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Ⅷ 夢浮橋 ユメノウキハシ
しおりを挟む日もようやく落ちてきて、門司の街にはぽつぽつと明かりが灯り始めた。普段に比べて、家の外ががやがやと騒々しいのが分かる。
今日は大変ながら、濃い一日だった。タキリヒメが暴れる馬を捕まえたことで会社と馬主の男との関係が改善されたのだから、彼女へひたすら感謝だ。――まあ、色々と口を滑らせることが多々あったが……。
一度シャワーを浴びて汗を流すと、佐一郎に促されるままに袖を通す。
「おお、良う似合っとるな!」
「そ、そうですかね?」
鏡で見る自分の浴衣姿は、少しだけ照れくさかった。落ち着いた深めの紺に、はっきりと強調された千鳥模様。鏡の前で佐一郎にがしがし弄られた頭髪は、毛先で遊びつつもすっきりと纏められている。
普段髪を整えない僕にとって少し、「大人」になった感じさえした。
「凪、お前、暁んこと好いとるやろ」
「な、ななな何を!」
さらっと投げかけられた問いに分かりやすく戸惑った僕を見て、佐一郎は豪快に笑った。
「隠さんでもよか。暁が同世代の子に懐くのは初めてでな。俺も嬉しかばい」
「そう、ですか」
ちりちりとした焦燥が、胸に焼き付いた。佐一郎が見ているのは、紛れもなく暁だろう。
しかし、今その体に宿っている魂は……。
「まあお前も若か。無理に、とは言わんのだが、その、暁とは、ずっと仲良うしてやってくれんか。もちろん、お前にだったら、嫁にやっても良かたい」
「よ、嫁、ですか!?」
思わず声が上ずった。それでも、佐一郎の真剣なその眼差しは、娘を、暁を本心から想ってのことであるということは、間違いなかった。
「――僕も、暁のこと、好きです。わがままで、不器用で、でも一生懸命で、危なっかしい」
佐一郎も、少し驚いたように僕を見た。それからにやりと笑って、がしっと肩を組んできた。
「なんか、門司に来た頃より、ちかっぱ男らしゅうなったじゃねえか!よし、行って来い!」
ばし、と背中をはたかれる。
玄関で待っていたのは、同じく浴衣に身を包んだ暁、もといタキリヒメだった。
すらりと細い体のラインが浮き出る透き通るような空色の生地、浴衣の中で彼女のように元気に咲く真っ赤なハイビスカス。葉の模様もところどころにあしらわれ、華やかに落ち着きながらも、彼女の天真爛漫さを押し出した印象を受けた。
「どう、かな……?」
いつもより高い位置で編み込んだ艷やかな髪とそこから覗く細い首筋。リップで自然に色づけられた瑞々しい唇、花のように開いたまつ毛に強調されるぱちりと開いた目が上目遣いにこちらを捉えると、その美しさに思わず背筋が伸びた。
「綺麗、だ。すごく」
思わず言葉がこぼれた。普段は「えへへー」なんて言って分かりやすく照れるタキリヒメが、珍しく俯き、しっとりと頬を染めていた。
心臓が爆発しそうだ。分かっている。眼の前の少女は、暁ではなくタキリヒメだ。
でも、それでも。
息を呑み、一歩。足を進める。
「行こう」
「あっ……」
少女の手を取り、街へ歩き出す。
手を引かれて不器用に足踏みする彼女の吐息が、すぐ後ろで弾んでいた。
立ち並ぶいくつもの屋台。かき氷に、たこ焼きにチョコバナナ。それらの香りが競い合うように鼻腔をくすぐった。
「わあ……いい匂い!」
緊張した面持ちのタキリヒメは、美味しそうな匂いにつられてすんすんと鼻を利かせた。
「買ってみる?」
「うん!」
屋台の兄ちゃんに上手く丸め込まれながら、多めに入ったたこ焼きを一つ買う。
ほかほかと湯気を上げるたこ焼きに目を輝かせながら、タキリヒメはそれをぱくりと頬張った。
「あつ、熱い!けど、美味しい……!」
はふはふと吐息を漏らしながらも、嬉しそうに跳ねるタキリヒメ。
暁を返してほしい。それは紛れもない本心だ。でも、いま横で美味しそうにたこ焼きを頬張ったり、かき氷の冷たさに額を押さえたり、射的の景品を落として笑っている彼女に、タキリヒメにいなくなって欲しいのか?
