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第二十六話
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時は流れ、三月──
美容室Millionのスタッフルームで、春は二つ折りの卒業証書を自慢げに広げて見せていた。
「へぇ、今時筒じゃないのな」
「筒? なんで筒?」
「そういうもんだったんだよ……ったく、令和生まれめ」
「店長、平成でも意外と珍しいですよ、筒」
「……」
気温も上がってきたせいで、美容室はかなり賑わっていた。また時期的に、カットやカラーだけでなく、ヘアセットやメンテナンスに訪れる人々も多い。
スタッフルームにいた春は、受付のスタッフに呼ばれて着替えもそこそこに出て行ってしまった。
「おめでとうのひとことくらい、言ってあげたらどうですか」
春を目で見送ったあと、清水がさりげなく千羽に近づく。
「言うつもりだったんだよ……」
「そうですか」
そのあとすぐに春がスタッフルームに戻って来たので、清水は自分が担当する客のところへ早足に行ってしまった。
「あれ、清水さん今なんて?」
「なんでもない。それよりハル……お、えーと……今日メシは?」
そうじゃない。千羽は自分自身に全力でツッコミを入れたかった。
「あーごめん! 今日バイト終わったら謝恩会なんだ! そこでフードファイトするつもりー」
「そう、か……」
春は、急に呼ばれたせいで途中になっていた着替えを再開した。卒業証書がはみ出たカバンをロッカーにしまい、椅子に投げ出してあった上着をハンガーにかける。
その手が、ふと止まった。
「ん? どうした?」
「あ……いや、これ着るのも最後だったんだなあって……」
春の高校の制服は深緑色のブレザーだった。見栄を張り、体の成長を見込んで大きめのサイズを購入したが、結局今でも袖は少し長いしズボンの裾上げは全部降りきっていない。
「なんか三年しか着てないのにもったいないなあ」
「三年も着たんだろ」
「うん」
春は最後に、「ありがとう」と言ってロッカーを閉じ──ようとした。
「あ」
「……今度はなんだ?」
「謝恩会でも着るんだから、これが最後じゃなかったなあって、思って……えへへ」
「ハル──」
ロッカーを閉じたのは、千羽の手だった。
「おめでとうは、まだ言わないぞ」
千羽とロッカーに挟まれた春は、「うん」と頷くことしかできなかった。
千羽がスタッフルームを出て行くと、春は探偵のように手を顎に当て、しばし考えた。
「……え、今おめでとうは言ったよな。言ったよな?」
***
千羽がおめでとうを保留にしたかったわけは、すぐにわかった。
春の高校の卒業式のわずか二日後、受験した美容専門学校の合格発表があったのだ。
「ハル、どうだった?」
春は、階段の下からこちらを見上げる千羽の顔を見て、若干がっかりした。
「どうって、その顔……知ってるんだろどーせ」
「ハルの口から聞きたいんだよ」
いつものあの笑い方。ムカつくが、春は千羽のする悪戯っぽい笑い方が好きだった。
春は階段の一番上から、思いっきりジャンプした。
「おおっ」
「ナイスキャッチ」
「アホか。危ねえだろ」
春を受け止めた千羽は、口ではそう言いながらも顔は笑っていた。
階段といっても、和久井美容専門学校正門前の階段は五段くらいしかない。春の他にも、ジャンプして降りる人は結構多かった。そしてそんな人々は皆、春と同じように晴れ晴れとした笑顔である。
「へへ」
春は手に持った茶封筒から紙を一枚取り出し、千羽の顔の前に掲げた。
自慢げに、でも少し恥ずかしそうに顔をそらす春の頭に、千羽はそっと手を乗せる。
「おめでとう、ハル」
そして次の瞬間、髪をぐちゃぐちゃに揉み拉いた。
「わああ、ちょっと、くらい、よいん、に……」
「ばーか、余韻に浸るのはまだ早いっ」
春の髪も頭も心もひとしきり掻き回した後、千羽は路駐していた車へ春を誘った。
