微睡む時はキミの中

今野綾

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不可抗力

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 パラパラと残業する人が散在するオフィス。

 真琴はずり落ちてきたアンゴラの膝掛けを引っ張り上げた。
 人が減れば減るほど、足元がすうすうして寒くなる。
 腕時計に視線を走らせて、いい加減帰ろうと思った矢先、背後に人が来たのを感じた。


「湯浅さん、夕飯まだでしょ? 食って帰らない?」

 真琴は椅子を回転させて、今日は縁なし眼鏡の瀬戸を見上げた。

「いえ、帰ります」

「明日休みだしいいじゃん。湯浅さん、直ぐ壁作る。仕事仲間なんだから、夕飯くらいさ」

 ニコニコしながら引く気配のない瀬戸に、真琴はやや困りながら俯き考える。


 人望、人脈、明らかにこの人には勝てない。

 勝てないではなく、大きく引き離されて劣っている。

 きっと、私が瀬戸さんの下に就いたのは、そう言うことを学べと言う上の意向だろう。


 顔を上げると、瀬戸は笑顔のまま答えを待っている。
 催促するわけでもないが、どう見ても断られるつもりはなさそうな表情。
 断っても嫌な顔はしないだろうけど。


「……そうですよね。すいません。行かさせて頂きます」

 真琴は結局折れた。

 前回の失敗が背中を押している自覚があった。


 まとまらなかった真琴のチーム。

 今のチームは明らかに瀬戸の力でしっかりひとつの方向に向いているのだ。

「よし、んじゃパソコン消して、コート着て」

 瀬戸は人差し指でパソコンを指したりして真琴に指示をしながら、既に体は自分のデスクに向かわせていた。

 デスクに向かう途中、残業している同僚に「早く帰れよ? 嫁さん待ってるんだろ」なんて、声を掛けていく。

 それを目で追いながら、膝掛けを畳む。


 他愛もない会話か。
 そんな事より、あそこの人既婚者だったんだなぁ。
 知らなかった。

 真琴はパソコンの電源を落とすと立ち上がる。
 イスをデスクに押し込むと、そこに先ほどまで使っていた膝掛けを掛けた。

 コートを着込み手にバッグを持って、にこやかに待ち構えている瀬戸の元へと歩いていった。

 同じフロアの人に対して何も知らなかった事や、人付き合いの下手さで劣等感を抱くより、瀬戸さんからなにかを学びとり成長する方が、遥かに精神衛生上いいに決まっている。
 例え気乗りしない誘いだって、今まで通り断っていたら何にも変わらないから。

 一歩進む毎に、家へ帰りたくなる気持ちを抑えつけていく。
 こんなこと意味がないと思う気持ちがムクムクと膨らむけれど、苦い失敗を敢えて思い出して瀬戸の横に並んだ。

 瀬戸が案内したのは、思いの外自宅に近い場所にあった。

 こじんまりした小さな店舗。
 ビルの一階にあり、道路に面した大きな窓ガラスは半分以上蔦で覆われているが中は見えた。
 壁は煉瓦調、カウンターとテーブル席には小さなキャンドルがグラスの中で揺らめいていた。