そんな疑念がもやもやと腹の底を渦巻いた。
「凪くん!今度はあっち行ってみよ!」
笑う少女に手を引かれ、人混みをかき分け進んでゆく。それはさながら神々の世界に誘われるが如く、たどり着いた海岸から見えるのは漆黒の海面と濃紺の空。ざわざわと後方に聞こえる雑踏が、海峡の静寂と混ざって溶けていた。
設置されたスピーカーから、大きく割れた声が響いた。始まる。
笛のように鳴り響く光跡が、刹那の沈黙を代償に轟音をもたらし、鮮やかな火炎で空を彩った。
「すごい……綺麗」
色鮮やかな花火を瞳に映しながら、タキリヒメは思わず声を漏らしていた。
「うん、綺麗だ」
タキリヒメと同じように、僕も花咲く空をただ眺める。空に弾ける断続的な光と音が、心を洗っていた。
「ねえ、凪くん」
「……なに?」
ぎゅっと手を握られる。
空を見上げたまま、隣の少女が口を開いた。
「凪くんは、私のこと、好き?」
「……」
何も言えなかった。その少女は、紛れもなく暁の身体で、暁の手で、暁の声だ。
「そう、だよね」
タキリヒメの声が響く。握られた手が、するりと抜けて解かれた。
胸が苦しい。視界に映らずとも、少女の表情が見て取れた。
「君は、私が暁ちゃんの体だから、こうやって接してくれてる。分かってるよ。分かってる」
花火の音が響いているはずなのに、涙ぐんだ少女の声が、胸に突き刺さった。
『次が最後の打ち上げです。総数三百発の花火を続けて打ち上げる、圧巻の光景をお楽しみください』
彩られた空が再び黒に染まる。アナウンス音声が、演目の終りが近いことを告げていた。
「タキリヒメ!」
名を呼び、解かれた少女の手を取った。最終演目を目前に、空を見上げる人混みをかき分けて屋台の方へ戻る。綺麗だと言って二人で見上げたこの花火に、そんな彼女の気持ちを結びつけたくなかった。
いつもそうだ。僕は行動に起こすまでが遅い。
暁に想いを伝えることも出来ず危険な目に遭わせただけの僕が、結果的に暁を助けてくれたタキリヒメに対して、何か返せることをしただろうか。
本来死んでいたはずの暁を助けてくれたのも、競馬場で暴れる馬を鎮めて馬主の男と佐一郎の会社との関係を改善したのも、紛れもなく彼女だ。
花火大会がクライマックスということもあり、屋台エリアはすっかり人がはけていた。
「おや、珍しい。見ないのかい?花火」
「はい。それよりも、今したいことを思いついて」
不思議がる店主を気に留めず、ずらりと並んだ品々を見る。
「凪くん?」
「うん、これ。これが似合いそうだ!」
本当に良いのかい?という店主に二つ返事で応え、代金を支払った。
「動かないで」
少女の首に手を回す。細く、暖かい首筋に手を触れる時、タキリヒメは微かに声を漏らした。
「これは……」
小さく輝く、紅い人工石。決して高いものではないが、僕から彼女に贈れる精一杯だ。
少女は胸元のペンダントにそっと手を当て、僕を見た。
「君は君だよ、タキリヒメ。そう、僕は暁が……好きだ。でも、いま君にこうして接するのは、
君が暁の体だからじゃないよ」
少女の瞳が、きらりと潤った。
「えへへ、嬉しい」
タキリヒメは胸元のペンダントを両手できゅっと押さえながら、目を細めて笑った。
「わたしも、凪くんに何か贈れたら良かったな。でも私、お金持ってないからさ」
その表情に反して、あはは、と乾いた笑いを浮かべるタキリヒメに、もう一度言葉をかける。
「そしたらさ、かわりに選んでよ。僕に似合いそうなもの。お金は僕が出すから!」
口元を抑え、言葉をつまらせる少女の頬が、赤く染まっていた。それが花火のせいなのか、今の言葉のせいなのかは、分からなかった。
少女は、ふふっと笑って首を横に振った。
「ううん、良いの。やっぱり、自分から何かあげたいな」
見つめる先の彼女は、緩めた口元で僕に一歩近づき、その小さな手で今度は僕の手を取った。
「来て」
少女に手を引かれ、歩き出す。空に弾ける花火に、人々の歓声が遠く聞こえる。
人混みから遠ざかり、聞こえるのは遠く弾ける花火の音だけだ。
わけも分からず少女に連れられ、海岸沿いの歩行者通路を歩いた。立ち止まった少女は、一瞬口をもごもごと動かし、こちらへ振り向いた。
「凪くん」
今度はその手を後ろに組んで、上目遣いで僕のことを覗き込む。いたずらっぽく微笑むタキリヒメの笑みに寂しさを感じたのは、気のせいだったかも知れない。
「ちょっとだけ、目瞑ってて!」
僕の手を握った少女が、耳元で囁いた。
ぞわぞわとしたこそばゆい感触が全身を駆け巡り、どくんと心臓が高鳴っているのが分かる。
遮断された視覚の背景で、港で砕ける波音と上がる花火の風切音が遠く響いていた。
一瞬、世界から音が消えた。
唇に伝わる、柔らかな感触。その甘い香りに、心臓が弾けた。
「凪くん、大好き。あとね――」
鼻先で、少女の声が囁く。そして、少女が唇を震わせながらもう一度息を吸う音。
「さようなら」
しんと静まった世界に、寂しげな声だけが残された。
手の先に失われた感触と、ぱさりと落ちる布の音に、思わず目を見開く。
見つめる先に、少女の姿は無かった。
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