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(16)ドキドキの種類:4

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 暗殺ビームが出ているような鋭い視線ではなく、いつもよりいくらか穏やかに感じる先輩の視線。
 そのせいか、周りの空気も穏やかに感じた。
 しかし、私の内心はまったく穏やかではなかったのである。
 お腹の虫は先輩からもらったキャンディのおかげで落ち着きは見せたものの、いくつもの爆弾が続けて火を噴いているかのように心臓が暴れている。

――婚約一歩手前って、どういうことーーーーー!?

 婚約どころか、私と先輩はお付き合いすらしていない。
 突然の出逢いから意味不明な再会が続いているというだけの、単なる先輩と後輩の間柄だ。
 いや、これまでのやり取りを振り返ると、『単なる先輩と後輩の間柄』と言うには疑問が残るが、私としては彼のことを先輩としか見たことがないし、今もそうだ。
 それなのに、どうして鮫尾先輩はそんなことを言ったのだろうか。
 どんなに引っ張っても先輩は手を放してくれそうにないので、自力でなんとかしなくてはならないようだ。
 そのためには、意思の疎通が絶対に必要だろう。
 私はすぅはぁと深呼吸を繰り返し、必死に落ち着きを取り戻す。
「せ、先輩、お聞きしたいことがあります」
 気合を入れて切れ長の目を見つめ返すと、その目がごく僅かに弧を描いた。
「新居の心配は、しなくていい。すでに、候補を絞ってあるから」
「し、新居?」
 理解できないことを言われ、いきなり私の気合が霧散する。
 そんな私にかまうことなく、先輩が口を開く。
「土曜日になったら、下見に行こう」

――だ、駄目だ。話がまったくかみ合わない!

 これまで以上に、混線している。
 しかし、ここで諦めたら終わりだ。私は改めて息を吸い、お腹に力を入れる。
 その瞬間、クキュウとお腹の虫がふたたび鳴いた。
 すると、先輩は視線を下にずらして私のお腹へと狙いを定めると、大きな手をスッと伸ばしてくる。

――させるかぁ!

 私は素早く一歩後ずさり、先輩の手を回避した。

――ふふん、やったぁ。

 私はニヤリと片頬を上げた。
 ところが、彼の左手は私の右手を掴んだままだったので、あっけなく引き戻されてしまう。
「うおっ」
 その力は思った以上に強く、ガクンと体が傾いで、私は二歩前に出た。
 結果、さっきよりも先輩との距離が近くなり、思いっきりお腹を手の平で押される。

 キュウ、クルルルル!

 萎れかけている私の精神とは正反対に、お腹の虫が元気いっぱいの鳴き声を響かせた。
 恥ずかしさのあまりに爆死してしまいそうな私とは違い、先輩は満足そうに頷きを繰り返す。
「うん、可愛い」
 先輩の思考回路と美的センスが、謎過ぎて泣きそうだ。
 なんで、こんな音を可愛いと思うのか。
 これが誰もが振り向く美少女の腹の虫なら、『君は、顔だけじゃなくてお腹が鳴る音まで可愛いんだね』と言ってもらえることだろう。それを聞いた周囲も、そのセリフに納得するはずである。
 しかし、私は平凡極まりない女子高生なのだ。……自分で言っててヘコむが。
 またしてもお腹の虫が可愛いと言われ、雨上がりのタケノコのようにいたたまれなさが一気にこみ上げた。
 このままでは、本当にマズい。一刻も早く先輩と話を付けてこの場から立ち去らなくては、私は心身ともに干からびる。
 私はふたたびお腹が鳴らないように注意して、先輩をキッと睨みつけた。
「先輩は、勘違いしています!」
 すると、先輩は私のお腹から視線を上げ、不思議そうに首を傾げる。
「勘違い?」
「そうです! 私たち、婚約なんてしていません!」
 きっぱりと言い切ったら、彼はさらに首を傾げた。
「俺との結婚を、考えてくれたんだよね?」
「は?」
「だから、お兄さんを俺に紹介してくれるんだよね?」
「……は?」
「それはつまり、婚約ってことでしょ?」
「…………は?」
「ほら、俺は勘違いしてない」
 先輩は『分かったか?』と言うように、右手で私の頭をポンポンと叩く。
 意思疎通を図るための会話のはずが、さらに謎を深めてしまった。
 いったいなにが原因で、先輩は勘違いロードを爆走しているのだろうか。
 ここで、私は婚約に続く謎ワード「お兄さんを紹介」に引っかかった。
 私と先輩の仲を怪しまれたくなくて、勝手に馬鹿アニキと先輩が知り合いという嘘を友達に言った。
 おまけに、廊下を歩きながらも、そのセリフを繰り返した。
 だから、馬鹿アニキを紹介してもらうのだと先輩が勘違いしたのだとしても、なんとなく分かる。
 とはいえ、そこからどうして婚約に至ったのかは、さっぱり分からないが。
「あ、あの、さっきは事情があって、先輩とウチの馬鹿アニキが知り合いみたいなことを言ってしまいましたけど、それは、えっと……」
 なぜ、そんなことを言ってしまったのかをうまく説明できる自信がなくて、口ごもってしまう。
 先輩は、また私の頭をポンポンと叩いた。
「大丈夫」
 自信たっぷりに言い放たれ、今度は私が首を傾げる。
「な、なにが、大丈夫なんですか?」
 オズオズと尋ねたら、彼の大きな手が私の髪を優しく撫でた。
「ちゃんと、君のお兄さんと仲良くする」
「……あ、あの、先輩?」
 困惑する私をよそに、彼は深く頷いてから口を開く。
「だって、いずれは俺のお兄さんにもなるから」

――なんで、そうなるのよ……

「あの、ですから……、それが勘違いですって」
 げんなりと苦々しい表情で呟いたら、先輩がハッとしたように、切れ長の目を少しだけ見開いた。
「そうか、ごめん」
 彼は肩を落とし、申し訳なさそうに俯いた。
 その様子を見て、私は肩の力を抜く。
 ようやく誤解が解け、やっと私はここから立ち去ることができそうだ。 
 私のライフポイントがガリガリと削られて『瀕死』の表示が出ているけれど、どうにか家までは辿り着けるだろう。

――よかった。やっとだ……

 そう喜んだ瞬間、先輩がさらなる迷走発言を口にした。
「こういう場合、義理の兄と書いて『お義兄さん』って言うべきだった」

――勘違いが、ちっとも解消されてないんですけどーーーーー!

 肩の力どころか全身から力が抜け、私はその場にへたり込みそうになった。
 いや、本当に力が抜けて、重力のままに体が下に落ちていく。
 すると、先輩はサッと私の右手を引いて、自分の体で私を受け止めた。かと思ったら、そこから素早く私を横抱きにしてしまった。
「ええっ! なんで、こうなるの!?」
 パニックになっている私を冷静に抱きかかえ、先輩がベンチに歩み寄る。
 そのベンチは大きな木の下にあるおかげで、先ほどの通り雨にも濡れていなかった。
 ……今、ベンチのことは、どうでもいい。お姫様抱っこの状態から脱出しないと、本当に羞恥で爆死する。
「下ろしてください!」
「駄目。どんな時でも妻を守るのが、夫の役目」
 
――婚約者どころか、夫婦になってる!?

 この瞬間、木野真知子のライフポイントはゼロになった。

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