地平の月

センリリリ

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第一章

1.叔母の死

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 マンションの扉を開け、関戸せきど瑠奈るなは、ため息をひとつ、ゆっくりとついた。
 目の前に待ち受けているのは、がらんとした真っ暗な部屋だ。春にはまだなり切れていない、ひんやりとした空気だけに満たされている。
 これまでのように、叔母である静海しずみの明るい出迎えの声が響いてくることも、料理や飲み物の温かい湯気や匂いが漂ってくることもない。
 おかしなものだ。
 さっき納骨を済ませたばかりというのに、どうも彼女がいなくなったという実感が、今にいたってもわいてこない。
 ついつい、気配を探してしまう。
 しかし足もとでじんじんとする、にじみ出るような靴擦れの痛みに、ようやく我に返った。
 原因はわかっている。
 フォーマル用の黒いパンプスのせいだ。
 葬儀のために急いで買ったがいまいち足に合わず、しかし買い替えるのも面倒で履き続けていたら、とうとうそんなことになってしまった。
 もう一度ため息をついてから、靴を捨てるように脱いで、廊下を抜けて右手にあるキッチンに入る。
 すぐに冷蔵庫を開け、ミネラルウォーターの大瓶を取ると、直接口をつけて一気に飲んだ。

『行儀が悪い』

 叔母の半分からかうような、呆れたような声。それが、いつものように聞こえてきて欲しかった。
 たとえ、むなしい願いとわかっていても。
 瑠奈は、十代なかごろに火事で両親を亡くし、母方の叔母である、静海に引き取られた。
 瑠奈とはなんでも気軽に話せるような仲で、独身だったのもあってか、母親代わりというよりは歳の離れた姉といった雰囲気だった。
 だから、唯一の家族を亡くしたのと同時に、大切な友人も失ってしまったのだ。二重の喪失感が、今になってようやく、身に沁みてきた。
 飲み終えて空になった瓶を、キッチンの洗い場にとりあえず置いたままにして、一番奥にある自室に入る。
 隣は、静海の寝室だ。
 もちろん、もうなんの気配もない。
 寂しい、と簡単に言ってしまえる心構えは、今のところ、まだ、ない。
 部屋着になり、喪服をハンガーに吊るす。
 これも静海の葬儀のために大慌てで買ったもので、靴と同じ、まったく身体に馴染まない。
 そのうえ、デザインも素材も、いつもの自分のものとはぜんぜん違う。そんな服装をしていると、まるで別の世界に行っているような奇妙な気分だった。
 いや、でも、それが正しいのかもしれない。
 さっきまで、現世と死者の国との境目にいた、とも言える。
 だとしたら、この違和感さえもが、もしかしたら静海への手向けなのかもしれない。
 瑠奈は湿っぽいため息をつく。
 そういえば、両親の葬儀のときはどうだったっけ、とふいに思う。
 当時中学生だった年齢から考えて、おそらく、学校の制服で出たのだろうとは想像できる。
 でも、いざ自分の記憶となると、どうもおぼろげだ。
 当時十三歳、今現在は二十三歳。
 そんなに遠い昔のことではない。
 なのになぜ、こんなに記憶がぼんやりしているのだろう。
 そういえば、静海もあまり両親のことを話してはくれなかった。
 嫌がる、というよりは、瑠奈を気遣ってそうしているがあった。

『いつか、話せるときが来たらね』

 そのことについて訊くと、最後にはそう言われるのがいつものオチで、結局瑠奈も、いつしか問いかけるのを諦めてしまうようになった。
 そしてそんなふうに、曖昧な記憶を探ろうとしているうちに、いきなり、動悸が激しくなってきた。
 息苦しくなり、さらには頭痛までしてきて、床に倒れこみそうになる。
 慌ててデスクチェアに腰をおろし、深呼吸を繰り返した。
 今ここで倒れても、助けに来てくれる人は誰もいない。

----しっかりしなきゃ。

 自分に言い聞かせ、脂汗の滲んだ額を手の甲でこする。
 こんなふうになるなんて、静海が気遣っていたのは、あながち見当違いでもなかったらしい。
 驚くと同時に、そうやって無理に過去をふり返る必要もない生活を、静海が今まで与えてくれていたのだと、痛いほど感じた。




