50 / 60
第4章
50.妄執の果て
しおりを挟む「ジーク様……!」
ジークハルトは虫の息だ。すぐに手当てをしなくては。
だが目の前にはまだナイフを握りしめたディアナがいる。
「アグネス様、ジーク様をお願いします。」
アグネスは大きく頷き震えながらジークハルトの傍へ座り込む。それを見届けてから立ち上がりつかつかとディアナの前へ進む。
「何よっ! なんなのよっ! 貴女のせいでジーク様がっ!」
先ほどまで冷然としていたディアナの表情に激しい憤怒の色が顕れる。フローラは再び動かそうとする彼女のナイフの刃を左手で掴み、右手を大きく振り上げディアナの左頬に振り下ろす。
――パアァンッ!
フローラがディアナの左頬を渾身の力を込めて引っ叩いたのだ。
一瞬何が起こったのか分からないような驚愕の表情でフローラを見たあと、ディアナははっと我に返り怒りを顕わにナイフを離し、フローラの頬を叩こうとその右手を振り降ろす。
だがフローラは左手でナイフの刃をしっかりと握ったまま、ディアナの右手を左手の甲で防ぎ、再び右手を大きく振り上げてまた彼女の頬に振り下ろす。
――パアァンッ!
2発目がディアナの左頬に入った。ディアナはその目に涙を浮かべながら赤く腫れた左の頬を両手で押さえてキッとフローラを睨みつける。
「何よっ! 汚らしい手で触らないでっ!」
「貴女の手よりよほど綺麗ですわ、ディアナ様。……これが貴女のやり方ですか?」
フローラの左手からはだらだらと血が流れている。その手は未だナイフの刃を握ったままだ。それからディアナを睥睨したまま話を続ける。
「貴女は愛する人を痛めつけ、苦しめ、悲しませてその心を傷つけるのですか? わたくしは貴女のその気持ちを愛とは認めません。そして貴女を心から軽蔑いたしますわ。」
「私は……誰よりも……ジーク様を愛しているもの……。」
「……貴女のは愛とは呼びません。ただの醜いまでに歪んだ執着です。本当に愛しているならジーク様がこうして傷ついて倒れることなどなかったはずです!」
「そんな……私は……私は……。」
ディアナが膝から崩れ落ちるようにへたりと座り込んでしまう。フローラはその様を見下ろす。その時だった。
「フローラっ!」「フローラ様っ!」
屋敷のほうからレオとホルストが走ってくる。
「君っ、何を握ってるんだ! 離しなさい!」
フローラの左手は未だ堅くナイフを握りしめ、その手は震えている。レオはフローラの左手のナイフを指を一本一本解くように外していく。
「あ……。ジーク様が……。」
フローラははっと我に返りジークハルトに駆け寄る。アグネスが心配そうにフローラを見る。
ジークハルトの腹部にはアグネスがハンカチをしっかり当てていた。だがそのハンカチはジークハルトの血で真っ赤に染まっている。
フローラはアグネスに代わりそのハンカチで患部を押さえる。まだ出血が酷い。自分の掌にべったりと付着した血がジークハルトのものなのか自分のものなのかももはやわからない。
すでにディアナはホルストによって取り押さえられ、レオが周囲を警戒している。
「レオン殿下、騎士団が間もなく到着するはずです。」
ホルストがレオに報告する。レオが頷きジークハルトの傍へ座る。そしてフローラの手をジークハルトの腹部からそっと退かし、彼の傷の様子を見る。フローラは息を呑んでその様子を見守る。
「フローラ、彼は鍛えているしもうすぐ騎士団も来る。大丈夫だ、死にやしないさ。君も左手の傷が酷い。すぐに手当てをしないと。アグネス嬢、この屋敷の使用人は信用できるか?」
アグネスはレオの言葉を聞いて首を左右に振る。
「うちの使用人の一部は姉の共犯者です。それ以外の使用人も姉の犯罪に気づいていながら看過していたので信用できるとは言えません。」
「そうか……。ならば騎士団の到着を待つしかあるまい。君は怪我はないか?」
「はい、私は大丈夫です、殿下。お心遣いありがとう存じます。」
アグネスは淑女の礼を取り、再びジークハルトとフローラを痛ましそうに見る。
フローラは自分の左手を握りしめ、ジークハルトを見つめながら彼の無事を必死で祈っていた。
(神様、お願いします! どうか連れて行かないでください……!)
