その香り。その瞳。

京 みやこ

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(117)SIDE:奏太

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 ようやくキスが解かれたタイミングで、僕のお腹がクルルッと小さく鳴いた。
 僕はとっさにお腹を手で押さえる。
 いまさらそんなことをしても、斗輝に聞かれているだろう。

――そういえば、夕ご飯を食べてないんだ。

 買い物から帰ってきて、その後すぐに寝室に連れていかれた。
 意識が途切れた僕の体を斗輝が綺麗に拭いてくれたけれど、さすがに食事をさせるのは、いくら彼が有能であっても不可能だろう。
 昨日のお昼はボリューム満点のハンバーグだったものの、情熱的に抱かれたおかげで、すっかり空腹なのだ。
 お腹に手を当てたまま、僕を押し倒している斗輝にチラリと視線を向ける。
 すると、彼は優しい笑みを浮かべていた。
「奏太は、腹の虫が鳴く音も可愛い」
 そんなものまで可愛いと言われ、気恥ずかしさがこみ上げる。
 カァッと顔を熱くしていると、彼が僕を静かに抱き起した。
「少し食べることにしよう」
「ところで、今、何時ですか?」
 僕の問いかけに、彼が「五時になったところだ」と答えれくれた。
 いつもなら、朝ご飯はだいたい七時頃。それに比べると、だいぶ早い時間である。
 だけど、お腹が空いたのは僕だけなので、斗輝はもう少し寝ていてもいいのではないだろうか。
「適当に食べてきますので、斗輝はこのままベッドにいてもいいですよ。まだ、起きる時間ではないですし」
 ところが、彼は僕を横抱きにして、寝室を出てしまう。
「斗輝?」
 名前を呼ぶと、唇が軽く啄まれる。
「俺も、腹が減ったからな」
「え? 夕ご飯を食べてなかったんですか?」
 僕はパチクリと瞬きを繰り返す。
 体力がある斗輝のことだから、抱き合った後、僕のように寝落ちしてしまうことはない。
 いつも僕の体を綺麗にしてくれたり、グチャグチャになったシーツを整えてくれたり、余裕でこなす人なのだ。
 だから、一通り僕の世話を済ませ、食事をすることもできただろう。
 キョトンとしていたら、また唇を啄まれた。
「一人で食事をする気にはならないから」
「僕のこと、起こしてくれてもよかったんですけど……」
 あれは眠りに落ちたのではなく、単に意識を飛ばしたのだ。だから、起こされたところで、こっちは別に怒ったりはしない。
 僕の言葉に、彼がクスッと笑う。
「シーツを洗濯機に入れて戻ってきたら、奏太がすごく幸せそうな顔をして横になっていたんだよ。起こすのがかわいそうでな」
「幸せそうって……」
 それには、心当たりがある。 
 昨日は僕の気持ちが全力で斗輝に向かい、また、彼の愛情を改めて感じたことで、お互いの想いが深く通じ合った。
 そのことが、本当に幸せだったのだ。
 照れくさくてモジモジしていたら、今度はおでこにキスをされる。
「そんな奏太の顔を見ているうちに、俺も寝てしまったんだよ。奏太が気にすることではない」
 話をしているうちに、僕たちはリビングにやってきた。
 お腹は空いているけれど、僕の体はまだ寝ぼけている感じで、しっかりと一人前を食べられそうにない。
 なので、軽く食べてから、もうひと眠りしてはどうかと斗輝が提案してきたのである。
 僕をソファに下ろした彼は、キッチンへと向かった。
 十五分しないうちに、斗輝はコーンポタージュスープ、クロワッサンを運んできてくれる。
 ローテーブルに料理を置いた彼が、僕の左隣に腰を下ろした。
「奏太、顔と手を拭こうか」
 そう言って、ホカホカの蒸しタオルを斗輝が手に取る。
「いえ、自分でできますから」 
 いまだに体がシャキッと動かないけれど、自分の顔くらいは拭ける。
 ところが、彼は右腕で僕の体を抱き寄せ、左手に持っているタオルで僕の顔を優しく拭き始めた。
 顔が終わると、僕の手を丁寧に拭いていく。
 普段から彼は僕の世話をよく焼いてくれるけれど、今朝はそれ以上かもしれない。
 顔と手がさっぱりしたところで、コーンポタージュが入ったマグカップが差し出された。
 とはいえ、カップは一人で持たせてもらえない。
 カップを持つ僕の手に、彼の大きな手が重なる。
「熱いから、気を付けるんだぞ」
 彼は僕の口にカップの縁を宛がい、慎重に傾けていく。
「あ、あの、ですから、自分で……」
 きちんと言い返す間もなく、コーンポタージュが唇に近付いてくるのを感じる。
 美味しそうな匂いが鼻をくすぐると、またお腹がクルルッと鳴いた。
 僕はなにも言い返せなくて、されるままにコーンポタージュを口に入れる。
 濃厚で程よい甘さのあるポタージュは、僕が大好きな味だ。
 照れくささが消えないまま、僕は一口、また一口とコーンポタージュを飲んだ。
 
 ある程度経ったところで、斗輝がマグカップを静かに遠ざける。
「次は、クロワッサンだな。トースターで焼いてきたから、サクサクだぞ」
 またしても、彼は僕に食べさせようとしてきた。
 僕は口元に運ばれたクロワッサンと彼を交互にチラチラと見る。
 嫌だと思ってはいないけれど、やたらと甘い雰囲気のせいで、恥ずかしさがいっこうに引かないのだ。
「マグカップはちょっと重かったですけど、クロワッサンは持てますから……」
 やんわりと断りを入れたものの、彼はニコニコと笑うばかり。
「奏太が持てるとしても、俺が食べさせたっていいだろ」
「えっと、それは……」
 もう一度チラリと彼を見たら、やっぱり楽しそうに笑っている。おまけに、瞳に浮かぶ光は甘さを増していた。
 
――強く断れる雰囲気じゃないよね……

 それに、コーンポタージュを飲んだせいで胃が動き出し、そのうち盛大にお腹の虫が騒ぎそうだ。
 斗輝は可愛いと言ってくれるものの、空腹でお腹が鳴っているのを何度も聞かれるのはいたたまれない。
 香ばしく焼かれたクロワッサンの魅力に抗えず、僕はパクリと齧りついた。
 彼が言ったとおり、サクッといい音がする。続いて、バターの風味が口いっぱいに広がった。
「美味いか?」
 斗輝に訊かれて、僕はコクコクと頷き返す。
 そんな僕に、彼はふたたびクロワッサンを口元に差し出してきた。
 もう一口噛り付き、咀嚼を終えたところで、マグカップが差し出される。
 ちょうどコーンポタージュが飲みたかったところなので、素直に口を付けた。
 食べているうちに気恥ずかしさは徐々に薄れ、美味しさに心を奪われていく。半分ほど食べ進めた頃には、すっかり斗輝のされるままになっていた。
「奏太」
 ふいに名前を呼ばれて軽く首を傾げたら、僕の唇の左端に彼がキスをする。
「ポタージュが付いていた」
 そう言って、彼がユルリと笑みを深める。
 斗輝に食べさせてもらうと、こんなことばかりだ。
 それでも、彼の笑顔を見ていたら、どうしたって拒否できない僕だった。
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