「いくぞ」
「行くって、どこに?」
「行けばわかる」
千羽が春を連れてきたのは、別段高級そうというわけでもない普通の一軒家だった。
「ここは飛び降りるなよ」
一軒家のドアを開けた千羽は、春に向かってそう警告した。ドアを開けてすぐが地下へ降りる階段になっていて、しかも結構急だった。
階段の先にはまたドア。なんて無駄な造りだ、と春は悪態をつきそうになった。
千羽は重そうなそのドアを開けて中へ入る。春もあとに続いた。
中に入ると、なぜこの建物が無駄な造りになっていたかがわかった。地下から一階の天井まで遮蔽物がなく、吹き抜けになっていたのだ。
「天井たっか……ひっろ」
「音楽スタジオとしても使うからな。ライブやりたきゃ貸してくれるぞ、言い値で」
千羽がスタジオの重そうなドアを閉めると、一瞬耳が詰まるような感覚になる。飛行機に乗るとよくなるアレだ。
「でも今日はライブやりに来たんじゃない」
千羽が指差す方向には、大きな白い布が天井から床まで垂れ下がっている。
「今日は、ここで写真撮るんだよ。みんな待ってるぞ」
スタジオの隅のスペースには、知った顔が集まっていた。
「あ、おかえりなさい! 千羽さん!」
「あらあ? なんだかいい話が聞けそうねぇ」
「ハルくん! おめで──」
「姉さんそれまだ早い」
「毬子に……アンさん? それに、暁人とお姉さんも……どゆこと?」
知り合いの顔を順番に見回し、春は最後に千羽の顔を見上げた。
「感謝しろよ。みんな、ハルのために集まったんだ」
「げっ……おれがもし不合格だったらどうす──」
「合格してるのは、知ってたからな」
「悪い大人だ」
春と千羽の応酬は、暁人のわざとらしい咳払いによって、それ以上は続かなかった。
「で、ハル。どうだったの?」
「みんなどーせ知ってるんだろ」
春は口を尖らせた。
「ハルの口から聞きたくて、待ってたんだよ」
暁人の後ろに並んでいる毬子たちが、皆いい報告を期待した顔をして……というよりは、春に飛びかかる準備をしているように見えたので、春は一歩後ずさりながら言った。
「……合格しましたよー。この春からめでたく美容学生ですよー」
実際、春に飛びかかったのはブライアン一人だけだった。
「あーん! 最高よシンデレラ!」
「ボーイをつけてくれせめて」
「おめでとーハル! ま、私の作文添削が完璧だったわけね」
「毬子、それ俺もだよ。ハルのとんちんかんな日本語直すの大変だったんだから。おめでとうハル」
「もういいのよね暁人? ハルくん、おっめでとー!」
「うぐぐ」
春はブライアンに押しつぶされる寸前で、千羽に救助された。
「お前ら、暇じゃないんだろうが。さっさとやるぞ」
「もーう。準備はできてるわよん」
「ハルくん、こっちきて」
春は、その場に揃ったプロたちの手によって、あっという間にメイクアップされていった。その間、時間にして十分程度。
メイクアップされたのは春だけではない。毬子と暁人も、春と並んでメイク台の前に座っていた。
「わー! なんか文化祭思い出すね!」
文化祭の時と違うのは、それほど派手なメイクではないことと、衣装がついたことだ。
「……ところで姉さん、こんな服どっから持ってきたの」
暁人は、ラックに並べられた衣装の中から、袖をひとつ引っ張り出した。一昔前のバンドマンもびっくりなフサフサが付いている。
「みんなに着させたいのがありすぎて~! けんちゃんのオフィスからパクってきたの!」
「あ……そう」
これ以上姉を刺激してはいけない。そう思った暁人は静かにラックを離れた。
「けんちゃんって誰?」
初耳な名前があったので、春は戻ってきた暁人に訊ねた。
「花志田健一さんっていう、姉さんの相棒でスタイリスト。飯田花志田コンビで、業界じゃあ有名なんだよ」
「……いい話だコンビ?」
「うん」
「暁人ー、ツッコミさぼらないのー」
「……そう思うなら毬子が突っ込んでよ」