それから5分もしないうちに騎士団が到着した。ジークハルトの応急処置が進む。それを見守りながらはっと思いついたようにレオに告げる。
「レオン殿下、ありがとうございました。殿下に来ていただけなければジークハルト様もアグネス様もわたくしも危なかったと存じます。」
そう言って頭を下げるとレオがフローラに答える。
「いや、俺は間に合わなかった。君たちを助けたのはジークハルトだ。この屋敷に到着したのは同時だったが、二手に別れて君を探していたんだ。俺は屋敷を見ていたんだがディアナの姿もないからすごく焦ったよ。でも君が無事でよかった……。」
レオが眉尻を下げて安堵の表情を浮かべる。かなり心配をかけてしまったらしい。申し訳ないことをしてしまった。
そして申し訳ないと言えば……。フローラは思いっきり頭を下げる。
「ホルスト、ごめんなさい。わたくしが勝手なことをして貴方を振り回してしまいました。」
「いえ、あのような脅迫状が来ていたら私もそうしていたと思います。私は城へ寄って騎士団に通報してからここへ来たのですが、もっと早くに来ていたら旦那様が傷つかずに済んだのではと思うと悔やまれます……。」
アグネスがレオに話しかける。
「殿下、深夜くらいにこの屋敷へ余所の町の娼館関係者が来ます。姉が呼んだのです。目的はフローラ嬢を連れ去ることです。ですからその者たちも捕まえてください。そして私も姉に協力していましたので城へ参ります。」
アグネスがそう言ってレオに首を垂れる。彼女の言葉を聞いて、今言わないと彼女にはもう会えない気がすると思った。
「アグネス様、助けてくださってありがとうございました。」
フローラはアグネスに頭を下げる。
彼女は少し驚いた顔をしていたが泣き笑いのような顔で頭を下げた。
彼女はどうなってしまうのだろうか。きっとお咎めなしというわけにもいかないのだろう。
ジークハルトに付き添うため彼と同じ馬車へ乗り込む。
そして目の前の彼の様子を見る。意識を失っていて呼吸が荒い。フローラは彼の手に指を絡めて話しかける。
「心配かけてごめんなさい、ジーク様。今からはわたくしがずっとお傍にいますからね。出ていけと言われるまで貴方の傍から離れませんから。」
フローラがそう言うと少しだけ強く握り返された気がした。病院までの道程が遠く感じる。まだ到着しないのだろうか。苦しそうな彼を見ているのがつらい。
ディアナはあの後呆然としていた。魂が抜けているのではないかと思うくらいだった。
アグネスが言っていたが犯罪というのは、フローラに関することだけでなくてディアナは何か他にも悪いことをしていたのだろうか。
病院に到着して医師に外科処置をしてもらう間、フローラは落ち着かない気分のまま処置室の外の長椅子に座り両手を組んで祈っていた。
「貴女もこちらへ来てください。」
看護師に呼ばれて処置室へ入るとジークハルトが寝台に横になっていた。
「ジーク様……。」
「ほら、貴女も診せて。」
医師にそう言われ左手を取られる。
「これは酷いな……。縫わないとだめだ。傷跡は残るかもしれない。刃物の刃を握っては駄目だよ。」
そんなことは分かっている。……そう言われてみれば怪我をしていたのだった。ジークハルトのことで頭がいっぱいで完全に忘れていた。なんだか思い出したらじんじんと傷が痛みだした。……うう、すごく痛い。
フローラとジークハルトは麻酔をされて傷を縫われ、彼のほうはそのまま入院となった。
病室に運ばれたあとジークハルトの意識が回復する。
「ジーク様っ!」
「ああ、フローラ。無事でよかった……。そしてまたそう呼んでくれて嬉しい……。君を傷つけてすまなかった。」
ジークハルトはフローラの頬に片手を添え、弱々しくも優しい眼差しでフローラを見つめ安堵の溜息を漏らす。
「ジーク様、傷に響きますからあまりお話しないほうが……。」
「いや、話させてくれ……。今まで君に取ってきた態度や言動のこと、本当にすまなかった。だがまずはこれを伝えたい。婚約の前に交わした契約は君さえよければもう無効にしたい。次に、俺には誓って君以外につきあっている女性はいない。最後に、俺は君だけを愛している。これからもずっと。」
ジークハルトはそう言って、横になったままフローラの腕を引き寄せその体を優しく包んだ。フローラは今まで空虚だった心が再び満たされていくのを感じた。久々に幸せな気持ちに包まれた。
それからクラッセン侯爵家が関わったダウム貿易商会の反逆のこと、ディアナのこと、すれ違ってからのジークハルトの気持ちなどを教えてもらった。そうして深夜までずっと二人で話した。
