パンドラベッド

今野綾

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 母との鰻をドタキャンした二週間後、私は同じ約束を取り付けた。
『私はいいけど今度はちゃんと来られるの?』
『次は絶対! ごめんね、お母さん』
 リクと相談の上、二週連続でアルバイトを休むことになるけど、早いうちに行くに越したことがないと結論に至ったのだ。

 母と約束が出来た後、愛ちゃんにも連絡をとった。母にはまだ愛ちゃんのことは内緒にしていると正直に伝えたらこんな返事がきた。
『わかった。本来はきちんと告げるべきだけど、今回は姫乃の判断に任せます。もしも、そのことでお母さんに責められたら私に言わないでと口止めされていたと言うようにして』
 横で映画を観ていたリクにスマホの画面を見せて内容を確認してもらう。リクはリモコンで映画を一時停止にして、文面にちゃんと目を通してくれた。テレビの中で俳優さんが涙を流して半開きの口で止まっている。シリアスなシーンだったのに、申し訳ない。

「愛ちゃんって思考がヒメノの親っぽいな。ヒメノが責められるのを心配してるし」
 スマホを私に返しながらリクはそんな感想を述べた。
「うん」
「ヒメノはお母さんには愛ちゃんが来ること言いたくないんだ?」
「うーん、なんとなく不意討ちの方がいい気がするんだ。お母さんって思いが決まると凝り固まっちゃって、それはなかなか変えないから。考える暇を与えちゃだめな気がする」
 私は返されたスマホを眺めてから、画面を消した。
「そこは俺にはわからないから意見することは何もないけどさ。ただ、お母さんに責められた時に愛ちゃんのせいだって言えといってきてるけど、そこはヒメノの意見だって嘘をつかずに伝えるべきだよ」
 愛ちゃんに言われたら、そうなのかと思ってしまう私にはリクの意見が意外だったが……続けて述べられた理由ですんなり受け入れられた。
「もう親に庇ってもらう歳じゃないんだから。愛ちゃんはヒメノが責められるなら可哀想だから代わってやりたいと思っていってるだけだろ? そもそもヒメノの意見にはどちらかというと反対っぽいし」

 確かにお母さんにきちんと愛ちゃんが行くことを教えておいて欲しそうだった。なるほどなぁとつくづく私はまだまだ考えが浅いのだと反省する。リクの方が大人に近いのだとも思っていた。相変わらず、社会的な常識が携わっていないだけかもしれないが、そこは時間がかかるだろうから気長にやるしかない。

「俺は愛ちゃんの気持ちわかるよ。好きな相手には嘘とかイヤじゃん? 出来るだけ正直でありたいから」
 リクの云わんとすることはわかる。だからこそ、私は自分が下した結論に不安を抱きはじめてソワソワする。大好きなリクとそれに匹敵するほどの愛ちゃんが同意見で、私とは意見が違う。これは、私が間違えているのではないだろうか。
「あ、迷ってるな? 俺はヒメノのお母さんを知らないから、単純に愛ちゃん目線で意見を述べたに過ぎないから。一番お母さんを理解しているはずのヒメノの意見が正解なんじゃね?」

 低く唸るほど難題だが、よく考えたら私は既に母には愛ちゃんのことを伏せて連絡をとっているのだから、悩む余地など今さらない。それが良いのか悪いのか判断がつかないが、悩みは一つ減ったことになる。
 母に文句を言われようと、そんな私を愛ちゃんが庇おうとしてくれようと、それはそれ。私は母と愛ちゃんを対面させ、なんとか話し合いの場をもって欲しい。その上でまた昔のように二人が──出来れば仲良くお茶を飲んだりする関係に──戻れたらと、願っていた。 

 連絡をとったときのやり取りを思い起こし、私の地元、母が待っている街に着いた時、あまりの緊張で胃がムカムカしていた。
 新幹線が停まるような駅ではないが、ベッドタウンにある中規模な駅だ。この街で私は育った。駅には小さいながら商業施設があり、そこにさえ行けば粗方なんでも揃うという具合だった。
 愛ちゃんと小学校で使う文具を買いに来たり、母に誕生日プレゼントを買ってもらったり、ここでの思い出は山ほどあった。

「ねぇ、このキラキラする鉛筆かわいくない?」
 小学生だった私と買い物に来た愛ちゃんが選んだ鉛筆はピンク色でラメが散りばめられていた。ピンクのサイダーみたいな鉛筆はとても可愛かったから私も欲しいと思ったが、買えないと答えた。
「可愛いけど学校にそういうの持っていくと怒られるもん」
 そうなの? と残念そうに鉛筆を元に戻す愛ちゃん。
 その夜、なぜか鉛筆が私のデスクの上に乗っていたから驚いた。翌朝、母に聞いたら店で愛ちゃんから託されたと言う。
「家で使えばいいじゃない。愛ちゃんもそう言ってたわよ」
 学校では使えないからいいと言っても、そういうところはとても意見が一致する二人だった。

