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第一章
2.職場復帰
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翌日から、瑠奈は出勤した。
忌引きに有休を足して一週間ほどの休みをもらっていたので、その間対応してくれた同僚たちにと、お礼の菓子折りも用意した。
通夜や告別式といったことは行わなかったので、香典などのやり取りはなかった。
葬儀じたいは静海の遺言で、立ち合いは瑠奈のみの、直葬あるいは火葬式と言われる方式にしたのだ。
ただ、母親代わりをしてくれた叔母が亡くなったという事情は知っているので、戻ってきた瑠奈に、それぞれが気遣う声をかけてくれた。
瑠奈が勤めているのは、中堅のイベント企画会社だ。
イベントと言っても、大ホールやドームなどで大々的に行われるような、派手なものを扱うことはあまりない。
週末の大型商業施設での、季節の行事にちなんだ子供たちのコスプレ撮影会や、小さな特設ステージに芸人やタレントを呼んでくるといった類の、日常の延長線上のようなものがほとんどだ。
そういった職種内容から、ものすごくお堅いわけではないが、かといって流行最先端をかっこつけて勢いよく突っ走る、というほどでもない雰囲気だった。
なので、働いている人間にしても、あまりガツガツしているタイプは多くない。
正直ビジネス面においては一長一短ある部分だが、こういうシチュエーションとなると、その社風がありがたかった。
上司の伊坂に報告を済ませデスクにつくと、缶コーヒーの差し入れが一本、デスクの上にのっていた。瑠奈の好きな種類のものだ。
向かいのデスクに目をやると、同期の小野原が気づいて顔をあげる。
こういうことをするのは彼しか思い当たらなかったので、コーヒーを持ち上げ、サンキュ、と口の形だけで礼を言うと、口角をすこしだけ上げてみせた。
彼とは、二人きりの同期なので仲がいい。
恋愛感情はお互いになく、小野原にはちゃんと彼女もいる。らしい。相手が誰なのかは知らなかったが。
ノートパソコンを起動しながら、ありがたくそれを飲ませてもらう。
画面に来月のイベントスケジュール表を広げ、さっそくチェックを始めた。
そうやって、慣れた作業に手をつけ始めると、ようやくいつもの日々に戻った実感がわいてくる。一種の安堵感に包まれながら、瑠奈はキーボードを叩いた。
だが、すぐに、その手が止まった。
ここ半年ほどのあいだ、週末恒例だった缶バッジのイベントの予定が、まるっきり入っていないことに気づいたのだ。
チェーンのショッピングモールの各店舗を巡回するもので、瑠奈が立ち上げから担当しているイベント。
毎週末、どこかしらの施設ではやっているという、社のなかでも、安定して売り上げを見込める依頼のうちのひとつだった。
モールの建物の外の広場や、駐車場の一角などに機械一式を持ち込み、風船や造花などを飾った特設受付カウンターを作る。一定額以上のレシートを持ってきた買い物客に、その場で写真を撮って缶バッジを作るというサービスだ。家族連れやペット連れにはけっこう人気がある。
その予定が、ずっと入っていない。
伊坂へ社内専用チャットメールでその件について問い合わせる。
すると、廊下に出るように合図された。
首を傾げながらも従うと、伊坂は声を潜めて事情を説明してくれた。
「吉田さんが、相手先を怒らせちゃってさ」
「え……」
吉田麗華。
瑠奈の二年先輩だ。
休んでいるあいだ、瑠奈の仕事を引き継いでくれたうちのひとりだ。
ただ……。
以前から、瑠奈のどこが気に入らないのか、なにかにつけ文句をつけてきたり、邪魔をしたりすることがしょっちゅうで、天敵とも言えるような相手だった。
そういうことがあったせいで、正直引き継ぎを頼むのも躊躇ったのだが、伊坂が割り振りしてしまったのだ。
