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問われる覚悟

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07

「金の毒とは、左様に怖ろしいもので?」
「わかってると思うが、池田は誰よりも強く、純粋で優しい。だが、誰もが池田のように考えて振る舞えるわけじゃねえ。人は、目先の利益のために簡単におかしくなっちまうんだぜ?満州事変のとき、おめえさんはまだ子供だったかな?」
「はい…。えーと、二歳でしたか」
 満州事変を引き合いに出され、祥二は糸がつながった気分だった。
 関東軍の暴走によって引き起こされた、中国東北部に対する軍事侵攻。
 当時の軍部の暴走を止められなくなるきっかけになることはもちろん、アメリカ、イギリスを激怒させ、日本を国際社会の孤児とする道だった。
 にもかかわらず、誰も本気で止めようとしなかった。
 軍上層部も、政治家も、なにより国民自身が。
 佐藤の言うとおり、みんな目先の利益のためにおかしくなってしまったのだ。
「満州事変の張本人である石原莞爾は、善意でことを起こしたんだろうな。王道楽土、五族共和を本気で実現する気だったんだろう。
 “どんな悪しき行いも最初は良かれと思って始められた”。ローマの偉人の言葉だったな。多くの日本人は石原の理想を理解できなかった。善意ではなく、悪意を持って中国に接した。満人を追い出して自分たちの畑や町を作ればいい、てな」
「侵略と経済発展の違いはあっても、同じことが起きる…と?」
 佐藤は茶を口に含むと、言葉を選びながら話し始める。
「金ってのは容易に毒になるもんだ。目の前に金の山があると、あるいはせっかく手にした金を手放さなきゃならないって状況になると、人間は簡単にイカれちまうもんだ。見てるがいい。“金は命より思い”なんて抜かすやつが本当に出て来るぜ」
 祥二は頭を叩かれた気分だった。
 満州事変は、後世から見ればどうしようもない稚拙な愚挙だった。
 だが、目先に転がった広い土地や豊かな資源に、当時の日本人たちはおかしくなってしまった。
 議会で“例え国を焦土にしようとも満州国のことは譲れない”などと臆面もなく言い放った政治家がいたことが、その証左。
 池田が政権を打ち立て、経済発展を実現させれば、金の毒に当たって同じようなことをやらかす連中が出て来る。
 それは、もっともなことに思えたのだ
 そもそも、人がみなしっかりと金の毒に抗えるなら、金を動機とする殺人事件が世に絶えないはずがない。
「そうなったとき、俺は座視するつもりはねえぜ。池田が作り上げたものを壊していかなきゃなんねえかも知れねえ。苦労して進めてきたものを、元に戻さなきゃなんねえかも知れねえ。人は金より重いんだ、なんのために金を儲けたかったのか思い出せ、と多くの人間に訴えるためには。
 そのとき、おめえさんは俺についてこられるか?」
 佐藤はそう言って、祥二の目をのぞき込む。
 祥二は今日、初めて迷いを抱いた。
(わしにできるか?)
 尊敬する池田が進めてきた方針を、佐藤が修正あるいは否定しようとしたとき、自分は決断できるか?これまで積み上げてきたものを、崩していくことを。
 だが、すぐにその迷いを頭から追い払う。
(いけんいけん!わしら日本人は、戦争に負けてこりたはずじゃないか)
 空母“龍驤”の航海科員だった、まだ若かったおじを思い出す。
 ソロモン海戦で、“龍驤”が彼の棺桶になった。
 兵隊に取られ、南方戦線から帰ってこなかった、友人の父を思い出す。
 うわさでは、敵地への輸送中に米潜水艦の攻撃を受け、俗に言う“アイアンボトムサウンド”の一部になったらしい。
 いわゆる“米豪遮断作戦”は、連合軍の物量と戦略の前にあっさり破綻した。
 にもかかわらず当時の軍部は、せっかく占領した島と海を手放すことはできないと、泥縄式に戦力を投入し続けた。
 戦略的には何の意味もなくなっていた小さな島を守るために、意味もなく貴重な装備と人材を浪費し続けたのだ。
 どんなに苦労して作り上げたものも、時間と資源を投じて進めてきたものも、時には諦めなければならない。お荷物や害悪になってしまったならば。どれだけ惜しくとも。
「佐藤のおじ貴の、お考えのままに」
 そう言って、佐藤の目を見つめ返す。
「わかった」
 佐藤はそれだけ言って、笑顔になった。

 かくして、佐藤栄作は岸信介内閣の政務会長を拝命する。
 1957年2月のことだった。
 誰も知らなかった。
 意地から政権参加を渋っていた佐藤が、若造の実業家に説得されて決断したことを。

 一方の祥二も、この時まだ知らなかった。
 時代の変化が、猛烈な濁流となって、すぐ近くに迫っていることを。

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