 あとは本屋の店面積が広くて、ネットで物を購入するという手段を持たなかった私には長年ありがたい存在だった。本を買いたいと言えば必ず付き合ってくれた愛ちゃん。母も一緒に本屋に来て、愛ちゃんと二人並んでファッション雑誌の写真をよく眺めていた。

 改札を出たところで愛ちゃんが待っていて、私に手をあげて合図をしてくれ、私の方も空いている方の手をあげる。
「来た来た」
 れっきとした男性サラリーマンの愛ちゃんが私たちを迎え、まずはリクに軽く会釈をする。ダークグレーのスーツ、近寄るとそれはストライプだとやっとわかるような隠れた個性を持っていて、やたらとお洒落だった。

「リクくん。先日は驚かせてしまって申し訳なかった。会田です。今日は付き合ってくれるそうで」
 リクに向かって話すとき、男口調だった。声は愛ちゃんなのだから、私にはそれはちょっぴり違和感だ。見た目が男性であることにはそこまでおかしさを感じないのに、どうして話し方は気になるのだろうか。
 それはいいとして、私はこれからする話し合いの事で頭が一杯で、なぜ二人が悠長に会話を交わしていられるのか理解できない。リクは部外者だから余裕なのだろうけど、愛ちゃんは私より緊張していてもおかしくないのに。

 愛ちゃんは昔から慌てず騒がず、ニコニコと私たち親子を見守っていてくれた。取り乱すことのない強さを持ち、冷静に物事を分析するタイプなのだと思う。ただ、あの強烈なタックルをした時だけは違っていた。椎名さんに激昂し、私の為に号泣し、うな源では憔悴していた。

 仕事帰りの人々と共に駅を出ながら、静かになった場を埋めたくなって私は愛ちゃんにいましがた抱いた疑問をぶつけてみる。
「愛ちゃんはお母さんとはケンカをしたりするけど、他の人とはしないの?」

 スッと背筋を伸ばして歩く姿、これは昔から変わらない。ハイヒールを履いた愛ちゃんが颯爽と歩いているように見えるが、今はリーガルの革靴だ。しっかり磨かれて艶やかなのは愛ちゃんらしい。

「他の人とはしないわね。お母さんは私には真っ向勝負って感じだから、私もつい釣られて……たまに、大ゲンカをしてたわ」
 バイリンガルのように愛ちゃんは私には女口調を貫く。リクにはまるで男性として話すのに。バイリンガルの愛ちゃんほど切り替えがうまくいかない私の脳内は軽く混沌としているが、なんとなく大人ぶって混乱を隠して澄ましていた。

「ケンカじゃなくて、たまに大ゲンカですか」
 リクが可笑しそうにそこだけなぞると「普段怒らないからなのか、一旦火がつくとヒートアップするんだよ。でもまあ、大爆発すると貴美子さんしょげかえるから、それで慰めて仲直り」と、またもや神がかったバイリンガルの愛ちゃんはまるでその光景をみているかのように目を細めた。

 母を愛ちゃんが貴美子さんと呼んだ。初めて聞いた。そんなことで私は勝手に一人照れていた。親だと思っていた二人が実はごく普通の男と女で、それを知ってしまったことにむず痒さを感じていた。
 お母さんだって恋愛するし、女なのだ。どうして今までそういう簡単なことに思いが至らなかったのだろうか。パパやその他の人がいたのに。お母さんは私の中では貴美子さんではなかった。一度もそんな風に思ったことがなかった。お母さんと愛ちゃん。貴美子さんと愛ちゃん。女と男。

「お母さんってば、バカだ……」
 なんの脈絡もなく私がそんなことを言うものだから、愛ちゃんが「唐突にどうしたの」と困った笑顔で私に問う。
「だって……」
 そこで口をつぐむ。
「また一人であーでもない、こーでもないってやってるな」
 リクの言葉に私はパッと顔を上げて、片手で頬を押さえた。
「また顔に出てた?」
「ん、そうでもないかな? 前ほどは」
 リクとのやり取りを聞いていた愛ちゃんが「前よりずっと表情が豊かになったわよ。いいじゃない、顔に出ても」と、言うものだから嬉しいような照れ臭いような気持ちになる。誉められたのは嬉しかったが、なんでもかんでも顔に出てしまうのは正直恥ずかしかった。

