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3巻
3-1
しおりを挟む黒豹注意報3
前巻のおさらい
ここは日本最大手文具メーカーの社長室。大会社の社長室に相応しく重厚なデスクが置かれている。今、そこに座っているのは秘密文書を手にしたスパイ……でもなく、ただのこそ泥でもなく、もちろん社長。
彼はデスクに肘をつき、組んだ手の上に顎先を乗せている。そんな何気ないポーズでも絵になってしまう美貌の持ち主だが、なぜかその麗しい顔は苦々しく歪んでいた。
「おい、竹若」
第一秘書を呼ぶ声が低い。
「はい、なんでしょうか」
答えた彼も、社長とはタイプが違うものの整った顔立ちをしている。その表情は社長とは違い、穏やかそのもの。
「お前、社内での行動にはあれほど気をつけろって言っただろうが。人前で愛を囁いたり、抱きしめたり、お前には恥じらいというものがないのか。純情な小向日葵君が真っ赤になって大騒ぎしているという報告が届いているぞ」
それを聞いてニッコリと笑う竹若。
「片想いが実らない、ひがみですか?」
「違う! 俺はもう少し場をわきまえろと言ってるんだよ!」
社長は組んだ手を解き、拳を作ってデスクに打ちつける。だが、竹若は涼しい顔をしたままだ。
「誕生日もバレンタインも一人で過ごした社長になにを言われても、ひがみにしか聞こえません」
「黙れ! 自分が小向日葵君からあれこれプレゼントされたからって、偉そうに!」
「偉そうだなんて滅相もございません。私は事実を述べたまで」
竹若はフワリと目を細め、おもむろにネクタイを直す。そのネクタイにはシルバーの土台に小さなアメジストが埋め込まれているネクタイピンが。そして、スーツの袖口にはピンとおそろいのカフスがついている。そのどちらも、恋人である小向日葵ユウカから誕生日プレゼントとして贈られた品だ。
「彼女は自分の言動に幼さを感じて恥じているようですが、私はそんな彼女が愛おしくてたまりません」
竹若は胸元を飾るネクタイピンに目を落とし、愛してやまない恋人に思いを馳せる。
「俺は社内風紀を乱しているお前に罰を与えたくてたまらない」
竹若の形のいい瞳がスッと細くなる。社長の肩が小さく跳ねた。
「な、なんだよ。上司を威嚇するな。それより、小向日葵君は大丈夫か? いろいろ落ち込んでいたようだったが。竹若は年齢よりも大人びて見えるから、自分の外見の子供っぽさが余計気になるんだろうな」
社長の言葉に、竹若が困ったような笑みを浮かべる。
「とりあえず大丈夫そうですが、油断はできませんね。彼女は変なところで思いつめてしまう性格なので」
「真面目なんだな、小向日葵君は。こんな男のために、そこまで一生懸命にならなくてもいいのに」
再び竹若の目が細くなる。
「だ、だから、威嚇すんなって。小向日葵君のことだ、自分が竹若の隣にいていいのかなんて、グルグル悩んでいたんだろ?」
竹若が小さく頷く。
「ありのままでいいと常日頃から伝えているにもかかわらず、彼女はどうしても自分の容姿に自信が持てないようでして。それと、私がこの傷を隠し続けていたことも、気に病んでいたみたいです」
竹若は長い指で左のこめかみにかかる髪を軽くかき上げた。そこには皮膚が引きつれたような痕が残っている。
「ああ、小向日葵君の大切な品を悪党どもから取り戻したときに負った傷か。気に病んでいたって、お前に怪我をさせてしまったからか?」
「もちろんそれもあるでしょうが、私が真実を告げないのは自分が本当の彼女ではないからだ、と思い込んでしまったようです」
竹若は、やりきれないといった表情でため息を吐いた。
「だが、言わなかったのはお前の思いやりだろう? その傷の話になれば、自然と小向日葵君は嫌なことを思い出すからな」
