パンドラベッド

今野綾

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 そんな日々を送っていた私にある日、お父さんが出来た。

 もちろん、私がこの世に存在する以上、生物学上の父はいるはずだが私は会ったこともないし、写真すら見たことがない。顔は母に似ているし、脚の形も母と同じX脚。ただ、指の形はたぶん父親に似ているのだと思う。母とは似ても似つかぬ形だから、きっと間違いない。指先に宿る痕跡だけが母親と父親と私をかろうじて繋いでいた。

 母が私をしっかり愛してくれたし、私は不幸ではなかったので、指先ほどの父親で不満はなかった。漠然とした淡い父親への憧れもないわけではなかったが、どうしても欲しいと思うようなものでもなかった。家族は母で満足していたし、愛ちゃんもよく遊びにきてくれていたから、補わなければいけない穴みたいなものはなかったのだと思う。でも、父親が来たなら来たで構わないし、受け入れることにしていた。

 一人目のお父さんが来たのは年中さんの時だったと思うが、たった一か月ほどでいなくなったはずなので、顔も形も覚えていない。それでも存在を覚えているのは母が「あの男、私の大切にしていたダイヤの指輪を売りに出しやがったのよ」と、深酒するたびに話していたからだろう。
「一ヶ月よ? その間にアクセサリーケースを見つけて持ち出したの。腹立つわ。なんであんな男に気を許したのかしら。自分が許せないわ」
 歯ぎしりしそうな勢いで頻繁にいうのだから相当悔しかったのだろう。


 そして二人目のお父さんが来たのは年長さんももうすぐおしまいになる、冬の頃だった。
 若くてお父さんというよりお兄さんといった方がいいような感じがして、私が呼び方に迷うと「お父さんかパパって呼んで」と助け舟を出してくれた。私は迷った挙句「パパ」と呼ぶことにし、そう呼ぶとパパは本当ににっこり微笑んでくれた。

 このパパは最高のお父さんだった。なんせ、夜に一緒に居てくれるし、夕飯を作ったり、絵本を読んでくれたりもした。

「一緒に寝てくれるの?」
「姫ちゃんがベッドに入れてくれるなら」
 パパの提案に驚きながら抱きしめていたうさたんに「うさたん、パパもいいよね?」と問い掛けると、うさたんの長い耳がゆっくり下がってイエスと答えた。
「あのでも……おねしょ……しちゃうかも」
「してもいいよ。その時の為にいるんだから。さぁ寝るまでなにしようか!」

 あの頃、私は日本昔ばなしにハマっていて、パパが読んでくれる昔ばなしにワクワクしたものだった。
 夜中、目を覚ました私をトイレに連れて行き、牛乳を入れてくれたのもこのパパだった。パパと居る時はあまり夜中に目を覚ますことがなかったので回数的には少なかったが、それでもうさたんに頼らずにそういったことをできるのは感動を覚える出来事で、愛ちゃんと同じくらいこのパパの事が大好きだった。

 パパは自分も子供の頃、一人で過ごしていたことが多かったからと、私には温かい家族を与えてあげたいなどと難しい話をしていたが、ある日を境にぷっつり居なくなってしまった。母に理由を問えば「始まったものは終わるのよ」と、酷く真面目な顔をして言ってから、私を抱きしめた。母の目に涙が浮かんでいたのをチラリと見てしまった私は、二度とその話をすることはなかったし、母も一人目のお父さんはあんなに悪く言うのに、パパの事は悪くも言わない代わりに口にすることもなかった。

 パパは今どうしているのだろうか。温かい家庭を持つことが出来たのだろうか。私にはわからない。ただ、パパ以外のお父さん達はどの人もイマイチで、私は二度とパパと呼ぶ人が出来なかったし、お父さんと呼ぶこともなかった。

 最後に母がお父さんを連れてきたのは私が中学校二年生の時だった。
 私はこのお父さんこと椎名さんがとても苦手で、夜をこの人と迎えることが本当に苦痛だった。

 浅黒い肌、チリチリの髪はカラーをし過ぎて既に死んでいるのではなかろうかという金色の糸くずみたいな毛をしていた。お腹はぷっくり膨らんでいて、私はこの人のお腹でビール腹というものを知った。