 駅を出て駅前通りを南下するとほどなく片側二車線の国道に出る。そこを左に折れると香ばしい鰻のタレが私たちを導いてくれる。
「これこれ、この匂いは反則。だってカレー食べたいなぁって思いながら歩いていても、この香りにやられて鰻食べたいに変わっちゃうんですもの。結局カレーはいつだってお預け」
 愛ちゃんは鼻をひくひくさせながら、うな源って罪な店よねと付け加えていた。

「カレーはやっぱり『ガガン』でしょ?」

 愛ちゃんがまだ普通に私たち親子と一緒に居た頃、よく揃って食べに行ったカレー屋だ。入り口の横には大きなヤシの木が植えられていたし、その木の下で蛙の置物が何個も済まし顔で並んでいた。カレーは本格的だったから、私はもっぱら甘いナンとタンドリーチキン担当だった。ナンのとてつもない大きさに毎度笑い転げる私に愛ちゃんが釣られて笑い、母も笑っていた。

「そうそう、それ! まだお店あるの?」
「前とは違う場所にあるよ」
「潰れてないのね! あー良かった。久々に食べるならチキンバターがいいわ。辛さは五辛で。ああ、でもキーマカレーも捨てがたい」
「でも今日は鰻だから」
「わかってる。なんだか懐かしくなってしまって」
 日本人シェフが作る本格インドカレーの話をリクに説明していると「次は一緒に行きましょう」と愛ちゃんが会話に加わり、次回を示唆することを口にするから私は心の中でガッツポーズを握る。大好きな二人と共に大好きなお店に行けるなんてこれ以上の幸せはない。
 久しぶりにガガンのガーリックナンを食べたいし、それを食べられるようになったことを愛ちゃんに見せたかった。小さい頃は蜂蜜掛けのナンがお気に入りだった私が、大人になったところを見せたい衝動にうずうずする。

 うな源と書かれた紺の暖簾がうちわのようにひらひらと風に揺れ、小さな高揚感をすうっと冷ましていった。再び胃がどすんと重みを増したが、私はこの年季の入っている暖簾をくぐらねばならない。ここを通らない事ことには、何も進まないのだ。これまで得た教訓を胸に、私が先頭になり紺暖簾を手の甲で上げながら両開きの引き戸を開けた。戸を開けると出汁の香りを含んだ空気が待ち構えていたように一気に外へと逃げ出していった。
 「いらっしゃい!」
 元気なかけ声に迎え入れられて、三人で店内に入っていく。いつも入って右奥の四人掛けを好んで座る母が私たちを待ち構えていた。

 母はこの古風でいて和の空間に間違えて置かれた最新の洋風人形みたいだった。違和感の中に母は居り、しっかりメイクされた外向きの顔で愛ちゃんを見て驚きを隠さない。
「愛ちゃん……」
「お久しぶり、驚くわよね。……たまたま姫乃に駅でばったり会ったのよ」
 母は驚きからひとときの絶句を経てスマイルに摩り替えて「そうなのね」と当り障りのない返事をした。愛ちゃんから目が離せないのかゆるゆると顔を動かし、それを追うように視線を移してリクを見上げた。
「リクくんね、初めまして。とりあえずみんな座って頂戴」

 四人掛けの席だ。立っている誰もが座る場所に迷っていた。母のとなりに座るのは誰なのか、母の向かいに座るべきは誰なのか。始めに動いたのは愛ちゃんで、潔く母の向かいにある椅子を引いた。そうなると私が母の横で、リクが私の前となる。
 全員席につくとおしぼりと湯気の上がる緑茶が運ばれてきた。母は自分の前に置いてあった紺のメニューを広げて、愛ちゃんとリクの前に押し出した。行書で書かれただけの写真もないようなシンプルなお品書き。ぬっとメニューの上に現れた母の爪だけ赤くて自己主張していた。

「私はうな重の上にするわ」
 とっくに決めていたのだろう、言い終えると中身が半分ほどになっている母用の湯呑みを取り上げて口へと運んだ。まるで大仕事をした後のようにごくごくと飲み干すと、半身を捻って手を上げお代わりを要求する。
 私はリクの様子を窺い、その後愛ちゃんにも視線を投げていた。リクは真っ白なおしぼりで手を拭きながらメニューを一心に見つめていて私の方を見てはいなかったが、愛ちゃんとはバッチリ目が合った。
「ひつまぶしって食べたことないんだよね」
 私が言うと愛ちゃんが間髪入れずに「ひつまぶしもいいわよね」と返してくれたので「じゃあ、ひつまぶしにしてみるかな」と、リクに話を振ってみた。リクは「俺も食ったことないし、ひつまぶしいってみる。ひつまぶしの並みで」と答えた。
「あら、若い子は謙虚で偉いわ。じゃあ大人は大人らしく、うな重の上で」
 愛ちゃんは向かいに座る母にそう言って微笑みかける。私にはその行為こそがとても大人らしいと感じていた。母の空気から察するに二人には数年たった今でもわだかまりがあるに違いないのに、愛ちゃんはそんな事微塵も感じさせない態度で母に微笑んでみせたのだ。

