黒豹注意報

京 みやこ

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4巻

4-2

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 こうして、その日も仕事を終え、いつものように和馬さんが総務部まで迎えに来てくれるのを待つ。帰りに一緒に夕飯の買い物をして、彼のマンションへやってきた。
 夕飯のメニューは鶏肉と長ネギの雑炊ぞうすいに、中華風春雨はるさめサラダ。それに大根とツナの煮物だ。
 ホワイトデーのプレゼントを用意してくれた和馬さんに、せめてものお礼として彼の好きなものを作ることにした。
 どれも簡単に作れるからこれをお礼にしてしまうのは申し訳ないと思うんだけど、和馬さんが食べたいというのだから、まぁいいか。
 ほどなく夕飯ができあがり、二人で食卓につく。
 和馬さんはどの料理も美味しいと言ってくれた。食後、リビングのソファに腰を下ろしたところで、くだんのマカロンが登場したのだ。

「はい、どうぞ。バレンタインのお返しですよ」

 和馬さんが小ぶりの箱を差し出してきた。
 品のよいサーモンピンクの包装紙を見ただけで、私には中身が分かる。思わず顔がにやけてしまった。
 それはここ最近、私のテンションを急上昇させてくれるアイテム。スィートパレスのマカロンだ。

「うわぁ、ありがとうございます!」

 マグカップをローテーブルに置き、満面の笑みで小箱を受け取る。
 ここ数年ブームになっているマカロンは、割とどこでも手に入るようになった。
 ところが、このスィートパレスのマカロンは、他のお店のマカロンとはまるで別格なのだ。さすがは有名な専門店である。
 マカロン生地のサクッとした歯触りといい、間に挟まれているクリームの種類の豊富さといい、文句もんくのつけどころがない。そしていろどりや味も、もちろん抜群ばつぐん
 以前、留美先輩からお裾分すそわけしてもらって以来、私はすっかりこの店のマカロンに夢中なのだ。
 だけど、そのことを和馬さんには話していない。下手に教えると、仕事で忙しいのに、彼は店まで買いに走るだろうから。
 仕事を抜けて菓子店に向かう和馬さんの話は、これまでに社長から何度も聞いているのだ。
 ……色々な意味で申し訳ない。


 ――内緒にしていたのになぁ。
 いくらかんのいい和馬さんでも、この店と品名をピタリと当てるのは難しいはずだ。
 小箱をでながら首をかしげていると、和馬さんがクスリと笑う。

「中村君に聞いたんですよ。このところ、ユウカが一番気に入っている店とお菓子の種類を」

 ああ、そうか。仲のいい留美先輩に聞いたのか。それなら納得だ。ちょっと盗聴とうちょうの存在を疑ったよ。
 恋人とはいえ、盗聴とうちょうを仕掛けられたら、思いっきりドン引きである。
 というか犯罪だ。
 ――よかった。和馬さんが犯罪者じゃなくて。
 微妙な笑みを浮かべている私を、和馬さんが不思議そうに見ている。

「どうしました?」
「い、いえ、なんでもないです。さっそく開けてみちゃおうかなぁ。わぁい、楽しみ~」

 内心を悟られないうちに、私はいそいそとホワイトデー仕様の包装紙をく。しっかりした造りの箱を開けると、やはりマカロンが現れた。
 以前食べたことのあるストロベリー味のマカロンよりも、少しピンク色が濃い。添えられているカードには、この時期限定のラズベリー味と書いてあった。
 そのマカロンをながめながら、私はあることに思い至る。
 スィートパレスに限らず、甘い菓子類を扱っている店は、総じて女性客が多い。バレンタインの時もそうだったけれど、和馬さんは女性客の多い店に行くのがずかしくないのだろうか。

「あの……、ごめんなさい」

 私が謝ると、和馬さんは心底不思議そうな顔をして首をひねる。

「なぜ謝るのですか? そのマカロンは気に入らないということでしょうか?」

 ブンブンと首を横に振り、彼の言葉を否定した。

「いえ、違います!」
「では、なにに対しての謝罪ですか?」
「それは……、私が食いしん坊なばっかりに、和馬さんをしょっちゅう大変な目にわせてしまっているなぁって」