 この人は、母が居ないことを良いことに、私にいたずらするような男で私はこの人によって処女を喪失した。乱暴な感じではなかったけれど、私は椎名さんにされることが気持ち悪くて仕方がなく、よく嫌だと泣いた。それでも椎名さんはあらゆる方法で私の体を開いていく。
「お母さんは僕のことが大好きでね、居なくなると寂しいんだよ。わかるだろ? だから、姫ちゃんは僕の言うことを聞かなくちゃ。お母さんは好きでしょ? 僕が居なくなったら困るよね?」
 母のことは大好きだけど椎名さんは嫌いだった。それまで出会った人の中で一番ダメな人だった。それでも、パパが居なくなった時、母が泣いた事を私はよく覚えていて椎名さんにされることを我慢するという選択肢を取った。

 不思議なもので体は椎名さんされることに次第に慣れていき、快感を覚えるようになってしまった。
 行為の時、痛みを感じなくなったことを疑問に思い調べたら、私の身体は快感を得て、濡れるという状態になっているらしかった。これは私にとって驚愕すべきことで、本当に嫌なのに体は私の意志を無視して濡れていくという裏切り行為をすることを知る。それを椎名さんは、ニヤニヤしながら腰を振って教えてくれた。

「姫ちゃんは淫乱なんだな。こんなことされて本当に嫌なのに感じちゃうんだろ? 淫乱だなぁ」

 私は淫乱という言葉の意味を後から調べてみた。情欲をそそる相手なら、神であろうと獣であろうと賤しい身分の人であろうと、見境なしに性的な関係を持とうとするという説明に、なるほどそういうことなのかと納得がいった。確かに私は淫乱で、獣とたがわない椎名さんと関係を持って、残念なことに感じていた。

 大きな悲しみというのだろうか、それまで普通の人だと思っていたのに、自分がそうではないことを知ってしまったのだ。これは人生で一、二を争う挫折だったような気がする。人ではない何かだと知ってしまったのだから。

 そんな日々が一年近く続いた時の事、ある日いつものように椎名さんが私に覆いかぶさり私の上で腰を一心不乱に振っていた。普段はしっかり施錠されている玄関の鍵が開いていたらしく、なんの前触れもなくドアが開いた。

 ダイニングキッチンの隣は私の部屋で、そこの扉も開いていたから玄関から入って来た愛ちゃんは椎名さんの獣のような愚行を目にし、激昂して靴を履いたまま部屋の中へ飛び込んできて、文字通り椎名さんに突進した。
 愛ちゃんはこの日、有名ブランドのピンヒールだったのに、それは見事なタックルをかまし、そのまま椎名さんをぼこぼこになるまで殴り続けた。無言で拳を振るう愛ちゃんに途中から椎名さんが懇願する。

「やめろ、やめてくれ」
「お前が言うのか! 姫乃にこんなこと──」

 初めて愛ちゃんが本当の男の人に見えたし、私は椎名さんの顔がどんどん空気の抜けたボールみたいになっていくのを怯えてみていた。椎名さんとの行為の時、必ず手の中に居たうさたんを片手で無意識に力いっぱい握っていたのを覚えている。うさたんにとっては迷惑な話だろう。嫌な行為に付き合わされた挙句、怖い時だけ握りつぶされるのだから。

 椎名さんはそのまま下半身むき出しで玄関の外に捨てられ、置いてあった荷物を投げつけられて、最後にぴしゃんと扉を閉められていた。愛ちゃんはなにか罵声を浴びせていたが、私には聞こえていなかった。声は聞こえていたのだが、どういう訳か愛ちゃんの声だという事を認識するのをやめていて、ただの雑音だと思おうとしていたように感じる。
 アパートの廊下で腫れた目の隙間から洋服を拾い上げて身に着けている椎名さんを想像すると、あまりの滑稽さに哀れさを感じたが、同情はもちろんしなかった。チリチリの髪、ぼろぼろの顔、きっと椎名さんはゴミのような見た目でこの後家に帰って行ったのだろう。どこまでも嫌悪感しか抱けない人だった。

 玄関から長い髪を靡かせながら私の元へと走り込んできて「もう大丈夫よ。ごめんね、気が付いてあげられなくて……ごめんね」と、力強く抱きしめて愛ちゃんはワンワン泣いた。もういつもの愛ちゃんだった。低い声で罵倒する男みたいな愛ちゃんではなく、優しい声で語りかける愛ちゃんだ。