 母は「注文するわね」と愛ちゃんにぎこちなく応えてから、カウンター近くに居た三代目の奥さんに合図を送った。
「ひつまぶしの並みを二つと、うな重の上を二つでお願いします。それにしてもひつまぶしの並みって珍しいんじゃないかしら?」
「初代の店主がうな重に階級があるなら、ひつまぶしにあってもいいだろうって。どちらも鰻の量が増えていくだけなんですけどね」

 三代目の奥さんは口の横にえくぼの出来る優しい顔をした人で、私はこの人なことが昔から大好きだった。奥さんの前でえくぼを指さして私もあれが欲しいと母に言ったことがあって、奥さんが「あら、両方あるからいい子にしていたら一個分けてあげるわね」と言ってくれたと、母が何度も話していた。

「うな源みたいにさ、終わらないものってあるんだと思うな、私は」
 言い終えてから母の目を真っすぐ見つめていた。言ってから自覚したのだ、母に向けた発言だったのだということを。母は自分に向けて言われたのだという事に一瞬たじろいでいた。

「……終わるものの方が多いのよ」

 そんなことはないはずだ。うな源の味、うな源の歴代の店主たちの顔。リクのご両親、まいまいのご両親も仲が良くて何十年も一緒にいるらしいし、今井の家なんか江戸初期まで遡れる家系図があるらしい。終わるものもあるかもしれないが、終わらないものだってある。

「それはお母さんが直ぐに諦めるからじゃないの?」
「えっと、姫乃?」
 愛ちゃんは私と母を交互に見て心配そうに話に割って入ってきたが、私は一度始めた反乱というべきなのか革命というべきなのか、どちらでもいいが、そののろしを上げ続けたかった。ここで言わなければいつ言うのだろう。愛ちゃんが居て、リクが居るこの場所で私は言うべきなのだ。

「私は知ったんだよ、諦めなければ終わらないってことを。愛ちゃんのことだってそうなんだよ。私は諦めたくない、愛ちゃんにいつでも会える日々を諦めたくないの」
 ここで再び愛ちゃんが「その話は食事をしてからしたらいいんじゃないかしら?」と止めに入ったが、走り出した私は急には止まれない。それに今は止まりたくないのだ。止まったら再び走りだすのにかなりの勇気がいるだろう。

 母は愛ちゃんをチラリと見てから、あからさまなため息を吐いた。これは存分に嫌な感じで、テーブルに乗せていた私の手は無意識にぎゅっと握られていた。
「姫乃が愛ちゃんと会ったりしたい気持ちはわかったけど、私たちが会わないのは大人の事情ってやつなのよ」
「お母さん。大人の事情なんて曖昧な言葉に騙されるほど私は子供じゃないんだよ」 

 いつになく応戦してくる私に母が僅かに怯んだ隙に、愛ちゃんが母に事情を説明し出した。
「許可なく話して悪かったけど、私は姫乃に嘘は吐きたくなくて私が二人の元を去った訳を言ってあるの」
 じっとテーブルを睨んでいた母は「じゃあ、話は早いじゃない。愛ちゃんが私のためにアイデンティティをねじ曲げるようなことはあってはならないでしょ。そんなのいずれ歪みが生じて結局ダメになるんだから」と、愛ちゃんの言った通りの主張をした。
「それって愛ちゃんが性同一性障害だからって言いたいんでしょ?」
「そうよ」
「本人に違うって言われたのに、お母さんはどうして性同一性障害だと言い張るの?」
「違うって言われたって信じられないじゃない。愛ちゃんが男性と付き合ってたことを知ってるのよ?」
 横から「間宮さんでしょ。たった三ヶ月だったじゃない。しかもほとんど会ってない三ヶ月」と愛ちゃんが口を挟む。
「三ヶ月だろうがなんだろうが付き合っていたのは事実」
「あの頃は迷いがあったからね。今は女性が好きだってハッキリと断言できる。触れて感じる柔らかさとか自分にはないものが好き」
「ね?」と、いきなり話を振られたリクは油断していたようで、ギクリとしてから頷いていた。
「男はね、自分にはない胸の丸み、肌の柔らかさに触れたくなるものなの」
 そこで今度は私に顔を向けて「姫乃はお友達の胸を触りたいと思う?」と聞いてきた。
「ここでいう友達はまいまいのことだから」
 リクはすかさず私の為に助言をし、私はすっかり理解して首を振った。
「リクには触れたいけど、友達……まいまいとはお喋りしたりとか、そういうのがいいかな」
 リクは目だけ動かして愛ちゃんやお母さんを見る。なぜかばつが悪い顔をし、最後に深呼吸をしていた。

