はるになったら、

エミリ

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第二十話

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 年が明けたら店に来いと言われたが、千羽が春を呼び出したのは結局冬休みも最終日のことだった。
 クリスマスに仕事を休んだツケが回って来た、と言っていたが、そのツケは清算できたのだろうか。ツケを払わせる原因を作った本人は、自責の念に駆られて縮こまっていた。
 だが春が縮こまっていたのは、自責の念だけが要因ではない。
「ほら、もっと前に来い」
 千羽に促されて一歩前に出ると、店の照明の一つが春の焦点に刺さり、一瞬視界を奪われた。
 いつもは店が休みの日か閉店後に来ていたので、千羽以外のスタッフに会ったことはない。会ったのは、毬子とともに店を訪れたあの日だけだった。
 そして今、春はMillionのスタッフたちに取り囲まれていた。毬子と店を訪れた時よりも人数が多いようにも感じる。
 全員が春を見ていた。ある者は興味深そうに、ある者は訝しそうに。
 もやもやとした空気を一掃するように、千羽がやや声を張り上げる。
「来週から、うちでバイトしてもらうことになった青海だ。最初は役立たずかもしれないが、よろしく頼む」
 春は、千羽に苗字で呼ばれたことに異物を飲み込んだような感覚を覚えた。
 千羽に背中を叩かれ、慌てて頭を下げる。
「よ、そ、ろ、よ、ろしく、お願いします……」
 周りから、ぱらぱらと気のない「よろしく」の声が上がる。が、その中に一つだけ、ひときわはっきりとした「よろしくお願いします」があった。
 春は、その声に聞き覚えがありすぎた。
「げっ……」
 思わずあとずさりする春を、千羽が前に突き返す。
「ハル、副店長の清水だ。年度が変わったら店長になる。しっかり言うこと聞けよ」
 春の目の前に、不機嫌そうな顔をした女性が立っている。
 女性は、組んでいた腕を解いて春の前に差し出した。
「副店長の清水です。前あったことは……私にも非があるから、お互い水に流すってことでいいわね、青海くん。これからよろしく」
「ああ、はい……よろしくどうぞ……」
 力のこもらない握手を交わす間、春は半分上の空だった。
「あ、え……」
 副店長の言葉にではなく、その前の千羽の言葉に衝撃を受けていた。
「店長……? えっ、せ、千羽さんは……?」
「私も、聞いた時は驚きました。ですが、店長が決めたことに従うだけです」
 春の手を早々に離し、清水副店長は他のスタッフの輪に戻っていった。
 春は振り返って、千羽の言葉を待つ。
「俺は、春からフリーになる。店に来る機会は減るが、ここにいるスタッフたちになら安心して任せられると思ってるからな。頼んだぞ」
「「はい!」」
 春の挨拶にはぱらぱらぼそぼそだったスタッフたちも、声を揃えて千羽に応えた。
 春は、敬礼でもしそうなスタッフたちの勢いに圧倒されるが、彼女たちと同じようには返事ができなかった。


 ***


 ミーティング後の店内。
 他のスタッフたちは帰り、残ったのは千羽と春だけだった。
 千羽に髪を切ってもらう間、春は一言も話せず俯いていた。
「……言ってなくて悪かったよ。スタッフたちにも、今日話したんだ」
 ドライヤーを手にしながら、千羽がぽつりと呟いた。
 春も俯いたまま呟く。
「……店やめるって、本当なの?」
「ああ」
 二人の間に微妙な沈黙が流れた。その空間を埋めるかのように、千羽がドライヤーのスイッチを入れる。
 春はぎゅっと目を瞑った。


「──ハル」
 耳元で千羽の声がした。
「……んぁ」
 目を開けると、ドライヤーどころか最後の仕上げまで終わっていた。すでにエプロンも外されている。
「ハルって、ドライヤーし出すとすぐ寝るよな」
「だって……気持ちいいんだもん」
「そりゃよかった。ちょっと待ってな」
 千羽が後片付けをする間、春はその様子を鏡越しにずっと見つめていた。
 ──千羽さんがいない店でバイトしてもなあ。
 鏡の中に広がる店内に、自分の幻影が重なる。千羽が客の髪を切っているすぐそばで、春は床に落ちた髪を箒でかき集めていた。たまに目線が交わり、千羽は声には出さず、口の動きだけで「がんばれ」と言ってくる。実は千羽は、春が見ていないところではずっと春の仕事ぶりを見ていてくれて──
「あ」
 鏡の中の世界ではなく、現実の世界で春は千羽にじっと見つめられていた。
「……おそうじ、おわったの?」
 千羽は答えず、春と鏡の間にぐいっと体を入れてきた。
「あっ……おれも、手伝った方が……よかった……のかな?」
 春はオロオロして手足をばたつかせたが、相変わらず千羽はじっと春の顔を見つめたままだ。しかも、回転する椅子は千羽にしっかり抑えられていて微動だにしない。
 逃げ場も目線のやり場もなく、春が途方に暮れ始めた時、不意に千羽が顔を近づけてきて言った。
「……今、ハルが何考えてるか当ててやろうか?」
「えっ……?」
「ハル、俺がいない店でバイトする意味なんかないって思ってたろ」
「うん」春は素直に頷く。「だって……そうだもん」
 一瞬の間の後、千羽は吹き出した。
「はは、ったく可愛いやつだなハルは。どれだけ俺のこと好きなんだよ、まったく」
 そう言いながら、整えたばかりの春の髪をくしゃくしゃと撫でる。春は少しムッとして、千羽の手を払いのけた。
「だって……だって……」
 だが、言葉が続かない。
「悪かった。からかうつもりはなかったんだ。ごめんな」
 千羽は謝りながら、椅子を少し回転させて春と顔を正面から合わせた。
「俺は今でもかなり、店に来る頻度は減ってるんだ。外での仕事が忙しくなったからな。でも、店には俺の名前があるから、客は期待をして予約を入れる。俺もその期待に応えないといけない。結構疲れるんだよ、他人の期待に応えるのって」
「意外……千羽さん、他人の期待とか気にしてたんだ」
「そりゃ、評判は即仕事につながるからな」
「評判……」
 春は目線を落とした。そこを、すかさず千羽が覗き込んでくる。
「今、ハルが何考えてるか当ててやろうか。自分のせいで俺の評判が落ちる、とか思ってるんだろ。……図星か」
「……だってそうだもん」
 春は、ずっと引っかかっていることがあった。
 千羽の隣にいられるよう、いても邪魔にならないよう、必死に自分で居場所を探してきた春。この度その努力が実ったわけだが、千羽の方はというと、常に春のことを気にかけて理由もなくそばに置いてくれる。