女性陣とブライアンは春たちに腕にフサフサのついた衣装を着させたがったが、千羽を含む男性陣はこれを断固拒否。結局、無難な衣装に落ち着いた。……春は、案外自分が乗り気だったことを胸の内にしまった。
「あれ、内藤……さん?」
「お、覚えててくれたか」
春は、衣装の抗議に参加した男性陣が一人増えていることに気づく。
「ちなみにだけどハル、内藤さんはずっとこのスタジオにいたよ」
「えっ」
カメラマンとは、目立たない格好をするものらしい。もちろん例外はいるそうだが、内藤の周囲への擬態センスはずば抜けていた。
「すみません……気づかなくて」
「はは、いいよ。そういうもんだから」
内藤はカメラの方へ戻っていった。
「じゃ、私たちも着替えましょ!」
春たちの準備が整ったところで、ブライアンと奈津子は嫌がる千羽を引きずって更衣室へ向かった。
なんだかんだ、奈津子が選んだ衣装はちょっとおしゃれな普段着という感じだったが、統一感もあって六人それぞれに似合っていた。
撮影はノリノリな女性陣、固い男性陣、学生三人、飯田姉弟、個人スナップ……と、様々な組み分けで行われた。途中、衣装やメイク、背景の色も変わった。
内藤は、被写体である六人が背景布の前にいるときもいない時も、実は準備をしている段階からシャッターを切り続けていた。
「いいね、みんな。いい顔だ」
緊張した面持ちを隠せていなかった春も、次第に場に慣れていき、布の前でも自然な笑顔を見せるようになる。
暁人は、「つまらない」という毬子の一言で俳優魂に火がついたのか、あれほど嫌がっていたフサフサの衣装を見事に着こなしてカメラの前に現れた。
毬子は普段ファッション誌をよく読んでいるのもあり、ブライアンや奈津子に乗せられるがままポーズを決めていった。
「千羽くん、もっと一緒に撮ろうよ」
「俺は……いいんだよ、別に」
「よくないわよ! みんなを集めたのはあんたでしょー?」
メイクスペースへ引っ込んだ千羽を、奈津子とブライアンが呼び戻しにやってきた。
そこへ、フサフサの衣装を着替えに暁人が戻ってくる。毬子も一緒だ。
撮影スペースには春が一人で残っており、内藤の指示であれこれ変なポーズをとっていた。
千羽は、話に花を咲かせている女性陣、暁人が入って行った更衣室のドアをすばやく確認し、春の元へ向かう。
「おい、なんだそのポーズは」
春に歩み寄りながら、さりげなく髪に指を通した。
「え、だって……内藤さんが後ろ向いてから上半身だけ振り返れ、っていうから」
「はいはい。でもそれじゃ女子だぞ。もっと足を開け足を」
思考がこんがらがった春の内股に足を突っ込んで、無理やりポーズをなおしていく千羽。同時に、振り返った時顔に影ができないようにヘアスタイルを修正していった。
「こ、こう……?」
「まあいいんじゃないか」
言いながら、千羽は含み笑いをしていた。
「もー! そんな言うなら千羽さん自分でやってみろよ─!」
春は頬を膨らませて抗議したが、直後完璧なポーズを決める千羽に唖然とする。
「こうだろ?」
「なっ……」
その後もポーズ云々にギャーギャー言い合いをする二人。そんな二人にレンズを向けながら、内藤は一人呟いた。
「俺の存在を忘れてくれるって、最っ高にありがたいね」
そんな撮影風景を横目に見守る、女性陣。と、更衣室から顔を覗かせた暁人。
「暁人、あんたって天才だったのね」
「あれ、今頃気付いたの? 毬子」
「演技力だけは折り紙つきねー! 感心感心!」
「だけは、って姉さん……微妙に傷つくんだけど」
「んもう、どっから始まってたのよ。まさか、このフサフサ衣装をラックから取り出すところから⁉︎」
「ごほん。アン、実はね。この衣装を持ってくるように言ったのは暁人くんなのよー!」
「マジかよ」
「アンさん、地声出てるよ」
「アラやだアタシったら♡」
そんな賑やかなメイクスペースにも、カメラのレンズはしっかり向いていた。
「ほんと、カメラマン冥利に尽きるね」