 すると和馬さんは優しく目を細めて、ポンポンと私の頭を軽く叩いた。

「なにを言うのですか。ユウカのためなら、私はなんでもします」

 マカロンの箱を手にシュンとうつむく私を、和馬さんは右腕で抱き寄せる。

「以前も話したように、込み合う店内での買い物は少々大変ではありましたが、ユウカの笑顔を見るためでしたら、ずかしいと思うことなどありませんよ」
「そうは言っても……」

 言いかけた私の唇を、和馬さんの左人差し指がピトッとふさぐ。

「ユウカの笑顔が見たいという、自分のワガママを押し通しているだけです。あなたはなにも気にすることなく、そのマカロンを受け取ってくださればいいのですよ」

 穏やかな笑顔で、優しくげる和馬さん。

「そして、できることなら謝るのではなく、とびきりの笑顔で『ありがとう』と言ってほしいです」

 彼の人差し指がゆっくりと離れてゆく。
 私は顔を上げ、和馬さんを見つめた。

「ありがとうございます。すっごく嬉しいです!」

 私は心の底から感謝の気持ちを込めて、笑顔を向けた。
 そんな私を見て、和馬さんも満足そうな微笑ほほえみを浮かべる。

「やはり、ユウカの笑顔は最高に素敵ですね」

 私の笑顔一つで浮かれるだなんて。言葉は悪いが、和馬さんは随分ずいぶんとお手軽な人ではないだろうか。
 私はかなり感情が表に出るタイプだから、嬉しかったり楽しかったりすれば、すぐに笑う。
 そんな私の笑顔は貴重でもなんでもなくて、あまり価値はないように思うけれど。
 そういったことを和馬さんに話すと、彼は形のいい目をユルリと細めて首を横に振った。

「会社などで笑っている時の顔ももちろん素敵ですが、私だけに見せてくれる特別な笑顔というものがあるのですよ」
「え? 『特別な笑顔』ですか?」

 意外なことを聞き驚いていると、彼の手が伸びてきた。そして大きな手の平が両頬をフワリと包み、そっと彼の方へ顔を向けさせられる。

「私のことが大好きだという気持ちのこもった笑顔なんですよ。美味しいものや可愛い動物を前にした時の笑顔とは、いくぶん表情が違うのです」

 まっすぐに私を見つめ、和馬さんが穏やかにげた。
 頬に伝わる温もりと彼の発言がずかしくて、私はちょっとだけ目をせる。
 ずかしくてせわしなく視線を彷徨さまよわせていたら、和馬さんがクスリと笑った。

「もしかしたら、私の思い込みなのかもしれませんがね。まぁ、ユウカの笑顔が見られるだけで私は十分満足ですから、実際のところとは違っていてもかまいませんけれど」

 苦笑する彼に、私は小さく首を横に振る。それから頬に触れている和馬さんの手に、自分の手をオズオズと重ねた。

「ユウカ?」

 名前を呼ばれ、私はもう一度首を横に振る。

「お……、思い込みなんかじゃ、ない、ですよ」

 たどたどしいながらも、私は言葉をつむぎ続ける。

「だって……、和馬さんのことが大好きなのは、ほ、ほ、本当のことですし……」

 顔を真っ赤にしてモゴモゴと話す。
 ずかしがってばかりの私だけど、大事なことはきちんと言葉にしないといけないのだと、最近になってやっと気が付いた。
 私は和馬さんが向けてくれる「好き」や「愛してる」の十分の一も返せていないだろう。それでも、言わなくてはいけないと感じた時には、ううん、言いたいと感じた時には、ちゃんと伝えた方が、和馬さんだって嬉しいんじゃないかな。
 はにかみながらも自分の気持ちを言葉にすると、和馬さんは親指の腹で私の頬の丸みを優しくでてくる。

「全開の笑顔を見せてもらえるだけではなく、こんなに嬉しい告白を聞かせていただけるとは」

 せていた視線をチラッと上げて様子をうかがうと、和馬さんは幸せそうに微笑ほほえんでいた。
 そんな彼を見て、私はちょっとだけ罪悪感を抱く。
 これまで一緒に過ごしてきた時間の中で、彼にばかり好きだと言わせている自覚が嫌というほどあるのだ。