社長も渋い顔をする。明るい笑顔がトレードマークであるユウカが、一時その笑顔を曇らせていたことを思い返し、社長は竹若同様に苦々しいため息を吐いた。
「ええ。すべてはユウカのためだったのですが、まさかそれが裏目に出るとは……」
悔しそうな竹若の表情を見て、社長はあえて明るく言った。
「まぁ、そういうこともあるさ。気にすんな。愛情ゆえに隠していたんだから。な?」
「そうですね。いまだ片想いの社長とは違って、愛情を注げる相手がいるのは幸せです」
フワリと微笑む竹若。綺麗な笑顔に対して、セリフには毒があった。
「人が気を遣って慰めてやれば、なんだ、その言いぐさは」
「失礼いたしました。つい本音が」
社長はシレッと言い返す竹若を睨みつけるが、竹若は一切動じない。
「ユウカにはなんの憂いもなく、毎日を過ごしてほしいものです。この先も彼女に先日のような危険が及ぶのであれば、私が全力で排除してみせますよ」
竹若は社長第一秘書でもあるが、社長専属のSPでもある。その強さは折り紙つきだ。
「お前だったら、そこいらの悪党程度なら余裕だろ。だがなぁ、最近はなにを考えているのかわからない奴が多いからなぁ」
社長は椅子の背にもたれ、天井を見上げながらぼやく。
「厄介な世の中になったものだ。小向日葵君をつけ回していた男も、パッと見はごく普通だったんだろ?」
チラリと視線を向ける社長に、竹若は頷く。
「ええ、そうです。彼は、彼女の家の近くにあるコンビニでアルバイトをしていた大学生でした。ああ、その節は社長にもいろいろとお世話になりまして」
珍しいことに、竹若が素直に頭を下げている。彼は普段は散々、社長のことをからかっているが、時には尊敬することもあるのだ。……上司として一応は。
「気にするな。大事な部下のためなら、協力は惜しまないさ。それにしても、大学生が思いつめてストーカーになるとはねぇ。花言葉に気持ちを託すなんて一見ロマンチックだが、その裏には執着心があったとわかれば逆にゾッとするな。内気な人間ほど、心の奥底に潜む狂気は計り知れないってことか」
「本当に厄介な出来事でしたよ。ただでさえユウカは悩みを抱えていたのに、それに加えてストーカーだなんて。あの輝くような笑顔は絶対に曇らせたくないのに」
深いため息を吐いた竹若の顔が痛々しい。
「竹若。お前、小向日葵君のことになると本当に人が変わったように必死になるな。まぁ、それだけ状況は深刻だったってわけか。強引にお前の家に住まわせなくてはならないほど」
「当然ですよ。ユウカは私にとって、かけがえのない宝物ですからね。彼女を守るためには、なりふりなど構っていられません」
それを聞いた社長は、再び天井を見上げる。
「はぁ~、いいよなぁ。恋人と一緒に暮らせるなんてよ~」
「ですが、そう楽しいことばかりでもなかったのですよ」
「ん?」
背もたれから体を起こした社長が不思議そうに首を傾げた。竹若は軽く肩を上げる。
「時折ユウカが自分のコンプレックスを吐露することがありまして。その言葉を聞いたときには愕然としましたが、胸の奥に抱えているものすべてを無理やり聞き出すわけにもいきませんし。本当に困りましたね」
「難しいもんだな、恋愛は」
社長はデスクに頬づえをつき、しみじみと呟く。
「本当ですね。ですが、どんな状況になろうとも、私はユウカを手放しません」
決意のこもった口調に、社長は苦笑した。
「はいはい。お前の溺愛ぶりは、十分知ってるよ。本当に体を張って、小向日葵君を守ったもんな」
「あのときは、心臓が止まるかと思いましたよ。ユウカをつけ回していたあの男が、彼女にナイフを振り下ろした瞬間を思い出すと、今でも背筋がヒヤリとしますね。本当に嫌な思いをしました」
脳裏にその映像を浮かべたのか、竹若の表情が歪む。そして力なく首を横に振った。
