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第4章

50.妄執の果て

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「ジーク様……!」

 ジークハルトは虫の息だ。すぐに手当てをしなくては。
 だが目の前にはまだナイフを握りしめたディアナがいる。

「アグネス様、ジーク様をお願いします。」

 アグネスは大きく頷き震えながらジークハルトの傍へ座り込む。それを見届けてから立ち上がりつかつかとディアナの前へ進む。

「何よっ! なんなのよっ! 貴女のせいでジーク様がっ!」

 先ほどまで冷然としていたディアナの表情に激しい憤怒の色が顕れる。フローラは再び動かそうとする彼女のナイフの刃を左手で掴み、右手を大きく振り上げディアナの左頬に振り下ろす。

――パアァンッ!

 フローラがディアナの左頬を渾身の力を込めて引っ叩いたのだ。
 一瞬何が起こったのか分からないような驚愕の表情でフローラを見たあと、ディアナははっと我に返り怒りを顕わにナイフを離し、フローラの頬を叩こうとその右手を振り降ろす。
 だがフローラは左手でナイフの刃をしっかりと握ったまま、ディアナの右手を左手の甲で防ぎ、再び右手を大きく振り上げてまた彼女の頬に振り下ろす。

――パアァンッ!

 2発目がディアナの左頬に入った。ディアナはその目に涙を浮かべながら赤く腫れた左の頬を両手で押さえてキッとフローラを睨みつける。

「何よっ! 汚らしい手で触らないでっ!」

「貴女の手よりよほど綺麗ですわ、ディアナ様。……これが貴女のやり方ですか?」

 フローラの左手からはだらだらと血が流れている。その手は未だナイフの刃を握ったままだ。それからディアナを睥睨したまま話を続ける。

「貴女は愛する人を痛めつけ、苦しめ、悲しませてその心を傷つけるのですか? わたくしは貴女のその気持ちを愛とは認めません。そして貴女を心から軽蔑いたしますわ。」

「私は……誰よりも……ジーク様を愛しているもの……。」

「……貴女のは愛とは呼びません。ただの醜いまでに歪んだ執着です。本当に愛しているならジーク様がこうして傷ついて倒れることなどなかったはずです!」

「そんな……私は……私は……。」

 ディアナが膝から崩れ落ちるようにへたりと座り込んでしまう。フローラはその様を見下ろす。その時だった。

「フローラっ!」「フローラ様っ!」

 屋敷のほうからレオとホルストが走ってくる。

「君っ、何を握ってるんだ! 離しなさい!」

 フローラの左手は未だ堅くナイフを握りしめ、その手は震えている。レオはフローラの左手のナイフを指を一本一本ほどくように外していく。

「あ……。ジーク様が……。」

 フローラははっと我に返りジークハルトに駆け寄る。アグネスが心配そうにフローラを見る。
 ジークハルトの腹部にはアグネスがハンカチをしっかり当てていた。だがそのハンカチはジークハルトの血で真っ赤に染まっている。
 フローラはアグネスに代わりそのハンカチで患部を押さえる。まだ出血が酷い。自分の掌にべったりと付着した血がジークハルトのものなのか自分のものなのかももはやわからない。

 すでにディアナはホルストによって取り押さえられ、レオが周囲を警戒している。

「レオン殿下、騎士団が間もなく到着するはずです。」

 ホルストがレオに報告する。レオが頷きジークハルトの傍へ座る。そしてフローラの手をジークハルトの腹部からそっと退かし、彼の傷の様子を見る。フローラは息を呑んでその様子を見守る。

「フローラ、彼は鍛えているしもうすぐ騎士団も来る。大丈夫だ、死にやしないさ。君も左手の傷が酷い。すぐに手当てをしないと。アグネス嬢、この屋敷の使用人は信用できるか?」

 アグネスはレオの言葉を聞いて首を左右に振る。

「うちの使用人の一部は姉の共犯者です。それ以外の使用人も姉の犯罪に気づいていながら看過していたので信用できるとは言えません。」

「そうか……。ならば騎士団の到着を待つしかあるまい。君は怪我はないか?」

「はい、私は大丈夫です、殿下。お心遣いありがとう存じます。」

 アグネスは淑女の礼を取り、再びジークハルトとフローラを痛ましそうに見る。
 フローラは自分の左手を握りしめ、ジークハルトを見つめながら彼の無事を必死で祈っていた。

(神様、お願いします! どうか連れて行かないでください……!)