「あの……。これからはもっと言いますね」

 そう告げると、和馬さんは「あなたはそのようなことを気にしないでください」と返してきた。

「でも……」

 口ごもっていると、和馬さんは手の平に少し力を入れて私の頬を包み込む。

「もちろん、言ってもらえることは大変嬉しいのですが、無理をして言うなら、私の本意ではありません」

 うつむき気味だった私の顔を軽く上向きにさせ、和馬さんは視線を合わせてくる。

ずかしがり屋のあなたの口から、滅多めったに聞くことのできない告白だからこそ、価値があるのです」

 優しい表情の彼を見つめ返しながら、私は疑問を言葉にした。

「じゃあ、いつの日か、私が顔を合わせるたびに『和馬さん、大好き』って言うようになったら、価値がなくなってしまいますか?」

 その言葉に、和馬さんは即座に首を横に振る。

「いいえ。たくさん言ってくださるようになっても、それはそれで、私はやはり嬉しく思います」
「えー? 結局、私はどうしたらいいんですか?」

 困惑こんわくの表情を浮かべる私に、彼はニコリと笑った。

「ですから、どうもしなくていいのですよ。あなたが言いたい時に言ってくだされば、それで私は満足なのですから」

 なんだか和馬さんに申し訳ない気もするが、本人がそれでいいというのであれば、気にすることはやめた方がいいのだろう。
 ぎこちない告白は、かえって和馬さんに気を遣わせてしまうかもしれない。
 しばらく考えた後「分かりました」と言ってうなずくと、頬にあった手がスルリと離れてゆく。

「私は、そのままのユウカを愛していますから。あなたが変わっても変わらなくても、ユウカを愛しいと思う気持ちは同じです」

 そう言いながら、和馬さんが抱き締めてくる。
 優しい言葉と温もりに包まれ、私は耳まで真っ赤にしつつ、精一杯、彼を抱き締め返した。
 ……という、なんとも甘々で、とても他の人には聞かせられないようなやりとりを、マカロンを受け取った時に繰り広げたのだ。
 しかも、ここまででも十分ずかしいのに、この話にはまだ続きがあって……


 和馬さんの甘い告白を聞いた後でも、目の前にあるマカロンを忘れた訳ではない。
 私は改めてお礼を述べて、鮮やかなピンク色のマカロンに手を伸ばした。

「いただきます」

 一口かじって、思わず顔がほころぶ。じっくりみ締めて、また顔がほころぶ。

「はぁ、美味しい~」

 あっという間に一つ食べ終え、即座に二つ目に手を伸ばす。
 満面の笑みで食べ進める私を、横にいる和馬さんがなにやら熱心に見つめている。
 その視線は、さっきの穏やかな表情とは違っていた。優しい微笑ほほえみはそのままなんだけど、やたらと目が真剣なのだ。
 そんなにマジマジ見られると、少し居心地が悪い。
 ――見ないでって言ってもいいのかなぁ。
 美味しいものを食べている時の笑顔も好きだと言って、わざわざこのマカロンを買って来てくれた彼にそんなことをげるのは申し訳ない気もする。
 とはいえ、どうも落ち着かない。
 どうしようかと彼をうかがったところ、和馬さんの表情に違和感を覚えた。
 彼の視線の先にあるのは私の顔に違いないのだが、目が合わない。
 ――なんだろう。
 二つ目を食べ切った私は、こっそり彼の様子を観察する。
 そこで気が付いた。
 和馬さんは、私が食べているマカロンをながめているのだ。
 日頃から、甘い物はほとんど口にしない和馬さん。そんな彼が、なぜマカロンを真剣に見ているのだろうか。
 私が美味しい美味しいとさわぐから、食べてみたくなったのだろうか。
 ――まだたくさんあるし、せっかくだから和馬さんにもお裾分すそわけしよう。
 三つ目を食べ終え、用意していたミルクたっぷりのカフェオレを飲んだ私は、箱から一つつまみ上げて彼の口元に差し出す。ちなみに和馬さんには、いつものようにブラックコーヒーをれた。