考えすぎかもしれないが、もしかしたら……。
「あの」
「うん?」
「先様に、話を伺いにいっても構わないでしょうか? 仕事を取り戻せるかどうかはわかりませんが、なにがあったのかだけでもお聞きして、今後の参考にしたいんです」
「ああ……」
「もちろん、あちらの許可をいただいてから、お訪ねするつもりですけど」
「そうか……。うん、じゃあまあ、トライしてみてくれるか。大変な時期に、悪いな。あんまり手ごたえがなかったら、押しすぎないようにな」
「はい。じゃあ、気をつけて連絡してみます」
「ああ。助かる」
正直、瑠奈の申し出に、ほっとしているように見えた。
なにしろ、伊坂も複雑な立場なのだ。
この会社は、一族経営の会社だった。
そして吉田は社長の親族のひとりなので、しょせん雇われ社員のひとりに過ぎない伊坂の立場では、あまり彼女を強く叱りつけたりすることができないのだ。
たとえ、せっかくのお得意さんを怒らせるという、痛恨のミスを犯したとしても。
そこに瑠奈がフォローをかって出たので、言葉は悪いが渡りに船というわけだ。
そうして話が決まったので席に戻ると、飲みかけだった缶コーヒーがひっくり返されていた。
かろうじてラッキーだったのは、もうほとんど残っていなかったので、こぼれているのは少量だったが、自然に倒れたとは考えにくい。
同じ列の反対側の端にある席の吉田に思わず目をやると、下を向いてデスクの書類を読んでいるふりをしてはいたが、わずかに笑っているように見えた。
----あいつがやったな。
そう確信したが、証拠があるわけでもない。周りに訊いたって証言する人間などいないだろう。ただ騒いだところで、損をするのは自分だ。
理不尽さに腹が立ったが、今は黙ってティッシュでコーヒーを拭くしかなかった。
それから三日後、取引先であるチェーンの本部統括を訪ねることが決まった。
プロジェクトで組んでいた課長の前島に連絡すると、怒っている様子はなく、予想よりすんなりとアポイントを取ることができた。
受付で来訪を告げると、すぐに降りて来て、おさえてあった打ち合わせスペースの一角へと案内される。
「いやあ、関戸さん、聞きましたよ。大変でしたね」
「お気遣い、ありがとうございます」
開口一番、思いやりのあることを言う前島の態度からは、瑠奈や社に対する怒りはやはり感じられない。
不思議に思いながら、打ち合わせ用スペースの椅子に、勧められるまま腰をおろした。
「あの、単刀直入に申しあげます。缶バッジ企画のことなのですが」
「ああ、あれですか……」
前島が気まずそうに顔を歪めた。
「ちょっと、売り言葉に買い言葉みたいになってしまって……。関戸さんには悪いことしたと思ってるんですよ。でも、あの代理の……吉田さんでしたっけ、あの人、なんなんですか」
「え、どういうことでしょう」
嫌な予感がする。
しかし、訊かないわけにもいかないだろう。
「なんかすごかったんですよ。関戸さんの悪口をひたすら言い始めて、僕にまで同調を求めてくるんです」
かなり見苦しそうな場面なのだが、なぜかすんなり想像がつく。
瑠奈は吐き気をこらえた。
「あげくにはあなたに仕事を頼むなんて、弊社がどれだけ無能か、なんてのを説教してきて。ついつい、僕もカッとなっちゃって……。気がついたら、金輪際仕事は頼まないって言っちゃったんですよね」
ばつが悪そうな前島に、瑠奈としては立つ瀬がない。
「マジですか……。あ、いや、すみません。こちらの担当者がそんな失礼なことをしていたとは知らなくて。申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げると、前島はいやいや、と手でおさえるような仕種をしてみせた。
「いやいや。僕も大人げなかったです。その後、上司の方……伊坂さんにも、謝罪は一度きちんと頂いてますし」
「実はそんな話、吉田からはまったく報告受けてなくて。本当に申し訳ありませんでした」
