その香り。その瞳。

京 みやこ

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(83)SIDE:奏太

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 しばらく重なっていた唇が解放され、僕は照れ隠しに彼の胸を軽く握った拳でポコンと叩いてやった。
「今の僕は、後ろ向きになっていないと思うんですけど」
 ポコン、ポコンと叩いていたら、その手を斗輝の左手が優しく包み込む。
「いつキスをしてもいいだろ」
 そう言って、また斗輝がキスをしようとしてきた。
 そんな彼の唇を、右手でソッと覆い隠す。
「もう、おしまいです。これじゃ、話が進みません。僕の部屋につけるカーテンを選んで注文するんですよね」
 僕が使っていた家具はそのまま持ち込むことになっているものの、カーテンは窓のサイズが違うので新しいものを用意するという話になった。
 自分が使う物だからこっちが払うつもりでいたのに、彼は頑として譲らなかった。
 引っ越し祝いとしてプレゼントさせてくれと説き伏せられ、僕は彼に買ってもらうことにしたのである。
 他にもあれこれ買ってくれようとしていた斗輝だけど、上京した時に買った家具は新品同様なので、改めて買い揃える必要はなかった。
 今度は僕が譲らなかったので彼はしょんぼりしたものの、「だったら、食器とか身の回りの物を、俺とのお揃いで揃えよう」と思い付き、あっという間に笑顔になったのである。
「奏太、これはどうだ? それとも、こっちの色がいいか?」
 カーテンを選び終わった後、斗輝がノートパソコンを立ち上げてネットショップのサイトを開いたり、澤泉家御用達である日用品店のカタログを広げたりと、なにやら楽しそうにしているので止めるに止められない。
 とはいえ、彼に任せていたら、いったいどれほどの金額をつぎ込むのだろうか。
 チラッと彼の手元を覗き込んだら、有名な陶芸家が手作りした茶碗のところでカタログが開かれていた。

――い、一万六千円!?

