3lads 〜19世紀後半ロンドンが舞台、ちょっとした日常ミステリー

センリリリ

文字の大きさ
上 下
6 / 15
花はどこへ

1

しおりを挟む
 路上掃除人クロッシング・ウィーパーの少年、ライアンは、傍らに置いてあるバスケットから、またひとつスコーンを取った。

 ウィンバック男爵家のコック、マクミラン夫人自慢のレシピだ。いくつだって食べられる。

 座っているのは、路肩に停めた二頭立て馬車の、扉を開けっぱなしにした床だった。

 そこに外向きに腰かけ、足をぶらぶらさせながら今週見た人間の話をする。

 これが、今のライアンの副業だった。

 いつもはわざわざ高級住宅街にあるタウンハウスまで訪ねていくのだが、今日は趣向を変えてみるらしい。

 その副業を依頼してきた男爵家のお坊ちゃま、レイモンド・ウィンバックは内部の絹張りの座席に腰掛け、手にしたステッキの宝石飾りを手でいじりながら、ライアンの下町訛りの激しい口調に耳を傾けている。

 屋根つき馬車の陰になっているその表情はライアンからはよく見えなかったが、時おり抑えた笑い声が聞こえるので、話を楽しんでいるのは間違いないようだった。

 もう一時間ほど、こうしている。

 最初は珍しがって覗きに来ていたライアンの仕事仲間たちも、スコーンをひとつずつ貰ったあとは、さっさと自分たちの持ち場に戻ってしまった。
 いつまでもたむろっていると、彼らをまとめている親方に売り上げが下がると叱られるからだ。

 ライアンのぶんは、レイモンドが前もって見込みぶんを支払ったので、放っておいているだけだった。

 そして通りすがる紳士淑女の面々はと言えば、いったん目を見開いたあとは、まるで見てはいけないものを見てしまったように、すっと目を逸らした。

 裕福な貴族のステイタスである二頭立て屋根つき馬車はこういう街ではあくまで通り過ぎるもので、長い間の停車、しかも見るからに下層階級の少年が座って口をもぐもぐさせているなど、あってはならないことなのだ。

 そんなわけで、まるで昼間の通りに突然現れた場違いな幽霊のような反応を受けながら、馬車はそのままそこにいた。

 馬や馭者は、これ幸いと居眠りをしている。

 やがて勤め人たちが会社のビルから吐き出されるころ、ようやく目当ての人間が現れた。

 株式仲買人の若者、モリスだ。

 いつものように下宿先へと歩いて帰るところだった彼は、見知った馬車が我がもの顔で停まっていることに驚いて足を止めた。

 そして一瞬で状況を見て取ると、他人のふりをして引き返そうとした。

「あ、旦那だ!こっち、こっち!」

 しかし目ざとく気づいたライアンが、食べかけていたスコーンを飲み込み、大声で呼んだ。

 それを合図に、レイモンドが顔を出す。

「どうしたんですか」

 他人のふりは諦め、しかたなく馬車に近づいてから訊くと、肩を竦めてみせた。

「ホッブス夫人に夕食に呼ばれてね。迎えに来た」

 そのこと自体には、あまり驚かなかった。

 レイモンドの推薦もあって、あれからあっさりと下宿が決まったホッブス夫人宅だが、なぜかそれ以来レイモンドもやたらと入り浸るようになっていたからだ。

「待っていればいいじゃないですか。なんでわざわざ?」

 乗り込みながら言うと、レイモンドの目が泳いだ。まるで叱られた子供のようだ。

「お説教が始まったんで、逃げてきた」

 なんと。そのままだった。

 レイモンドには、まだまだそういう子供っぽいところが残っていた。裕福な男爵家のひとり息子というだけでなく、赤ん坊の頃は身体が弱かったとかで、ずいぶん甘やかされて育ったらしい。

 つまり、あまり打たれ強くないのだ。

 もっとも、レイモンドが少年の頃に教育係兼世話役として雇われたというホッブス夫人からすると、そのあたりこそを心配して説教がちになってしまうのだろう。

 悪循環と言えば悪循環だが、そこらへんのおかしな関係ぶりが、まるで実の親子のようでもあった。母親代わりと言われているだけある。

「そんなわけだから、フォローは頼むよ」

「まったく。私を防壁代わりに使うのはやめてくださいよ」

 ぶつぶつ言っているあいだに、当人はさっさとバスケットの中身をすべてライアンに渡して扉を閉めようとした。

 そのときだった。

 突然、ライアンに駆け寄ってきた者がいた。似たような身なりをした、すこし年下の少年だ。半べそをかいている。

「ライアン、おいらの鉢植えがなくなっちまったよう!」

「鉢植えがなんだって?」

 その恰好にはおよそ似つかわしくない単語に、レイモンドが好奇心いっぱいの目つきで、身を乗り出した。

 反対にモリスは肩を落とす。

 どうやら、このまま素直には帰れない気配がぷんぷんしてきたからだ。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