 子供みたいに大泣きする愛ちゃんを私が抱きしめて「愛ちゃん、大丈夫? 泣かないで」と慰める。それでも愛ちゃんは一向に泣き止まず、あまりに泣くから私まで悲しくなって、二人そろって疲れるまで泣いたのだった。いっぱい泣いて、ぐちゃぐちゃになって、最終的に私の方が先に疲れてしまい、愛ちゃんから離れてシャワーを浴びて紅茶をいれた。

 私のお気に入りのキャラメルミルクティー。砂糖が入っていなくてもほんのり甘みを感じる不思議な紅茶。二人で紅茶を啜っていると、母が息を切らせて玄関から飛び込んできて愛ちゃんと同じように私を抱きしめて「ごめんね姫乃。こんなことになっているなんて……でももう終わったからね」と言い、愛ちゃんと深刻な顔つきで短いやり取りをし、また店へと戻っていった。
 本当は愛ちゃんに店に出てもらい自分が家に残ろうと思っていたらしいのだが、愛ちゃんは椎名さんを殴り倒したせいで拳が腫れていて、見る人が見ればどうしてそうなったのか分かるから店には出ない方がいいと結論付けて、母はキリっとした顔で家から出ていったのだ。

「家に居たかっただろうに……」
 愛ちゃんは自分の拳を、冷凍庫から出して来た保冷材で冷やしながら呟いた。化粧っ気のない愛ちゃんの顔はつるんとしていてとても綺麗だったし、先ほど出ていった母と同じように決然とした締まった表情をしていた。
「愛ちゃん、私は一人でも平気だよ?」
 紅茶を包み込むようにして持っていた私が愛ちゃんの表情をうかがいながら言ってみると、愛ちゃんはハッとした顔をしてにっこりとほほ笑んだ。
「私ってば、とても暇な人なのよ。親には勘当されて家族も居ないし、友達だって数えるほどしかいないの。だから、ここにいさせて」
「んー、そうなんだ。じゃあ、引っ越してくる?」
 ここにいさせてを、ここに住まわせてかと勘違いした私がそう聞くと、愛ちゃんは部屋に飛び込んできてから初めて心の底からほほ笑んでくれて「それもいいわよね」と、弾んだ優しい口調で同意してくれた。

 こうして椎名さんが私の世界から居なくなり、私の夜は平和になったが、この頃既に夜はほとんど寝ないという生活が定着してしまっていた。
 学校にはきちんと通っていたし勉強もしっかりやっていたので、並みよりちょっとだけ頭は良かったが、とにかく居眠りをし過ぎることをたびたび注意されて、母のところにも散々担任の先生から電話がかかってきて心療内科などを薦められていたらしい。
「でも、何が問題なのかさっぱりわからないじゃない? 居眠りしたって成績も悪いわけじゃないもの。だから言ったのよ『姫乃はどこも悪くないし、これがこの子のペースなんです』ってね」
 母は電話で話したことを鼻息荒く語り、最後に私を抱きしめた。
「本当に体調悪かったら病院行くから言いなさいね」
「うん」
「約束して」
「約束する」
 母との約束は私の中で極めて重要なものだったので、本当に具合が悪かったら私は母と病院に行っただろう。でも眠いだけで体はすこぶる元気だった。

 母は夜寝ないことについては何も言わなかった。夜間、不在になることへの後ろめたさもあったのかもしれない。
「健康ならばそれでいい」
 そう言って頭を撫でてくれた。
「こんなに良くできた娘にこれ以上望むことなんて何にもないのよ」
 続いてこんなことも言ってくれたのはなんだかとても誇らしかった。母のこういうところが本当に大好きだった。

 椎名さん以降、お父さんはもう現れなかった。母にこの事件以降、恋人が居たのかどうか私にはわからない。でもきっと、居なかったのではないだろうか。

 それと、頻繁に来てくれていた愛ちゃんもなぜだかぷっつり来なくなった。

 日曜日の深夜、月曜日は定休日なので大抵日曜日は盛大な酔っ払いになって帰ってくる母が、珍しく素面しらふで帰ってきたことがあった。
 私はもちろん起きていて、帰ってきてからぼんやりと座っていた母が心配になり、お気に入りの紅茶を母へと淹れてだしてあげた。愛ちゃんとも飲んだ、キャラメルミルクティーだ。母は「ありがとう……」と口にしたきり、またぼんやりと紅茶を見つめていたので、私はますます心配になり、居間になっている母の部屋に腰を下ろして聞いてみた。