「いえ、私のことはどうだっていいのです。彼女の笑顔を守ると誓ったのに、ユウカに恐い思いをさせてしまった自分の迂闊さを呪いましたよ」
「そんなに自分を責めるな。なにはともあれ、小向日葵君も無事だったんだからな。ほら、ハッピーエンド。ばんざーい、ばんざーい」
竹若を励まそうと、あえて明るく振る舞う社長。そんな社長を、竹若は笑顔で睨みつける。
「そんな単純なことではないのですよ。自分のせいで危険な目に遭わせてしまったと言って、ユウカは私に別れを切り出そうとしてきたのですから。彼女はそこまで自分を追いつめていたんです。……このときは、冗談ではなく心臓が止まりましたね」
竹若が自分の左胸の辺りで拳を握る。
「優しいユウカは、私に守られていることを気に病んでいたようです。愛するユウカを守ることは、私にとって息をするように自然なことなのですが、彼女はそこに引け目を感じていました。さらに、抱え続けたコンプレックスが爆発して、『別れる』などと……」
竹若は今にも泣き出しそうに弱々しい口調で告げ、爪が白くなるほど強く拳を握る。
「愛しいユウカが私から離れていくことを想像しただけで、絶望の闇に落とされます」
「だが実際には別れることにならなかったんだから、良かったじゃないか」
リア充爆発しろ! と思ったかもしれない社長が苦笑を浮かべる。
「当然ですよ。なにが起きても、私はユウカと別れません。彼女は本当の私、『竹若和馬』に気づかせてくれた、かけがえのない存在なのです。ユウカがいなければ、私は生きていけません。……そのことを徹底的に教え込みましたよ。彼女の体に」
フッと口角を上げ、竹若が妖艶に微笑む。
「愛しい彼女を傷つける真似はしたくないのですが、ユウカが私から離れて行ってしまうかもしれないという焦燥から、あのときの私は手加減ができなかったのです。私がどれほど彼女を愛しているのか、溺れているのか、嫌というほど教えこみました。ユウカに煽られた私はますます自制が利かなくなり、ひたすら彼女を啼かせたのです。あのときの嬌声は、いまだかつてないほど艶めかしかった……ユウカは私がつけた所有の赤い痕が残る体を淫らに揺らめかせ、そして……」
「お、おーい、竹若! 戻ってこい!」
このまま放っておけば何時間でも熱弁をふるいそうな竹若に、社長が割って入る。
「なんですか、社長」
盛り上がってきたところで話を遮られ、竹若はキョトンとする。
「『なんですか』じゃないだろうが! お前、いつまで話すつもりだよ!」
今度こそ本気で『リア充爆発しろ!』と思っただろう社長が声を荒らげる。
「ああ、大変失礼いたしました。寂しい一人寝を余儀なくされている社長には、ユウカと私の仲睦まじい話は毒にしかなりませんよね」
ニッコリと勝者の笑みを浮かべる竹若に対して、心底悔しそうにギリギリと奥歯を噛みしめる社長。
「……くそう、竹若めぇ」
日本最大手文具メーカーの社長室は、今日も通常運転のようです。
甘やかな日常
1 エネルギー補給は大事です
この会社に就職し、総務部広報課に配属されて間もなく一年。学生の頃、何名もの有名なジャーナリストを輩出している短大の新聞部に所属していた私、小向日葵ユウカは、その経験を買われて、社内報や商品カタログ等を作る仕事を任されている。
今日も朝からばっちりと仕事をこなしたため、お昼になる頃には正直な私のお腹はグゥグゥと盛大な音を立てていた。
ちょうどキリのいいところまで終わったので、今から昼休みに入ることにする。
「よし、エネルギー補給しようっと」
パソコンのキーボードを打つ手を止めてデータを保存し、私はお弁当の入った紙袋を手にして立ち上がった。
「タンポポちゃん、お昼はどうする? 今日は雨が降っているから、公園には行かないでしょ?」
声をかけてきたのは留美先輩。私と同じ総務部に所属していて、いつも私のことを気にかけてくれる。優しいお姉ちゃんみたいな存在かな。
