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第4章

43.フローラの涙

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「……フローラ、私は仕事であの場にいた。あの令嬢は……プライベートだ。君に言う必要はない。契約だからだ。」

 ああ、ジークハルトの口から一番聞きたくない答えが返ってきてしまった。足元が崩れていくような感覚に襲われる。

「そう……ですね。差し出口申し訳ありませんでした。ちなみに結婚後はそのご令嬢を愛人か愛妾になさるのでしょうか? それは形式的な妻でもお聞きする権利がありますよね?」

「フローラ……結婚は……すまない、今は何も言えない。何も言えないのに勝手だがこれだけは聞いてくれ。ダウム貿易には二度と近づくな。そしてクラッセン家にもだ。頼む、約束してくれ。」

 懸命に上を向いて涙を堪える。ジークハルトに涙を見せたくはない。

ジークハルト・・・・・・様、わたくしたちはお互いの行動に干渉しないという契約でしたよね。それならばご迷惑をおかけしない限り、わたくしが何をしようとジークハルト様には関係ないはずです。わたくしのことはご心配なさらないでください……。」

 そう言って踵を返しジークハルトの私室を足早に出る。後ろから自分の名を呼ぶ声が聞こえた気がするがよく分からない。
 頭ではもっと彼と話すべきだと判断するのだが、フローラの心があの場にいたくないと拒否をしてしまう。
 私室へ戻るなり戻りソファーに座り込んだ。彼は追ってこなかった……。



 翌朝朝食をとるためにダイニングへ向かうとそこにジークハルトの姿はなかった。

「ジークハルト様はいらっしゃらないのですか?」

「はい、旦那様は本日は早朝に出勤なさいました。」

 ジークハルトのことを尋ねるとオスカーがそう答えてくれた。
 彼と顔を合わせるのはつらかったし、今朝は会えなくてよかったのかもしれない。今でも彼が自分を愛していると言ってくれた言葉を信じている。だから大丈夫だと自分に言い聞かせる。



 食事を済ませ私室に戻ったあと劇団へ練習に行くことにする。何かに打ち込んでいた方が気が楽だ。芝居に集中しよう。
 外出の準備を済ませてからオスカーに伝える。

「今からお芝居の練習に向かいます。馬車をお願いします。」

「お待ちください、フローラ様。旦那様の命により本日より侍従をつけさせていただきます。」

「えっ、どうして急に……。要りません。今までだって一人で大丈夫でしたし一日フーバー邸に籠っているから平気です。」

 フローラは驚いてしまう。なぜ急にジークハルトが侍従をつけろなどと言い出すのか。

「なりません。フローラ様が聞き入れてくださらないと私が叱られます。どうかお願いします。」

 お願いされてはフローラは断れない。

「わ、分かりました。」

「では、この者が今日からフローラ様に付き添わせていただきます。」

 奥から出てきたのは侍従というよりも騎士といった感じの屈強な男性であった。帯剣もしている。年の頃は30代くらいだろうか。この人は侍従というよりも護衛……?