「どうしたの?」

 ありきたりな問いだったが、母は顔を上げてああ……と力なく呟き、一瞬泣きそうな顔をしてから、目をぎゅっと瞑った。

「愛ちゃん……もう居なくなってしまったの」
「へ?」
「愛ちゃんよ。会田くん」
「会田……」
「愛ちゃんの苗字」

 驚きの波が次々襲ってきて、私は溺れてしまいそうだった。
 愛ちゃんが居なくなったという大波の次に、愛ちゃんの名前が苗字からとったものだったという、小波。とにかく大波がとてつもない破壊力で、私の内部を引っ掻き回す。

 いつも居る人、母と愛ちゃん。ベッドにあるものうさたん。普遍だと思っていたものに、変化が生じると暫く絶句するし脳内の動きもほぼ停止。
 居なくなるなんて事があるのか。信じられない。居なくなるなんて事が……あるんだ。こんなのって、どうしたらいいの。

「仕方がないのよ。始まったものは終わるんだもの」

 母はショックを受けて固まる私に力なく言った。私はこの台詞を確かに聞いたことがあり、しっかりと記憶していた。パパが居なくなった時だ。そうだ、椎名さんの時も母が愛ちゃんに言っていたのを聞いた。

「もう終わったのよ。始まったことは必ず終わる。全て終わったことよ」

 椎名さんの事を、警察に相談しようと持ち掛けた愛ちゃんに、母はそれを拒んで言ったのだ。私に細かな証言などさせたくないと言い、愛ちゃんはそんな母をそっと抱き寄せていた。愛ちゃんに抱き締められた母はいつもよりずっと小さく見えて、しかもか弱く見えた。

 私の中で母はとても強い女の人というイメージだったのに、あの時は私に握られたうさたんのようだった。力なくだらんとしていて、いつもの勇ましさはどこにもない。私は見てはいけないものを見てしまったような感覚に陥って、スッと視線を外してしまった。母は強い人なのだ。か弱いのは母ではないと思った。

 私の驚きをよそに、母はやっと動き出して熱々の紅茶をずずずっと緑茶を啜るように飲んでいく。久しぶりにまじまじ見た母の横顔、目の下にはクマが、鼻の横には薄っすらほうれい線が浮かんでいた。

 始まってしまったものは終わるのか。そう思うと空恐ろしくなった。誰もかれも居なくなる。そうするといずれ母も……。それはそうなのかもしれない。私より母の方が年上なのだから、死ぬ順番としてはそうなのかもしれないのだが、私はこの母が居なくなった人生など考えつかないし、そうなったら私は独りぼっちだ。兄弟姉妹、父、祖父母、誰一人いない。私には母だけ。

「愛ちゃんどうして居なくなっちゃったの?」

 パパの時ですら聞かなかったのに、私は聞かずにはいられなかった。だって愛ちゃんだから。居なくなられたら困る。愛ちゃんだもの。
 母は紅茶を啜るのを止めて、ほうっと小さく息を吐いた。

「ちょっとね……意見の相違ってやつよ。人というのはみんな違う価値観をもっているのだから、どうしても合わないことってあるのよ。そう仕方ないのよ」

 その辺は私にだってわかる。
 高校のクラスメイト、皆のボス的存在の高橋さんを、私はどうしても受け入れられない。なぜちょっとばかり太っているだけでクラスメイトを汚いなどと言うのか、どうして男子の前で生理用品を投げたりするのか、私には到底理解できない。

 彼女には彼女のテリトリーがあって、そこで行う事は家の中と同じなのかもしれないけれど、私からすればそこは学校で公共の場だった。だから、高橋さんが痩せていて、それより太っている人は受け入れ難くても、自分の家ではないのだから我慢すべきなのだ。だって、いろんな人が居るのだから。でも高橋さんはそういうことを許容することがないように思えた。だから私はこの人って合わないなぁと距離を置いていた。いくら体育祭の時に、高橋さんのグループに誘って貰おうと、一応参加しようと、高橋さんとは合わないものは合わないのだ。