「三階の休憩室でお弁当を食べます。先輩は社員食堂ですか?」
「ううん。駅前にオープンしたパン屋さんでいろいろ買ってきたのよ。だからタンポポちゃんにもお裾分けしようと思って」
留美先輩はそう言うと、大ぶりの紙袋を持ち上げて軽くゆすって見せる。
私は基本的にご飯が大好きだが、パンも好きだ。いや、そばも、うどんも、パスタもお餅も好きだけどね。
「やったぁ、ありがとうございます」
「じゃ、行きましょうか。早くしないと、席がなくなるかも」
私の喜びように先輩はクスリと笑って歩き出す。
「そうですね」
私は先輩のあとに続いて総務部を出た。
会社の三階には大きな休憩室があり、この時間は昼食を持参した社員で賑わっている。今日は朝から雨が降っているので、いつにも増して人口密度が高い。
運よく窓際の二人席が空いているのを見つけ、私たちはそこに腰を下ろした。
先輩はテーブルの真ん中に買ってきたパンを広げる。
「さ、タンポポちゃん。遠慮なく食べなさい」
「いただきます。先輩も良かったら、お弁当のおかずをどうぞ」
「ありがとう、いただくわ」
お互いのお昼ご飯を分け合い、仕事のことや流行りの服の話などをしていたら、突然休憩室が女性のざわめきに包まれた。
「なにかしら?」
先輩が背後を振り返って、入り口に目を向ける。私も先輩にならって目を向けた。
すると、ある男性社員がこちらに向かって歩いてくるのが見える。
その男性は、ダークカラーのスーツを着こなし、爽やかな微笑を浮かべた私の恋人、和馬さんだった。
彼は自分に向けられる視線を特に気にすることなく、ゆったりと歩いてくる。
「ユウカ、ここにいたんですね」
耳に心地よい声で話しかけられ、私はコクリと頷く。
周囲の女性社員たちはそんな彼の声を耳にして、小さく「きゃぁ~」と黄色い声を上げている。突然の光源氏様の登場に、彼女たちは頬を赤く染め、麗しい和馬さんの笑顔を見て瞳を潤ませていた(留美先輩を除く)。
私はというと、嬉しいような恐いような、複雑な心境でドキドキ。
だって、和馬さんって人目も憚らずにスキンシップをはかってくるんだもん。
いくらこの会社が社内恋愛に寛容だとしても、彼の愛情表現は少々度を越していると思う。それに恋愛経験値が低い私は、彼についていけないことが多々あるのだ。
――今日は何事も起きませんように。
私は心の中で強く願いながら、和馬さんに話しかけた。
「あ、あの、お昼はもう食べたんですか?」
声をかけると、切れ長の目元がフンワリと弧を描く。
「はい。少し早めに取りました」
社長第一秘書の彼はとても忙しく、食事の時間もまちまちらしい。
「良かったら、座りますか? 椅子を持ってきますよ」
「ですが、あいにく満席で、空いている椅子はないようです」
お疲れの和馬さんを労おうとすると、困ったような笑顔が返ってくる。グルッと休憩室を見回せば、確かに一つも空席がない。昼休みは始まったばかりなので、席が空くにはもうしばらく時間がかかるだろう。
どうしようかと考えていると、和馬さんは私の正面に座る留美先輩に「中村君、私に椅子を譲る気はありますか?」と尋ねた。
先輩は傍に立つ彼を見上げて――
「あるわけないじゃない。私はこれからタンポポちゃんと楽しい楽しいランチなの。ね♪」
私に向かってニッコリと笑いかけてきた。
その言葉を聞き、和馬さんは形のいい目をスッと細める。はたから見れば涼やかな笑顔なのだが、私にはそれがとんでもなく恐ろしいものに思えた。
「あなたが友人と後輩の恋愛を邪魔するような、無粋な人だとは思いませんでした」
和馬さんは笑顔で先輩に声をかける。
「あなたこそ、タンポポちゃんの傍にいるのはたとえ同性でも許さない、なんて心の狭い人だとは思わなかったわ」
すると、留美先輩も笑顔で言い返す。