「食べてみます? 甘すぎなくて美味しいですよ」

 ところが、和馬さんはやんわりと辞退してきた。

「いえ、私はけっこうです。ユウカがすべて食べてください」

 どうやら、マカロンが食べたかったわけではないようだ。
 それならば、なぜじっと見ていたのだろうか。
 彼に差し出したマカロンを自分の口に運びながら首をひねる。そんな私の耳に、彼のつぶやきが届く。

「マカロンの色が、あなたの肌に付けたキスマークの色に似ていると思いましてね」
「コフッ!」

 いきなりそんなことを言われ、思わずむせた。
 こぶしで胸元をドンドンと叩くものの、それでもつかえが取れないので、慌ててカフェオレで流し込む。

「ケホッ。な、なにを、言うんですか!? コホッ」

 咳を繰り返す私の背中を片手ででながら、もう一方の手で箱からマカロンをつまみ上げる和馬さん。しげしげとながめ、大きくうなずく。

「この赤みは、まさしくキスマークですね」
「そ、そ、そうですか!? ち、違うんじゃないかなぁ、あははっ。あ、そうだ! 和馬さん、コーヒーのおかわりはいかかですか?」

 なんとか話題をらそうとしたけれど、しかし……

「違うかどうか、確かめてみましょう」

 和馬さんの目は、なまめかしく光っていたのだった。


 肩を跳ね上げた私は、ズザザッとソファの座面を後ずさる。

「か、和馬さん、ケホッ。別に、確かめなくても、ケホッ、ケホッ」

 彼は持っていたマカロンを箱に戻すと、その手を私の背中に回した。

「大丈夫ですか、ユウカ」

 そう言って大きな手でゆっくりと背中をでてくれるけれど、もともと片手は私の背中をでていたので……いつの間にか私は和馬さんにしっかりと抱き締められていた。
 いや、あの、抱き締められるのはいいんだよ。ただ、あの発言の後だと、どうしても意識してしまうというか。
 ドキドキビクビクしながらき込んでいると、和馬さんはグッと顔を近付けてきた。
 いっそう私の心臓が跳ね上がる。
 ――い、いや、ちょ、ちょっと待って!
 彼の胸を手の平で押し返しながら、私はギュッと目を閉じた。
 すると、目尻に彼の唇がフワリと押し当てられる。

「涙を流すほどき込むなんて、苦しかったでしょう?」

 穏やかな声でげた和馬さんは、自分のひざの上に私を抱き上げ、あやすようにスッポリと包み込んできた。
 そして左右のまぶたに唇を当て、まるで涙を吸い取るように優しくキスをする。
 その様子に、心の中でホッと息を吐いた。どうやら心配した事態は起きなさそうだ。
 苦しんでいる私をいたわるように背中をで、涙がにじまなくなるまでずっとまぶたへのキスを繰り返してくれる。

「あ、ありがとうございます。もう、大丈夫で……す?」

 ところが、先程一瞬私の脳裏をかすめたのは、やっぱり杞憂きゆうではなかった。


 和馬さんの腕の中から彼の顔を見上げると、私の肩はふたたび跳ねた。
 彼の瞳は、少しもつやめきを失っていなかったのだ。

「や、あの……」

 若干顔を引きらせる私に、彼は静かに微笑ほほえみかける。

「私は一度気になってしまったことは、ハッキリさせないと落ち着かない性分ですので。それに……」

 いったん言葉を区切った和馬さんは右手で私の頬に触れ、親指の腹でまぶたをじっくりとなぞる。
 その指の動きがなんとなく熱をはらんでいるのを感じ取り、私の心臓はますます早鐘を打つ。

「か……、和馬さん?」

 私の呼びかけに、彼はただニッコリと笑みを深める。
 ――やっぱり思い過ごしなんかじゃない。和馬さんは本気だ。
 私は小さく息をんだ。

「かず、ま、さん……?」

 もう一度名前を呼ぶと、頬にあった手と背中に回されていた腕にジワジワと力が込められてゆく。

「涙で濡れた瞳のユウカは、可愛らしい上に色っぽいですね。すっかりあおられてしまいましたよ」

 グイッと抱き寄せられる。
 彼の瞳の奥で揺れる光は、肉食獣が捕食前に見せるもののようだった。


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