「恋愛対象だからこそ、触れたい。そういうこと。私は女性が好き。間宮さんとは肉体関係を持たなかった。好きだったけど触れ合いたいとは思わなかった。アイデンティティというならば、私はやはりどこまでいっても平凡な男なのよ。口調や見た目だけがちょっと女の人に寄せているだけで。綺麗なものが好きってだけだわ」

 リクの様子が気になっていた私は話し半分で愛ちゃんの力説に耳を傾けていた。愛ちゃんは真っ直ぐお母さんを見ていたし、これは私たち全員に向けて話しているというより、ただ一人、お母さんに向けて語っているのがありありと伝わってきていた。よってリクを見て居てもたぶん愛ちゃんは気を悪くしないだろう。

 顔色が冴えない母はいつもより低く声で語りだす。
「……あなたはたぶんいろんな勘違いしているのよ。椎名が姫乃にあんなことをしたから……だから、責任感からそう思うとしているんだ思う。昔からそう、あなたは優しくて人を見捨てるとかできない人だから」
 『椎名が姫乃にあんなことをしたから』という言葉にリクが一瞬険しい顔をしたのを見て、私はあまり知られたくないとか本当は知って欲しいとか二つの思いがぶつかり合って視線を下げた。

 やはりこれはどこか私の秘めておきたい過去なのだ。屈辱的な出来事で、恥ずべきことな気もする。もっと抵抗できたのではないかと心のどこかで感じ、それをしなかったことに恥じているのかもしれない。
 成長した私は被害者であったということを認識している。それでもなお、あのとき何か出来たのではないかと自分を責めるのはどうしてなのだろうか。本当に何か出来たのだろうか。今の私なら出来るのだろうか。

「そういうことは関係ないのよ。もちろん二人を守りたいという気持ちは凄く……痛いほど感じたけど、そうじゃない。前にも言ったけれど、貴美子さんの性格というか内面が好きなのよ。強くて脆いところもあるアナタを近くで支えたい。見た目だって憧れる。綺麗になりたい私の目標だったんだから。今でも努力して美しさを保っているあなたを見て、改めてその努力に敬服しているのよ。どうしてわかってくれないの?」

 私の目には母は確実に年齢を重ね、少しばかり美貌は衰えているように思うが、それでも年齢に逆らって若さを保っているのは確かだった。母はそんな努力を認められて、僅かに表情が緩んでいた。愛ちゃんも釣られて笑みを浮かべていた。

「覚えてる? 初めて会った日の事。私は忘れられないのよ。下手くそな化粧をして、街を歩いていた私の手を掴んで貴美子さん言ったわよね」
「『あなた、地がいいのにもったいない。直してあげる』でしょ? 初対面なのに言い過ぎだわ、私」
「だってあの頃、私は下地を塗ることもなくただべったりファンデーション塗ったりしていたから、そりゃあ気になるでしょ? メイクって眉毛書いたりファンデーション塗ったり、口紅塗るだけだと思っていたのよね。今と違って動画とか参考に出来るものも思いつかなかったし」
「そうね。それじゃなくても男性だってわかるのに、メイクが浮いていたんじゃ……」
「好奇の目にさらされる? そうよ、そう言ってた」

 険悪なムードから一変して昔話に花を咲かせ始める二人。こういう和気あいあいとした空気が小さい時から好きだった。

 いい頃合いで、大きなお盆にお重を乗せた奥さんがニコニコ顔でやってきた。
「お待たせしましたね」
 匂いを振りまいてやってくる奥さんに、私は飢えた犬のように鼻をクンクンひくひくさせていたと思うし、母も鼻が動いているので同じように匂いにすっかり釣られているのだとわかった。
「ひつまぶし並みのお客様」

 言いながらしっかりオーダーを記憶している奥さんは、間違えることなくリクと私の前にひつまぶしを置き、その後「鰻重の上ですね。全部、お揃いですか?」と、愛ちゃんと母の前にも漆器に金箔が付いたお重を出した。