「ホルストと申します。よろしくお願いします。」

 ホルストは無表情のままフローラに礼をする。

「彼は不愛想ですが信頼に足る男です。何かあったら彼を頼ってください。」

「よ、よろしくお願いします。」

 オスカーに強引に侍従をつけられてしまった。とはいえ、ほとんど侯爵邸とユリアン邸の往復だ。彼には悪いがほとんど何もすることはないだろう。



 侯爵邸の馬車でユリアン邸まで送ってもらう。

「それじゃ、ホルストさん。わたしは練習しますね。」

「はい、私のことはお気になさらず好きに動いていただいて結構です。断りを入れる必要もございません。それと、私のことはホルストとお呼びください。」

「は、はい。」

 なんとなくその屈強な見た目で敬語を使ってしまう自分がいる。だって怖いんだもの……。

「あ、あの、なぜ今日から侍従につけられたか、理由を何かお聞きしてますか?」

 ホルストに恐る恐るそう尋ねると彼は淡々と答える。

「いえ、誠心誠意お仕えするようにとしか聞いておりません。」

「は、はあ、そうですか……。」

 着替えだけはさすがに一人で済ませたが、スタジオで練習する間も休憩するときも、ホルストは影のようにフローラに付き従っている。さぞかし退屈だろうと思う。

 午後3時ごろレオがユリアン邸へフローラの顔を見に訪ねてきた。

「やあ、フローラ。元気……じゃなさそうだね。」

「え、元気よ。どうして?」

 余計なことを考えないよう練習に打ち込んでいたため特に表情で悟られるようなことはないと思っていた。

「いや、なんとなく。空元気に見えたもんだから。」

「そんなことないわよ。ただお芝居に集中してただけ。」

 レオはときどき勘が鋭い。表情の機微に敏感なのかもしれない。もしかしてパーティのときのことを気にして様子を見にきてくれたのだろうか。

「フローラ、終わったらなんか奢るよ。」

「いや、でも……。」

 レオの誘いは嬉しいが自分はジークハルトの婚約者だ。さすがに彼と二人で食事するのはまずいだろう。

「あ、大丈夫だよ。侍従の彼も一緒に来ればいい。3人ならいいだろう? この間仕事を手伝ってくれたお礼だと思って。気晴らしにもなるし、行こう。」

 確かにこのまま鬱屈してたら周囲に気を使わせてしまう。ここらでぱあっと気晴らしするのもいいかもしれない。それにホルストがいれば外聞も悪くならないだろう。

「それじゃ、行こうかな……。」

「よし、決まりだね!」



 夕方6時ごろ練習が終わってからレオとホルストとともに夕食を食べに町へ出る。
 ホルストが困り果てた声で訴える。

「私はレストランの外で待っておりますので。」

「そんなこと言わないで。一緒に行きましょう?」

「そうそう。君がいないとフローラが一緒に食事してくれないからね。」

 そう言って遠慮するホルストをレオと一緒になって強引に連れていく。
 そうだ。自動人形オートマタに拉致されたときに食べ損ねた牛タンシチューを今日こそ食べたいな。『シャーフ・ドゥーズン羊の居眠り』へ行ってもいいかレオに聞いてみよう。
 そう考えながら街の広場を歩いていると、10メートルほど先のベンチの傍に見慣れた人物が立っているのに気づく。どんなに人で溢れかえっていても彼のことだけは見つけ出してしまう。

(ジークハルト様……。)

 よく見るとこちらに背中を向けたジークハルトの向こう側にプラチナブロンドの髪の女性が寄り添っているのが見える。どこから見ても仲の良い恋人同士だ。彼女は彼の胸にしなだれかかり、うっとりと彼を見上げている。
 彼が彼女に対して一体どんな表情をしているのか気になってしまって無意識にその表情を見ようと近づくと突然彼がこちらを振り返った。瞬間目と目が合う。

「っ……!」

「ジーク様、他のひとなんて見ないで?」

 一瞬のことだった。女性はそう言ったあとジークハルトの頬を両手で挟み、彼の唇に自分のそれを寄せた。
 目の前の光景を受け入れられず思わず目を逸らしてしまう。嫌だ! 嫌だ! 見たくない!
 女性の顔をはっきりとは見なかったが恐らくアグネスだろう。そして二人の声だけが聴こえてくる。

「ジーク様、わたくしのこと愛してる?」

「……。」

「ねえ、ちゃんと言葉に出して。」

「……愛している。」

「嬉しい。わたくしも愛してるわ……。」

 その会話のあとジークハルトの方へもう一度振り向く。彼に気を使わせないよう笑顔を浮かべて軽く一礼する。ちゃんと笑えているだろうか。彼が誰と一緒にいようとお互いのプライベートには干渉しないという約束だ。
 彼はそんな自分を泣きそうな表情で見ているような気がした。なぜそんな顔をするのだろう。それが不思議だった。

「あいつっ!」

 レオが険しい表情を浮かべてジークハルトの方へ足を踏み出そうとする。それを慌てて制止したあと2人に気を使わせないよう軽く会釈のみをしレオの腕を引っ張ってその場を足早に離れる。
 視界の左側からハンカチが差し出される。一心に歩いていたフローラがはっと我に返ると、傍にいたレオがそれを無言でそっと差し出してくれていた。なぜハンカチを……。

「えっ……?」

 フローラの頬には自分でも気づかないうちに涙が伝っていた。ジークハルトには笑って会釈をしたつもりだった。
 涙を見られてしまってはいないだろうか。自分の涙を見たから彼は憐れんであんな表情を浮かべたのだろうか。

「ありがとう……ごめんなさい、レオ。」

 レオのハンカチを受け取り顔を隠す。
 彼の優しさが身に沁みて、次々に涙が溢れてくる。なるべく早く2人から離れなければ。そう思って雑踏の中をさらに足早に歩く。そしてある程度距離が離れたところで涙腺が決壊する。

「うっ、ううっ……。」

「フローラ……。少しだけごめんね。」

 レオが人目から隠すようにフローラの肩を抱き寄せる。フローラは安心して声を殺しつつ、ほんの少しだけレオの胸を借りて涙を流した。



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