その香り。その瞳。

京 みやこ

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(88)SIDE:奏太

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 僕はしばらくエントランスを見回していたけれど、斗輝に手を引かれて歩き出した。
「買い物の前に、登録を済ませておきたい」
 彼と一緒に、コンシェルジュがいるカウンターへと向かう。
「登録、ですか?」
 訊き返すと、斗輝が頷く。
「奏太はここで暮らすことになるから、住民としての登録が必要なんだよ。扉でも分かるように、ここのセキュリティは特殊だ。だからこそ、安全なんだがな」
 確かに、虹彩を認識して扉が開錠されるというシステムは、生まれて初めて見た。
 さっき、斗輝が言ったように、安全面に関してかなり徹底しているマンションなので、僕が済んでいるワンルームマンションとは色々と違うのだろう。
 カウンターの前に僕たちが立つと、ブラックのスーツをビシッと着込んでいる男性のコンシェルジュがスッと頭を下げた。
 彼は姿勢を戻すと、柔らかい微笑みを浮かべる。
「おはようございます、安藤奏太様」
 大人から丁寧な挨拶をされたことが初めてなので、妙に緊張してしまう。
「お、おはよ……、ござい、ます……」
 妙にどもりながら挨拶を返し、ペコッと勢いよく頭を下げた。
 そんな僕の頭を、斗輝が繋いでいないほうの手でポンと叩く。
「今は一人だが、このカウンターは数人のコンシェルジュが担当する。困ったことがあったら、なんでも相談するといい」
 コクンと頷き返し、僕はコンシェルジュに改めて頭を下げる。
「よろしくお願いします」
 今度はどもらずに言えた。
 ホッと安堵の息を漏らすと、前に立つコンシェルジュがさらに笑みを深める。
「とても可愛らしい方ですね。我々も、お守りする甲斐があるというものです」
「……え?」
 僕は首を傾げた。
 その反応に、斗輝もコンシェルジュの男性も苦笑を浮かべる。
「このマンションのコンシェルジュは、住民の生活をサポートするだけではなく、警備員でもあるんだ。実地訓練も受けているから、暴漢が進入してきてもしっかり対応してくれるぞ」
「専属の警備員は常駐しておりますが、マンション入り口部分の守りを固めることは、とても重要ですから。女性のコンシェルジュでも、並みの男性以上に強いですよ。どうぞ、ご安心して、お過ごしくださいませ」
 二人に言われ、僕はコクコクと頷き返した。
 なんと厳重なのだろうかと驚いていたら、コンシェルジュが「では、さっそく」と言って、なにかしらの機械とパソコンを弄り始める。
「奏太の指紋は登録してあるんだが、虹彩はまだだからな」
 このマンションに来た日、仮登録として指紋認証だけは済ませておいたとのこと。
 あの時、僕は気を失っていて目を開けられなかったので、虹彩認証は出来なかったのだという。
 
――大学で初めて斗輝と会って、医務室で抱き締められたら、もう訳が分からなくなったんだよね。一週間しか経ってないのに、すごく前のことのような気がするなぁ。

 たった数日で、身の回りが変わってしまった。
 彼と一緒にいることで、今後はさらに変わっていくのだろう。
 田舎者の僕はその変化にうまくついていけないかもしれないかもしれないが、斗輝はきっと急かしたりせず、優しく見守ってくれるはず。
 斗輝と二人で見つめ合っているうちに、準備が終わったようだ。
「それでは、こちらの機械に付いております小窓を覗き込んでいただけますか?」
 カウンターの上に、視力検査で使われるような装置が乗っている。
 繋いでいた手を解くと、斗輝が僕を促す。
 軽く背中を押された僕は、言われた通りに機械を覗き込んだ。
「中心にあります黒い点を見つめてください。ええ、そうです。しばらく、そのままでお願いいたします。次に、光が数回点滅いたしますので、できる限り目を閉じないでください」
 コンシェルジュの指示に従っているうちに、虹彩の登録が終了した。
「お疲れ様でございました。ただいまを持ちまして、安藤奏太様はこの建物すべてに出入りが可能となります。なにかご不明な点がございましたら、いつでもお声掛けくださいませ」 
「はい、ありがとうございました」
 ペコッと頭を下げたら、コンシェルジュがスッと頭を下げる。
「どうぞ、お気を付けて行ってらっしゃいませ」
 礼儀正しいコンシェルジュに見送られて、僕たちはエントランスホールを後にした。

「なんか、ドキドキしました……」
 スーツが似合う大人から丁寧な対応を受けたことや虹彩認証など、これまでの僕なら絶対に体験しないことなのだ。
 受験の時に泊まったホテルでのチェックインやチェックアウトも、心臓が壊れそうなほどドキドキしたのを思い出す。
 片手で左胸の辺りを押さえると、斗輝が僕のつむじにキスを落とした。
「緊張していた奏太も可愛かったぞ」
「斗輝からしたら、どんな僕でも可愛く見えるんですね。番効果ってことですか?」
 首を傾げて隣を歩く彼を見上げると、切れ長の目がフワリと弧を描く。
「番に惹かれてやまないというのは確かだが、相手がどんな人間でも好きになるということはないだろう。たとえば、奏太が人の命をなんとも思わない殺人犯だとしたら、さすがに好きにはならない。その反対に、奏太も、そんな俺のことを好きになったりはしないだろうしな」
 少しだけ考えて、僕はコクンと頷き返す。
「そうですね。僕が好きになったのは、斗輝が優しくて、努力家で、僕のことをなによりも大切にしてくれるからです」
「俺だって、奏太が素直で健気だから、こんなにも心が惹かれるんだ。つまり、番だという理由だけで奏太を可愛いと思っている訳じゃない。奏太の人柄に惚れたということだ」
 彼の答えに、僕はなんとなく安堵を覚えた。
 番という理由だけでなにもかも雁字搦めに結ばれてしまうのは、なにか違うように思っていたから。
 そこにはきちんと自分の意思が存在して、その上で相手を好きになるのだと分かって、ホッとしたのである。
「まだまだ、番とかオメガとか、知らないことがありそうですね。でも、一つずつ理解して、斗輝のことをもっともっと分かってあげたいです」
 へへッと苦笑いを浮かべたら、グイッと手を引っ張られて抱き締められた。
「斗、斗輝!?」
 慌てて逞しい腕の中から抜け出そうともがくものの、さらに強い力で抱き締められる。
「大丈夫だ。観葉植物の陰になっているから、周りからは見えない」
 ササッと視線を動かすと、彼が言った通りに緑の葉っぱがたくさん見えた。
 部屋の外で抱き締められたことに焦ったけれど、人に知られないで済むのなら、ちょっと気が楽になる。
「急に、どうしたんですか?」
 問いかけたら、「愛してる」と、ちっとも答えになっていない言葉が返ってきた。
「いや、あの……、はい……」
 甘い声で告白され、照れくささが一気にこみ上げる。
 モジモジしながら、彼が纏うカットソーの胸元を、ソッと握り締めた。
 しばらく無言で僕を抱き締めていた斗輝が、ゆっくりと息を吐く。
「奏太は、何気なく俺の心を満たしてくれるんだな」
「え?」
 そんなことをしただろうかと首を傾げたら、彼の大きな手が僕の髪を撫で始めた。
 その仕草は僕を甘やかしているようでもあり、彼が甘えているようでもある。
 長い指が静かに髪を梳く動きは心地よくて、僕はされるままになっていた。



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