内藤は、今ものすごくいい顔をしているであろう自分にカメラを向ける人が誰もいないことを、頭の片隅でちょっとだけ残念に思った。
美容室Millionのスタッフルームで、春は二つ折りの卒業証書を自慢げに広げて見せていた。
「へぇ、今時筒じゃないのな」
「筒? なんで筒?」
「そういうもんだったんだよ……ったく、令和生まれめ」
「店長、平成でも意外と珍しいですよ、筒」
「……」
気温も上がってきたせいで、美容室はかなり賑わっていた。また時期的に、カットやカラーだけでなく、ヘアセットやメンテナンスに訪れる人々も多い。
スタッフルームにいた春は、受付のスタッフに呼ばれて着替えもそこそこに出て行ってしまった。
「おめでとうのひとことくらい、言ってあげたらどうですか」
春を目で見送ったあと、清水がさりげなく千羽に近づく。
「言うつもりだったんだよ……」
「そうですか」
そのあとすぐに春がスタッフルームに戻って来たので、清水は自分が担当する客のところへ早足に行ってしまった。
「あれ、清水さん今なんて?」
「なんでもない。それよりハル……お、えーと……今日メシは?」
そうじゃない。千羽は自分自身に全力でツッコミを入れたかった。
「あーごめん! 今日バイト終わったら謝恩会なんだ! そこでフードファイトするつもりー」
「そう、か……」
春は、急に呼ばれたせいで途中になっていた着替えを再開した。卒業証書がはみ出たカバンをロッカーにしまい、椅子に投げ出してあった上着をハンガーにかける。
その手が、ふと止まった。
「ん? どうした?」
「あ……いや、これ着るのも最後だったんだなあって……」
春の高校の制服は深緑色のブレザーだった。見栄を張り、体の成長を見込んで大きめのサイズを購入したが、結局今でも袖は少し長いしズボンの裾上げは全部降りきっていない。
「なんか三年しか着てないのにもったいないなあ」
「三年も着たんだろ」
「うん」
春は最後に、「ありがとう」と言ってロッカーを閉じ──ようとした。
「あ」
「……今度はなんだ?」
「謝恩会でも着るんだから、これが最後じゃなかったなあって、思って……えへへ」
「ハル──」
ロッカーを閉じたのは、千羽の手だった。
「おめでとうは、まだ言わないぞ」
千羽とロッカーに挟まれた春は、「うん」と頷くことしかできなかった。
千羽がスタッフルームを出て行くと、春は探偵のように手を顎に当て、しばし考えた。
「……え、今おめでとうは言ったよな。言ったよな?」
***
千羽がおめでとうを保留にしたかったわけは、すぐにわかった。
春の高校の卒業式のわずか二日後、受験した美容専門学校の合格発表があったのだ。
「ハル、どうだった?」
春は、階段の下からこちらを見上げる千羽の顔を見て、若干がっかりした。
「どうって、その顔……知ってるんだろどーせ」
「ハルの口から聞きたいんだよ」
いつものあの笑い方。ムカつくが、春は千羽のする悪戯っぽい笑い方が好きだった。
春は階段の一番上から、思いっきりジャンプした。
「おおっ」
「ナイスキャッチ」
「アホか。危ねえだろ」
春を受け止めた千羽は、口ではそう言いながらも顔は笑っていた。
階段といっても、和久井美容専門学校正門前の階段は五段くらいしかない。春の他にも、ジャンプして降りる人は結構多かった。そしてそんな人々は皆、春と同じように晴れ晴れとした笑顔である。
「へへ」
春は手に持った茶封筒から紙を一枚取り出し、千羽の顔の前に掲げた。
自慢げに、でも少し恥ずかしそうに顔をそらす春の頭に、千羽はそっと手を乗せる。
「おめでとう、ハル」
そして次の瞬間、髪をぐちゃぐちゃに揉み拉いた。
「わああ、ちょっと、くらい、よいん、に……」
「ばーか、余韻に浸るのはまだ早いっ」
春の髪も頭も心もひとしきり掻き回した後、千羽は路駐していた車へ春を誘った。
「いくぞ」
「行くって、どこに?」
「行けばわかる」
千羽が春を連れてきたのは、別段高級そうというわけでもない普通の一軒家だった。
「ここは飛び降りるなよ」