 僕はその値段に息を呑んだ。
 夫婦茶碗なので、一個の値段はその半額になるけれど、それにしたって高すぎる。
 僕がこれまでに使っていた食器類は百円ショップで買い揃えたものなので、一個当たり八十倍の値段となる茶碗は恐れ多くて使えない。
 斗輝が見ているカタログは高級品ばかり掲載されているので、ここから選んだら僕の心臓がもたない。
 使うのも洗うのも、ハラハラドキドキの連続だ。
 顔を引きつらせて固まっていたら、斗輝が不安そうに僕の目を覗き込んできた。
「やはり、気に入らないか?」
 どの茶碗を示されても僕が首を縦に振らないせいで、彼は心配になったのだろう。
 気に入らないのは色でもデザインでもなく、値段に関してだ。
 値段が高い分、質もいいとは思うけれど、百円ショップで買った茶碗だって、丁寧に扱ったら十分長持ちする。
 それを伝えようと口を開きかけたら、斗輝がしょんぼりと肩を落とした。
「まだ結婚していないのに、夫婦茶碗は気が早すぎたか? 奏太のご両親に同棲を電話で認めてもらったが、結婚の話は直接あちらへ伺った時にしようと考えている。俺たちが実際に結婚するのは当分先のことになるから、気分だけでも新婚を味わいたいと思ったんだ」
 肩を落としながら僕の様子を窺う彼に、「そういうことではなくて……」と苦笑まじりに返す。
 すると、斗輝は続けて口を開く。
「それとも、茶碗の大きさに問題があるか? 奏太はそこまで量を多く食べないから、俺が大きい器で奏太が小さいほうでいいかと思ったんだが。俺は小さい茶碗でお代わりすればいいから、なんとか夫婦茶碗にしてくれないだろうか」
 縋るような口調で訴えてくる彼に、僕は改めて「そういうことではないんです」と告げた。
「夫婦茶碗であることとか大きさとか、僕が気にしているのは、そこではないんですよ。これは、あまりにも値段が高すぎます」
 それを聞いて、斗輝の表情が少し緩む。
「そうか、夫婦茶碗を使うこと自体は構わないんだな?」
 はにかんだ笑みを見て、僕も小さく笑みを浮かべる。
「ええ、まぁ。斗輝の気持ちは嬉しいですし、使うのは問題ないですよ。それに、斗輝ほど量は食べないので、小さいほうで十分です。気になったのは、値段です。普段使う物にしては、あまりにも高額すぎませんか? 僕は庶民ですし、食器は使えたらそれでいいという感覚の中で育ちました。こんなに高い食器では、どうにも落ち着かなくて」
 僕は思っていることを、正直に伝えた。
 下手に気を遣うと誤解が生じるのは、しっかりと実感済みだ。
 また僕が彼を傷付けたくないばかりに隠し事をしたり嘘を吐くのを斗輝自身が嫌がり、はっきりと本当のことを教えてほしいと何度も言われている。
 僕の話を聞いた斗輝は怒ることも呆れることもなく、「そうか」と言って形のいい目を細めた。
「奏太の話はもっともだ。毎日使う食器に緊張していたら、食事を楽しめないからな」
 そう言って、彼はカタログを閉じる。
「なら、ネットで探してみようか」
「そうですね」
 僕は彼と一緒に、パソコンの画面を眺める。
 今は使用しなくなった物をネットショップサイトに出品する人がかなり多く、運がよかったらビックリするほど安く買えるのだ。
「いい茶碗が見つかるといいですね」
 そう話しかける僕の視線の先では、カタログより値段は下がったものの、普段使いするのが躊躇われる値段が表示されていた。
「ちょ、ちょっと待ってください! 高いですって!」
 慌てる僕に、斗輝は首を傾げる。
「だが、さっきの半額だぞ」
 そうは言うものの、一万六千円の半額は茶碗としてはけして安くない。
「あ、あの、フリマアプリに出ているものだったら、だいぶ安く買えますよ。そっちにしませんか? とりあえず、サイトを見てみましょう」
 僕は東京に出て来てから二葉先生に教わったサイトを開こうと、自分のスマートフォンを手に取った。
 ところが、その手を斗輝の大きな手がソッと包み込む。
「奏太との新生活のために揃えるから、それなりにいい物にしたいんだ」
 真剣に見つめられて頷きそうになったが、寸でのところで踏みとどまる。
 斗輝とお付き合いするということは、澤泉家のことにも慣れてい行かないといけないのかもしれない。
 金銭感覚も、その一つだろう。
 とはいえ、いきなりは無理だ。

――どうやって、納得してもらおうかな?

 二人の意見がぶつかり合うことなく、お互いうまく受け入れる案はないだろうか。
 少し考えてから、僕は口を開いた。
「でしたら、買い物に行って二人で選びませんか? 特に、茶碗類は手に取ってみたほうがいいと思うんです。大きさとか、手触りとか、触ってみないと分かりませんし」
 一級品しか使ったことがないであろう彼には少し申し訳ないが、一般的な店で一般的な値段の食器を買うことにしよう。
 ちょっとだけ後ろめたさを感じながら彼の様子を窺っていたら、斗輝が嬉しそうに笑った。
「奏太との初デートだ」
「……えっ!?」
 そう返してくるとは思っていなかった。
 驚いた僕の頬に、彼は優しくキスをする。
「奏太との同棲や結婚ばかり頭にあったが、恋人らしいことをするのも大事だな。よし、手を繋いで歩こう。ああ、もちろん、恋人繋ぎだぞ。それと、一つのアイスや飲み物を、二人で分け合うのもいいな。綺麗な夜景を見ながら奏太とキスをするのも、一度やってみたかったんだ。ああ、楽しみだ」
 やたらと上機嫌になっている斗輝には非常に申し訳ないけれど、恋人繋ぎの他は恥かしくて外ではできないと思った僕だった。

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