「タコスが旨いんだよ。酒を出す店だけど……って、酒はいける方?」

 入り口の木製ドアを引きながら瀬戸が真琴に問う。

「ああ、いえ。飲みません」

「飲めないんじゃなく、飲まないってこと?」

「外では。強い方ではないので」

 瀬戸はドアを体で押さえ、真琴の腰をそっと押して中へとエスコートした。

 店内は少し甘い香りがする。
 鼻をひくひくさせると、瀬戸がそれに気がついて、アロマキャンドルだからと言った。


「いらっしゃいませ。テーブルかカウンターどっちにしますか?」

 バーカウンターに居る色黒の男が気安い感じで声を掛けてくる。

「テーブルで」

 瀬戸が答えると、空いてる席をさしてどうぞとまた軽く返事をした。


「行こう。暗いから足元気をつけて」

 瀬戸は真琴に道を譲りながら身を屈めて、耳元で注意を促す。

 真琴の身長を考えると瀬戸は百八十越えなのは間違いない。
 高身長でスタイルもいいのに、物腰は柔らかいなんて、神様は何を考えているのか知りたいとすら真琴は思う。

 天は二物を与えずなんて嘘だ。
 なんて、ちょっと卑屈になるのはたぶん瀬戸さんが何でも軽々こなすから。


 二人でテーブルに着く前にコートを銘々脱いだのだけど、瀬戸はさっさと脱いで当然のように真琴のイスをひいた。
 真琴は頭を下げながらイスに掛けさせて貰う。

 足元に置かれたバスケットにそっとコートを置くと、瀬戸は立ててあったメニュー表を真琴に開いて見せた。


「タコスとオニオンリングはオススメ。俺はタンドリーチキンも頼むよ」

「じゃあ、タコスと……オニオンリングは二人で?」

「だな。タンドリーチキンも分けよう。飲み物はこっちか」

 瀬戸はドリンク表を取り出して、広げた。

 真琴はお酒、特にカクテルばかり並ぶドリンク表を指でなぞっていく。


「アルコール以外は……」

「弱いのならいいんじゃない? 飲みなよ。俺もビール飲むし」


 真琴はメニュー表をひっくり返し、アルコール以外の飲み物を見つけた。


「ホットウーロン茶が良いです」


 そう言って顔を上げると瀬戸が苦笑しながら真琴を見つめていた。

「こういう時はさ、一杯くらい付き合おうよ。今日は許すけど」

「でも……」

「飲めるのは飲めるんだろ?」

「一応は」

 瀬戸は座ったまま半身で振り返って、カウンターの先ほどの店員に手を上げ合図を送った。
 店員も直ぐに気がつき、カウンターに座っている客に何か一言告げてから、フロアに出てくる。
 そして、足首まである黒のカフェエプロンのポケットから、オーダー表を出しながら向かってきた。


「お決まりですか?」

「タコス二つ、オニオンリング、タンドリーチキン、ビールにホットウーロン茶。ああ、つまみたいから先にピクルス出して」

「ピクルスはパプリカ、カリフラワー、キュウリもしくは盛り合わせ」

「盛り合わせで」

 その店員はさらさらとオーダー表に書き込み、お冷やを今お持ちしますと言って去っていった。


「今日はプライベートだけどさ」そう言いながら瀬戸は開いたままだったメニューとドリンク表をパタンパタンと閉じて片付けた。


「仕事ならやっぱり一杯くらいは付き合うべきだな」

「仕事の話をするなら頭はハッキリさせておかないと」


 真琴が小さく反論した所で、店員がお冷やとおしぼりをテーブルに置いていった。
 瀬戸は真琴の分を渡しながら、軽く首を傾げる。


「そんなに直ぐに酔うのか?」

「そんなに?」

「例えばビール一杯だと、どんな?」

 真琴は宙に視線をさ迷わせて「頬が染まります」と答える。

「二杯目では?」

「変わりません。赤さが増すくらい?」

「じゃあ一杯くらい飲めるだろ」

「まぁ、そうですが……人前では飲みたくないです」


 また店員がやって来てビール、ホットウーロン茶とナッツの入った小鉢にピクルスの盛り合わせを置いていった。

 瀬戸がビールのグラスを持ってコンッと真琴のウーロン茶のグラスに乾杯した。


「次は付き合ってくれると信じて」

 乾杯の文句に真琴が眉を寄せ「考えておきます」とウーロン茶をそっと上げて小さくグラスを瀬戸へと傾けた。

 瀬戸はグラスのビールをごくごくと喉を鳴らして飲んでいく。
 それを真琴は上目遣いのまま見つめ、ウーロン茶に口をつけた。
 熱々のウーロン茶に弾かれたようになり、静かにグラスをテーブルに戻した。