和馬さんにここまではっきり言えるのは、社内では留美先輩だけ。というのもこの二人は同じ大学の出身なのだ。大学に入学して、ほどなくして意気投合し、それからはなにかと行動を共にしていたという。
二人の学生時代の話は時折先輩から聞いていて、男女の性別を越えた友情は素晴らしいと思った。
それにしても、初対面の和馬さんに対して、『あなたの笑顔は胡散臭い』と言い放ったという留美先輩の豪胆なエピソードには驚いた。
そして、そんな留美先輩に和馬さんは『あなたの言葉は明瞭で小気味良いですね』と返したという。そんな和馬さんは懐が深いのか、感覚がおかしいのか。……いや、懐が深いんだよ、うん。
和馬さんと先輩は視線を交わして微笑みつつも、辺りにブリザードを巻き起こしている。
――恐い。二人とも恐い。
手に負えない状況にハラハラしていると、和馬さんはフッと小さく息を吐いた。
「わかりました。席は自分でなんとかします」
穏やかな声でそう告げたかと思うと、彼は私の腕を取って立たせる。
「え?」
きょとんとしている間に、彼は私が座っていた椅子に腰を下ろしてしまった。そして、私の腰に腕を回してくる。
「えっ?」
再び呆気にとられていると、あっという間に力強く抱き寄せられ、私は和馬さんの膝の上に横抱きで乗せられてしまった。
「ええっ!?」
思わず声を上げる私。
ギョッとして見上げると、楽しそうに笑っている和馬さんと目が合った。
「空いている椅子はありませんし、中村君は席を譲らないと言いますし。これが一番いい解決法ではないでしょうか」
素晴らしい笑顔で言ってのける和馬さんに、私の顔が羞恥で赤く染まる。
「いやいやいや、おかしいでしょう! 席がないから、膝に抱っこって! ちょ、ちょっと、留美先輩、なんとか言ってくださいよ!」
向かいにいる先輩に助けを求めるが、「竹若君が素直に私の言うことなんか聞くわけないじゃない」と返される。
――恋人である私の言うことも聞いてくれないんですけど……
周りにいる社員さんたちが、膝の上に抱き上げられている私をチラチラと窺っているのがわかる。恥ずかしくて顔を上げられない。
耳に、周囲のざわめきが届く。「タンポポちゃんが羨ましいわぁ」という女性社員の声。「俺だって、タンポポちゃんを抱っこして癒されたい」という男性社員の声。えっ、私、抱っこ人形じゃないんですけど……
和馬さんは、顔を引きつらせている私の口元にお弁当の唐揚げを差し出す。
「はい、ユウカ。口を開けてください」
「自分で食べますから!」
顔を真っ赤にして叫ぶ私に構わず、彼はニコニコと唐揚げを唇に押し当ててくる。
「遠慮など不要ですよ。さぁ」
切れ長の目がスウッと細くなった。いつもの反論を許さない笑みだ。彼がこの表情になると、私にはどうすることもできない。
「……はい」
おずおずと口を開いて、素直に唐揚げを食べる。モグモグと口を動かす私を、ジッと見つめる和馬さん。
「可愛い口ですね。私もユウカに食べられたいです」
彼は艶のある声でうっとりと囁いた。
「なにを言っているんですか!?」
口を開いた途端、今度はだし巻き玉子が入れられる。一口では入りきらない大きさだったので、適当なところで噛み千切ると、和馬さんはその残りを迷うことなく自分の口に運ぶ。一つの卵焼きを二人で分け合って食べるって――!!
真っ赤な顔で必死に咀嚼し、ゴクン、と呑みこんでから彼に言い放つ。
「和馬さん、やめてください!! もう私、恥ずかしさに耐え切れません! 留美先輩、助けて!」
留美先輩に向かって手を伸ばすも、和馬さんに絡め取られる。
「ユウカ。恋人の私の前で、他人の名前を呼ぶなんて酷いです」
公衆の面前で羞恥プレイを炸裂させてくる和馬さんのほうが酷いと思う。人前じゃなかったら私だってここまで大騒ぎしない。だけど、今は社員さんたちが周りにいるんだってば!
