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第2章
21.謎の男
しおりを挟む扉を開けて現れたのは、全身を高価そうなドレスとアクセサリーで装った30代ほどの貴婦人だ。フローラはその女性を見て商会のかなり重要なポストにいる女性だと感じた。
彼女は振り返ったこちらをじっと見ながら口を開く。
「ゲルダ様、お久しぶりでございます。お姿が見えなくなって皆心配しておりましたのよ。」
どうやら彼女もゲルダと面識があるようである。だが偽物だとはばれていないようだ。
彼女のことをなんて呼ぼう、などと考えながら答えた。
「そう。でもお父様もあんなことになって、わたくし怖くなって隠れていましたの……。帝国へも行けませんでしたし……。」
「左様でございましたか。こちらの手筈が不十分でご不便をおかけしましたわ。」
なんと……! この婦人はゲルダが帝国に逃げようとしていたことを知っている。そして、逃亡の準備をしたと言っている。帝国の関係者がまだ残っていたのね。
「いいのよ。そんなことよりわたくしを安全な所に匿っていただけないかしら。貴女達には随分おいしい思いをさせてあげたと思うのだけれど?」
はったりを含めつつ鎌をかけた。ずれたことを言ってもあとでフォローすれば何とかなるわ!
すると彼女はじっと考え込んでこちらを再び見ると、大きく頷いて笑みを浮かべながら平然と答えた。
「ええ、ええ。もちろんですとも。伯爵様とゲルダ様には返しきれないほどの御恩がございます。表に馬車を待たせてございます。今から安全な所にお連れ致しますわ。」
そう言って彼女はフローラを立たせ、馬車のところまで案内した。それについていったあと一度馬車の前でゆっくりとしゃがみ込む。
「ごめんなさい、靴の踵が抜けてしまいましたの。」
そう言ってまたゆっくりと立ち上がり、促されるまま彼女とともに馬車に乗った。そして馬車は走り始めた。
馬車の窓の内側は布が打ち付けられており、中から外が見えないようになっていた。その代わり天井に明り取りの窓がある変わった馬車だ。明らかに不自然な車内の様子に恐怖心が煽られる。
「どこで見られるか分かりませんから、用心いたしませんとね。」
婦人はフローラにそう言って、扇子で口を隠しながら口の端を片方上げる。
そんな彼女の表情を見てさらに恐怖を覚えるが、そんな気持ちを表情に出さないように平然と「そうね。」と答えた。
馬車が走り始めて30分ほど経った頃だろうか。停車してから間もなくして扉が開いた。そこまでの馬車の動きが何度も右に左に曲がっていたので、わざと迂回していたのかもしれないと感じた。だから街からどのくらい離れているか分からない。
「お待たせしました。ここですわ。」
そう言って婦人が先に馬車を降り、フローラの手を取って降ろしてくれる。
促されるまま馬車を降りて周辺の様子を見る。王都の周りに30分程で到着できるような町はなかったはずだ。この辺の町並みは高くても2階建てほどの民家が立ち並んでいるものだった。
(随分時間が経った気がする。今は夕方の4時くらいかしら。……ここはそんなに郊外という感じでもないわ。たぶん王都内の中層家庭の住民街といった感じね。こんな所に隠れていたら確かに分からないわ。)
馬車を降りたあと再びゆっくりとしゃがみ込み、靴を直す。
「少し待ってくださる? また靴が脱げてしまったわ……。足が痩せてしまったのかしら……。不安であまり食欲がなかったものだから。」
そう言ってゆっくりと立ち上がった。そのあと婦人はフローラの後ろについて急かすように前方へと促す。
「そちらの階段を上ってくださいな。」
案内された建物は石壁の2階建ての建物だった。まるで逃げ道を塞ぐように彼女がフローラの後ろについてくる。
2階に上がって一番奥の部屋の前まで歩いたあと、彼女はコンコンとノックしたし、「あたしよ。」と言って扉を開ける。ショールを被った顔をより俯かせながら視線だけを部屋にいた目の前の人物に向ける。
「おお、ゲルダ様。貴女が心配で探していたのですよ。」
目の前の男はそう言ってゆっくりと椅子から立ち上がり、両手を広げながら冷たい笑顔を浮かべてこちらへ近づいてきた。
彼は中肉中背で身長はジークハルトより少し低い、180センチくらいだろうか。30才くらいで薄い茶色の長い髪を後ろで括り、怜悧な光を湛えた鋭い目は闇のように黒い。そして全体的に大変整った顔立ちだ。だがその表情からは何の感情も読み取れず、まるでその様子は人形のようだった。
