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さて、そこの詩人さん。シャワー入るよと声を掛けられて、私は日課になったリクとのお風呂タイムに心が躍るのだから、本当に罪深い。
いつもと変わらぬざわついた大学のロビー、色褪せたソファーが定位置になりつつある私とまいまいは他愛もない話をしながら専攻の違うリクたちを待っていた。今日はこれから母の待つ地元にリクと帰る、そんなことをまいまいに話しているところだった。
まいまいは花魁のようにえり抜きした着方をしているベージュのボアジャケットの前をしきりに掻き合わせている。寒いならしっかり着ればいいのにと思うけれど、きっとこれにはまいまいなりのこだわりがあるはずだから、そういう事は口にしないことにしている。
友達とはいえ口を出していい範囲というものがきっと存在するはずなのだ。だって友人関係というのはなんとも難しいバランスで成り立っているのだ。たとえその着方が寒そうでも、まいまいが良いなら口を出さない方がいいのだ。でもくしゃみをしたら私はきっと忠告するだろう。友達とはそう言うものなんじゃないかと、考えるようになっていた。
「じゃあ、もうお母さんに紹介するんだぁ。早いなー。でも、リクのお陰で不眠症が治った訳だし、色んな男と寝ていた姫乃を許すくらいリクも好きなんだからありだね、あり」
前半は良いのだが、後半は事実だとしても耳が痛い話だったが、私はうんうんと頷いていた。友達だからいいのだ。
「同棲しちゃってるし、親公認の方が気持ち的に楽だしね?」
「誰の気持ち的に?」
「リクだよ。やっぱ、親に黙って同棲しているのがバレたらリクの肩身が狭いじゃん」
「私は?」
「男の親はそんなに心配しないんじゃないの? たぶん、そういうもんだ、うん。ま、私は親でもなければ男でもないしわかんないけどね」
「そうなんだね。じゃあ、私はリクのご両親にご挨拶しなくていいの?」
「結婚するわけじゃないし、まだいいでしょー。あ、来た来た」
まいまいは手を上げ、並んで歩いてくるリクと今井にここにいることをアピールし、二人は軽く手を上げ返した。
「今井もさ、黙ってれば結構カッコいいのにね」
まいまいはまだ距離のある二人を眺めながら、自分の腕を下ろす。まいまいが今井をそんな風に思っていることが意外で、今日もリク相手に口を動かすのが止まらない今井を見つめた。
まいまいの彼氏は、もっと怖そうな感じの人だった。写真で見ただけだけれど、今井とは似ても似つかない雰囲気だったが、それでも今井をカッコいいと思うのか。時々まいまいの行動がよくわからないが、私はそれを許容する。だって友達なのだから。
「意外? なんかさ、今井っておしゃべりだけど嫌な感じじゃないし、飽きさせないじゃない? カレシなんてなんかいっつも不機嫌でさ……最近、合わないんじゃないかって思ってきちゃってねぇ。今井と居たほうが気が楽だし楽しい気もするんだよねー」
今井って悪い人じゃないしね。なんて付け加えるまいまいに私は同意の意味を込めて頷いた。
「意外だけどいいと思う。私も今井は好きだよ……えっとリクを好きなのとはちょっと違うんだけど」
アハハと声を出しながらまいまいは私の肩を「んなこと聞かなくてもわかってるって」と、叩くので、私はその反動で体が揺れた。
「わかるの? 私の好きの違いが?」
「わかるに決まってるじゃん。恋愛感情って自分じゃわからなくても、傍から見てれば手に取るように分かったりするもんだしね。面白くない? 自分で気が付いてない気持ちに周りは気が付いちゃったりするって」
それはとても興味深い話だった。自分でも気が付かない感情に他人が気付くなんて、それはどういう状況なのだろうか。私はそういう体験をしたことがないので、想像できないけれど……私とリクが付き合うという話をした時、まいまいも今井も「だよな」とか「やっとか」という、まるでとっくにわかっていた口ぶりだった。
「何難しい顔してんだよ、この鰻女!」
今井はこんな風に変なあだ名をつけたがるが、それは一過性のもので本人ですら直ぐに命名したことを忘れてしまう無駄な趣味のようなものだった。
たとえゾンビちゃん──眠気でぼんやりしていることが多かった時、魂が抜けているみたいだと名付けられた──と言われようと、今井にとってはそんなに深い意味はないので、誰もが黙認しているし、言われても不快感もない。少なくとも私はなんとも思わなかった。
「鰻いいよね、私も食べたいな」
まいまいはこのメンバーだとあまり自分を偽らないでさばさばした話し方をするようになっていた。それはとても喜ばしいことだし、リクも可愛い子ぶった偽りのまいまいよりこちらのほうがよっぽど話しやすいと言っていた。
「だよな! 悔しいから俺たちも鰻食いにいっちゃう?」
今井の軽い誘いに、まいまいがぐっと言葉を飲んだ気がして私は思わずこれか。と、目を見張った。まいまいは口で言っているよりももっと今井を意識しているのだと知って、それがこんな私にも手に取るようにわかったことがどういう訳かやたらと気分をハイにさせた。
「行ったらいいじゃん、行ったらいいよ」
私が盛り上がると「だよな、俺たちだって鰻食っちゃうんだぜー」と今井も軽いノリで合わせてきた。でも、まいまいは私たちに冷静な声で「私これからデートだからさ」と、宣言し立ち上がった。
「なんだ、俺よりカレシが大事かよ。冷たいわー」
座ったまま、下から見ていた私だから気がついた、まいまいの百面相。困惑、悲愴、憤怒に恋慕だろうか、溢れかえったあらゆる感情の全てを消し去った無表情からの笑顔。そう笑顔を作ってから今井に顔を向けていた。
「当たり前でしょ! カレシなんだから」
「あんまり優しくない男だろー、そんな奴捨ててしまえっ」
「うるさいよ、今井」
まいまいはきっと今井を好きなはずなのに、今はなんとなく本気で怒っているようだ。あの複雑な百面相の一つ一つの意味も、人の気持ちを読むことが初心者な私には理解できないものだ。
きりっとした顔をし「じゃあ、私は行くからまたね」と、まいまいはぴんと背筋を伸ばして風を切って去っていく。
私たちもまいまいに引っ張られるように立ち上がり、まだ講義を受ける予定の今井に別れを告げて駅に向かい母の待つ街へと行くため電車に乗った。
二月も半ばになると日はだいぶ長くなるのに、寒さは今がピークだという矛盾を、鋭く車内に入り込んでくる夕日に目を細めて考えていた。
丁度、学生たちが帰宅する時間帯で電車の中は混んでいて座ることはできなかった。
リクと手を繋いで車窓の外を見つめながら、他の乗客にはぎりぎり触れないまま揺られていた。駅に停まるたび、歯抜けのように座席に空席が出来てリクが座るかと視線で問いかけてきたが、私は一人しか座れないそれには座りたくなくて、毎度首を振り続けた。
「ごめんね、付き合わせて。座りたいならリクが座って」
三回目の時にとうとうリクにそう告げると、リクは「いや、別に立ってるのは苦じゃないよ。俺も高校は電車通学だったからちょっと懐かしい」と、私の我儘に付き合ってくれる。ありがとうという気持ちを込めて握っている手にキュッと力を籠めると、リクも同じように返してくれた。そんな私たちをチラリと見上げる男子学生と私は目が合ってしまい、意味もなく照れてしまった。
私は今最高に幸せなのだと感じ、そうすると突き刺すような夕日ですら温かい毛布みたいな柔らかい光に感じるのだから、気持ちの持ち方一つで色々変わって面白い。