「もし、飲まなきゃいけない場面──接待とか、そういう時は俺のそばに居ればいいよ」

 グラスから口を離した瀬戸が言った。

「え?」

「湯浅さんが飲めないなら密かにグラスを交換してあげるって意味」

「ああ……ありがとうございます」

 真琴が礼を言うと、にやっと笑った瀬戸が続ける。

「礼はプライベートの時に酒を一緒に飲むことで手を打つよ」

 温かなウーロン茶の琥珀色したグラスを両手で包んで、真琴は返しに困る。

 なぜそんなに飲ませたいのか。
 飲みたくないと率直に言っているのに……理解に苦しむ。


「お待たせしました。オニオンリングとタコスです」

 グラスを睨んでいた真琴がその声に反応して、パッと顔を上げた。

 やはり歩。

 しっかり視線は合ったはずなのに、歩は全く無関心のまま「タンドリーチキンは後程」と言い残して去っていく。

 後ろ姿だって、金髪みたいな髪だって、耳に付いたリングも歩なのに、まるで赤の他人だと言わんばかりの態度。
 唖然として見送る真琴に、怪訝そうにどうした? と瀬戸が問う。


「いえ……別に」

 あまりに他人行儀だったから驚いただけ。
 あちらは仕事中だし、私達は単なるルームメイトなのだから、外でたまたま顔を合わせたからと言って親しげに会話をする必要はない。
 きっと、そう言うこと。


「イケメン好きなの? 意外だな」

 瀬戸の言葉に、え? と真琴が反応する。

「彼、イケメンだったじゃん? なんだろうな……どっかで見たことあるような顔してるよな。アイドルとかに似たような顔のヤツ居たかな……」

 ああとか、まぁとか、どちらとも取れない呟きをして真琴は置いてあった箱からフォークを二本取り出して、片方を瀬戸の元へ置いた。

 思いは歩の他人行儀な態度に向いていて、そして早く帰りたいと言う一心に尽きる。

 見られなくなかったのかも?
 私だって仕事中の姿は見られたくないし。
 ましてや、私は会社で馴染めていないのだから。

 それでも瀬戸が、タコス旨いよ? と言えば頷くし、食べなきゃ帰れない。

 来なきゃ良かった。

 ぐるぐる回る言葉を抱えて、タコスを齧る。
 美味しいし、なんだか歩が作るパスタの味がする気がする。

 でも、違うんだよ。
 私は家で歩の作ってくれた物が食べたい。
 あまり口数が多くない二人で、静かにゆっくり食事をしたい。
 それがなんだか特別な時間のように感じるから。


「辛さが絶妙。あ、辛さが足らないならタバスコあるぞ」

「このままで大丈夫です」

 瀬戸の気遣いは見習うべきかもしれないが、真琴は少し煩わしさを感じてしまう。

 ひどいな私。
 だから、ダメなんだろうな。

 なんて思いながら、話を振られれば何となく頷いたり、最小限の返事を重ねていく。

 タコスの挽き肉も、トロリと溶けたチーズも、かりっと揚がっているオニオンリングだって悪くない。
 でも、とにかく帰りたくて仕方なかった。

 食事をしている間、瀬戸は絶えず話しかけてきた。


 プロジェクトの事、メンバーのちょっとした身内ネタ、会社の事やアパレル業界の事から時事ネタまで。
 途切れない会話術には感服するが、真琴には無理だと悟る。
 だって、こんなにも帰りたいのだから。


 歩が途中でタンドリーチキンを運んできたが、やはりまるで他人のように真琴を見もしなかった。

 瀬戸に帰ると言われた時、正直ホッとして、それを気取られさすがに申し訳ない気持ちになった。
 でも瀬戸はにこやかに「次はもう少し気楽な場所にしよう。湯浅さんが決めてくれていいから」と寛大だ。

 とは言え、次はないと思いながら言葉を濁し、店をあとにした。


 二人が帰った後、歩はフロアに出て来て片付けをしていた。
 そこへぴょこっとカウンター席から下りてきた女の子が話しかけてくる。

「ねぇねぇ、歩の家にいた女でしょ? 今の。彼氏居るのに歩とも寝ちゃうんだぁ、すました顔してやるね、あのおねぇさん」

 歩はチラッと視線は投げたが何も言わずに二人が使った食器を重ねていく。

「ねぇってばぁ」

 下を向いて片付けている歩の視界に入ろうと、その子は顔を歩の手元にぐいっと入り込ませた。

「仕事してんだよ、邪魔すんな優愛《ゆあ》」

 不機嫌に追い払おうとすると、優愛と呼ばれたその若い女は口を尖らせる。


「なんだよ、もう。誰とでも寝る女は家にあげるくせにさ」

「寝てないし」


 歩は重ねた皿を手に持ち、最後に布巾でテーブルを拭いた。


「はぁ? じゃあ、なんで家に居んの」

「うるせーよ、帰れよ」

「客に向かってそれはなくない?」


 優愛は食器を持った歩を追いかけ、一緒に厨房の入り口まで着いてきた。
 歩を大きなため息を吐くと「客なら何か頼めよ」と足を止めて優愛を睨んだ。
 しかし、優愛は睨まれたことなどどこ吹く風で、ニッコリ微笑んで歩を見上げる。