 蓋がついているのにどうしてこんなに香りを放っていられるのだろう。そして蓋を持ち上げた時の得も言われぬ幸福感。
「では伝票はこちらに置いていきますね」
 手書きの伝票をバインダーに差して、ひっくり返して置いていく。これも馴染みの事で、私がここに来るようになってから一度たりとも変わっていない。いつか変わってしまうのだろうか。ファミリーレストランにあるタッチパネルで注文とか、そういう電子化はこの店には必要ないと思う。というより、出来ればこのアナログのままいて欲しい。

 めいめい蓋を開けると、湯気が一斉に外へと流れて、ますます幸せな香りに包まれる。リクと私は顔を見合わせて「美味しそう」と笑顔だったし、母と愛ちゃんも笑みを交わしていたと思う。一旦休戦になり、各自箸を割って鰻を味わっていた。

 私は咀嚼しながら、こんなに楽しいのにどうして一緒に居てはだめなのか本当に理解に苦しむと母をチラチラ見ていた。母だっておいしそうだし、嬉しそうなのに、どうして愛ちゃんの主張を受け入れようとしないのだろうか。

 思えば長いこと私は一人で食事を取ってきた。それは歯磨きと同じで生きていく上での一連の動きに組み込まれていて、楽しいとか楽しくないとか、そういう感情的なことを考えることはあまりなかった。

 今はどうだ。
 リクと食べる夕食、友人たちと食べる学食、楽しくて美味しい。

 先日、私は初めて駄菓子屋さんに行った。まいまいが連れていってくれたのだ。
 食べ物の割にやたらとカラフルなお菓子たち。サイダーになると書いてある粉状のもの、常温なのにヨーグルトらしい小さなお菓子。概念が打ち砕かれることばかり。私はまだまだ知らない事が多いし、新しいものを受け入れるのは苦痛より快感だった。

「食べたことない? 試してみたら」
 ヨーグルトみたいな小さな容器を長いこと眺めていたらまいまいが横から取り上げて私の手に握らせた。
「常温で大丈夫なの? お腹痛くならない?」
 まいまいは「お腹壊す食べ物だったら売ってないから」と笑いながら教えてくれた。こわごわ買ったそのお菓子は確かにヨーグルトみたいななにかだった。
「懐かしい! 昔好きだったな」
 付き合いで同じ物を購入したまいまいが見たこともない程小さな木べらでお菓子を掬いながらニコニコと笑いかけてくる。
「ヨーグルトみたいだね」
 ヨーグルトだと断定するにはちょっと違う何かだが、確かに味は甘酸っぱくて似ていた。
「美味しいでしょ?」
「そうだね。想像よりずっといいかも」
 私の答えに「素直過ぎ」と苦笑いしながらまいまいが食べきった容器をゴミ箱へと捨てていた。

 鰻ほど美味でなくても一人で食べる鰻に比べたらきっと友達と食べる駄菓子の方がよっぽど美味しいだろう。

 かつて一人で寝ていた時私は不幸せだとは思っていなかったが、今考えるとどう考えても寂しかったのだ。ただ、母を責めるつもりは毛頭なくて、今は幸せだし、出来れば母にもこの幸せを味わって欲しいと思っているだけなのだ。

「ほら、考え事してると何食ったか分かんなくなるよ」
 リクに言われて、ああまた顔に出ていたのかと思考を振り払って今は鰻に集中することにした。鰻だって一人で食べるよりこうやって皆で食べたらより美味しい。後からベッドの中で「鰻美味しかったね」とリクと会話すれば、何度も楽しさ味わえるというものだ。

 全員が食べ終えたタイミングで奥さんがやってきて、お茶のお代わりを注いでいってくれた。再び白い湯気が上がる湯呑み、中を覗けばなみなみ注がれた深い緑色。

「それで、二人はお付き合いしだして結構なるの?」
 愛ちゃんは湯呑みを片手で持ったまま私たち二人に話を振った。リクが先に「まだそんなには経っていません」と簡潔に答えると母がうんと頷いていた。
「そうよね、最近急に連絡がおろそかになって……これは男が出来たのねって思っていたのよ。子供が出来ないように気を付けてくれたら私としては何の問題もないわ」
「お母さん……」
「大事なことじゃない。学生で子供が出来たら大変なのよ?」
 いきなり突っ込んだことをいうのはなんとも母らしい。リクはとても真面目な顔つきで真摯に「わかっています。気を付けます」と応じていた。
「姫乃は血のつながりはないけれど私としても可愛い娘なんだよね。こんな話あまり嬉しくないだろうけど、言っておきたい気持ちをわかって欲しい」
 やはり男の口調に変えてリクに話しかける愛ちゃん。