「リク」
「ん?」
「なんか、いいよね」
「何が?」
「色々。なんだか幸せ」
つり革を握って前を向いたままリクが「それはいい事だ」とほほ笑むから、私は心がふわりと温かくなった。
男子学生がチラリとまた私たちを見てやれやれという顔をしてもかまわない。私は幸せを知って浸っているのだから、誰がどんな風に思おうとどうだっていいのだ。
駅について人が降り、代わりにホームで凍えた人が身を縮めて乗ってくる。そうやって幾度も同じようなことを繰り返し、とうとう母が待つ私の育った町まであと一駅の所までやってきた。刺すような日差しもその頃にはもうほとんど夜に溶けてしまっていた。私は相変わらずリクと手を繋いで立ったまま、窓の外を眺めていた。
電車がスルスルとホームへ滑り込んでいく、車窓の外に居る人々がストロボで連写された映像みたいだった。
時々セピア色の混ざったモノクロームの映像が、パラパラと過ぎていくのを眺めていたはずなのに、私の連写は急に止まり、長身のサラリーマンに一色になった。その瞬間握っていたリクの手をパッと離していた。
ガタンと止まった反動で押し返された車両、立っていた人がふらつく程の揺れもものともせず、ドアへと向かって走り出す。降りようとドアの前に立って準備していた人を追い抜かして、降り立ったホーム。冷たい風が吹き抜けて私の髪をさらう。自分の髪が視界を遮るころを忌々しく感じながらも、それをどうにかすることもなくホームを駆けていく。
「ヒメノ!」
けたたましい出発音や独特な駅員のアナウンスの合間を縫ってリクの声が遠くに聞こえたが、今だけは振り返ってはいられない。
だって、私は見つけてしまったのだから。
「愛ちゃーん!」
私は人目をはばからず出せるだけの大声をあげ、もうその時ほとんど泣いていた。そんな私を誰も彼もが振り返り見つめていたが、私には視線などなんの障害にもならない。むしろ吹きすさぶ風と同じで、あってもなくても変わりない。感じないものはあっても無いのと一緒だ。
紺のスーツをびしっと着こなした男性が足をつと止めて、それから顔を先に、次に首を回して最後に体を返す。
「姫乃……」
囁くように呟いた声を私が聞き取っていたのは、もうその男性の胸に突っ込んでいたからで、受け止めて貰った体はスッポリとそこに収まっていた。
忘れそうだった愛ちゃんの声とか体温とか。それにこの手、大きな手。それらを感じて……涙が堰を切ったように溢れてきた。
忘れそうだったよ。そう言ったつもりだったのに、口を開いた私は声を発することも出来ずに、ワンワン泣いた。かつて愛ちゃんが私の為に泣いてくれたみたいに、声を上げて泣いていた。何か言おうとすれば愛ちゃんの匂いがして、それだけでとにかく泣けるのだ。もう、会えないかもしれないと思っていた愛ちゃんがここに居て、触れられるという事実に涙が止まらなくなっていた。
「姫乃、泣かないで。ほら、私まで泣けてきちゃうから」
私はそっと顔を上げて愛ちゃんを見上げ、そんな私を短髪になった愛ちゃんも涙を浮かべて見下ろしていた。口元は上がっていて、それなのに涙で光る目尻は困ったように下がっている。
「会いたかった……」
馬鹿な私は安易に口にして、自分の発した言葉でまた号泣し、愛ちゃんも美しい顔に一筋涙を流した。
口に出した言葉は私に自覚させる。私は愛ちゃんに会いたかった。本当ずっと会いたかったのだ。たとえ、色褪せた花瓶を捨てようが、愛ちゃんの痕跡を袋に詰め込もうが、私の中の愛ちゃんは決して消えることがなかったのだ。
私たちを置いて、人々は流れていく。どんなに驚こうが気を引こうが、横目で見ながら去って行く。そう、電車すら私を置いて去って行った。リクを乗せたまま。無我夢中で愛ちゃんにしがみついていた私には何も見えていないばかりか、何も聞こえていなかった。
愛ちゃんに抱きしめられて泣いていた私がリクを置いて電車から飛び降りてしまったことや、母との約束を思い出したのは気のすむまで泣いた後だった。
「泣き止んだ?」
愛ちゃんは私の頭を撫でて顔を覗き込む。化粧をしていた時の愛ちゃんとは様子は違うが、愛ちゃんのすっぴんは見慣れていたので違和感は覚えなかった。むしろ髪が短くなっているというのに長い髪が揺れて見える気がする。
「また会えるなんて……大人びてしまって……身長も伸びたわね。お化粧しているの? とてもいいわ」
「会いたかった」
そう伝えると私はまたググっと涙がこみ上げてくるので、息を止めた、グッと息を押さえ込むと、涙は上げていた水位を少し下げていくような気がする。
「どうしてここに?」
愛ちゃんが私に問う。それで私はハッとして後ろを振り返ってそこに乗ってきた電車が居ないことに気が付く有様だった。ガランとしたホーム、はっきりと見えるレール、電車が去って行った方向を見ても既に影も形も見えなくなっていた。電車の明かりすら見えないのだ。夜だけがそこにいる。
「ああ! どうしよう。私、飛び出してきちゃって……リク、リクに連絡を。ああ! お母さん、お母さんにも」
慌てふためいて、ポケットを漁る私の為に愛ちゃんが一歩体を引いて自分もポケットに手を突っ込んでいた。愛ちゃんが取り出したのはバーバリーのハンカチで、慌てふためく私の頬に押し敢えて涙を拭ってくれていた。
「そのリク? くんと一緒だったのね。何も言わずに降りてしまったってこと?」
私は俯いて、取り出したスマホを操りながらコクコクと頷いた。
『リク、ごめんなさい。今どこ?』
送ったメッセージに既読が付くのを待つが、一秒、二秒、思いのほかそれは読まれない。
『リク、どこまで行った?』
もう一つ、ほとんど同じような内容の文章を打って送ったが答えはない。ジッと待っていてくれた愛ちゃんが、画面を覗き込んで「見てないみたいね」と静かに告げた。
「カレシ? リクくんって」
愛ちゃんはスマホを見つめて動けなくなっている私の目尻にハンカチを這わせる。
「うん……」
「そう。……私に抱き着いているのを見てしまったのかもしれないわね」
スマホから視線を上げて愛ちゃんを見上げると、愛ちゃんは困った顔をしてネクタイを緩めていた。
「男なのよ、私は今。わかるでしょ? 姫乃からしたら私は昔のままに見えるかもしれないけれど、傍から見ればたぶん普通の男だわ」
その通りだ。私には愛ちゃんの長い髪が見えるような気がするけれど、実際にはないのだし、目の前に居るこの人は……母がいうところの会田くんだ。愛ちゃんの本来の姿なのかもしれないし、それは仮の姿かもしれないけれど、どちらにせよ今は男性だ。スーツをパリッと着こなしたスッキリとした顔立ちのサラリーマン。
「リクくんのは既読待ちとして、お母さんに連絡もした方がいいのかしら?」
「あ!」
また母を蔑ろにしていた。私は母には直ぐに電話を掛けてみる。自分と同年代の人には電話をすることはあまりないが、母には大抵電話を掛ける暗黙のルールが私の中に存在しているからだ。
「もしもし、お母さん。あのね……」
直ぐに電話に出た母に事情を話そうと思ったが、チラリと見上げた愛ちゃんが首を振るので私はかなり頑張って愛ちゃんに会った事実を隠しながら話していく羽目になる。
「えっと、ごめんね……今日はそっちに行けなくなっちゃって。あ、ううん、来たんだよ途中まで。うん、でも、あの、リクとはぐれてしまって」