「じゃ、歩」

「帰れ」


 とうとう明確な命令口調で歩に通告されたのに、優愛はめげない。


「今日うち来てよ」

「行く理由ねぇし」

「付き合ってるのに?」


 歩はこれ以上付き合いきれないと顔を振り、完全に無視して厨房に姿を消した。
 さすがに中まで追えない優愛に、マスターの鈴木が呆れた顔で「めげないねぇ」と声を掛けた。

「当たり前」

 優愛が返すと、鈴木は眉がしらを上げて笑うしかないといった風に肩を上げ、カウンターを拭き始めるのだった。

 *****
 歩が働いているお店に行ってから、早一週間とちょっと。
 一月も半ばに差し掛かっていた。

 歩とは、特段話をしたりはしていないので、なぜあの日、赤の他人のように振る舞ったのかは聞けていない。
 家では普通──愛想があるわけではないが、無視はしない──だから、なんとなく波風が立つような話はしたくないと言う気持ちもあった。


 家に着いてきた女の子、働いているお店、これらは地雷なのか、そうではないのか……。
 聞きたいような、聞いたら後悔しそうな、小さな葛藤。

 瀬戸は相変わらずそつのない統率力と会話術でメンバーをまとめ上げている。

 真琴の世界は全てある意味順調で、ある意味全く何にも変わっていない。
 歩は歩だし、瀬戸は瀬戸だし、真琴は真琴。
 無愛想だがなんでも淡々とこなす歩に、万能型の瀬戸に、相変わらず人付き合いも料理も苦手な真琴。

 ため息しか出ない状況で、声を掛けてきた元カレ、小野寺陽太に、真琴は懐かしさすら感じた。
 いや、懐かしいと言うより、ほぼ忘れかけていたと言った方が近いけれど。


「今、帰り?」

 オフィスを出て少し歩いた所で後ろから声を掛けられ、一瞬誰だかわからない程に、陽太は過去の人となっていた。

 慣れ親しんだはずの声だったはずなのにそれには気がつかず、自分が話しかけられていると認識して振り返った。


「ああ……こんばんは。そう、今帰りです」

 陽太とは外ではいつも丁寧な言葉で話していた。
 あまり付き合っている事を皆に知られたくなかったから。
 仕事は仕事と割りきりたかった。


「相変わらず素っ気ない」

 陽太は笑いを漏らすが全く顔は笑ってなんかいなかった。
 そんな表情を見て、真琴はなんとなく陽太が何かに不満を抱いていることに気がついた。

 そんな陽太を気にかけながら、横を行く仕事終わりの会社員たちに邪魔にならないように、道の端に寄った。

 整備された新しい街は地下道で駅まで一歩も外に出ることなく、歩いていけるようになっている。
 つるんとしたクリーム色の壁も、磨き上げられたグレーの床も、どちらとも照明を浴びて光っていた。
 夜なのに、夜を感じさせない明るさだ。


「何か用?」

 少し先には通路に出されたオープンカフェがあり、仕事を終えたサラリーマン達が一杯ビールをひっかけたりしている。

 出来れば、早く話を切り上げたい。
 付き合ってはいないけど、誰が見て、噂をするかわからないから。


「別に。ちょっと噂を聞いたから」

 今、まさに考えていたような事を陽太が口にするから、真琴は隠すことなく嫌そうな表情をした。

 二人でメイン通路より幅が狭まった横道にそれて、向かい合った。

 陽太は真琴と身長に差があまりないので、ハイヒールを履いた真琴と向かい合うと、視線が同じ高さになる。
 童顔でそもそもあまりスーツが似合わない。
 それに加えスーツ選びに無頓着、ネクタイも色味すら合っていない。
 瀬戸のスタイリッシュな姿を見慣れていると、あまりに残念な姿だった。