「いやそんな、……まったく、関戸さんならこんな風に話がスムーズなのになあ。実は、新しく組んだところも今いち要領を得なくて、仕事しづらいんですよね。自分の早まった判断を、後悔してるところだったんですよ」
惜しむ口調で言ってもらい、瑠奈はひたすら恐縮してしまった。
どうやら、吉田がしでかしたらしい。
意図したものかどうかはともかく、取引先をひとつ潰してくれたようだ。
----いや。もしかして。
日頃の瑠奈に対する当たりの強さから考えて、意図的だった可能性が高い気もしてくる。
しかし、自社の同僚という、あくまで身内の人間の実績を潰したいというくだらない理由で、会社の利益を損なうようなことまでするものなのか。
もし自分の想像があたっていたらと思うと、瑠奈はぞっとするしかなかった。
「まあとにかく。缶バッジの仕事は他に頼んじゃったんで、申し訳ないですが現行のままになります。ただ……」
前島は身を乗り出した。
「実は、今また、新しい企画を立ち上げることになってるんです。その企画書が通ったら、関戸さんのところにも見積もりのお声がけしますよ。なんだかんだ言って、やっぱりそちらの社の仕事はクオリティがいいですからね」
「ありがとうございます。こちらがご迷惑おかけしたのに、またお声がけいただけるなんて、前島さんには本当にお世話になります」
「まあまあ、そうしゃちほこばらないで。ただあの、余計なお世話かもしれないけど、あの吉田って人、気をつけたほうがいいですよ。なんだか関戸さんのこと、やたら恨んでるみたいな口調でしたから」
どうやら、前島にも吉田の姿勢は不審に映ったらしい。
「お気遣いありがとうございます。たとえそうでも、あくまで社内のことなのに、前島さんにまでご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」
平謝りに謝って、相手先の社を出た。
吉田はそこまでして、瑠奈を潰したいのか。
そう思うと、なにかの毒を飲み込んでしまったような、嫌な気分だ。
社に戻り、缶バッジの仕事は取り戻せなかったことと、相手も申し訳ながっていたことを報告すると、伊坂は苦く笑いながら頷いた。
状況はわかっているので、強く叱ることもできないのだろう。あまりやりすぎると吉田の責任問題に飛び火しかねない。
ただ、新しい仕事の見込みを教えてもらってきたことは褒められた。
自分の席に戻り、バッグに入れていった資料ファイルを引き出しにしまっていると、背後から足音と、瑠奈にだけ聞こえるボリュームの声が響いた。
「男に媚びるのが得意な人はいいわね。色々教えてもらえて」
振り向くまでもなかった。吉田の声だ。通りすがりに嫌味を言ってきたわけだ。
毒を飲まされたような気分がまた蘇り、しかめっ面をしていると、向かいの小野原と目が合った。
『機嫌悪いじゃん』
チャットメールが起動したばかりのパソコンの画面に浮かぶ。
『そうだよ。文句ある?』
そう返すと、読んで笑った顔が見えた。
『愚痴なら聞くよ。週末だし、帰り、飲みにでも行く?』
帰る路線が一緒の小野原とは、ときどき、帰りに食事に一緒に行ったり、軽く一杯やることがあった。同期のよしみというやつだ。
今日もそれだろう。
色々と吐き出したい感情が、たった今日一日でずいぶん溜まってしまったので、申し出に乗ることにする。
『ありがとう。いつもごめんね』
『俺だっていつも、色々聞いてもらってるし。お互いさまじゃん』
そんなチャットメールを送り合いながら、時々目を合わせていると、離れた席の吉田が、引き出しを強く閉めた耳障りな音が聞こえてきた。
『おまえら、うざい』。
まるで、そう言われた気がした。
小野原も舌を軽く出してから肩をすくめると、仕事に戻っている。
瑠奈もそうすることにした。
定時にはなんとか仕事を仕上げ、馴染みの店、駅前の小さな居酒屋に向かう。