一軒家のドアを開けた千羽は、春に向かってそう警告した。ドアを開けてすぐが地下へ降りる階段になっていて、しかも結構急だった。
階段の先にはまたドア。なんて無駄な造りだ、と春は悪態をつきそうになった。
千羽は重そうなそのドアを開けて中へ入る。春もあとに続いた。
中に入ると、なぜこの建物が無駄な造りになっていたかがわかった。地下から一階の天井まで遮蔽物がなく、吹き抜けになっていたのだ。
「天井たっか……ひっろ」
「音楽スタジオとしても使うからな。ライブやりたきゃ貸してくれるぞ、言い値で」
千羽がスタジオの重そうなドアを閉めると、一瞬耳が詰まるような感覚になる。飛行機に乗るとよくなるアレだ。
「でも今日はライブやりに来たんじゃない」
千羽が指差す方向には、大きな白い布が天井から床まで垂れ下がっている。
「今日は、ここで写真撮るんだよ。みんな待ってるぞ」
スタジオの隅のスペースには、知った顔が集まっていた。
「あ、おかえりなさい! 千羽さん!」
「あらあ? なんだかいい話が聞けそうねぇ」
「ハルくん! おめで──」
「姉さんそれまだ早い」
「毬子に……アンさん? それに、暁人とお姉さんも……どゆこと?」
知り合いの顔を順番に見回し、春は最後に千羽の顔を見上げた。
「感謝しろよ。みんな、ハルのために集まったんだ」
「げっ……おれがもし不合格だったらどうす──」
「合格してるのは、知ってたからな」
「悪い大人だ」
春と千羽の応酬は、暁人のわざとらしい咳払いによって、それ以上は続かなかった。
「で、ハル。どうだったの?」
「みんなどーせ知ってるんだろ」
春は口を尖らせた。
「ハルの口から聞きたくて、待ってたんだよ」
暁人の後ろに並んでいる毬子たちが、皆いい報告を期待した顔をして……というよりは、春に飛びかかる準備をしているように見えたので、春は一歩後ずさりながら言った。
「……合格しましたよー。この春からめでたく美容学生ですよー」
実際、春に飛びかかったのはブライアン一人だけだった。
「あーん! 最高よシンデレラ!」
「ボーイをつけてくれせめて」
「おめでとーハル! ま、私の作文添削が完璧だったわけね」
「毬子、それ俺もだよ。ハルのとんちんかんな日本語直すの大変だったんだから。おめでとうハル」
「もういいのよね暁人? ハルくん、おっめでとー!」
「うぐぐ」
春はブライアンに押しつぶされる寸前で、千羽に救助された。
「お前ら、暇じゃないんだろうが。さっさとやるぞ」
「もーう。準備はできてるわよん」
「ハルくん、こっちきて」
春は、その場に揃ったプロたちの手によって、あっという間にメイクアップされていった。その間、時間にして十分程度。
メイクアップされたのは春だけではない。毬子と暁人も、春と並んでメイク台の前に座っていた。
「わー! なんか文化祭思い出すね!」
文化祭の時と違うのは、それほど派手なメイクではないことと、衣装がついたことだ。
「……ところで姉さん、こんな服どっから持ってきたの」
暁人は、ラックに並べられた衣装の中から、袖をひとつ引っ張り出した。一昔前のバンドマンもびっくりなフサフサが付いている。
「みんなに着させたいのがありすぎて~! けんちゃんのオフィスからパクってきたの!」
「あ……そう」
これ以上姉を刺激してはいけない。そう思った暁人は静かにラックを離れた。
「けんちゃんって誰?」
初耳な名前があったので、春は戻ってきた暁人に訊ねた。
「花志田健一さんっていう、姉さんの相棒でスタイリスト。飯田花志田コンビで、業界じゃあ有名なんだよ」
「……いい話だコンビ?」
「うん」
「暁人ー、ツッコミさぼらないのー」
「……そう思うなら毬子が突っ込んでよ」
女性陣とブライアンは春たちに腕にフサフサのついた衣装を着させたがったが、千羽を含む男性陣はこれを断固拒否。結局、無難な衣装に落ち着いた。……春は、案外自分が乗り気だったことを胸の内にしまった。
「あれ、内藤……さん?」