「噂、気にならないのか?」

 陽太に言われて、首を振る。

「どうせ良いことじゃないでしょ。気にならない」


 今までの経験で痛いほど味わってきた屈辱。
 噂はいつも嘘ばかりだ。
 きっと冗談混じりの雑談から始まって、人を介して行くうちに、あたかも本当のことのようにひろまったのだろう。
 真琴が小耳に挟む頃には、噂はすっかり"事実"となっていることが多かった。


「いや? お前が瀬戸さんと付き合ってるって噂。おめでとう」

 全くめでたくなさそうに祝われても、事実ではないし、はっきり言って真琴には不愉快でしかない。

「噂で祝うのね」

 冷たく言うと、陽太の顔が歪む。


「瀬戸さん、上からも一目おかれた人だし、『さすが湯浅』って言われてんぞ」

 何が流石なのか、とにかくいい意味じゃないことは確実なので、もう帰ろうと身を翻そうとした。

 しかし、陽太が真琴の腕を掴み、それを阻止し、更に通路の端へと引っ張り込んだ。

「ちょっと、なに? 離して」

 真琴が怒ると陽太も怒りを浮かばせる。
 陽太は人当たりの良さが売りのような男なのに、そんな表情をするなんて、珍しいことだった。


「俺と付き合っている時は、皆に知られたくないとか言っていた癖に……。ああ言う人ならいいわけ? 自分と釣り合う人なら」


 とんだ勘違いをして、しかも怒りを向けてくる陽太に、呆れるやらムカつくやらで、掴まれた腕を力一杯振りほどいた。
 真琴の髪が揺れて、互いに睨み合う。


「なぁに、こそこそしてんだよ」

 二人のいる場所にひょっこり顔を出した瀬戸が、笑顔で険悪な空気に割って入ってきた。

「湯浅さんの姿がちょっと見えたからさ」

 瀬戸は顔を出した理由を述べながら、陽太をしっかりと見据えていた。
 陽太は睨まれた蛙の如く縮み上がり、一瞬で怒りを押しやって笑顔を引き出した。


「あ……同期の飲み会の話し合いをしていただけなんで。話も済んだし、じゃあ、お先です……」


 逃げ足は脱兎の如く素早いし、真琴はそんな陽太を見送りながら情けない気持ちでいっぱいになった。

 あんな、へこへこする人だったっけ。
 格好悪いな。

 付き合っていた相手のそう言う姿は出来れば見たくなかったと、視線を外し瀬戸を見る。

「よし! んじゃ、今日は何食いに行く?」

 瀬戸は仕切り直しと言わんばかりに、明るい声音でそう真琴に問う。
 真琴の方は急展開に、ただ驚いて目を見開いた。
 何の約束もしていないのに。

「人間食わなきゃ元気出ないし。俺たち付き合ってるらしいじゃん? 噂でさ」

「噂なんて嘘ばかりです」

「まぁ、ね? ま、飯行こう。毎晩独り飯じゃ、楽しくないしね」

「更に噂になりますから」


 断るつもりでいる真琴に瀬戸は小さくため息を吐いた。

「噂くらいなんてことないじゃない、だろ?」

 同意を求められても真琴はくっきり眉間にシワを寄せて首を振る。

「噂はやがて事実のように人から人に伝わりますから、困ります。瀬戸さんにも迷惑がかかりますし」

 現に陽太は真琴と瀬戸が付き合っていると信じきった物言いをしていた。
 たった一度食事に行っただけだし、誰かにそれを見られた記憶もないのに、だ。


「迷惑? 湯浅さんと付き合ってるって言われて? 光栄だよ、光栄。もっと言ってくれたらいいと思うけど?」

 破顔して言われると、有り難いようなしかし困るような……真琴は引かない瀬戸に困りきる。

 迷惑だと言われるよりいいけれど、帰りたい。
 真琴は言葉を無くして、ただ笑顔の瀬戸を見上げていた。

 真琴を見ていた瀬戸がふと通路の方に視線を投げ、そして動いた。

「鈴木くん! お疲れ。今、湯浅さんと飯行こうって話してたんだけど、鈴木くんもどうよ」

 同じ会社の鈴木は瀬戸に驚きながら、横に居る真琴にとりあえず会釈した。
 行き交う人々の合間から鈴木を見て、一緒に働いた事がないが名前だけ知っている鈴木に、真琴もとりあえず頭を下げる。