博多料理の店で、鳥皮がうまい。
ジョッキのビールを咽喉に流し込み、二人揃って、はぁーっ、と満足のため息をついて、やっと落ち着いた。
「オヤジくせぇな、俺たち」
「若いって歳でもないよね」
「おいおい。俺ら、同じ歳だろ」
「だから言ってんじゃん。お互い、もう若くないねえ、って」
「ふーん」
実際、ここ数日の瑠奈は、自分が一気に歳を取ったような気がしていた。
今まで静海がいてくれたことで、なんだかんだ言って自分も子どものままいられたような部分があったんだなあ、と身に沁みているのだ。
公の手続き、光熱費の支払い、日々の買い物に家事、ご近所づきあい……。
それらのことは、ほとんどが静海に任せっぱなしだったのが、一気に自分に波状攻撃のように押し寄せてくるようになっていた。
「ひとり暮らしって、大変なんだね……」
しみじみ言うと、小野原がまた笑う。
「俺はもう長いから、慣れちゃったけどなあ。気楽でいいじゃん」
「もしかして、学生の頃から?」
「そうそう。しかも、高校のときからだからなあ」
「えっ、そうなんだ」
「スポーツ奨学生だったから。もっとも、高校のうちは寮だったけど」
「高校で寮なんてあるんだ。でも、奨学生だったなんてすごいね。なんの競技?」
「柔道。まあ、家は貧乏だったから、それで学費はずいぶん助かった。その流れに乗っかって、なんとか大学まで行けたけど、さすがにやっぱ実業団に行けるほどの才能はなくてさ……。監督のつてで、ここの会社に一般社員として就職しちゃったんだ」
「そんな経緯だったんだ」
「そうそう」
家が貧しかった、というのはちょっと意外だった。
性格的にもあまりギラギラしていないし、人への接し方も穏やかだったので、あまり苦労したことがないお坊ちゃまかと思っていた。
ただよく考えてみると、自分が苦労人だったからこそ、そうやって人に気配りができるのかもしれない。
そういえば吉田など、かなりのお嬢様のはずだが、あんな風に誰かを追い落とすことに力を注いでいることを考えると、人柄と育ちというのは、実はあまり関係ないのかも。
酔いのまわった頭で、そんなことを考えた。
忌引きに有休を足して一週間ほどの休みをもらっていたので、その間対応してくれた同僚たちにと、お礼の菓子折りも用意した。
通夜や告別式といったことは行わなかったので、香典などのやり取りはなかった。
葬儀じたいは静海の遺言で、立ち合いは瑠奈のみの、直葬あるいは火葬式と言われる方式にしたのだ。
ただ、母親代わりをしてくれた叔母が亡くなったという事情は知っているので、戻ってきた瑠奈に、それぞれが気遣う声をかけてくれた。
瑠奈が勤めているのは、中堅のイベント企画会社だ。
イベントと言っても、大ホールやドームなどで大々的に行われるような、派手なものを扱うことはあまりない。
週末の大型商業施設での、季節の行事にちなんだ子供たちのコスプレ撮影会や、小さな特設ステージに芸人やタレントを呼んでくるといった類の、日常の延長線上のようなものがほとんどだ。
そういった職種内容から、ものすごくお堅いわけではないが、かといって流行最先端をかっこつけて勢いよく突っ走る、というほどでもない雰囲気だった。
なので、働いている人間にしても、あまりガツガツしているタイプは多くない。
正直ビジネス面においては一長一短ある部分だが、こういうシチュエーションとなると、その社風がありがたかった。
上司の伊坂に報告を済ませデスクにつくと、缶コーヒーの差し入れが一本、デスクの上にのっていた。瑠奈の好きな種類のものだ。
向かいのデスクに目をやると、同期の小野原が気づいて顔をあげる。
こういうことをするのは彼しか思い当たらなかったので、コーヒーを持ち上げ、サンキュ、と口の形だけで礼を言うと、口角をすこしだけ上げてみせた。
彼とは、二人きりの同期なので仲がいい。
