまで、知らんぷりするの』
急に、頭上から声が響く。
見上げると、少女が立っていた。
ショッピングモールで見たのと同じ制服姿。血まみれのベージュのジャケット。長いプリーツスカートはガーネットレッドだと思ったら、裾からぽたぽたと血がしたたり落ちている。血で染まったせいで、その色なのだ。
『ねえ、かえして。瑠奈をかえしてよ』
「やめて!」
瑠奈はひたすらに叫ぶ。
「やめて! ○○!」
誰かの名前が、自分の口から出た。
だがその音を理解する前に、意識を失った。
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