大江戸美人揃

沢藤南湘
歴史・時代
江戸三大美人の半生です。

毛利隆元 ~総領の甚六~

秋山風介
歴史・時代
えー、名将・毛利元就の目下の悩みは、イマイチしまりのない長男・隆元クンでございました──。 父や弟へのコンプレックスにまみれた男が、いかにして自分の才覚を知り、毛利家の命運をかけた『厳島の戦い』を主導するに至ったのかを描く意欲作。 史実を捨てたり拾ったりしながら、なるべくポップに書いておりますので、歴史苦手だなーって方も読んでいただけると嬉しいです。

陣代『諏訪勝頼』――御旗盾無、御照覧あれ!――

黒鯛の刺身♪
歴史・時代
戦国の巨獣と恐れられた『武田信玄』の実質的後継者である『諏訪勝頼』。  一般には武田勝頼と記されることが多い。  ……が、しかし、彼は正統な後継者ではなかった。  信玄の遺言に寄れば、正式な後継者は信玄の孫とあった。  つまり勝頼の子である信勝が後継者であり、勝頼は陣代。  一介の後見人の立場でしかない。  織田信長や徳川家康ら稀代の英雄たちと戦うのに、正式な当主と成れず、一介の後見人として戦わねばならなかった諏訪勝頼。  ……これは、そんな悲運の名将のお話である。 【画像引用】……諏訪勝頼・高野山持明院蔵 【注意】……武田贔屓のお話です。  所説あります。  あくまでも一つのお話としてお楽しみください。

猿の内政官 ~天下統一のお助けのお助け~

橋本洋一
歴史・時代
この世が乱れ、国同士が戦う、戦国乱世。 記憶を失くした優しいだけの少年、雲之介(くものすけ)と元今川家の陪々臣(ばいばいしん)で浪人の木下藤吉郎が出会い、二人は尾張の大うつけ、織田信長の元へと足を運ぶ。織田家に仕官した雲之介はやがて内政の才を発揮し、二人の主君にとって無くてはならぬ存在へとなる。 これは、優しさを武器に二人の主君を天下人へと導いた少年の物語 ※架空戦記です。史実で死ぬはずの人物が生存したり、歴史が早く進む可能性があります

鬼を討つ〜徳川十六将・渡辺守綱記〜

八ケ代大輔
歴史・時代
徳川家康を天下に導いた十六人の家臣「徳川十六将」。そのうちの1人「槍の半蔵」と称され、服部半蔵と共に「両半蔵」と呼ばれた渡辺半蔵守綱の一代記。彼の祖先は酒天童子を倒した源頼光四天王の筆頭で鬼を斬ったとされる渡辺綱。徳川家康と同い歳の彼の人生は徳川家康と共に歩んだものでした。渡辺半蔵守綱の生涯を通して徳川家康が天下を取るまでの道のりを描く。表紙画像・すずき孔先生。

強いられる賭け~脇坂安治軍記~

恩地玖
歴史・時代
浅井家の配下である脇坂家は、永禄11年に勃発した観音寺合戦に、織田・浅井連合軍の一隊として参戦する。この戦を何とか生き延びた安治は、浅井家を見限り、織田方につくことを決めた。そんな折、羽柴秀吉が人を集めているという話を聞きつけ、早速、秀吉の元に向かい、秀吉から温かく迎えられる。 こうして、秀吉の家臣となった安治は、幾多の困難を乗り越えて、ついには淡路三万石の大名にまで出世する。 しかし、秀吉亡き後、石田三成と徳川家康の対立が決定的となった。秀吉からの恩に報い、石田方につくか、秀吉子飼いの武将が従った徳川方につくか、安治は決断を迫られることになる。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

古代ローマの英雄スキピオの物語〜歴史上最高の戦術家カルタゴの名将ハンニバル対ローマ史上最強の男〜本物の歴史ロマンを実感して下さい

秀策
歴史・時代
 歴史上最高の戦術家とされるカルタゴの名将ハンニバルに挑む若者の成長物語。紀元前二一九年、ハンニバルがローマの同盟都市サグントゥムを攻撃したのをきっかけに、第二次ポエニ戦争が始まる。ハンニバル戦争とも呼ばれるこの戦争は実に十八年もの長き戦いとなった。  アルプスを越えてローマ本土を攻撃するハンニバルは、騎兵を活かした戦術で次々とローマ軍を撃破していき、南イタリアを席巻していく。  一方、ローマの名門貴族に生まれたスキピオは、戦争を通じて大きく成長を遂げていく。戦争を終わらせるために立ち上がったスキピオは、仲間と共に巧みな戦術を用いてローマ軍を勝利に導いていき、やがて稀代の名将ハンニバルと対峙することになる。  戦争のない世の中にするためにはどうすればよいのか。何のために人は戦争をするのか。スキピオは戦いながらそれらの答えを追い求めた。  古代ローマで最強と謳われた無敗の名将の苦悩に満ちた生涯。平和を願う作品であり、政治家や各国の首脳にも読んで欲しい!  異世界転生ご都合歴史改変ものではありません。いわゆる「なろう小説」ではありませんが、歴史好きはもちろんハイファンタジーが好きな方にも読み進めやすい文章や展開の早さだと思います。未知なる歴史ロマンに触れてみませんか?   二十話過ぎあたりから起承転結の承に入り、一気に物語が動きます。ぜひそのあたりまでは読んで下さい。そこまではあくまで準備段階です。

処理中です...