恋愛感情はお互いになく、小野原にはちゃんと彼女もいる。らしい。相手が誰なのかは知らなかったが。
ノートパソコンを起動しながら、ありがたくそれを飲ませてもらう。
画面に来月のイベントスケジュール表を広げ、さっそくチェックを始めた。
そうやって、慣れた作業に手をつけ始めると、ようやくいつもの日々に戻った実感がわいてくる。一種の安堵感に包まれながら、瑠奈はキーボードを叩いた。
だが、すぐに、その手が止まった。
ここ半年ほどのあいだ、週末恒例だった缶バッジのイベントの予定が、まるっきり入っていないことに気づいたのだ。
チェーンのショッピングモールの各店舗を巡回するもので、瑠奈が立ち上げから担当しているイベント。
毎週末、どこかしらの施設ではやっているという、社のなかでも、安定して売り上げを見込める依頼のうちのひとつだった。
モールの建物の外の広場や、駐車場の一角などに機械一式を持ち込み、風船や造花などを飾った特設受付カウンターを作る。一定額以上のレシートを持ってきた買い物客に、その場で写真を撮って缶バッジを作るというサービスだ。家族連れやペット連れにはけっこう人気がある。
その予定が、ずっと入っていない。
伊坂へ社内専用チャットメールでその件について問い合わせる。
すると、廊下に出るように合図された。
首を傾げながらも従うと、伊坂は声を潜めて事情を説明してくれた。
「吉田さんが、相手先を怒らせちゃってさ」
「え……」
吉田麗華。
瑠奈の二年先輩だ。
休んでいるあいだ、瑠奈の仕事を引き継いでくれたうちのひとりだ。
ただ……。
以前から、瑠奈のどこが気に入らないのか、なにかにつけ文句をつけてきたり、邪魔をしたりすることがしょっちゅうで、天敵とも言えるような相手だった。
そういうことがあったせいで、正直引き継ぎを頼むのも躊躇ったのだが、伊坂が割り振りしてしまったのだ。
考えすぎかもしれないが、もしかしたら……。
「あの」
「うん?」
「先様に、話を伺いにいっても構わないでしょうか? 仕事を取り戻せるかどうかはわかりませんが、なにがあったのかだけでもお聞きして、今後の参考にしたいんです」
「ああ……」
「もちろん、あちらの許可をいただいてから、お訪ねするつもりですけど」
「そうか……。うん、じゃあまあ、トライしてみてくれるか。大変な時期に、悪いな。あんまり手ごたえがなかったら、押しすぎないようにな」
「はい。じゃあ、気をつけて連絡してみます」
「ああ。助かる」
正直、瑠奈の申し出に、ほっとしているように見えた。
なにしろ、伊坂も複雑な立場なのだ。
この会社は、一族経営の会社だった。
そして吉田は社長の親族のひとりなので、しょせん雇われ社員のひとりに過ぎない伊坂の立場では、あまり彼女を強く叱りつけたりすることができないのだ。
たとえ、せっかくのお得意さんを怒らせるという、痛恨のミスを犯したとしても。
そこに瑠奈がフォローをかって出たので、言葉は悪いが渡りに船というわけだ。
そうして話が決まったので席に戻ると、飲みかけだった缶コーヒーがひっくり返されていた。
かろうじてラッキーだったのは、もうほとんど残っていなかったので、こぼれているのは少量だったが、自然に倒れたとは考えにくい。
同じ列の反対側の端にある席の吉田に思わず目をやると、下を向いてデスクの書類を読んでいるふりをしてはいたが、わずかに笑っているように見えた。
----あいつがやったな。
そう確信したが、証拠があるわけでもない。周りに訊いたって証言する人間などいないだろう。ただ騒いだところで、損をするのは自分だ。
理不尽さに腹が立ったが、今は黙ってティッシュでコーヒーを拭くしかなかった。
それから三日後、取引先であるチェーンの本部統括を訪ねることが決まった。
プロジェクトで組んでいた課長の前島に連絡すると、怒っている様子はなく、予想よりすんなりとアポイントを取ることができた。