嘘はつきたくなくて、言える事実を探して伝えていくという難しさ。母だって大事なのに、リクに比重が大きく向いていることに申し訳なく思うし、今はそのリクより愛ちゃんとの時間を最優先にさせている。母に隠れて愛ちゃんと一緒にいることは酷く居心地が悪かった。
「絶対にまた行くから。ごめんなさい。あの、本当にごめんね」
母は残念そうではあったが「ケンカをしたなら早いうちに仲直りしなさい」と、アドバイスしてくれて電話を切った。
「お母さん、元気そうね。少しだけ声が聞こえたわ」
愛ちゃんの微笑みはどこか寂しそうで、私はまだ既読のつかないリクへのメッセージに傷付きながら、スマホをポケットに捻り込んだ。
「元気。でも、愛ちゃんが居なくなって前みたいな感じじゃないんだよ」
愛ちゃんは眉根を持ち上げて寄せると、私をベンチまで誘った。二人でそれに隣同士で腰をおろす。
「姫乃は怒ってるわね、そうよね。なんの事情も知らされずに私が居なくなったわけだし」
「ううん怒ってない。ただ、寂しかった」
愛ちゃんはまた微笑むがそれは明らかに困った表情だった。私は母を蔑ろにして自分を責め、今度は愛ちゃんを困らせていることに罪悪感を覚えて気分は落ちていくばかりだった。
「説明すべきだったわね。本当はずっとそう思って後悔してきたの。あなたって子はじっと我慢して時を過ぎるのを待つタイプだから。耐えて耐えて、どこまでも耐える子。寂しい思いをさせていたら申し訳ないなって」
愛ちゃんは背負っていたリュックを下ろし自分の胸に抱えると、ギュッとそれを抱き締めた。
「私はね、あの頃。お母さんと姫乃と三人、家族になりたかった。とても大事だと思っていたし……親として姫乃を守りたかったし、夫としてお母さんに寄り添いたかったの。でもね、お母さんには断られてしまって」
そこで僅かに笑う愛ちゃんを私は抱き締めてあげたくなって、でも愛ちゃんがリュックなんて抱いているから手持ち無沙汰の思いが私の指を不満そうに揺すっていた。悲しくても人は笑うし、今はそれだと直感でわかったのに、私は抱き締めてもあげられない。
「姫乃は私みたいな人に会ったことがある?」
もどかしさにウズウズしていた指を握り締めて、愛ちゃんの問いに意識を向ける。愛ちゃんみたいな人。それは即答できる。直ぐに顔が思い浮かんだ。
「愛ちゃんみたいな? ああ、リク。優しいんだよ、愛ちゃんみたいに」
愛ちゃんは今度こそ楽しそうに笑ってくれた。目の下に縦に入る笑い皺、知っている限り愛ちゃんにしかないこれをずっと見たかった。それはとても私の心を温かくする。この笑みだ。この笑みを見ていたい。
そういう意味ではないのよ。と、ゆっくり笑いを収めて語り出す。
「私は女装癖があるでしょう? 前はずっと女性の恰好をしていたし、そういう事をしている時は……気持ちも少し女っぽくなって男性と恋愛することもなくはなかったの。でも、元々そういう、言ってしまえば性同一性障害とかではなくてね、女装をしたい男ってだけだったのよね」
まばたきをして愛ちゃんの言おうとしていることを理解しようとしていた。てっきり愛ちゃんは女性になりたい男性だと思い込んでいたので、説明された内容は私にとって意外なものだった。女性の恰好をしたいだけの男性で、ってことは愛ちゃんは思ったよりとてもただの男性だったということだろうか。
「でも、話し方とか……」
「姫乃の前ではずっとこの話方だったから、男らしく話す方がちょっと照れくさいのよ。だって変に思わない? 俺、男だからこういう話し方するからとかさ」
後半、男らしく話す愛ちゃんに「おお……」と思わず声を漏らしてしまった。違和感だらけで、確かに変に思うかもしれない。私の中の愛ちゃんはいつだって優しく女らしく話す人だったのだから。私が驚いたものだから愛ちゃんはとても照れて「だからね、なんとなく男言葉は使いにくくって」とはにかんでみせた。
愛ちゃんの指は女性より美しいし、爪だって色こそついていないが今もまだ磨かれていて艶やかだ。引いて見れば男性だけれど、近寄れば女性的なところがそこここに散らばっている。
「小さい時から綺麗なものが好きだったのよね。爪だって綺麗に整えられているのを見るとちょっとテンション上がるでしょ? そういうのの延長っていうか、私の顔もファンデーション塗ったら肌が美しく見えるんじゃないかとか、睫毛もカールさせて……そうやってどんどんお化粧することの喜びを知っていったのよね。で、顔だけ女性的だとなんだか違和感があるから服装も女性ものを身に着けるようになって、そうすると言葉使いだってなんとなくね」
愛ちゃんはそこでニッコリ笑って「理解しがたいでしょ? 気持ち悪いかしらね」とやけにすっぱりと言ってみせた。私は理解したかったし、とはいえ理解できたかどうかはわからないが、気持ち悪いという感情は微塵も持たなかったので、ただただ首を振った。
「綺麗な愛ちゃんが好き。愛ちゃんは愛ちゃんだから……男の人でも女の人でもないんだ」
要領を得ない言い方だったのは重々承知していたが、愛ちゃんはそれでも一つ頷いて「わかるわ」と、理解してくれた。
「悪口ではないのだけどね、お母さんは駄目な男の人に弱いのよ。本当に男を見る目がないわけ。でもね、私はそれもお母さんの一部だと思っていて、そういうところも全部好きなのよ。わかるでしょ?」
愛ちゃんはどんな見た目でも愛ちゃんであるように、お母さんはどんな男の人を好きになろうともお母さんとしての本質は変わらないので同じだと言いたいのだと理解した。
「あ、だからお母さんは愛ちゃんとは結婚できなかったんだね。愛ちゃんは駄目な男の人じゃないもの」
腑に落ちた私の言葉に愛ちゃんはアハハと声に出して笑った。
「有難い言葉だけど、そこは違うのよ。お母さんってば頭固いところあるじゃない? こうと決めたらこうみたいなね。お母さんの中で私は性同一性障害の男なわけよ。だから、それを押してお母さんと同情で結婚するなんて絶対あってはならないことだって言い張ってね……聞く耳を持たなかったの」
「それってば、お母さんらしい」
それは全く嫌な雰囲気ではなくて、とても穏やかな同調だった。
母は毅然とした人間で、しかし少しばかり了見が狭い所があるのだ。私の不眠症だって母が良しとしてくれたことで私はそのままのんびり不眠症を抱えていたけれど、実は案外簡単に治すことができたのかもしれない。母の判断を非難するわけではないが、確かに決めたことはとことん突き通すところがあるのは確かなことだった。
「最後は言い合いになってしまってね……わからず屋なんだもん。私はずっと愛していたのに、伝わらなくて。でもね、お母さんのその主張も私への愛情なのよね。そう思ったから私はこじれる前に身を引いたの」
「うーん、難しいね」
「そうね。でも、やっぱり後悔したわね。お母さんと姫乃と毎日居られた生活を私は手放して、本当に後悔したわ」
これこそ、私の求めていた答えだった。あまりの感動に再び愛ちゃんに抱き付きたかった。だが、そこにはやはりリュックという邪魔物がでんと居座り私を阻むのだ。
「私ね、愛ちゃんとはずっと一緒に居たいよ。二人が上手くいかなくても、私が愛ちゃんを好きなことに変わりはないから」
「姫乃……たら」
愛ちゃんの細い指が私の顔の方へと延びてきて、髪を耳に掛けた。
「大人になったわ。自己主張するということをお母さんのお腹に忘れてきてしまったのでないかしらって心配したのよ。それがちゃんと出来るようになって……」
「終わらせたくないなら終わらないように努力しようってリクが」
「いいカレシ。既読はついたかしら?」
ここ最近の私はどんなことよりもまずはリクだったのにこの短い時間だけだが、すっかりリクの事を忘れていた。びっくり仰天してる場合ではない、スマホをポケットから取り出して画面を点ける。
「既読になってない……」
忘れていた私が言うのはおこがましいが、リクは私のことなどどうでもいいのだろうか。スマホを見ないなんてリクらしくない。
「あら、それはいつものことなの?」
「ううん、返事は遅れたりするけどバイト中じゃなければ既読はつく」
黙って愛ちゃんは立ち上がりずっと抱えていたリュックを背負った。スマートなサラリーマンとなった愛ちゃんはそれでも昔と変わらぬ笑顔で私にいう。
「きっと誤解されたのよ。鉄は熱いうちに打てと言うじゃない? リクくんと話さなきゃ。手遅れにならないうちに」
釣られて立ち上がった私を愛ちゃんはそっと抱き寄せた。
「夢みたいだったわ。私を見つけてくれてありがとう」
私は知ってしまったから、抱き寄せられたままではいられない。自分からガッと愛ちゃんを抱きしめて力を込めた。離すものか、全身全霊を込めてしがみつく。
「お別れみたいに言わないで。私はもう愛ちゃんを失うのは嫌なの。リクも大事、愛ちゃんも大事、お母さんも大事。全部終わらせるなんてことしない」
傍から見たら抱き合っている男女に見えるだろう。見えるというかその通りなのだが、私は愛ちゃんを男とか女とか性別なんて関係なく、ただ親のように思っているのだと感じていた。指先に宿る父親よりも父だった。
「姫乃、気持ちはありがたいけれど……私も会ったりしたいけど……やはりお母さんに内緒にして会ったりするのは申し訳ないわ。なんて言ったって、あなたはお母さんの娘なのだから、お母さんをないがしろには出来ないの」
顔を上げた私に愛ちゃんはおでこにチュッとキスをして、それからそっと私の体を自分からはがしていく。
「そうねぇ……私も二度と会えないと思っていたから、こんな風に再会できて嬉しかったし、終わらせたいわけではないのよ。うーん、もう一度、私もお母さんに会ってみようかしら」
「ほんと! そしたら私が会う機会作る」
「ありがとう。恰好悪いところ見せてしまうかもしれないけれど、がっかりしないでよ?」
「恰好悪いところ?」
「お母さんに振られる私」
そんなことにはならないと言いたいところだが、母はなにぶん頑固なところがあるから違う言葉を探した。愛ちゃんを失い、あんなに寂しそうだったし、未だに喪失感にうろたえていても、母はきっと本領発揮して頑固さを見せつける気がするのだ。
「私が居るから! お母さんに断られたって私はこの先も会いたいってお母さんに言う。そしたらお母さん抜きでも会えるでしょ?」
伏し目がちに考える愛ちゃんに焦れて、ウンって言ってよと揺さぶりたくなった。愛ちゃんだって後悔したと言っていたのだから、私と会うと言って欲しい。終わりにしない努力を愛ちゃんにだってして欲しいのだ。
「とにかく話に行くことにするわ。連絡を取れるようにしたいから、スマホを出して」
明言を避けた愛ちゃんが初めて憎らしく思えて、不貞腐れ気味で私はスマホを出していた。スマホを見た私は、未だリクから既読がついていないことに更に拗ねて愛ちゃんと連絡先を交換する。
拗ねていたくせに、画面に愛ちゃんのアイコンがぴょこんと登場すると、私は馬鹿みたいに心が弾んでしまった。どこだかわからない南の島の写真が出たからではない。『会田』と名前が出てきたからだ。
大きな感動に両手でスマホを持って、じっと見つめていた。愛ちゃんが私のスマホに居る。これは凄いことだ。もう会えないかもしれないと思ったのに、愛ちゃんがここに居る。ボタンを押せば愛ちゃんに繋がれるのだ。早速『会田』の名前の横に『愛ちゃん』と加えて私は満足して顔を上げる。
「仕事中は反応しないときの方が多いけど」
「うん、もちろん」
「なんでも連絡していいのよ」
「愛ちゃんも」
微笑んだ愛ちゃんを写真に撮りたい衝動にかられたが、さすがにそこは我慢して後ろ髪を引かれる思いで愛ちゃんとは別れた。
リクのアパートに帰宅すると、リクは既に部屋の戻っていた。
「ただいま」
空気を読めない私でも、これはわかる。リクのよそよそしい「おかえり」は明らかに不機嫌だった。
「あの、既読つかなくて……心配してた」
おどおどと話しかける私にリクはテレビを見つめたまま「そう?」と顔も向けない。言葉を探りながら何か言わなければと手に汗が滲んできていた。
「あのね、あの人は前から話していた愛ちゃんなの。男の人なんだ愛ちゃんって」
「それは理解した」
わかってくれたのかと安心したが、じゃあなぜ怒っているのだろうと、更に私は路頭に迷う。わからない。どうしたらいいのか、何を言うべきなのか。
「いいからさ、大丈夫だから風呂でも入ってきなよ」
リクはそう言ったが私は大丈夫だと思えなかった。ただ一度もこちらを向かないから、そんなリクは初めてで気落ちせずにはいられないのだ。
動こうとしない私にリクは自らの髪を掻き乱してから、やっと見てくれた。
「嫉妬したし、まだちょっとモヤモヤするから一人で風呂に入って。その間に落ち着いておくから」
「うん……。あの、嫉妬? しなくていい相手だよ。だって──」
「わかってる。わかってるけどなんか落ち着かないの。で、こういう姿は見せたくないんだよ。そこはわかって」
どうしてなのか問いたかったが、色んなことが欠如した私でも唯一出来ることがあった。それはリクの気持ちを汲むことだ。
世の中は口で説明することのできないこともあるのだと思いながら、一人で浴びるシャワーのお湯は、なんだかいつもより元気がなかった。シトシトと降り注いで私を濡らしていった。
翌日、表面上なんとか元通りになった私たちは一緒に大学に行き、学部が違うので早々に別行動となった。
一人、空き時間にベンチに座っていたらスタスタと真っ直ぐ今井が近寄ってきた。今井はすれ違う人すれ違う人、皆友達なのだろうか。次々に声を掛けられたり、掛けたり。
「よぉ、今日はロンリープリンセスか」
またも訳のわからないことを言いながら隣に座り込んだ。
「今井も一人なんだね」
「リクが参考書買いに生協にな! 互いの愛が深いから離れてても俺たちは繋がってんだぜ?」
私は宙をぼんやり見上げて「そっか」と呟いた。そんな私を横目で見た今井はベンチに胡座をかきながら言う。
「いいか、人ってのは頭でわかっててもなんか嫉妬したりとかすることってあんだわ。くだらねぇーって心の声にむしゃくしゃしてんのに、収まらなくてイライラするってヤツ」
「あ、聞いたの? 昨日のこと」
「軽くな。嫉妬するって恥ずかしいじゃん? 少なくとも男ってそういう質だから、理解してやれよ」
私は頷いて理解を示したつもりだったのに、今井は盛大なため息をついた。
「わからんか、ロンリープリンセス。まぁ、色々気にすんなよ。普通にしてろって」
「理解してるってば!」
「じゃあ、次は普通にな。ちょっと口を半開きにしてみ? で、目線は空寄り。そうだ、それがお前のいつもの顔だ」
ちょっと間抜けな顔にさせられて、それが普通の顔とか言われたら腹が立つ。でも、確かにこれが今井だし、いつもの今井だ。優しく諭してくれる今井なんてなんだか気味が悪い。
「なんかわかった気がする」
私が真面目に言うと、今井は「だなー」と、よくわからない相槌をした。そうこれが今井だし、それでいいのだと思っていた。
いつもと変わらぬざわついた大学のロビー、色褪せたソファーが定位置になりつつある私とまいまいは他愛もない話をしながら専攻の違うリクたちを待っていた。今日はこれから母の待つ地元にリクと帰る、そんなことをまいまいに話しているところだった。
まいまいは花魁のようにえり抜きした着方をしているベージュのボアジャケットの前をしきりに掻き合わせている。寒いならしっかり着ればいいのにと思うけれど、きっとこれにはまいまいなりのこだわりがあるはずだから、そういう事は口にしないことにしている。
友達とはいえ口を出していい範囲というものがきっと存在するはずなのだ。だって友人関係というのはなんとも難しいバランスで成り立っているのだ。たとえその着方が寒そうでも、まいまいが良いなら口を出さない方がいいのだ。でもくしゃみをしたら私はきっと忠告するだろう。友達とはそう言うものなんじゃないかと、考えるようになっていた。
「じゃあ、もうお母さんに紹介するんだぁ。早いなー。でも、リクのお陰で不眠症が治った訳だし、色んな男と寝ていた姫乃を許すくらいリクも好きなんだからありだね、あり」
前半は良いのだが、後半は事実だとしても耳が痛い話だったが、私はうんうんと頷いていた。友達だからいいのだ。
「同棲しちゃってるし、親公認の方が気持ち的に楽だしね?」
「誰の気持ち的に?」
「リクだよ。やっぱ、親に黙って同棲しているのがバレたらリクの肩身が狭いじゃん」
「私は?」
「男の親はそんなに心配しないんじゃないの? たぶん、そういうもんだ、うん。ま、私は親でもなければ男でもないしわかんないけどね」
「そうなんだね。じゃあ、私はリクのご両親にご挨拶しなくていいの?」
「結婚するわけじゃないし、まだいいでしょー。あ、来た来た」
まいまいは手を上げ、並んで歩いてくるリクと今井にここにいることをアピールし、二人は軽く手を上げ返した。
「今井もさ、黙ってれば結構カッコいいのにね」
まいまいはまだ距離のある二人を眺めながら、自分の腕を下ろす。まいまいが今井をそんな風に思っていることが意外で、今日もリク相手に口を動かすのが止まらない今井を見つめた。
まいまいの彼氏は、もっと怖そうな感じの人だった。写真で見ただけだけれど、今井とは似ても似つかない雰囲気だったが、それでも今井をカッコいいと思うのか。時々まいまいの行動がよくわからないが、私はそれを許容する。だって友達なのだから。
「意外? なんかさ、今井っておしゃべりだけど嫌な感じじゃないし、飽きさせないじゃない? カレシなんてなんかいっつも不機嫌でさ……最近、合わないんじゃないかって思ってきちゃってねぇ。今井と居たほうが気が楽だし楽しい気もするんだよねー」
今井って悪い人じゃないしね。なんて付け加えるまいまいに私は同意の意味を込めて頷いた。
「意外だけどいいと思う。私も今井は好きだよ……えっとリクを好きなのとはちょっと違うんだけど」
アハハと声を出しながらまいまいは私の肩を「んなこと聞かなくてもわかってるって」と、叩くので、私はその反動で体が揺れた。
「わかるの? 私の好きの違いが?」
「わかるに決まってるじゃん。恋愛感情って自分じゃわからなくても、傍から見てれば手に取るように分かったりするもんだしね。面白くない? 自分で気が付いてない気持ちに周りは気が付いちゃったりするって」
それはとても興味深い話だった。自分でも気が付かない感情に他人が気付くなんて、それはどういう状況なのだろうか。私はそういう体験をしたことがないので、想像できないけれど……私とリクが付き合うという話をした時、まいまいも今井も「だよな」とか「やっとか」という、まるでとっくにわかっていた口ぶりだった。
「何難しい顔してんだよ、この鰻女!」
今井はこんな風に変なあだ名をつけたがるが、それは一過性のもので本人ですら直ぐに命名したことを忘れてしまう無駄な趣味のようなものだった。
たとえゾンビちゃん──眠気でぼんやりしていることが多かった時、魂が抜けているみたいだと名付けられた──と言われようと、今井にとってはそんなに深い意味はないので、誰もが黙認しているし、言われても不快感もない。少なくとも私はなんとも思わなかった。
「鰻いいよね、私も食べたいな」
まいまいはこのメンバーだとあまり自分を偽らないでさばさばした話し方をするようになっていた。それはとても喜ばしいことだし、リクも可愛い子ぶった偽りのまいまいよりこちらのほうがよっぽど話しやすいと言っていた。
「だよな! 悔しいから俺たちも鰻食いにいっちゃう?」
今井の軽い誘いに、まいまいがぐっと言葉を飲んだ気がして私は思わずこれか。と、目を見張った。まいまいは口で言っているよりももっと今井を意識しているのだと知って、それがこんな私にも手に取るようにわかったことがどういう訳かやたらと気分をハイにさせた。
「行ったらいいじゃん、行ったらいいよ」
私が盛り上がると「だよな、俺たちだって鰻食っちゃうんだぜー」と今井も軽いノリで合わせてきた。でも、まいまいは私たちに冷静な声で「私これからデートだからさ」と、宣言し立ち上がった。
「なんだ、俺よりカレシが大事かよ。冷たいわー」
座ったまま、下から見ていた私だから気がついた、まいまいの百面相。困惑、悲愴、憤怒に恋慕だろうか、溢れかえったあらゆる感情の全てを消し去った無表情からの笑顔。そう笑顔を作ってから今井に顔を向けていた。
「当たり前でしょ! カレシなんだから」
「あんまり優しくない男だろー、そんな奴捨ててしまえっ」
「うるさいよ、今井」
まいまいはきっと今井を好きなはずなのに、今はなんとなく本気で怒っているようだ。あの複雑な百面相の一つ一つの意味も、人の気持ちを読むことが初心者な私には理解できないものだ。
きりっとした顔をし「じゃあ、私は行くからまたね」と、まいまいはぴんと背筋を伸ばして風を切って去っていく。
私たちもまいまいに引っ張られるように立ち上がり、まだ講義を受ける予定の今井に別れを告げて駅に向かい母の待つ街へと行くため電車に乗った。
二月も半ばになると日はだいぶ長くなるのに、寒さは今がピークだという矛盾を、鋭く車内に入り込んでくる夕日に目を細めて考えていた。
丁度、学生たちが帰宅する時間帯で電車の中は混んでいて座ることはできなかった。
リクと手を繋いで車窓の外を見つめながら、他の乗客にはぎりぎり触れないまま揺られていた。駅に停まるたび、歯抜けのように座席に空席が出来てリクが座るかと視線で問いかけてきたが、私は一人しか座れないそれには座りたくなくて、毎度首を振り続けた。
「ごめんね、付き合わせて。座りたいならリクが座って」
三回目の時にとうとうリクにそう告げると、リクは「いや、別に立ってるのは苦じゃないよ。俺も高校は電車通学だったからちょっと懐かしい」と、私の我儘に付き合ってくれる。ありがとうという気持ちを込めて握っている手にキュッと力を籠めると、リクも同じように返してくれた。そんな私たちをチラリと見上げる男子学生と私は目が合ってしまい、意味もなく照れてしまった。
私は今最高に幸せなのだと感じ、そうすると突き刺すような夕日ですら温かい毛布みたいな柔らかい光に感じるのだから、気持ちの持ち方一つで色々変わって面白い。
「リク」
「ん?」
「なんか、いいよね」
「何が?」
「色々。なんだか幸せ」
つり革を握って前を向いたままリクが「それはいい事だ」とほほ笑むから、私は心がふわりと温かくなった。
男子学生がチラリとまた私たちを見てやれやれという顔をしてもかまわない。私は幸せを知って浸っているのだから、誰がどんな風に思おうとどうだっていいのだ。
駅について人が降り、代わりにホームで凍えた人が身を縮めて乗ってくる。そうやって幾度も同じようなことを繰り返し、とうとう母が待つ私の育った町まであと一駅の所までやってきた。刺すような日差しもその頃にはもうほとんど夜に溶けてしまっていた。私は相変わらずリクと手を繋いで立ったまま、窓の外を眺めていた。
電車がスルスルとホームへ滑り込んでいく、車窓の外に居る人々がストロボで連写された映像みたいだった。
時々セピア色の混ざったモノクロームの映像が、パラパラと過ぎていくのを眺めていたはずなのに、私の連写は急に止まり、長身のサラリーマンに一色になった。その瞬間握っていたリクの手をパッと離していた。
ガタンと止まった反動で押し返された車両、立っていた人がふらつく程の揺れもものともせず、ドアへと向かって走り出す。降りようとドアの前に立って準備していた人を追い抜かして、降り立ったホーム。冷たい風が吹き抜けて私の髪をさらう。自分の髪が視界を遮るころを忌々しく感じながらも、それをどうにかすることもなくホームを駆けていく。
「ヒメノ!」
けたたましい出発音や独特な駅員のアナウンスの合間を縫ってリクの声が遠くに聞こえたが、今だけは振り返ってはいられない。
だって、私は見つけてしまったのだから。
「愛ちゃーん!」
私は人目をはばからず出せるだけの大声をあげ、もうその時ほとんど泣いていた。そんな私を誰も彼もが振り返り見つめていたが、私には視線などなんの障害にもならない。むしろ吹きすさぶ風と同じで、あってもなくても変わりない。感じないものはあっても無いのと一緒だ。
紺のスーツをびしっと着こなした男性が足をつと止めて、それから顔を先に、次に首を回して最後に体を返す。
「姫乃……」
囁くように呟いた声を私が聞き取っていたのは、もうその男性の胸に突っ込んでいたからで、受け止めて貰った体はスッポリとそこに収まっていた。
忘れそうだった愛ちゃんの声とか体温とか。それにこの手、大きな手。それらを感じて……涙が堰を切ったように溢れてきた。
忘れそうだったよ。そう言ったつもりだったのに、口を開いた私は声を発することも出来ずに、ワンワン泣いた。かつて愛ちゃんが私の為に泣いてくれたみたいに、声を上げて泣いていた。何か言おうとすれば愛ちゃんの匂いがして、それだけでとにかく泣けるのだ。もう、会えないかもしれないと思っていた愛ちゃんがここに居て、触れられるという事実に涙が止まらなくなっていた。
「姫乃、泣かないで。ほら、私まで泣けてきちゃうから」
私はそっと顔を上げて愛ちゃんを見上げ、そんな私を短髪になった愛ちゃんも涙を浮かべて見下ろしていた。口元は上がっていて、それなのに涙で光る目尻は困ったように下がっている。
「会いたかった……」
馬鹿な私は安易に口にして、自分の発した言葉でまた号泣し、愛ちゃんも美しい顔に一筋涙を流した。
口に出した言葉は私に自覚させる。私は愛ちゃんに会いたかった。本当ずっと会いたかったのだ。たとえ、色褪せた花瓶を捨てようが、愛ちゃんの痕跡を袋に詰め込もうが、私の中の愛ちゃんは決して消えることがなかったのだ。
私たちを置いて、人々は流れていく。どんなに驚こうが気を引こうが、横目で見ながら去って行く。そう、電車すら私を置いて去って行った。リクを乗せたまま。無我夢中で愛ちゃんにしがみついていた私には何も見えていないばかりか、何も聞こえていなかった。
愛ちゃんに抱きしめられて泣いていた私がリクを置いて電車から飛び降りてしまったことや、母との約束を思い出したのは気のすむまで泣いた後だった。
「泣き止んだ?」
愛ちゃんは私の頭を撫でて顔を覗き込む。化粧をしていた時の愛ちゃんとは様子は違うが、愛ちゃんのすっぴんは見慣れていたので違和感は覚えなかった。むしろ髪が短くなっているというのに長い髪が揺れて見える気がする。
「また会えるなんて……大人びてしまって……身長も伸びたわね。お化粧しているの? とてもいいわ」
「会いたかった」
そう伝えると私はまたググっと涙がこみ上げてくるので、息を止めた、グッと息を押さえ込むと、涙は上げていた水位を少し下げていくような気がする。
「どうしてここに?」
愛ちゃんが私に問う。それで私はハッとして後ろを振り返ってそこに乗ってきた電車が居ないことに気が付く有様だった。ガランとしたホーム、はっきりと見えるレール、電車が去って行った方向を見ても既に影も形も見えなくなっていた。電車の明かりすら見えないのだ。夜だけがそこにいる。
「ああ! どうしよう。私、飛び出してきちゃって……リク、リクに連絡を。ああ! お母さん、お母さんにも」
慌てふためいて、ポケットを漁る私の為に愛ちゃんが一歩体を引いて自分もポケットに手を突っ込んでいた。愛ちゃんが取り出したのはバーバリーのハンカチで、慌てふためく私の頬に押し敢えて涙を拭ってくれていた。
「そのリク? くんと一緒だったのね。何も言わずに降りてしまったってこと?」
私は俯いて、取り出したスマホを操りながらコクコクと頷いた。
『リク、ごめんなさい。今どこ?』
送ったメッセージに既読が付くのを待つが、一秒、二秒、思いのほかそれは読まれない。
『リク、どこまで行った?』
もう一つ、ほとんど同じような内容の文章を打って送ったが答えはない。ジッと待っていてくれた愛ちゃんが、画面を覗き込んで「見てないみたいね」と静かに告げた。
「カレシ? リクくんって」
愛ちゃんはスマホを見つめて動けなくなっている私の目尻にハンカチを這わせる。
「うん……」
「そう。……私に抱き着いているのを見てしまったのかもしれないわね」
スマホから視線を上げて愛ちゃんを見上げると、愛ちゃんは困った顔をしてネクタイを緩めていた。
「男なのよ、私は今。わかるでしょ? 姫乃からしたら私は昔のままに見えるかもしれないけれど、傍から見ればたぶん普通の男だわ」
その通りだ。私には愛ちゃんの長い髪が見えるような気がするけれど、実際にはないのだし、目の前に居るこの人は……母がいうところの会田くんだ。愛ちゃんの本来の姿なのかもしれないし、それは仮の姿かもしれないけれど、どちらにせよ今は男性だ。スーツをパリッと着こなしたスッキリとした顔立ちのサラリーマン。
「リクくんのは既読待ちとして、お母さんに連絡もした方がいいのかしら?」
「あ!」
また母を蔑ろにしていた。私は母には直ぐに電話を掛けてみる。自分と同年代の人には電話をすることはあまりないが、母には大抵電話を掛ける暗黙のルールが私の中に存在しているからだ。
「もしもし、お母さん。あのね……」
直ぐに電話に出た母に事情を話そうと思ったが、チラリと見上げた愛ちゃんが首を振るので私はかなり頑張って愛ちゃんに会った事実を隠しながら話していく羽目になる。
「えっと、ごめんね……今日はそっちに行けなくなっちゃって。あ、ううん、来たんだよ途中まで。うん、でも、あの、リクとはぐれてしまって」
嘘はつきたくなくて、言える事実を探して伝えていくという難しさ。母だって大事なのに、リクに比重が大きく向いていることに申し訳なく思うし、今はそのリクより愛ちゃんとの時間を最優先にさせている。母に隠れて愛ちゃんと一緒にいることは酷く居心地が悪かった。
「絶対にまた行くから。ごめんなさい。あの、本当にごめんね」
母は残念そうではあったが「ケンカをしたなら早いうちに仲直りしなさい」と、アドバイスしてくれて電話を切った。
「お母さん、元気そうね。少しだけ声が聞こえたわ」
愛ちゃんの微笑みはどこか寂しそうで、私はまだ既読のつかないリクへのメッセージに傷付きながら、スマホをポケットに捻り込んだ。
「元気。でも、愛ちゃんが居なくなって前みたいな感じじゃないんだよ」
愛ちゃんは眉根を持ち上げて寄せると、私をベンチまで誘った。二人でそれに隣同士で腰をおろす。
「姫乃は怒ってるわね、そうよね。なんの事情も知らされずに私が居なくなったわけだし」
「ううん怒ってない。ただ、寂しかった」
愛ちゃんはまた微笑むがそれは明らかに困った表情だった。私は母を蔑ろにして自分を責め、今度は愛ちゃんを困らせていることに罪悪感を覚えて気分は落ちていくばかりだった。
「説明すべきだったわね。本当はずっとそう思って後悔してきたの。あなたって子はじっと我慢して時を過ぎるのを待つタイプだから。耐えて耐えて、どこまでも耐える子。寂しい思いをさせていたら申し訳ないなって」
愛ちゃんは背負っていたリュックを下ろし自分の胸に抱えると、ギュッとそれを抱き締めた。
「私はね、あの頃。お母さんと姫乃と三人、家族になりたかった。とても大事だと思っていたし……親として姫乃を守りたかったし、夫としてお母さんに寄り添いたかったの。でもね、お母さんには断られてしまって」
そこで僅かに笑う愛ちゃんを私は抱き締めてあげたくなって、でも愛ちゃんがリュックなんて抱いているから手持ち無沙汰の思いが私の指を不満そうに揺すっていた。悲しくても人は笑うし、今はそれだと直感でわかったのに、私は抱き締めてもあげられない。
「姫乃は私みたいな人に会ったことがある?」
もどかしさにウズウズしていた指を握り締めて、愛ちゃんの問いに意識を向ける。愛ちゃんみたいな人。それは即答できる。直ぐに顔が思い浮かんだ。
「愛ちゃんみたいな? ああ、リク。優しいんだよ、愛ちゃんみたいに」
愛ちゃんは今度こそ楽しそうに笑ってくれた。目の下に縦に入る笑い皺、知っている限り愛ちゃんにしかないこれをずっと見たかった。それはとても私の心を温かくする。この笑みだ。この笑みを見ていたい。
そういう意味ではないのよ。と、ゆっくり笑いを収めて語り出す。
「私は女装癖があるでしょう? 前はずっと女性の恰好をしていたし、そういう事をしている時は……気持ちも少し女っぽくなって男性と恋愛することもなくはなかったの。でも、元々そういう、言ってしまえば性同一性障害とかではなくてね、女装をしたい男ってだけだったのよね」
まばたきをして愛ちゃんの言おうとしていることを理解しようとしていた。てっきり愛ちゃんは女性になりたい男性だと思い込んでいたので、説明された内容は私にとって意外なものだった。女性の恰好をしたいだけの男性で、ってことは愛ちゃんは思ったよりとてもただの男性だったということだろうか。
「でも、話し方とか……」
「姫乃の前ではずっとこの話方だったから、男らしく話す方がちょっと照れくさいのよ。だって変に思わない? 俺、男だからこういう話し方するからとかさ」
後半、男らしく話す愛ちゃんに「おお……」と思わず声を漏らしてしまった。違和感だらけで、確かに変に思うかもしれない。私の中の愛ちゃんはいつだって優しく女らしく話す人だったのだから。私が驚いたものだから愛ちゃんはとても照れて「だからね、なんとなく男言葉は使いにくくって」とはにかんでみせた。
愛ちゃんの指は女性より美しいし、爪だって色こそついていないが今もまだ磨かれていて艶やかだ。引いて見れば男性だけれど、近寄れば女性的なところがそこここに散らばっている。
「小さい時から綺麗なものが好きだったのよね。爪だって綺麗に整えられているのを見るとちょっとテンション上がるでしょ? そういうのの延長っていうか、私の顔もファンデーション塗ったら肌が美しく見えるんじゃないかとか、睫毛もカールさせて……そうやってどんどんお化粧することの喜びを知っていったのよね。で、顔だけ女性的だとなんだか違和感があるから服装も女性ものを身に着けるようになって、そうすると言葉使いだってなんとなくね」
愛ちゃんはそこでニッコリ笑って「理解しがたいでしょ? 気持ち悪いかしらね」とやけにすっぱりと言ってみせた。私は理解したかったし、とはいえ理解できたかどうかはわからないが、気持ち悪いという感情は微塵も持たなかったので、ただただ首を振った。
「綺麗な愛ちゃんが好き。愛ちゃんは愛ちゃんだから……男の人でも女の人でもないんだ」
要領を得ない言い方だったのは重々承知していたが、愛ちゃんはそれでも一つ頷いて「わかるわ」と、理解してくれた。
「悪口ではないのだけどね、お母さんは駄目な男の人に弱いのよ。本当に男を見る目がないわけ。でもね、私はそれもお母さんの一部だと思っていて、そういうところも全部好きなのよ。わかるでしょ?」
愛ちゃんはどんな見た目でも愛ちゃんであるように、お母さんはどんな男の人を好きになろうともお母さんとしての本質は変わらないので同じだと言いたいのだと理解した。
「あ、だからお母さんは愛ちゃんとは結婚できなかったんだね。愛ちゃんは駄目な男の人じゃないもの」
腑に落ちた私の言葉に愛ちゃんはアハハと声に出して笑った。
「有難い言葉だけど、そこは違うのよ。お母さんってば頭固いところあるじゃない? こうと決めたらこうみたいなね。お母さんの中で私は性同一性障害の男なわけよ。だから、それを押してお母さんと同情で結婚するなんて絶対あってはならないことだって言い張ってね……聞く耳を持たなかったの」
「それってば、お母さんらしい」
それは全く嫌な雰囲気ではなくて、とても穏やかな同調だった。
母は毅然とした人間で、しかし少しばかり了見が狭い所があるのだ。私の不眠症だって母が良しとしてくれたことで私はそのままのんびり不眠症を抱えていたけれど、実は案外簡単に治すことができたのかもしれない。母の判断を非難するわけではないが、確かに決めたことはとことん突き通すところがあるのは確かなことだった。
「最後は言い合いになってしまってね……わからず屋なんだもん。私はずっと愛していたのに、伝わらなくて。でもね、お母さんのその主張も私への愛情なのよね。そう思ったから私はこじれる前に身を引いたの」
「うーん、難しいね」
「そうね。でも、やっぱり後悔したわね。お母さんと姫乃と毎日居られた生活を私は手放して、本当に後悔したわ」
これこそ、私の求めていた答えだった。あまりの感動に再び愛ちゃんに抱き付きたかった。だが、そこにはやはりリュックという邪魔物がでんと居座り私を阻むのだ。
「私ね、愛ちゃんとはずっと一緒に居たいよ。二人が上手くいかなくても、私が愛ちゃんを好きなことに変わりはないから」
「姫乃……たら」
愛ちゃんの細い指が私の顔の方へと延びてきて、髪を耳に掛けた。
「大人になったわ。自己主張するということをお母さんのお腹に忘れてきてしまったのでないかしらって心配したのよ。それがちゃんと出来るようになって……」
「終わらせたくないなら終わらないように努力しようってリクが」
「いいカレシ。既読はついたかしら?」
ここ最近の私はどんなことよりもまずはリクだったのにこの短い時間だけだが、すっかりリクの事を忘れていた。びっくり仰天してる場合ではない、スマホをポケットから取り出して画面を点ける。
「既読になってない……」
忘れていた私が言うのはおこがましいが、リクは私のことなどどうでもいいのだろうか。スマホを見ないなんてリクらしくない。
「あら、それはいつものことなの?」
「ううん、返事は遅れたりするけどバイト中じゃなければ既読はつく」
黙って愛ちゃんは立ち上がりずっと抱えていたリュックを背負った。スマートなサラリーマンとなった愛ちゃんはそれでも昔と変わらぬ笑顔で私にいう。
「きっと誤解されたのよ。鉄は熱いうちに打てと言うじゃない? リクくんと話さなきゃ。手遅れにならないうちに」
釣られて立ち上がった私を愛ちゃんはそっと抱き寄せた。
「夢みたいだったわ。私を見つけてくれてありがとう」
私は知ってしまったから、抱き寄せられたままではいられない。自分からガッと愛ちゃんを抱きしめて力を込めた。離すものか、全身全霊を込めてしがみつく。
「お別れみたいに言わないで。私はもう愛ちゃんを失うのは嫌なの。リクも大事、愛ちゃんも大事、お母さんも大事。全部終わらせるなんてことしない」
傍から見たら抱き合っている男女に見えるだろう。見えるというかその通りなのだが、私は愛ちゃんを男とか女とか性別なんて関係なく、ただ親のように思っているのだと感じていた。指先に宿る父親よりも父だった。
「姫乃、気持ちはありがたいけれど……私も会ったりしたいけど……やはりお母さんに内緒にして会ったりするのは申し訳ないわ。なんて言ったって、あなたはお母さんの娘なのだから、お母さんをないがしろには出来ないの」
顔を上げた私に愛ちゃんはおでこにチュッとキスをして、それからそっと私の体を自分からはがしていく。
「そうねぇ……私も二度と会えないと思っていたから、こんな風に再会できて嬉しかったし、終わらせたいわけではないのよ。うーん、もう一度、私もお母さんに会ってみようかしら」
「ほんと! そしたら私が会う機会作る」
「ありがとう。恰好悪いところ見せてしまうかもしれないけれど、がっかりしないでよ?」
「恰好悪いところ?」
「お母さんに振られる私」
そんなことにはならないと言いたいところだが、母はなにぶん頑固なところがあるから違う言葉を探した。愛ちゃんを失い、あんなに寂しそうだったし、未だに喪失感にうろたえていても、母はきっと本領発揮して頑固さを見せつける気がするのだ。
「私が居るから! お母さんに断られたって私はこの先も会いたいってお母さんに言う。そしたらお母さん抜きでも会えるでしょ?」
伏し目がちに考える愛ちゃんに焦れて、ウンって言ってよと揺さぶりたくなった。愛ちゃんだって後悔したと言っていたのだから、私と会うと言って欲しい。終わりにしない努力を愛ちゃんにだってして欲しいのだ。
「とにかく話に行くことにするわ。連絡を取れるようにしたいから、スマホを出して」
明言を避けた愛ちゃんが初めて憎らしく思えて、不貞腐れ気味で私はスマホを出していた。スマホを見た私は、未だリクから既読がついていないことに更に拗ねて愛ちゃんと連絡先を交換する。
拗ねていたくせに、画面に愛ちゃんのアイコンがぴょこんと登場すると、私は馬鹿みたいに心が弾んでしまった。どこだかわからない南の島の写真が出たからではない。『会田』と名前が出てきたからだ。
大きな感動に両手でスマホを持って、じっと見つめていた。愛ちゃんが私のスマホに居る。これは凄いことだ。もう会えないかもしれないと思ったのに、愛ちゃんがここに居る。ボタンを押せば愛ちゃんに繋がれるのだ。早速『会田』の名前の横に『愛ちゃん』と加えて私は満足して顔を上げる。
「仕事中は反応しないときの方が多いけど」
「うん、もちろん」
「なんでも連絡していいのよ」
「愛ちゃんも」
微笑んだ愛ちゃんを写真に撮りたい衝動にかられたが、さすがにそこは我慢して後ろ髪を引かれる思いで愛ちゃんとは別れた。
リクのアパートに帰宅すると、リクは既に部屋の戻っていた。
「ただいま」
空気を読めない私でも、これはわかる。リクのよそよそしい「おかえり」は明らかに不機嫌だった。
「あの、既読つかなくて……心配してた」
おどおどと話しかける私にリクはテレビを見つめたまま「そう?」と顔も向けない。言葉を探りながら何か言わなければと手に汗が滲んできていた。
「あのね、あの人は前から話していた愛ちゃんなの。男の人なんだ愛ちゃんって」
「それは理解した」
わかってくれたのかと安心したが、じゃあなぜ怒っているのだろうと、更に私は路頭に迷う。わからない。どうしたらいいのか、何を言うべきなのか。
「いいからさ、大丈夫だから風呂でも入ってきなよ」
リクはそう言ったが私は大丈夫だと思えなかった。ただ一度もこちらを向かないから、そんなリクは初めてで気落ちせずにはいられないのだ。
動こうとしない私にリクは自らの髪を掻き乱してから、やっと見てくれた。
「嫉妬したし、まだちょっとモヤモヤするから一人で風呂に入って。その間に落ち着いておくから」
「うん……。あの、嫉妬? しなくていい相手だよ。だって──」
「わかってる。わかってるけどなんか落ち着かないの。で、こういう姿は見せたくないんだよ。そこはわかって」
どうしてなのか問いたかったが、色んなことが欠如した私でも唯一出来ることがあった。それはリクの気持ちを汲むことだ。
世の中は口で説明することのできないこともあるのだと思いながら、一人で浴びるシャワーのお湯は、なんだかいつもより元気がなかった。シトシトと降り注いで私を濡らしていった。
翌日、表面上なんとか元通りになった私たちは一緒に大学に行き、学部が違うので早々に別行動となった。
一人、空き時間にベンチに座っていたらスタスタと真っ直ぐ今井が近寄ってきた。今井はすれ違う人すれ違う人、皆友達なのだろうか。次々に声を掛けられたり、掛けたり。
「よぉ、今日はロンリープリンセスか」
またも訳のわからないことを言いながら隣に座り込んだ。
「今井も一人なんだね」
「リクが参考書買いに生協にな! 互いの愛が深いから離れてても俺たちは繋がってんだぜ?」
私は宙をぼんやり見上げて「そっか」と呟いた。そんな私を横目で見た今井はベンチに胡座をかきながら言う。
「いいか、人ってのは頭でわかっててもなんか嫉妬したりとかすることってあんだわ。くだらねぇーって心の声にむしゃくしゃしてんのに、収まらなくてイライラするってヤツ」
「あ、聞いたの? 昨日のこと」
「軽くな。嫉妬するって恥ずかしいじゃん? 少なくとも男ってそういう質だから、理解してやれよ」
私は頷いて理解を示したつもりだったのに、今井は盛大なため息をついた。
「わからんか、ロンリープリンセス。まぁ、色々気にすんなよ。普通にしてろって」
「理解してるってば!」
「じゃあ、次は普通にな。ちょっと口を半開きにしてみ? で、目線は空寄り。そうだ、それがお前のいつもの顔だ」
ちょっと間抜けな顔にさせられて、それが普通の顔とか言われたら腹が立つ。でも、確かにこれが今井だし、いつもの今井だ。優しく諭してくれる今井なんてなんだか気味が悪い。
「なんかわかった気がする」
私が真面目に言うと、今井は「だなー」と、よくわからない相槌をした。そうこれが今井だし、それでいいのだと思っていた。
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