詩《うた》をきかせて

生永祥

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☆第46話 詠み人知らず

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「これ、誰の詩なの?」
「そうだな、詠み人知らずってところだな」
「詠み人知らず?」
「書いた作者が、世の中で明るみに出ない時に使う言葉だな」

「もう読んだか?」と尋ねると冬四郎は、小夜子が手にしていたぼろぼろのルーズリーフを受け取って、それを大事そうに紺色のちゃんちゃんこのポケットの中にしまった。

 その顔は、今日出会った冬四郎の表情の中で、一番穏やかだった。

 その様子に小夜子は何となく、この詩は冬四郎にとって、とても大切なものなのだろうと思った。

 冬四郎の様子を黙って見ていた小夜子は、冬四郎の心の一番繊細な部分に触れてしまったかのような気がした。

 それは何だか、土足で冬四郎の心の中に踏み込んでしまったかのようで、小夜子は強く気まずさを感じるのだった。

 冬四郎に対して後ろめたさを感じた小夜子が、冬四郎から視線をそらす。

 そんな小夜子の様子に気が付かずに、冬四郎は笑みを浮かべながら小夜子に話しかけた。

「良い詩だっただろう?」

 その言葉にハッとして、小夜子は冬四郎の方を振り向く。すると冬四郎がおもむろに口を開いた。

「今まで色々な詩を読んできたが、俺はこの詩が一番だと思うね」

 そう言って先程と同じように冬四郎が病院の天井を見上げる。吹き抜けの天井から射し込む太陽の光が眩しかったのか、冬四郎は切れ長の黒い目をより一層細くした。

 冬四郎に何と声をかけたら良いのか分からず、小夜子が黙っていると、病院の玄関から自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。

 よく目を凝らして玄関の方を見てみると、母が小夜子に向かって手を振っているのが見えた。

「お袋さんか?」

 そう言って冬四郎は、天井に向けていた視線を玄関の方に向ける。

 小夜子が無言でこくりと首を縦に振ると、冬四郎は細い目を一層細くして、小夜子にこう告げた。

「嬢ちゃん。家族は大切にするんだぞ」

「ではこれにて失敬」と言うと、突然冬四郎は中央ロビーから、エレベーターのある廊下の方へと向かって歩き始めた。

 唐突な冬四郎の退場にびっくりした小夜子は、急いで冬四郎の背中に向かってこう叫んだ。

「と、とーさん!明日も会えるかなぁ?」

 大きな声で叫ぶ小夜子に、「おう!良いぞ!」と返事をしながら、冬四郎はエレベーターの方へと消えていった。
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