受付で来訪を告げると、すぐに降りて来て、おさえてあった打ち合わせスペースの一角へと案内される。
「いやあ、関戸さん、聞きましたよ。大変でしたね」
「お気遣い、ありがとうございます」
開口一番、思いやりのあることを言う前島の態度からは、瑠奈や社に対する怒りはやはり感じられない。
不思議に思いながら、打ち合わせ用スペースの椅子に、勧められるまま腰をおろした。
「あの、単刀直入に申しあげます。缶バッジ企画のことなのですが」
「ああ、あれですか……」
前島が気まずそうに顔を歪めた。
「ちょっと、売り言葉に買い言葉みたいになってしまって……。関戸さんには悪いことしたと思ってるんですよ。でも、あの代理の……吉田さんでしたっけ、あの人、なんなんですか」
「え、どういうことでしょう」
嫌な予感がする。
しかし、訊かないわけにもいかないだろう。
「なんかすごかったんですよ。関戸さんの悪口をひたすら言い始めて、僕にまで同調を求めてくるんです」
かなり見苦しそうな場面なのだが、なぜかすんなり想像がつく。
瑠奈は吐き気をこらえた。
「あげくにはあなたに仕事を頼むなんて、弊社がどれだけ無能か、なんてのを説教してきて。ついつい、僕もカッとなっちゃって……。気がついたら、金輪際仕事は頼まないって言っちゃったんですよね」
ばつが悪そうな前島に、瑠奈としては立つ瀬がない。
「マジですか……。あ、いや、すみません。こちらの担当者がそんな失礼なことをしていたとは知らなくて。申し訳ありませんでした」
そう言って頭を下げると、前島はいやいや、と手でおさえるような仕種をしてみせた。
「いやいや。僕も大人げなかったです。その後、上司の方……伊坂さんにも、謝罪は一度きちんと頂いてますし」
「実はそんな話、吉田からはまったく報告受けてなくて。本当に申し訳ありませんでした」
「いやそんな、……まったく、関戸さんならこんな風に話がスムーズなのになあ。実は、新しく組んだところも今いち要領を得なくて、仕事しづらいんですよね。自分の早まった判断を、後悔してるところだったんですよ」
惜しむ口調で言ってもらい、瑠奈はひたすら恐縮してしまった。
どうやら、吉田がしでかしたらしい。
意図したものかどうかはともかく、取引先をひとつ潰してくれたようだ。
----いや。もしかして。
日頃の瑠奈に対する当たりの強さから考えて、意図的だった可能性が高い気もしてくる。
しかし、自社の同僚という、あくまで身内の人間の実績を潰したいというくだらない理由で、会社の利益を損なうようなことまでするものなのか。
もし自分の想像があたっていたらと思うと、瑠奈はぞっとするしかなかった。
「まあとにかく。缶バッジの仕事は他に頼んじゃったんで、申し訳ないですが現行のままになります。ただ……」
前島は身を乗り出した。
「実は、今また、新しい企画を立ち上げることになってるんです。その企画書が通ったら、関戸さんのところにも見積もりのお声がけしますよ。なんだかんだ言って、やっぱりそちらの社の仕事はクオリティがいいですからね」
「ありがとうございます。こちらがご迷惑おかけしたのに、またお声がけいただけるなんて、前島さんには本当にお世話になります」
「まあまあ、そうしゃちほこばらないで。ただあの、余計なお世話かもしれないけど、あの吉田って人、気をつけたほうがいいですよ。なんだか関戸さんのこと、やたら恨んでるみたいな口調でしたから」
どうやら、前島にも吉田の姿勢は不審に映ったらしい。
「お気遣いありがとうございます。たとえそうでも、あくまで社内のことなのに、前島さんにまでご迷惑おかけして、本当にすみませんでした」
平謝りに謝って、相手先の社を出た。
吉田はそこまでして、瑠奈を潰したいのか。
そう思うと、なにかの毒を飲み込んでしまったような、嫌な気分だ。
社に戻り、缶バッジの仕事は取り戻せなかったことと、相手も申し訳ながっていたことを報告すると、伊坂は苦く笑いながら頷いた。