 それから5分もしないうちに騎士団が到着した。ジークハルトの応急処置が進む。それを見守りながらはっと思いついたようにレオに告げる。

「レオン殿下、ありがとうございました。殿下に来ていただけなければジークハルト様もアグネス様もわたくしも危なかったと存じます。」

 そう言って頭を下げるとレオがフローラに答える。

「いや、俺は間に合わなかった。君たちを助けたのはジークハルトだ。この屋敷に到着したのは同時だったが、二手に別れて君を探していたんだ。俺は屋敷を見ていたんだがディアナの姿もないからすごく焦ったよ。でも君が無事でよかった……。」

 レオが眉尻を下げて安堵の表情を浮かべる。かなり心配をかけてしまったらしい。申し訳ないことをしてしまった。
 そして申し訳ないと言えば……。フローラは思いっきり頭を下げる。

「ホルスト、ごめんなさい。わたくしが勝手なことをして貴方を振り回してしまいました。」

「いえ、あのような脅迫状が来ていたら私もそうしていたと思います。私は城へ寄って騎士団に通報してからここへ来たのですが、もっと早くに来ていたら旦那様が傷つかずに済んだのではと思うと悔やまれます……。」

 アグネスがレオに話しかける。

「殿下、深夜くらいにこの屋敷へ余所の町の娼館関係者が来ます。姉が呼んだのです。目的はフローラ嬢を連れ去ることです。ですからその者たちも捕まえてください。そして私も姉に協力していましたので城へ参ります。」

 アグネスがそう言ってレオに首を垂れる。彼女の言葉を聞いて、今言わないと彼女にはもう会えない気がすると思った。

「アグネス様、助けてくださってありがとうございました。」

 フローラはアグネスに頭を下げる。
 彼女は少し驚いた顔をしていたが泣き笑いのような顔で頭を下げた。
 彼女はどうなってしまうのだろうか。きっとお咎めなしというわけにもいかないのだろう。

 ジークハルトに付き添うため彼と同じ馬車へ乗り込む。
 そして目の前の彼の様子を見る。意識を失っていて呼吸が荒い。フローラは彼の手に指を絡めて話しかける。

「心配かけてごめんなさい、ジーク様。今からはわたくしがずっとお傍にいますからね。出ていけと言われるまで貴方の傍から離れませんから。」

 フローラがそう言うと少しだけ強く握り返された気がした。病院までの道程が遠く感じる。まだ到着しないのだろうか。苦しそうな彼を見ているのがつらい。

 ディアナはあの後呆然としていた。魂が抜けているのではないかと思うくらいだった。
 アグネスが言っていたが犯罪というのは、フローラに関することだけでなくてディアナは何か他にも悪いことをしていたのだろうか。



 病院に到着して医師に外科処置をしてもらう間、フローラは落ち着かない気分のまま処置室の外の長椅子に座り両手を組んで祈っていた。

「貴女もこちらへ来てください。」

 看護師に呼ばれて処置室へ入るとジークハルトが寝台に横になっていた。

「ジーク様……。」

「ほら、貴女も診せて。」

 医師にそう言われ左手を取られる。

「これは酷いな……。縫わないとだめだ。傷跡は残るかもしれない。刃物の刃を握っては駄目だよ。」

 そんなことは分かっている。……そう言われてみれば怪我をしていたのだった。ジークハルトのことで頭がいっぱいで完全に忘れていた。なんだか思い出したらじんじんと傷が痛みだした。……うう、すごく痛い。

 フローラとジークハルトは麻酔をされて傷を縫われ、彼のほうはそのまま入院となった。
 病室に運ばれたあとジークハルトの意識が回復する。

「ジーク様っ!」

「ああ、フローラ。無事でよかった……。そしてまたそう呼んでくれて嬉しい……。君を傷つけてすまなかった。」

 ジークハルトはフローラの頬に片手を添え、弱々しくも優しい眼差しでフローラを見つめ安堵の溜息を漏らす。

「ジーク様、傷に響きますからあまりお話しないほうが……。」

「いや、話させてくれ……。今まで君に取ってきた態度や言動のこと、本当にすまなかった。だがまずはこれを伝えたい。婚約の前に交わした契約は君さえよければもう無効にしたい。次に、俺には誓って君以外につきあっている女性はいない。最後に、俺は君だけを愛している。これからもずっと。」

 ジークハルトはそう言って、横になったままフローラの腕を引き寄せその体を優しく包んだ。フローラは今まで空虚だった心が再び満たされていくのを感じた。久々に幸せな気持ちに包まれた。

 それからクラッセン侯爵家が関わったダウム貿易商会の反逆のこと、ディアナのこと、すれ違ってからのジークハルトの気持ちなどを教えてもらった。そうして深夜までずっと二人で話した。
 あまりに長く話すものだから看護師に「躰に障りますよ!」と怒られてしまい、なんとなく可笑しくなって2人で顔を見合わせてくすくすと笑った。



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