「お、覚えててくれたか」
春は、衣装の抗議に参加した男性陣が一人増えていることに気づく。
「ちなみにだけどハル、内藤さんはずっとこのスタジオにいたよ」
「えっ」
カメラマンとは、目立たない格好をするものらしい。もちろん例外はいるそうだが、内藤の周囲への擬態センスはずば抜けていた。
「すみません……気づかなくて」
「はは、いいよ。そういうもんだから」
内藤はカメラの方へ戻っていった。
「じゃ、私たちも着替えましょ!」
春たちの準備が整ったところで、ブライアンと奈津子は嫌がる千羽を引きずって更衣室へ向かった。
なんだかんだ、奈津子が選んだ衣装はちょっとおしゃれな普段着という感じだったが、統一感もあって六人それぞれに似合っていた。
撮影はノリノリな女性陣、固い男性陣、学生三人、飯田姉弟、個人スナップ……と、様々な組み分けで行われた。途中、衣装やメイク、背景の色も変わった。
内藤は、被写体である六人が背景布の前にいるときもいない時も、実は準備をしている段階からシャッターを切り続けていた。
「いいね、みんな。いい顔だ」
緊張した面持ちを隠せていなかった春も、次第に場に慣れていき、布の前でも自然な笑顔を見せるようになる。
暁人は、「つまらない」という毬子の一言で俳優魂に火がついたのか、あれほど嫌がっていたフサフサの衣装を見事に着こなしてカメラの前に現れた。
毬子は普段ファッション誌をよく読んでいるのもあり、ブライアンや奈津子に乗せられるがままポーズを決めていった。
「千羽くん、もっと一緒に撮ろうよ」
「俺は……いいんだよ、別に」
「よくないわよ! みんなを集めたのはあんたでしょー?」
メイクスペースへ引っ込んだ千羽を、奈津子とブライアンが呼び戻しにやってきた。
そこへ、フサフサの衣装を着替えに暁人が戻ってくる。毬子も一緒だ。
撮影スペースには春が一人で残っており、内藤の指示であれこれ変なポーズをとっていた。
千羽は、話に花を咲かせている女性陣、暁人が入って行った更衣室のドアをすばやく確認し、春の元へ向かう。
「おい、なんだそのポーズは」
春に歩み寄りながら、さりげなく髪に指を通した。
「え、だって……内藤さんが後ろ向いてから上半身だけ振り返れ、っていうから」
「はいはい。でもそれじゃ女子だぞ。もっと足を開け足を」
思考がこんがらがった春の内股に足を突っ込んで、無理やりポーズをなおしていく千羽。同時に、振り返った時顔に影ができないようにヘアスタイルを修正していった。
「こ、こう……?」
「まあいいんじゃないか」
言いながら、千羽は含み笑いをしていた。
「もー! そんな言うなら千羽さん自分でやってみろよ─!」
春は頬を膨らませて抗議したが、直後完璧なポーズを決める千羽に唖然とする。
「こうだろ?」
「なっ……」
その後もポーズ云々にギャーギャー言い合いをする二人。そんな二人にレンズを向けながら、内藤は一人呟いた。
「俺の存在を忘れてくれるって、最っ高にありがたいね」
そんな撮影風景を横目に見守る、女性陣。と、更衣室から顔を覗かせた暁人。
「暁人、あんたって天才だったのね」
「あれ、今頃気付いたの? 毬子」
「演技力だけは折り紙つきねー! 感心感心!」
「だけは、って姉さん……微妙に傷つくんだけど」
「んもう、どっから始まってたのよ。まさか、このフサフサ衣装をラックから取り出すところから⁉︎」
「ごほん。アン、実はね。この衣装を持ってくるように言ったのは暁人くんなのよー!」
「マジかよ」
「アンさん、地声出てるよ」
「アラやだアタシったら♡」
そんな賑やかなメイクスペースにも、カメラのレンズはしっかり向いていた。
「ほんと、カメラマン冥利に尽きるね」
内藤は、今ものすごくいい顔をしているであろう自分にカメラを向ける人が誰もいないことを、頭の片隅でちょっとだけ残念に思った。
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