ムゥッと唇を尖らせて膨れると……
「ああ。怒ったあなたも、なんて可愛いのでしょう」
と、和馬さんはいっそう頬を緩ませ、私のおでこや瞼にチュッ、チュッとキスをしてくる。
「や、やめてください!」
「照れるあなたも可愛いですよ」
和馬さんは箸を置いたかと思うと、私を両腕でギュッと抱きしめ、真っ赤に染まった頬に遠慮なく唇を寄せた。
なんとか身を捩ろうとすれば、さらに強い力で抱き寄せられ、顔を背けようとすれば、大きな手の平で頬を包まれる。
「せ、せ、先輩!!」
目の前でいちゃつく(?)私たちに顔色を変えることなく、黙々とパンを食べ進めている留美先輩。そんな先輩が、真面目な声でこう言った。
「このクリームパン、美味しいわよ」
「今はそれどころじゃないんです!!」
喚く私に構わず、和馬さんがそのクリームパンに手を伸ばす。
「まぁ、そう言わずに。せっかく中村君がすすめてくださったのですから」
誰のせいで私がこんなに大騒ぎしているのか、わかっているのだろうか。我が道を爆走中の彼氏様は、クリームパンを笑顔で差し出してくる。
その余裕のある表情にちょっとだけカチンときたが、美味しそうなクリームパンの誘惑には勝てず、私は「うーっ……」と呻き、大きな口を開けてパクリ。思い切りかじりついたので、唇の端にカスタードクリームがついてしまった。
それを見た彼の瞳が妖しく光る。
「ユウカ、クリームを取ってあげますね」
艶のある声でそう囁いたかと思うと、和馬さんは顔を近づけて唇の端のクリームをペロリと舐め取った。
「ひゃっ」
――な、舐めた! 今、この人、舐めたよ!
これ以上ないほど顔を赤く染めて硬直している私に、和馬さんは「まだついていますね」と言って、再び舌を伸ばしてくる。
少しあたたかくてざらついた感触が、唇の上をゆっくりと動く。そして、最後に舌ではなく唇を軽く押し当ててきた。驚きに目を見開いている私の眼前には、うっとりとした表情の和馬さんが……
は、は、は、恥ずかしい~~~!
お弁当と美味しいパンでエネルギー補給できるはずだったのに、私は燃え尽き、すっからかんになってしまった。
最後にチュッと可愛らしい音を立てて、和馬さんの唇は離れていった。時間にしたらごくわずかかもしれないが、私が感じた羞恥心は膨大だ。
彼の腕の中から逃げ出せないと悟った私は、抱っこされたまま唸っていた。ちなみに、留美先輩は一足先に総務部へ戻っている。休憩室にいた他の社員も、食事を終えるとそそくさと自分の部署に帰っていったようだ。
「うう~、和馬さんのバカァ」
目の前で清々しく笑っている彼の顔をグーで殴る。もちろん本気じゃないけどね。
私の照れ隠しを笑顔で受け止める和馬さん。そんな彼の表情に疲れが浮かんでいることに、今さらながら気がついた。
「あ、あの、大丈夫ですか?」
私が言いたいことを察したらしい和馬さんは、困ったように小さく笑う。
「厄介な案件が立て込みましたので、少々疲れているかもしれません。ですが、心配していただくほどのことでもありませんよ」
「社長秘書って、なんだかいつも忙しそうですもんね。予定外の仕事も多いみたいですし」
私の言葉に、和馬さんがクスリと笑みを零した。
「ユウカからエネルギーを貰いましたので、すぐ元気になりますよ」
――その補給方法は、先ほどのキスでしょうか。
「そ、そうですか」
ボフッと音が出そうなほど顔が熱くなる。
それはともかく、和馬さんの体調が心配だ。
「もし良かったら、あとで栄養ドリンクを差し入れしましょうか?」
和馬さんはゆっくりと首を振った。
「いえ、大丈夫です。ここにありますから」
そう言って、彼は上着のポケットから栄養ドリンクの瓶を取り出す。そしてキャップを捻って、一息にドリンクを飲んだ。
「これで午後の仕事も頑張れそうです。……もちろん、ドリンクよりもあなたのおかげですよ。可愛いユウカ、愛してます」
和馬さんの優しい微笑みに、密かに私のエネルギーも補充されたのだった。
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