 しばらくじっとしていると、なんとか落ち着いた。
 とにかくなにかしてなくちゃ、という謎の焦燥感に駆られ、自室を出ると、静海が仕事に使っていた作業部屋に入ってみる。
 隣の寝室とは別の、玄関を入ってすぐ左側にある六畳の部屋だ。
 静海は、フリーのイラストレーターだった。
 絵画と同じに扱われるようなアーティスティックなものではなく、説明書の図解や工業製品のカタログに載せるようなイラストを請け負って描く、いわば職人的なタイプだ。
 派手さはないものの、手堅い企業や団体からコンスタントに頼まれる実用的な仕事で、収入も悪くないと言っていた。
 実際、姪の瑠奈を引き取って、何不自由なく成人まで育ててくれたぐらいだから、その通りなのだろう。
 遺産として残された通帳の貯蓄額も一千万円以上はあり、今回初めてそれを見た瑠奈は驚いた。四十五歳という若さだったことを考えると、かなり腕が評価されていたに違いない。
 そんな仕事だから、取引先の人間なども頻繁に出入りするので、一番手前のそこにしたと言っていた。
 彼女が生きているあいだは、せいぜいドアを開けて声をかける程度で、実は瑠奈はあまり入ったことがない。
 集中する必要のある職種だったため、なるべく邪魔したくなかったからだが、そのせいで、ある種の禁断の聖域のようにも感じていた。
 そんな場所だったが、死ぬ間際、静海は言っていた。

『あたしが死んだら、部屋はすぐに片づけてね』

『でも』

 反論しようとすると、静海は笑ってみせた。

『過去に囚われたままでいるのは、よくないよ。あたしのせいで、瑠奈が前を向けなくなるのは嫌だな』

 嫌なことや辛いことがあっても、力強く自分の力で生きてきた、しっかりものの叔母らしい考え方だった。
 だから、その生き方に敬意を示すためにも、遺した言葉に従うことにする。
 なかに入ると、思っていた以上に、ごちゃごちゃとしていた。物や、資料だらけだ。
 画像編集をするために必要な高スペックのパソコンを始めとして、色々な仕事道具や参考にした資料の切り抜きなどが棚や机の上だけではあきたらず、いくつもの段ボール箱にも詰め込まれ、所狭しと並んでいる。
 さらに部屋の隅には、仮眠用の寝袋も転がっていた。
 締め切りが近くなったり、集中したいときなどは、奥の自分の寝室に戻ることさえ惜しんで、ここでよく眠っていた。最後に使ったときのままの形が残っていて、しばらくの間、じっと見つめてしまった。
 作業をするときに使っていた大型モニターをそっと撫で、まわりに何枚も貼ってある付箋を剥がしながら、ひとつひとつに目を通す。
 ただ、書いてある内容はわからない。
 書いた静海にしても、自分だけがわかればいいつもりの殴り書きだったらしく、とてもじゃないが読み取れない。
 それでも、懐かしい痕跡だ。解読してみようとするのを、止めることができなかった。
 やがて、鼻の奥がツンとしてくる。
 でも瑠奈は、それ以上の反応にならないように、気を引き締める。