「なんで、千羽さんはおれと一緒にいてくれるの?」

 春は、この日初めて千羽の顔をまともに見た。
 千羽は春の髪に手を伸ばした。落ち着いたブラウンのくせ毛を指に絡ませて、優しく頭を撫でる。

「──好きなんだよ」

 千羽が春の耳元で髪を弄るせいではっきりとは聞こえなかったが、千羽の口は確かにそう言ったように見えた。春の心臓が大きく跳ねる。
「え、おれ、の……髪が?」
「……そうだな」
「ははは、前うんこ色だったんだぜ」
「ああ。あの時は心臓が止まるかと思った」
「……しばらく手入れもしてないし」
「これからはずっと俺が面倒見てやるよ」
「ずっと……?」
「ああ。ずっとだ」
 千羽はそう言って、何かを誤魔化すように悪戯っぽい笑顔を浮かべた。
「店辞めたって、外の仕事がなくなるわけじゃない。ハルには荷物持ちとして現場にも来てもらうからな。まずは色々見て聞いて覚えること。そっからだ。ハルも四月からは学校にバイト、俺の荷物持ち、いっそがしくなるぞー」
 最後に頭をポンっと叩いて、千羽は春を解放した。

 荷物を取ってくると言って、千羽は奥のスタッフルームに引っ込んだ。
「ずっと……」春は椅子に深く座ったまま、千羽に弄ばれた髪を触る。「ずっと、って、言ったからな」
 鏡の中の自分は、さっきよりもほんの少しだけ、大人に見えた。

「ハル、お待たせ」
「うん」
 千羽が戻ってくると、春はカバンを手に立ち上がった。だが、裏口へと向かう千羽について行きかけて足を止める。
「どうした?」
「やっぱおれ、歩いて帰るよ」
「そうか。じゃあな」
「あ……」
 千羽があまりにもあっさりしていたので、春の中で不安に似た不満がこみ上げる。
「ん? 忘れ物か?」
「違う……けど」
 千羽は春の心の中を読んだように、再び顔を近づけて来て言った。
「もうほっといてもハルが俺の目の前からいなくならないってわかったから、安心したんだ。だからまたな、ハル」
 そしていつものように、春の頭を撫でようとする。春は無理やり千羽の手の下をくぐり抜けた。
「こ、子供扱いするなよな、!」
 そのまま千羽の横を通り抜けようとした春だったが、あっさり腕を掴まれてしまう。
「ほーぉ? 覚悟しろよ、俺は仕事には手を抜かないからな」
「いてて……わかってるよ! おれだって本気だからな! すぐに一人前になって、あの副店……店長をギャフンと言わせてやる!」
「俺はギャフンと言わせなくていいのか?」
「い、言わせるさ! ギャフンと! なんだったら、千羽さんの家に住み込んで二十四時間ずっと……ずっと、お、お勉強、する……からな」
 尻すぼみに小さくなる春の口上を聞き終えると、千羽は春の腕をぐっと引き寄せた。
「そりゃあいい。部屋の掃除に炊事洗濯、なんでもやってもらおう」
「えっ、いいの?」
 春は目を輝かせた。
 若干予想外の反応に、千羽は春の腕を離す。
「でも卒業するまではだめだ。しっかり最後までやってこい、高校生」
「うん!」
 春は眩しいくらいの笑顔になって駆け出した。
 裏口を飛び出し、千羽に向かって大きく手を振る。千羽も手を振り返した。
「……ったく眩しいな、高校生」
 春の後ろ姿をいつまでも目で追いながら、千羽はその光景を昔の記憶に重ね合わせていた。

 『──約束だからな!』
  今よりもずっと小さな背中が駆け出していく。
  途中、振り返りながら何度も叫ぶ、小さな影。
 『忘れんなよ!──』

「……お前が忘れてどうするんだよ」
 千羽は店の鍵を片手で器用に弄んでいた。春の姿が見えなくなると、裏口に鍵をかけた。
「これだからガキは──」
 その先は言葉にはせず、千羽は心底面白そうに口元を歪めた。
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