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第3章 婚約破棄
44.願い <マティアス視点>
しおりを挟むマティアスは自宅の私室で謹慎を言い渡され、一人悶々と夜会の夜のことを思い出していた。
そして激しく後悔していた。あのマルレーネという令嬢が告げた言葉……。
『カタリーナ様と幼い頃からお知り合いで、そんなことを言う女性かどうか冷静になれば簡単に分かると思いますの二』
『ずっと自分だけに寄り添ってくれて、頑張れって背中を押してくれる人がいいでス』
自分は一体カタリーナの何を見ていたのか。5才の頃から10年ものつきあいだ。少なくとも5年前まではすぐ傍で彼女のことを見ていた筈だ。
彼女の家、デーメル家はとても行儀作法に厳しかった。そんな教育にも文句ひとつ言わずこつこつと淑女となるべく努力を重ねてきた彼女。そんな彼女を見ていながらなぜユリアの言葉を信じてしまったのか。
そんな彼女と比べるといったい自分は何をしてきたのか。
確かにユリアのことは好きだった。唯一自分を分かってくれる女性だと思っていた。彼女の言葉が心地よかったのだ。
『貴方は貴方なんだから誰かに追いつこうと努力しなくていいのよ。皆違って当たり前なんだから。私は今のままの貴方が好きよ』
今思い返しても確かに甘美な言葉だと思う。
マティアスは当時いくら努力しても剣の腕が上達せず、同僚との手合わせでも負かされることが多かった。
その上団長の息子というだけでできて当たり前という目で見られる。それがどんなにプレッシャーだったことか。
そして父もそんなマティアスに厳しかった。今思えば自分の甘えた心を見透かされていたのだと思う。叱咤されてなぜこんなつらい思いをしなければいけないんだろうと思っていた。
そんなときにユリアが現れて甘えさせてくれたのだ。
マティアスはそんな彼女に夢中になった。カタリーナのことなど頭の片隅にもなかった。
カタリーナはたまに会っても、かけてくるのはいつも頑張れとか応援していますとかそんな言葉ばかりだった。
あの夜会でユリアの本心を垣間見て無理矢理夢から覚まされた気分だった。
少し考えれば分かることが分からなかったことに気が付いた。彼女のことを軽蔑する気持ちも湧いたが、それ以上に酷い自己嫌悪に陥った。
(俺は今まで一体何を考えていたんだ。カタリーナが陰口などいう女じゃないことくらい分かるだろう……。それなのに俺は)
カタリーナを傷つけてしまった。そのやり直せない事実を振り返り、激しく後悔した。だが口から出てしまった言葉は取り消せない。きっと彼女は傷ついただろう。マティアスが彼女を傷つけたのだ。
父の言葉を流し、カタリーナの言葉を無視し、ユリアというぬるま湯に逃げて楽になろうとした。とにかく逃げたかった。責務から解放されたかった。
だが結果はどうだ。マティアスはユリアに会ってから少しでも成長しただろうか。
確かにユリアの傍は心地よかったが、一歩外へ出れば厳しい現実が待っていた。いつの間にか同僚に取り残され、何の成果もあげることのできなかった自分。その結果が全てだ。
本当に自分のことを考えていてくれたのは誰だ。父やカタリーナじゃないのか。
まるで麻薬のようにユリアに甘やかされている間、そんなことも分からなかったのだ。我ながら愚かしいと思う。救いようのない馬鹿だ。
「カタリーナ、すまなかった……。君に会いたい。会って謝りたい」
マティアスは自室でそんなことばかりぐるぐると考えていた。
***
ようやく謹慎が解け学園へと向かう。
カタリーナに会ったら絶対に謝ろう。許してはくれないかもしれないが、謝罪する機会を貰いたい。そんな一心で彼女の姿を学園内に探した。
「カタリーナ、どこだ……。君に言いたいことがあるんだ」
謹慎していたときから、カタリーナに会って話す謝罪の言葉をずっと考えていた。
学園の中庭を通りかかったとき、見慣れた姿が視界に入った気がした。ふとそちらを見ると、中庭のベンチに座っている彼女の姿見えた。
それを見て歓喜した。ようやく謝罪できると。
だが少し近づくと彼女の傍に見知らぬ男が座っているのが見えた。
(あれは誰だ。なぜカタリーナはあんなに慈愛に満ちた優しい表情をしているんだ。なぜその男に笑いかけている。俺を好きだったんじゃないのか)
激しい喪失感と焦燥感に襲われて、謝罪のために考えていた言葉が霧散していく。
彼女は自分の婚約者だ。その笑顔は自分のものだ。――そんな恥知らずな考えが次々とよぎる。だがマティアス自身が婚約破棄を言い渡したのだ。筋違いなのは分かっているのに、2人の姿を見るのが苦しい。
マティアスはカタリーナが一人になるまでしばらく待った。
それほど長い時間ではなかった。その男はカタリーナの傍から離れていった。
マティアスはカタリーナに近づいていく。そして恐る恐る彼女に話しかける。もう既に考えていた謝罪の言葉は浮かばない。
「カタリーナ」
「マティアス様……」
カタリーナはマティアスの姿を見て酷く驚いたようだった。その強張った表情に軽く傷つく。
「……夜会の夜、君を信じなくてすまなかった。君を傷つけてしまった」
そう言うとカタリーナは、その綺麗な琥珀色の瞳を潤ませて柔らかく笑って答えた。
「もう、いいのです」
「もう一度やり直させてくれないか? もう君を傷つけるようなことはしないと誓う!」
懸命に言い募るもカタリーナは瞼を臥せて首を左右に振る。
「それは無理です。私はもう……疲れたのです」
「あの男と一緒になるのか!?」
マティアスの言葉にカタリーナが驚いたように目を丸くする。
「私はそんなに早く気持ちを切り替えられません。私は貴方をお慕いしていましたから」
「それならっ……!」
カタリーナの瞳に迷いは見えなかった。その潤んだ目でマティアスをじっと見据え答える。
「いいえ、マティアス様。私はもう前だけを見てこれまでと違う人生を歩みたいのです。そしていつか私だけを見てくれる人を見つけます」
「俺は……君を愛する」
なんとか言葉を振り絞って気持ちを伝えようとするが、彼女の決意は固い。
「もう貴方を信じることができないのです。貴方も私を信じてくれなかったでしょう?」
「っ……!」
カタリーナの言葉に何も返せなかった。その通りだからだ。
マティアスはカタリーナを信じなかった。そのことが自分が思っていた以上に彼女の心に深い傷を残していたのだ。
「これからは友人として貴方を応援していますわ。それではマティアス様、ご機嫌よう」
「カタリーナ……」
穏やかな笑顔でそう告げる彼女にそれ以上何も言えなかった。
マティアスは自分の前から去っていくカタリーナの背中をじっと見つめるしかなかった。
幼い頃の彼女との思い出が走馬灯のように蘇る。
もうこれからマティアスとカタリーナの人生が交わることは決してない。二度と彼女のことを取り戻せない。
そしてマティアスは彼女とともにある筈だった未来を自ら捨ててしまったことを、これから長い間激しく後悔し続けることになるのだった。
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