状況はわかっているので、強く叱ることもできないのだろう。あまりやりすぎると吉田の責任問題に飛び火しかねない。
ただ、新しい仕事の見込みを教えてもらってきたことは褒められた。
自分の席に戻り、バッグに入れていった資料ファイルを引き出しにしまっていると、背後から足音と、瑠奈にだけ聞こえるボリュームの声が響いた。
「男に媚びるのが得意な人はいいわね。色々教えてもらえて」
振り向くまでもなかった。吉田の声だ。通りすがりに嫌味を言ってきたわけだ。
毒を飲まされたような気分がまた蘇り、しかめっ面をしていると、向かいの小野原と目が合った。
『機嫌悪いじゃん』
チャットメールが起動したばかりのパソコンの画面に浮かぶ。
『そうだよ。文句ある?』
そう返すと、読んで笑った顔が見えた。
『愚痴なら聞くよ。週末だし、帰り、飲みにでも行く?』
帰る路線が一緒の小野原とは、ときどき、帰りに食事に一緒に行ったり、軽く一杯やることがあった。同期のよしみというやつだ。
今日もそれだろう。
色々と吐き出したい感情が、たった今日一日でずいぶん溜まってしまったので、申し出に乗ることにする。
『ありがとう。いつもごめんね』
『俺だっていつも、色々聞いてもらってるし。お互いさまじゃん』
そんなチャットメールを送り合いながら、時々目を合わせていると、離れた席の吉田が、引き出しを強く閉めた耳障りな音が聞こえてきた。
『おまえら、うざい』。
まるで、そう言われた気がした。
小野原も舌を軽く出してから肩をすくめると、仕事に戻っている。
瑠奈もそうすることにした。
定時にはなんとか仕事を仕上げ、馴染みの店、駅前の小さな居酒屋に向かう。
博多料理の店で、鳥皮がうまい。
ジョッキのビールを咽喉に流し込み、二人揃って、はぁーっ、と満足のため息をついて、やっと落ち着いた。
「オヤジくせぇな、俺たち」
「若いって歳でもないよね」
「おいおい。俺ら、同じ歳だろ」
「だから言ってんじゃん。お互い、もう若くないねえ、って」
「ふーん」
実際、ここ数日の瑠奈は、自分が一気に歳を取ったような気がしていた。
今まで静海がいてくれたことで、なんだかんだ言って自分も子どものままいられたような部分があったんだなあ、と身に沁みているのだ。
公の手続き、光熱費の支払い、日々の買い物に家事、ご近所づきあい……。
それらのことは、ほとんどが静海に任せっぱなしだったのが、一気に自分に波状攻撃のように押し寄せてくるようになっていた。
「ひとり暮らしって、大変なんだね……」
しみじみ言うと、小野原がまた笑う。
「俺はもう長いから、慣れちゃったけどなあ。気楽でいいじゃん」
「もしかして、学生の頃から?」
「そうそう。しかも、高校のときからだからなあ」
「えっ、そうなんだ」
「スポーツ奨学生だったから。もっとも、高校のうちは寮だったけど」
「高校で寮なんてあるんだ。でも、奨学生だったなんてすごいね。なんの競技?」
「柔道。まあ、家は貧乏だったから、それで学費はずいぶん助かった。その流れに乗っかって、なんとか大学まで行けたけど、さすがにやっぱ実業団に行けるほどの才能はなくてさ……。監督のつてで、ここの会社に一般社員として就職しちゃったんだ」
「そんな経緯だったんだ」
「そうそう」
家が貧しかった、というのはちょっと意外だった。
性格的にもあまりギラギラしていないし、人への接し方も穏やかだったので、あまり苦労したことがないお坊ちゃまかと思っていた。
ただよく考えてみると、自分が苦労人だったからこそ、そうやって人に気配りができるのかもしれない。
そういえば吉田など、かなりのお嬢様のはずだが、あんな風に誰かを追い落とすことに力を注いでいることを考えると、人柄と育ちというのは、実はあまり関係ないのかも。
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