「いや、俺お邪魔では……」

 遠慮がちに言う鈴木の元に歩み寄っていった瀬戸は、ガシッと鈴木の肩を抱いた。

「何言ってんだよ、邪魔じゃないし、むしろ窮地を救うヒーローだから」

 瀬戸の言葉に鈴木が、ヒーロー? と半分笑って問い返す。

「湯浅さんがさ、噂になるから一緒に飯行きたくないってさ」

「瀬戸さん!」

 すかさず抗議した真琴に瀬戸が楽しそうに目を細めた。

「事実だろ?」

「いや……まぁ、そうなんですけど……」


 だからさ。と、瀬戸は肩を抱いたままの鈴木を覗き込む。

「鈴木くんが一緒なら、俺は独り飯回避。湯浅さんもすんなり来られると」

 ああ、なるほど。と、鈴木は納得して見せた。
 真琴は何か違う、論点がずれているしと思っていたが「じゃあ、行きます」と鈴木が返事をしてしまったので、何も言えなくなってしまった。

 三人なら移動が面倒だからと、駅から少し歩いた所にあるカジュアルなイタリアンレストランに移動した。

 そこで、真琴以外の男性二人はビールを飲み交わし、カルパッチョやライスコロッケと言ったサイドメニューを次々に平らげていった。
 真琴は一人チーズリゾットを頼み、しっかり夕飯をとっていた。

 ややもすれば輪から外れがちな真琴を瀬戸は上手に会話に引き入れて行く。
 女性の意見聞かせてよ。なんて、巧みな振りで真琴の孤立化を阻止するのだから、正直凄いとしか思えなかった。
 鈴木だってそう言う振りを瀬戸が出せば、必ず真琴の方を見て返事を待つ。

 食事を終える頃には、名前だけ知っていた鈴木が、二十三歳の長野出身、彼女とは遠距離恋愛中などと言った情報まで真琴は知ってしまっていた。
 もちろん、瀬戸が彼女と別れたばかりで、車が好きなアウトドア派であるなどと言った事も知った。


「んじゃ、俺と湯浅さんはタクシーで帰るから」

 お開きになって、席を立つときに放った瀬戸の言葉に、真琴はビックリして動きを止めた。
 鈴木も真琴ほどじゃないが、驚いた顔をしていた。
 当の瀬戸だけは「帰る方向一緒だから乗ってきな。俺、酔っぱらいだしタクシー使うから」などと、驚きを受け流して微笑んで見せる。

「瀬戸さん!」

 真琴が抗議の意味を込めて名前を呼ぶと、ん? と返して言う。

「この前飯食った時に家近いって話になったろ? 送るよ」


 そんなやり取りをしている横で鈴木が腕時計を見て「すいません、五分後の電車に乗ると、乗り換えしなくていいんで行きます。ご馳走様でした」と、頭を下げて鞄を掴み走り出した。

「気を付けろよ」

 瀬戸はそんな鈴木に声を掛けてから、自分の荷物を取り上げた。



「よし、行こうか」

「電車で大丈夫です」

「やだな、同じ方向だって分かってるのにそんなに俺を無神経な男にしたいか?」


 真琴だって嫌だ。
 そんな風に言われたらタクシーに乗らないのは、子供染みているし、でも送ってなんて欲しくないのだから。


「あ、警戒してる?」

「してませんよ」

 ならさ、行こうか。なんて、瀬戸は歩き始める。


「タクシーだよ、タクシー。ホテルに無理矢理行き先変えるとか無理だから」

 先を行く瀬戸があっけらかんと言うから息を飲み抗議したかったけれど、すれ違う人にこんな会話を聞かれるのは嫌で、とにかく黙って着いていく。


 正直、瀬戸さんはちょっと苦手。
 誘導するのが上手すぎて、いつも退路をたたれて、瀬戸さんの思い通り。

 真琴は仕立てのいいスーツを着こなした大きな背中をうらめしく睨んでいた。

 瀬戸は黄色のタクシーに乗り込むと、自分の住んでる地域を告げ、その前に……と真琴に視線を投げた。
 真琴も何をするべきか理解して、自分の住所をタクシードライバーに伝えた。