 愛ちゃんが可愛い娘と表現してくれたことに、私の心はポッと温かくなった。私も愛ちゃんは親のようだと思っていたし愛ちゃんが同じように娘のように思っていてくれたというのは本当に喜ばしいことだった。
「私はね、お母さんはもちろんお母さんなんだけど、愛ちゃんも親のように思っている。だからさ……」
 せっかく和やかな空気だったが、私はこの話題に戻さないわけにはいかなかった。母をジッと見ると母は僅かに顔を逸らせてさりげなく私の視線をかわしたのを感じた。
 だからなんだ、母の居心地が悪かろうがここはもう一度頑張らないといけないところだと、私は怯んだ心に喝をいれた。
「結婚して欲しいとか、二人が付き合えばいいとか、そういうことを言いたいんじゃないの。ただ、出来れば仲良くして欲しいし、それが出来ないなら私は愛ちゃんと個人的に連絡を取り合いたいと思ってる。だって大事な親だもん」
 私の為に号泣し手を腫らせたりしてくれる、そんな存在多くはいないはずなのだから大切にしたい。指先に宿る父親より、愛ちゃんの方がよっぽど身近な親なのだ。

 母の爪がじりじりと後退していく。そしてゆっくりと手はテーブルの下へと消えていった。
「愛ちゃん、愛ちゃんって……。私の娘なのに、愛ちゃんが大事なのね」
 それを聞いて私は本格的に口をつぐんだ。怯んだり躊躇したりしながらも前に進もうと頑張ってみたが、ここで母の空気に形勢が逆転してしまった。
 母を悲しませている。いや、母を傷付けているのだと思ったら、もう私は何も言えなくなってしまった。
「あなたを身籠ったとき、どれほど大きな決断をしたと思う? 産んだのは私、育てたのも私、それなのに娘は私じゃない人の肩を持つなんて……」

 久しぶりに私の脳内にうさたんが浮かび、あの柔らかい体を今すぐ抱きしめて布団の中に潜り込みたい衝動を感じていた。
 
 やり取りを聞いていた愛ちゃんが口を挟む。
「大事なことを見失わないで。貴美子さんらしくない。姫乃は誰より母親であるあなたが大事に決まっているのよ。そこが大前提だわ」
 言っていることは冷静だが愛ちゃんの声が焦っている。母が良からぬ方向に舵をきりだして、そういう時の母は頑固で利かん坊なところがあるのだ。普段は比較的物分かりの良い人物なのに。信念を曲げない強い人というのは、悪くいえば頑固者なのだと思う。母はその狭間でゆらゆらゆれているような人なのだ。
「あなたにこの悲しみがわかるわけないじゃない! 私の子なのよ!」
 これには愛ちゃんも言葉を失い、誰もが身動きできない状態に至ってしまった。母ですら、自分の発言に怒りを感じているのか、ショックを受けているのか、顔が青ざめていた。

 リクにこのような家族のいざこざをまざまざと見せる羽目になろうとは。恐る恐るリクを見れば、リクは出会った頃と同じように毅然と前を向くフェネックのように顔色を変えないでジッと何かを考えている風だった。
 重い空気を破って愛ちゃんが息を吐いてから口を開く。
「私が産んだ子ではないことは確かね……私は男だもの。それに、姫乃の父親ではないし。でも、突発性湿疹の時、高熱を出したこの子を救急病院に連れて行ったのは私。初めて歩いたのを見たのも私。本物の父親にはなれないし、確かに家族ではなかったけれど、親同然だと思ってきた」

 愛ちゃんも傷ついている。私が始めたことで皆傷だらけだと思うと、眉間の間にグッと何かが上がってきて、それは涙を流そうとするから私は慌てて目を閉じた。いつだって勝手気ままに振る舞う体に抗わなければならない。

「すいません。口を挟むことじゃないと思って聞いてましたけど、お二人ともヒメノが……ヒメノさんが可愛くて親権争いをしている夫婦のようです。しかも本人の前で」
 ゆっくり瞼を上げるとリクは私は見ておらず、母と愛ちゃんを交互に見ていた。
「どっちがどれくらい愛しているかなんて言い合っても無意味だと思うんです。大きさなんてどうやっても測ることはできません。それにヒメノさんからすればお二人とも親なんです。大事な人なんですよ」
 先にそれに反応を示したのは愛ちゃんだった。
「そうね。姫乃が私を親だと思ってくれていることは私にはとても……心から喜ばしい事だったわ。それを聞けただけでも十分嬉しい。貴美子さんが、私に姫乃をとられたと思うというならこれまで通り私は私の世界に戻るわ。姫乃を取り合いたいわけじゃないの。時間を共有したいし、気持ちを共有したいんだわ。逆に作用するなら私はここに来るべきではないわね」