----もう、さんざん泣いた。

----そして、前を向くことに決めたはずだ。

 だから瑠奈は、鼻を一度だけすすったあと、作業を続けることにした。
 剥がした付箋をまとめ終わり、捨てようとしたがなんだか名残惜しくて、せめてしばらくのあいだは取っておくことにする。
 とりあえずしまって置こうと、一番上の引き出しを開けると、ラフスケッチの紙やメモなど、手書きのものがすでに大量に入っていた。
 とっさに入れておくための場所だったらしく、大小さまざまなサイズの紙に、殴り書きや幼児の落書きのように単純化されたイラストとも呼べないものが描かれているようなものが、雑然と溜まっている。。
 パソコンを使っているとはいえ、アイデア出しなどはやはり手書きのほうがよかったらしい。
 付箋と同じように、まるで静海の思考がそのままそこに遺されているようで、結局これらも捨てる気には到底なれない。
 叔母の遺志を尊重したいのは山々だったが、しばらくはまだこの迷いを許してもらうことにして、種類別に大雑把に分けたあとは、また入れたままにしておくことにする。
 二段目は領収書や契約書など。あとで改めてひとつひとつの内容を確認することにして、最後に一番下の段に進んだ。
 しかし、そこには鍵がかかっている。
 正直、ここで突然用心深くしているのは、ちょっと意外だった。
 瑠奈を信用していないのが理由で、鍵をかけているとは考えづらい。
 仕事場に入っていくことはほとんどなかったし、そもそも金銭はダイニングのいつでも開けられる棚に入っていたくらいなので、日常生活において、その手の警戒をされていると感じたことはまったくなかった。
 だとすれば、なにか他の理由があるのだろうか。
 瑠奈は、デスクの周辺に鍵がないか探す。
 見当をつけたのは、まずは、ペン立ての底。すると予想通り、すぐに見つかった。テープで貼りつけてある。
 それを剥がし、開けてみると、なかには封筒を輪ゴムでまとめてあるものが、何束も入っている。
 この段は他より深い造りになっているのだが、それがいっぱいになるほどの量だ。
 なんの変哲もない、ハガキ大ほどのサイズの白い封筒ばかり。
 ひとつ手に取って見てみたが、表に宛名はなく、ひっくり返しても、差出人の名前すらない。
 もしも静海の個人的な手紙なら、秘密を覗いてしまうようで躊躇われる。
 このまま、処分してしまったほうがいいのだろうか。
 入院中、自分がいなくなった後のことを心配して色々言っていたが、これについての言及はなかった。
 しばらく迷ったうえで、一通だけ、なかを見てみることにする。
 もしも隠しておきたかったようなことが書いてある気配を感じたら、すぐに読むのをやめればいい。静海のプライベートを暴きたいわけではないのだ。
 ハサミで慎重に封を切ると、一枚の白い紙が入っていた。
 封筒と同じように、なんの変哲もない。
 ふたつ折りになっていた、罫線もなにもない真っ白な紙。
 そして、まっさらなその中心には、黒い鉛筆書きで、ただひと言だけ。

『瑠奈をかえして』。

 そう、書いてあった。
 他の封筒も見てみる。
 やはり、同じ。

『瑠奈をかえして』。

 そのひと言だけが書かれた白い紙が一枚きり、入っているだけ。
 もしかして、この大量の封筒のすべてが、同じなのだろうか。
 だとすると、手紙を書いた人間の粘着質な意志を感じる。瑠奈の背筋を、不快な冷たいものが走った。
 それを否定したくて、次々と確かめてみるが、どれも同じ紙、同じ文言だ。
 そもそも、どういう意味なのか。
 ひらがなで『かえして』と書かれていると、どうしても意味がつかみにくい。

 『返して』……誰に?
 『帰して』……どこに?
 『孵して』……いやいや、ひよこじゃあるまいし。
 『変えして』……なんだか、日本語じゃなくなってきた。

 そして、何十通か確認しているうちに、ふと、気づいた。
 どの封筒にも、切手さえ貼ってない。
 つまり、直接届けられたということだろう。
 しかも一番下にあったものとなると、紙の端が変色している。つまり、けっこう古いもののようだった。
 こんなに沢山、しかも瑠奈が気づかない間に届けられていたなど、正直驚いた。
 ただよくよく考えてみれば、瑠奈が学校に行ったり会社に行っている昼間、静海は在宅だった。もしその時間帯に受け取っていたのなら、知らなくてもしかたないのかもしれない。
 かと言って、名前を書かれている当事者である瑠奈にひと言もなかったのが、どうにも納得いかない。
 静海は基本的にあけっぴろげのサバサバした性格で、隠しごとはどちらかというと苦手なタイプだと思っていた。

----いや……。

 そこまで考えて、気がついた。

----そんなことはない。

 普段の生活ではそんな感じだったが、しかしこと瑠奈の失った家族の話題になると、必ずと言っていいほど、急に言葉少なになっていた。
 秘密……とまではいかなくても、そういう態度を取ることで、瑠奈にあまり突っ込んだことを訊かせないような雰囲気に、いつもしていた。
 ということは、もしかしたらこの手紙の束も、家族に関したことなのだろうか。
 瑠奈は床にしゃがみこみ、まだまだ残りの封筒の束が山ほど入っている引き出しに、目をやった。
 なんだか、叔母への思慕の念が、突然汚されたような気になってきた。
 信じていた、そして唯一の肉親である静海が、こんな風に、急にまるで関係ない他人に感じられるような謎を残して逝ってしまったことに、今では恨み言のひとつも言いたかった。
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