 動き出した車。
 流れ行く街の風景。
 車はどんどん速さを増していき、真琴は静かに視線を手元に落とす。


「良いところ、住んでるな」

 車内に入ることを考慮した囁くような声で瀬戸は言い、顔を向けた真琴と目を合わせた。

「瀬戸さんの方が良いじゃないですか」

「いや、立地より緑があるって意味でさ。休みの日なんかはのんびりしたいだろ? 日頃ビルばかりの景色を眺めてる身としては」

 頷いた真琴に、俺も引っ越すかぁなんて瀬戸はうそぶく。
 本気にしない真琴に、瀬戸は一人小さく笑った。


「湯浅さんはなかなかガードが固い」

 言葉の意味を図りかねた真琴がなんとなく前を見ると、バッグミラー越しに初老のドライバーと目があってなんとなく気まずい。


「意味がわかりません」

 小さな声で率直に言う真琴に瀬戸は口だけで笑って、そのまま車窓の外を眺める。

 そのまま、二人はポツリポツリととりとめもない話をするだけで、車の揺れに身を任せていた。

 とうとう見慣れたマンションの前に着いた時、真琴はやっとこの小さな空間から解放されることに喜んでいた。


 まだゆっくりと走るタクシーの中でバッグを漁る。

「お幾らですか?」

 真琴が問うと「コーヒーの誘いは?」と瀬戸。

「ないです。ご馳走になってしまい申し訳ありません」


 手を止めた真琴に連動しているかのように、タクシーも道の端、マンション前にハザードを上げて停車した。


「いいよ、次は湯浅さんの奢りだから」

 瀬戸がそんな事を言うので、真琴が首を回して瀬戸に顔を向けた。

 それを待っていたように、瀬戸が驚くほどスマートに唇を真琴に重ね、そしてスッと素早く離れた。


「コーヒーの代わり。ほら、降りなきゃ」

 動揺して固まる真琴をよそに、瀬戸は開かれたドアを見て促す。

 真琴は深いシワを眉間に浮かべ「こういうことは……」と言おうとしたら、軽くクラクションが鳴らされた。

 車道が狭いので、後ろの車が小さく抗議している。

 仕方ないので「ご馳走様でした」と、体を車から出そうとしたら「こちらこそ」と笑いを含んだ返答があって、真琴はムカムカする。

 そして、降り立った真琴を待っていたようにまずはタクシーが、その後うしろについていた軽バンが走り去っていった。

 なんとも言えない敗北感のような気持ちを抱えたまま、ゆっくりマンションの方へと顔を向けたら、そこには見慣れた金髪が……。

「……見た?」

 真琴はバカな質問をし「まぁ」と歩は短く返す。

「ふ、不可抗力だから!」

 慌てて弁解する真琴に、歩は「俺に言い訳する必要ないから」と言いながら横を通りすぎて行く。


 確かに。
 私たちはただの同居人。
 キスされたことを弁解する理由も、それを聞かなきゃならない理由もない。

 そもそも、誰と何をしようが自由だから。

 でも、真琴は歩に伝えたかった。
 キスしたかった訳ではないことを。

 抗おうとしたんだよ。
 食事に行きたくなんてなかったし、一緒にタクシーに乗りたくなんてなかった。
 ねぇ、私はちゃんと断ろうと試みたんだよ……。

 不意に押し寄せる涙に目をぎゅっと閉じた。

 なぜ泣きたくなるのか。
 強い敗北感なのか、見られた事への後悔……?

 私たちはただの同居人なのに。


 肩を落とした真琴がノロノロと動き出す。
 誰も居ない部屋へとゆっくり向かっていく。

 歩は今夜は戻らない。
 そうやって、また言えなかった言葉を抱えたまま朝が来て、日常を繰り返す。

 伝えたいのに。

 訳のわからない涙の理由より、ずっと確実に分かっているのは、歩に誤解されたくないと言う思いだった。



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