 結局そこに戻ってしまうのかと私はがっかりしたことを否めない。一歩前進したのか、それともその場で足踏みしただけなのか、それくらいあまり変化がないように思っていた。でも、このような話し合いが続くことも正直あまり得策ではないような気持ちになっていた。
 母は真っ直ぐ進むと決めたらそうする人間なのだ。いま分岐点に立っていてどちらに行くべきか迷っているのだと思う。そしておおよそ行き先を決めつつあるように感じるのだ。それは母以外の人にとってはあまり好ましくない方向なのだ。
 母が私を愛してくれて私を取られたくないと思ってしまうなら、愛ちゃんと会ったりする機会を手放すのは仕方がないのかもしれない。
 
 そんな風に諦めかけていた私の足をリクの足が呼びかける。視線をリクに向けるとリクはなんでも理解しているような眼差しで見つめてきた。

 私はリクの言おうとすることはかなり読み取ることが出来るのだ。そうだ、諦めたら駄目だと。あれほど決心して来たのだから。リクとも約束したのだ。終わらせない努力をすると誓ったのだ。

「わ、私は諦めないからね。お母さんは確かにお母さんだけど、愛ちゃんもずっとお父──ううん、愛ちゃんだったもん。お父さんみたいだけどお父さんで居てほしいわけじゃない。ただの愛ちゃんでいい。二人に仲良くしてほしいと思うのは変わらないけど無理ならいい。ただ私はこの先も諦めないよ。だって二人は今でも笑い合えるんだから、諦めない」

 投げ出さなかった私にリクは頷くし、愛ちゃんは驚きつつやはり頷いた。お母さんは小さくため息はついたが、否定も肯定もしなかった。ひとまず否定されなかったことで私は一歩とは言わないが半歩ほど前進したのだと思うことにした。少なくとも後退してないはずだ。

 確かに話し合いは決裂し、やはりというか母の牙城を崩すことは失敗したと言っていい。ただ、穴は空けた。そうだ、風穴はあいたはずだ。可能性はある。

 その後は、食事を再開しやや重い空気ながらも大人の対応で皆、表面上は穏やかに過ごして店を出た。

「あのね、さっき愛ちゃんと『ガガン』にまた行きたいねって話していて、四人で今度はカレーを食べに行きたいんだけど」
 せっかちな私が我慢できずに母に言ったら「ヒメノ」と、リクが止めに入った。
「いえ、いいのよ。行きましょう『ガガン』ね」
 母が一応承諾してくれて「蜂蜜掛けのナンが好きだったわね、姫乃は」と昔のことを持ち出すから「ガーリックナンの方が今は好きだよ」と言い返すと「あら、そうなの?」と、愛ちゃんが加わる。
 せっかく『ガガン』に行ってから愛ちゃんに披露しようと思っていたネタなのに、私はここで自ら暴露するかたちになってちょっとがっかりだった。愛ちゃんの前で店員さんに「ガーリックナンで」と、あたかもいつもそうしてますと装うのを楽しみにしていた。だってそれを見て愛ちゃんが密かに驚くだろうから、そんなイタズラを仕掛けたかった。

 リクは大人二人に「さっきは出過ぎたことを言いました。すいません」と頭を下げていて、その後愛ちゃんと会話をしていた。長身の二人が談笑しているのを眺めていると母が私の元に来て「良いカレシじゃない。私より姫乃の方が男を見る目があるなんて癪にさわる」なんて、こそっと笑いながら囁いた。
「愛ちゃんは良い人だよ。私が言うんだから間違いない」
「あ、生意気だわ」
 明るさを取り戻した母に「お母さん」と私は母の腕に手を突っ込んだ。腕を組んで並ぶと高校卒業時にはほぼ同じ身長だったのに、ローヒールパンプスの母より少しだけ私の方が、背が高くなっていた。

 うな源の鰻が美味しいのと同じくらい、私と母の関係も続いていく。絶え間ない努力と深い愛情があれば、世の中の変化を受け入れつつ終わらずにいられるのだ。私は愛ちゃんを諦めないと決めたが、お母さんとの関係だって諦めない。これからもいい関係を築いていきたい。だって私の母なのだから。

 これまで言えなかったことが言えたことに自信を持てた。これから私は少しずつ変わっていけるはずだし、母のこともきっと変えられる。諦めないとはそういうことなのだ。

「始まったことは終わるのよ」なんて母の口から二度と出てこないように、私が行動すればいい。意志の弱い私だけど、今は支えてくれるリクや友人がいるのだから、出来ると思うのだった。
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