彼の言葉を聞いてすぐに気がついた。言葉尻にヴァレン訛りがある。演技の勉強の一環で様々な国や地方の訛りを研究していたので、彼の言葉尻にヴァレン帝国の訛りのイントネーションを窺うことができた。
さらに近づくヴァレン訛りの男にばれるかもしれないと不安を感じ焦る。何しろ諜報活動をするような人物だ。自分の変装などすぐ見破られるかもしれない。
彼との距離とともに死が近づいてくるような恐怖に怯える。しかしなんとかそれを表情に出さないよう耐えきって平然と答えた。
「本当に? 貴方を頼ってもいいのかしら?」
彼は一瞬歩みを止め、じっとこちらを窺うように見る。
「……ええ、もちろんです。それにしてもゲルダ様、少しお痩せになりましたか?」
「ええ。不安で夜も眠れなかったからかしら……。」
「……そうでしたか。それは申し訳ありませんでした。再び貴女を帝国にお連れする手配を整えましょう。それまでしばらくは、こちらにご滞在いただけますか?」
そう言って彼はフローラを部屋にあったソファーに座らせた。
◆◆◆ <ダニエル視点>
フローラのオイゲン商会突撃の日の朝のことだった。
ダニエルはその日ユリアン邸でゆっくりと寛いでいた。
今季の公演も終わった。2~3日休んでから次の芝居の練習でもするか。
劇団で使っている屋敷はユリアンの所有である。彼が貴族なのかそうでないのか誰も知らない。
練習があるなしに関わらず彼の屋敷には常に劇団員が入り浸っていた。
「貴方ねえ、練習もしないのにうちでだらだらしないでくれる? 暇なら屋敷の掃除でもしてちょうだい。」
ユリアンが俺の傍に近寄ってきてぼやき始める。いつものことだ。
「まあ、そう言うなって、ユリアン。俺はまだバラキミの余韻に浸っていたいんだ。……そういや、イザベラはなかなかの有望株だな。先が楽しみだ。あれから顔を見てないが。」
「ええ、イザベラには私も期待しているのよ。あのまま頑張れば勉強熱心だしいい女優になるわ。それと、彼女はちょっと事情があってしばらくこれないのよ。ご家族がひどい怪我をして看病しないといけないんですって。」
「そうだったのか。早くよくなるといいな。」
神妙な顔をしてそんなことを言ったときだった。誰かが屋敷に来たようだ。
「あら、誰かしら。」
暇だったのでそのままユリアンについてエントランスに向かう。扉を開くと、そこにいたのは今まさに噂をしていたイザベラだった。
挨拶もそこそこに彼女は真剣な眼差しで俺たちに向かって言った。
「どなたか一人お手伝いしていただけませんか?」
真剣な彼女の表情を見てただならぬ事情があるのだろうと察する。そんな彼女を窺うようにユリアンが口を開いた。
「一体どうしたの? イザベラ。」
「はい、今日はお願いがあってきました。実は……。」
そんなわけで俺は今オイゲン商会から少し離れた建物の陰にいる。ユリアン邸の馬車を借り、さも調子を見ているといった風に車輪の傍に屈みこみイザベラの様子を見守った。
彼女がオイゲン商会の建物に入っていく。
まったくあいつはなんて危ないことしやがる。オイゲン商会といったら今きな臭い噂で持ち切りだ。上層部が軒並み騎士団に逮捕されたとか。
オイゲン商会の中に入っていった彼女を追っていって止めたい気持ちを抑えつつ、こっそり商会の出入り口を窺っていた。
それから30分ほど経った頃だろうか。中から派手な女と一緒にイザベラが出てきた。
彼女がゆっくり身を屈める。イザベラを尾行しろという合図だ。そのまま彼女は派手な女と一緒に馬車に乗り込んだ。
急いで乗ってきた馬車の御者席に座る。彼女の乗った馬車が走り始めた。怪しまれないように少し距離を開けてその馬車を尾行する。
馬車は不規則に道を曲がりながら走っている。なんだ、あの不自然な動きは。あれじゃいかにも目的地を知られたくないといった感じだ。俺はさらに慎重に尾行を続けた。
それから30分程走った所で馬車は止まった。それに合わせてこちらの馬車もまた尾行対象の目につかないように建物の陰に停車する。ここはメッフェルト通じゃないか。中心街から大体15分くらいの場所だ。
尾行対象の馬車の中からさっきの派手な女が降りてきて、その後導かれるようにイザベラが出てきた。彼女が再びゆっくりと屈む。騎士団に通報しろという合図だ。ということは派手な女は完全に真っ黒ということじゃないか。
イザベラのことが心配で仕方なかった。騎士団に通報するくらいだ。今彼女が入っていった建物にいるのは相当やばい奴じゃないのか。その場を後にするのが躊躇われたが通報が遅れてもまずいだろうと考え、後ろ髪を引かれながらも急いで王城に向かった。
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