あまりに長く話すものだから看護師に「躰に障りますよ!」と怒られてしまい、なんとなく可笑しくなって2人で顔を見合わせてくすくすと笑った。
0
お気に入りに追加
415
あなたにおすすめの小説
命を狙われたお飾り妃の最後の願い
幌あきら
恋愛
【異世界恋愛・ざまぁ系・ハピエン】
重要な式典の真っ最中、いきなりシャンデリアが落ちた――。狙われたのは王妃イベリナ。
イベリナ妃の命を狙ったのは、国王の愛人ジャスミンだった。
短め連載・完結まで予約済みです。設定ゆるいです。
『ベビ待ち』の女性の心情がでてきます。『逆マタハラ』などの表現もあります。苦手な方はお控えください、すみません。
愛すべきマリア
志波 連
恋愛
幼い頃に婚約し、定期的な交流は続けていたものの、互いにこの結婚の意味をよく理解していたため、つかず離れずの穏やかな関係を築いていた。
学園を卒業し、第一王子妃教育も終えたマリアが留学から戻った兄と一緒に参加した夜会で、令嬢たちに囲まれた。
家柄も美貌も優秀さも全て揃っているマリアに嫉妬したレイラに指示された女たちは、彼女に嫌味の礫を投げつける。
早めに帰ろうという兄が呼んでいると知らせを受けたマリアが発見されたのは、王族の居住区に近い階段の下だった。
頭から血を流し、意識を失っている状態のマリアはすぐさま医務室に運ばれるが、意識が戻ることは無かった。
その日から十日、やっと目を覚ましたマリアは精神年齢が大幅に退行し、言葉遣いも仕草も全て三歳児と同レベルになっていたのだ。
体は16歳で心は3歳となってしまったマリアのためにと、兄が婚約の辞退を申し出た。
しかし、初めから結婚に重きを置いていなかった皇太子が「面倒だからこのまま結婚する」と言いだし、予定通りマリアは婚姻式に臨むことになった。
他サイトでも掲載しています。
表紙は写真ACより転載しました。
【完結】可愛くない、私ですので。
たまこ
恋愛
華やかな装いを苦手としているアニエスは、周りから陰口を叩かれようと着飾ることはしなかった。地味なアニエスを疎ましく思っている様子の婚約者リシャールの隣には、アニエスではない別の女性が立つようになっていて……。
王子殿下の慕う人
夕香里
恋愛
エレーナ・ルイスは小さい頃から兄のように慕っていた王子殿下が好きだった。
しかし、ある噂と事実を聞いたことで恋心を捨てることにしたエレーナは、断ってきていた他の人との縁談を受けることにするのだが──?
「どうして!? 殿下には好きな人がいるはずなのに!!」
好きな人がいるはずの殿下が距離を縮めてくることに戸惑う彼女と、我慢をやめた王子のお話。
※小説家になろうでも投稿してます
夫の色のドレスを着るのをやめた結果、夫が我慢をやめてしまいました
氷雨そら
恋愛
夫の色のドレスは私には似合わない。
ある夜会、夫と一緒にいたのは夫の愛人だという噂が流れている令嬢だった。彼女は夫の瞳の色のドレスを私とは違い完璧に着こなしていた。噂が事実なのだと確信した私は、もう夫の色のドレスは着ないことに決めた。
小説家になろう様にも掲載中です
【完結】愛くるしい彼女。
たまこ
恋愛
侯爵令嬢のキャロラインは、所謂悪役令嬢のような容姿と性格で、人から敬遠されてばかり。唯一心を許していた幼馴染のロビンとの婚約話が持ち上がり、大喜びしたのも束の間「この話は無かったことに。」とバッサリ断られてしまう。失意の中、第二王子にアプローチを受けるが、何故かいつもロビンが現れて•••。
2023.3.15
HOTランキング35位/24hランキング63位
ありがとうございました!
転生先は推しの婚約者のご令嬢でした
真咲
恋愛
馬に蹴られた私エイミー・シュタットフェルトは前世の記憶を取り戻し、大好きな乙女ゲームの最推し第二王子のリチャード様の婚約者に転生したことに気が付いた。
ライバルキャラではあるけれど悪役令嬢ではない。
ざまぁもないし、行きつく先は円満な婚約解消。
推しが尊い。だからこそ幸せになってほしい。
ヒロインと恋をして幸せになるならその時は身を引く覚悟はできている。
けれども婚約解消のその時までは、推しの隣にいる事をどうか許してほしいのです。
※「小説家になろう」にも掲載中です
【完結】昨日までの愛は虚像でした
鬼ヶ咲あちたん
恋愛
公爵令息レアンドロに体を暴かれてしまった侯爵令嬢ファティマは、純潔でなくなったことを理由に、レアンドロの双子の兄イグナシオとの婚約を解消されてしまう。その結果、元凶のレアンドロと結婚する羽目になったが、そこで知らされた元婚約者イグナシオの真の姿に慄然とする。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる