パンドラベッド

今野綾

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 冬の朝、特に夜と朝の境い目のような時間が好きだ。とっくに始まっている明日という今日が微睡む時、永遠に明日という日が始まらなかったら今日という日は終わらない。そんな時をただ漂っていられたらいいと思う。

 キリッとした空気に冷えた耳、ぬくぬくの羽毛布団。手は枕の下のひんやりした所がいい。それから、リク。暖かいリクが横に居てくれるこの時が、至福だ。

 自分以外の人と同じ布団に入るのがこんなに幸せだなんて知らなかったし、誰も教えてくれなかった。いや、パパは寝てくれたがそれはあまりに少ない回数だったので、お正月みたいな特別で稀有なことだからまるで実感がない。
 小さな頃から一人で寝ていた私にはそういう事を知る機会がなかった訳だが、知らなければ知らないで一人寝が悪いとも感じなかった。けれど、私は知ってしまったのだから、知る前の私にはもう戻れない。それは失うことへの始まりといってもよく、知ってしまったのが良かったのは悪かったのか判断がつかないところだ。

 もしも、リクと一緒に眠らなければ私はこんな時間を手に入れることはなかった。でもこの先、これを失うとなった時、私はその事態に対処できるのだろうか。
 『始まったものは終わるのよ』と、母が寂しそうに呟いていた。逆に考えれば、始まらなければ終わらないとも言える。
 たとえば私がパパを知らなかったら、椎名さんと出会わなかったら、愛ちゃんの愛情に触れなかったら、五十嵐と仲良くならなければ、始まらなかったのだから終わることはなかったのだ。

 母が私と一緒に眠らなかったから、私は誰かと一緒に寝るということが幸せなことだと知らずにいたし、幸せを知らなければ失う、すなわち終わることもなく、ただ平々凡々と日々を過ごしてこられたのだ。それは人からいわせたら幸せではなかったのかもしれないが、私からしたら不幸せでもなかった。

 私は暗い夜道をひたすらに歩いていく。暗いといっても街灯はあるし、遅くまでやっているドラックストアやコンビニから光が漏れていて、いう程でもない。雪が降る直前の腑抜けの太陽が放つ僅かな光くらいには、明るさがある。それでも夜は暗くて、闇が私に迫ってきているような怖さがあった。

 駅から徒歩七分のリクのアパート。
 正月気分がやっと抜け始めた一月後半、午後十一時をとっくに回った片側二車線の国道、車はひっきりなしに通れど人は疎ら。

 むしろ誰かが居た方が落ち着かない。若い男性が曲がり角から現れたらニュースで見た強姦の事件が頭に浮かんでドキリとするし、女性が後ろを歩いていると怪談を思い出してゾワゾワしてしまう。
 北風に押されカラカラと転がっていくマックのカップがやたらと哀愁を漂わせている。捨てられて寒かろう寂しかろうなどと詩人のように思って、私は転がっていくひしゃげた赤のカップを屈んで捕まえ、道中一軒だけあるセブンのゴミ箱へと押し込んだ。ゴミはゴミ同士一緒にいたら居心地も良かろうなんて、詩人から少しばかり偉そうな評論家みたいな視点になってみたりする。五歩ほどの寄り道。空を見上げてはぁと息を吐くと白いもやっとしたものが闇に放り出されて溶けていく。
 なんだか、息が煙草臭い。ヒリヒリする顎にしかめっ面をし、ショート丈のキャメル色をしたダウンコートの袖口をクンクンと嗅いでみる。確かな臭さに眉根を寄せてデニムのポケットに手を突っ込んで早足で歩き始めた。

 ここ最近、私は確実に何かに侵されていっている。それは夜の闇に似ていて、じわじわと色を増し、私を二重にも三重にも包んでいくのだ。怯えて隠れても夜の闇は逃げ場を与えず、世界を侵食していく。

 駅で柱に寄りかかり、暇そうにスマホを弄れば、十中八九声を掛けてくる男がいる。若くて小綺麗にしていれば男たちには美味しそうに映り、明らかにつまらなそうにしていると、バーゲンセールのワゴンの品だと思われる。買い叩かれた無様さに憤りを感じつつ、それでも私が男についていく訳は、安くて結構、とにかく手早く売り捌きたいからに他ならない。正にワゴンの中の見切り品だ。

 さっさと事を済ませて私はリクの元へと行きたかった。私がリクに発情するならばしないようにするしかなくて、私が選んだのはリクの元へ行く前に男の人と性行為をするという方法だった。
 アルバイトを終えて、駅に立ち、ワゴンに自らを放り込んで、誰でもいいから手にしてくれるのを待つ。話は早々に切り上げて性行為をしたら、出来るだけ急いでリクの部屋へと向かう日々。

 出来ることなら大学のサークルメンバーと、手っ取り早く性行為するのが防犯上一番安全なのだと思っていた。本名もわかれば住所も直ぐに割り出せるのだ。何か不測の事態に陥っても、これなら安心だ。男のサークルメンバーに番号を割り振って、一から順にお願いしますといえたらどんなに楽だろうか。    

 ただ大学の友人達には複雑な人間関係が存在する。あの人はあの人のカレシ。あの人はあの人の好きな人。はっきりわかることもあれば秘かに誰かを想う人もいて、私には把握できていないだろう。不用意に輪を乱せば、私の居場所がなくなるからそれはしないことにしている。

 友人は大事。他愛もないお喋り、カフェ巡り、ノートの貸し借り、学生カードを通すいわゆる代返行為。淫乱だって学生時代を謳歌したい。まいまいや今井が、心の底から友人だと思っていてくれるかどうかは定かではないけれど、それでも私からしたら貴重な友で、失いたくないと本気で願っていた。五十嵐の件を踏まえ、私はほんの少し慎重になったのだ。

 ただ、問題があった。
 自分で選んだことだというのに、私はこの日々を重ねていくことは闇に闇を重ねていくようで、どんなに朝を迎えてもそれは次第に晴れない靄のように私を覆っていく感覚に陥り始めていた。恐怖が私にまとわりついてくる。何もかも露呈することの恐怖、何が、誰に、ばれると怖いのかすらぼやけてしまって私にはハッキリとしない。見えるものなどない漆黒の闇が私を追い詰めていくようだった。

 私が淫乱であるということと、毎晩知らない男性と性行為をしていること、どちらが隠すべきものなのだろうか。どちらも知られたら軽蔑されるのであろうし、そこに差はないのだろう。淫乱であるが故どんどん落ちていく蟻地獄。どこまで落ちてしまったのだろうか。底まで行ってしまったら、私はどうなるのだろうか。リクを失い、大学生活で手に入れた友人たちも、それらに付随した楽しい時間もなにもかも消滅するのだろう。それはある意味死に値する。私は消えてなくなりたいと思うだろう。

 煙草くさい私は時計を気にして小走りにリクを目指す。レオパード柄のパンプスが視界の隅で忙しなく動いている。
 今日の男性には出会って直ぐにその煙草臭さに閉口していた。本当は着いてなど行きたくなかったのだが、たまたまシフトの事で店長に呼び止められしまいバイト先から出てくるのに手間取ったこともあって、正直かなり焦っていた。

「俺、仕事でちょっと賞とっちゃって、祝杯あげたいんだよね。乾杯したいんだよ。キミ、なにちゃん? 一緒に祝ってくんないかな? 奢るしさ。暖かいとこ行こうよ」
 私の上を通過していく男性たちの中では格段に若く、見た目も悪くなかったその人は、笑顔で私を頭のてっぺんからつま先まで何往復も視線を移動させながら話しかけてきた。若い人ほど値踏みする。価値をつけるのは自分だと言わんばかりにあからさまな品定めをしてくる。マウントを取ることに意味があるのだろうか。私には無意味な行為だ。
 多少の品定めは良いとしても、遠回しの誘いは困るのだ。私は時間がないし、本当に祝杯をあげに行きたいだけならお断りなのだから。そもそも私は未成年でお酒を飲んではいけないし、だから祝杯をあげるのは絶対に無理というものだった。法律を破るわけにはいかない。淫乱は違法ではないが、飲酒や売春は法に触れる。
「私は未成年なんで」
 私は首を振ったことでかき混ぜられた空気が煙草臭を蹴散らしてくれたことを感じた束の間、清らかさを一瞬味わった後の濃厚な煙草臭にくらりと眩暈がした。こんなに濃厚なニコチンなら空気感染するのではなかろうか。恐ろしいほどの臭いを振りまいているこの人は、どこか壊れ始めているのではないだろうか。こんなにくさいのに平然としているこの人が真っ黒に染まったフィルターみたいで、初対面でなにも知らないのに、腹黒い人に思えて僅かに鳥肌が立った。
「ジュースで乾杯してくれてもいいんだよ?」
 男が食い下がって来たが私はもう一度首を横に振って再び眩暈がし、首を振って返事をしてはいけないと自分に言い聞かせなければならなかった。
 男は首を傾げて「じゃあ、違うところに行こうか?」と私の出方をうかがってきたので私は「ホテルなら行きます」と単刀直入に答えてみせた。男の眉が瞬時に両方とも上がって驚きを隠さないが、こういうやり取りに慣れ始めていた私は相手のこんな反応も想定内だった。
「ただ、したいだけなので、ご飯もお酒も要りません。もちろんお金も」
 隣にいた高そうなコートを着た女性に話が聞こえたのか、私の横顔を食い入るように見ているのを感じて、私は顔を背けなければならなかった。早くこういうやり取りを終わらせて、人から見えないホテルに行き、やることをやって、私はリクの元へ行かなければと泣きたくなるくらい切に思う。俯き始めた私の気持ちを察したのか、男は手を伸ばして私の手を握った。
「行こう」
 私の何かがずれている。化け物に救われてホッとするなんて、どうかしている。

 もし私に時間的余裕があれば、ニコチン男には着いていかなかった。ホテルという密室にこの臭いの元凶である人と一緒に居ることは、ここ最近の中では一番の苦行だったし、余りの毒素によって一秒毎に私の細胞達が一つまた一つと死んでいくような気さえした。
 一刻でも早くやることをやってリクの元へ行きたい私は、普段お風呂に入ろうなどと誘うことはないのだが、ニコチンに堪えきれなくなって「汗をかいているから出来れば一緒にシャワーを浴びたいのだけど」と、それらしい誘い文句を上目遣いで極力可愛く見えるように囁いてみた。
 まいまいが可愛さを求めて日頃から訓練している仕草や口調を真似たのだ。断られたりする時間的ロスを回避するために用いたのだが、これはかなり有効だった。男は嬉々として私の求めに応じてくれたのでこれでニコチンは消えるだろうと安心したのだが、現実はそんな生易しいものではなかった。確かに服を脱ぎ、体を洗ってくれたお陰で臭いは軽減されたが、問題は体の中にあって、使い終わったシャンプーの容器のように周りのべとべとが取れただけで、内側にはべっとり臭いを放つ中身が残っていたのだ。
 真っ白なタオルで体を拭いてベッドにたどり着いた時、ニコチン男は私の唇に自分のを落とそうとしていたが、私は思わず顔を背けていた。
 磁石のS極とS極が反発しあって弾かれ逸れるのと似て、それは私からしたら自然の成り行きだった。息がニコチンという毒に侵されているのだから、それを受け入れるわけにはいかない。私まで染められてしまうと脳より先に体が反応していた。防衛本能だ。毒を体内に入れるわけにはいかないのだから。
「キスは駄目?」
 それまで上機嫌だった男の機嫌が降下していくのを感じた。私は頷いて「キスは駄目」と問われたとおりに答えると男はなぜか少しだけ馬鹿にしたような表情になって「好きな奴としかキスしないとか言っちゃう?」と嘲笑う。そこで嘲笑う理由はわからないが、私もそれは名案だと思ってまた頷いた。
 リクとならキスをしたいし、性行為だってしたい、そう困ったことにしたいのだ。

 ニコチン男は先ほどより更にムッとした顔つきになって、私をベッドに文字通り押し倒した。強めに肩を押されて、私はよろめくようにダブルベッドに倒れ、軽くバウンドし、手荒とも言える押し倒し方に尊厳を傷つけられた気がして表情を強張らせた。私の手はシーツをさまよって、ここにありもしないうさたんを求めていた。
 狸さんと性行為をしてから沢山の男の人たちと同じようなことをしてきたが、こんなに扱いが雑な男性は今まで一人もいなかった。変わった人はいたけれど、私の気持ちを尊重してくれる人が多かったし、酷いことをする人は居なかった。狸さんのように痛くする人もそれは性癖であって、行為後は謝ってくれたり労ってくれたりするのだ。
 ベッドに片腕をついて信じられない気持ちで見上げている私を男は歪んだ口元で笑う。
「お前が誘ったんだろ? なんなの? 大事に扱えとか言う? 俺だって好きでもない女にそこまでする義理はないだろ」
 さっきまでニヤニヤとして興奮していたのに、男は今、怒っている。大きく変わった男の態度に気持ちがついていかれないし、なぜそこまで怒るのか理解できなかった。好きではないのは互いに承知の上、さっき会ったばかりなのだし、ニコチン毒を吐く男なのに私が好きになるはずがない。

「ウザっ」
 ニコチン男はとにかく手荒だった。優しさの欠片もない前戯はひたすらにニコチン男自身が昂る為のもので、私の気持ちを解そうとか痛くないようにしてあげようという優しさは微塵もなかった。とどめに避妊具を着けずに挿入しようとしたので、私はとうとう我慢の限界が来てニコチン男の薄っぺらい胸を押しやった。
「ちゃんと着けて!」
 それまで無抵抗だった私がいきなりヒステリックに拒んだものだから、男は一瞬何を言われているのか理解できない顔をして、その後あからさまに眉を吊り上げ、やっと聞こえるかどうかの音を立てて舌打ちをした。憤怒すらニコチンに染められていて、私の肌はぞわぞわと鳥肌を立てておののいていた。
「なんだよ、お前から誘って来たんだろ?」
 それが避妊具を着けない理由になるのだろうか。そこは実際、明らかに論点がずれている。それに不機嫌なニコチン男が私にはもはや脅威だった。毒素を吐き出す手荒なモンスター。
 優しい人々に囲まれて育ってきたし、思い返せばあまり誰かを不機嫌にしたことはなかったように思う。鈍感な私が気付いていなかっただけかもしれないが、あからさまな怒りは向けられたことはたぶんない。だからモンスター化した男から睨み付けられて、私の記憶は再びうさたんを手探りする。うさたんの感触を手の内に感じると、負けじと気持ちを奮い立たせて主張した。
「着けてくれなきゃ困る、絶対に」
「なんでだよ、皆着けずにやってんだろ」
「そんなことない。皆、着けるよ!」
 今まで性行為をした人達の多くは自発的に避妊具を手にしたし、そうではない人も言えばすんなり着けてくれた。だから狸さんが危惧してアドバイスしてくれた内容はこれまで必要なかったが、初めて役に立つ時が来たらしい。
「……病気が伝染るかもしれないでしょ?」
 口にすると、おぞましいほどそれは現実味を帯びて私を更に怯えさせた。性病はもちろん、ニコチンだって私へと移ってくるかもかもしれない。授業でみせられたことのある、真っ黒に染まった肺を思い出す。この人の肺はきっとそうなっている。
 私の言葉に軽蔑と嫌悪感を浮かべて「何、お前病気持ちかよ」と、ニコチン男は吐き捨てた。
「今のところ病気にはかかってないけど、知らない人に着いてきたのは初めてじゃない」
「淫乱じゃん、最悪」
 罵られたそれは私が一番よくわかっていることだ。私は淫乱だし最悪なのだ。そんなことは言われなくても知っている。それでも、珍しくムクムクと反抗心が膨らんで「あなただって淫乱だと思う」と言い返していた。
 悔しかったのかもしれない。同等の獣であるニコチン男に蔑まされたことが。誰とでも性行為をする私たちなのに、なぜ私だけ罵られなければならないのか。この状況でも、相手と自分の事を慮って真っ当な事を主張した私が罵られるなんて、絶対におかしい。下半身をさらけ出しあられもない姿で求めていることは同じだったはずなのに、なぜ私だけ軽蔑されるのか、道理に合わない。

 ニコチン男は私の顎を、リンゴを握るようにグッと掴んで固定し、逃げられない私に無理矢理キスをし、舌を押し込んできた。私は目の前が真っ暗になって、掴まれた顎が震えだす。抵抗して顔を振ろうとすると男の爪が顎に食い込んで、そのまま顎を砕かれるかと思った。痛くて苦しくて怖くて……涙がじわじわとこみあげてきた。男は唐突に始めたキスをやめて、上から私を見下ろして言う。
「泣けば許されると思った? 女ってなんでそんなに馬鹿なの?」
 片方だけ唇が上げて、ほんと馬鹿だわと言うと、ベッドサイドにあった避妊具を掴むと自分のそれにつけ、かなり強引に私の中へと入って来た。悲鳴を上げそうになった私を、もう一人の私が抑えていた。知っていたのだ、これが始まりでもう終わりが近い事を。椎名さんの事で私は学んでいた。
 夜は長くて深い闇。そして私の体内は吹き込まれたニコチンで真っ黒黒。この人と同類だなんて、本当に黒くて醜い。
 泣きたくないのに私の涙は止まってくれず、男にもやめて欲しいと言ったのに全く止まる気配もなく、私はただただひたすらに声を出さずに涙を垂れ流していた。痛くて悲しくて、体内は穢され私はもうあの捨てられたガムより惨めな状態だと思った。
 『始まったものは終わるのよ』母が言った通り、男はさっさとやり切って、服を着込むと出て行った。軽蔑の眼差しもない。私はあのガムのようなものだから、見る価値もないと判断したのだろうか。
 無言で去って行ったニコチン男の背が消えると、私は起き上がってシャワーを手早く浴びて服を着た。間接照明で暗いせいも手伝ってか、鏡に映る自分が陽炎のようにぼんやりとして見えて焦った。闇に同化しつつあるのではないか。そんな風に感じて、闇雲にドライヤーの風を当てて髪を乾かし体裁を整えると、リクの居る平和な世界へと向かったのだった。そこだけが私に許されたオアシスなのだ。必ず戻らなければ渇水して死んでしまう。

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