 合わないなら断ればいいじゃないかと思うのだけど、私は既に人間関係というヤツは複雑で、特に学校生活はある程度人間関係を円滑に進めておかないと面倒なことになることを学び取っていたから、取り巻き的な存在で話の合いそうな子とひっそり息をしていた。

 高橋さん曰く私はいつも眠い子で、細くて綺麗な顔立ちをしているのに、ぼんやりしていて男に媚びるところがないのが良いのだとか。母が水商売をしているのに男に媚びないなんて、ある意味凄いとか言っていたけれど、何がどう凄いのか言っていることがわからないけど……私は逆らわず「ありがとう」とニッコリ笑うという術を使っていた。

 それは母が教えてくれたことで、意味がわからなくても受け入れ難くても、少しばかりほほ笑んで礼を言えば大事にはならないという、接客業の極意だった。
 これはいわゆる媚びるという行為なのではないかと思ったりもするが、高橋さんがそう思わないならそれでいい。私にとって、高橋さんは絶対的に価値観が合わない人間で、そうなるとはっきりいってどうでもいい相手だった。

 高橋さんの事はいいとして、愛ちゃんは母ととても気が合っていたと私は思っていた。

 二人は朝方、よく家で酒醒ましのお茶を飲んだ。そんな時、本当にくだらないことでも熱心に討論し、難しい話でも互いに笑い合っていた。息がぴったり、そう思っていたのに……。それにだ、もしも二人が仲違いをしたとしても、私は愛ちゃんを失いたくなかった。愛ちゃんに会いたいし、愛ちゃんと話したい、出来ればまた愛ちゃんに抱きしめて欲しかった。小さい時から大好きだった、大きな体、大きな掌、愛ちゃんの温度。母は好きだが、愛ちゃんも同じくらい好きだったのだから、母と愛ちゃんが合わなくなってしまっても、私は愛ちゃんと会ったりしたかった。

 私は覇気のない母を気遣いつつも「えっと……連絡とかとってないの? もし取りにくいなら、私が電話かけるけど」などと言ってみた。母の唇がもの言いたげに揺れて、でも言いたくないといわんばかりに唇がきゅっと引き結ばれた。同時に鼻息が聞こえて、母はまばたきをしながら俯いた。

「終わってしまったのだから、いいのよ。気を使ってくれてありがとうね」

 母はそう言って力なく微笑んで見せた。
 ありがとうとほほ笑みは、どんな時でも最強だ。なんだよ、私は愛ちゃんと話したいのにこんな顔で礼を言われたんじゃ、私はこの先なんて言えばいいのか。何も言えないじゃないかと、憤る。けれどどんなに私が憤慨したところで、愛ちゃんが返ってくるわけでもないし、こんなに寂しそうな母の姿を見たのは久しぶりで「わかった」と言ってベッドに戻るしか術がなかった。

 こうして母子共々愛ちゃんを失い、しばらく打ちひしがれた空気が漂っていた。

 この時、はっきりと失うという事の怖さを知った。一度心に空いた穴は埋まらない。大好きなハリーポッターや指輪物語を読んでいても、気の合う友達と話しても、ふとした瞬間にひゅうっと隙間風が穴を通過していって、私をぶるっと震わせる。唐突にやってくるそれは防ぎようもなく心をヒンヤリとさせていった。

 背の大きな女性を見た時、愛ちゃんの使っていた香水の匂いを嗅いだ時、愛ちゃんと飲んだ紅茶、愛ちゃんと食べたおかず、愛ちゃんがそこここにいて、私の心はいつまでも冷たい風が吹き荒れているようだった。
 パパを失った時よりも大きな喪失感。私が成長したからより居なくなったことを実感したのだろうか。それとも、一緒に居た月日が長かったからなのだろうか。きっと、どちらもだろう。

 パパの顔は思い出せなくても、愛ちゃんの顔を忘れることはない。目を瞑ればはっきりと浮かぶ、シャープな輪郭、大きな瞳、目の下の縦に入る皺。顔も体温も、優しさだって知っているのに、私は愛ちゃんが会田という苗字だという事も知らなかった。電話番号も住所も知らない。途方に暮れた私は、やはり母のように力を抜いて笑顔を作る。諦めた時にも人は笑うのだ。泣きたくなっても笑ってしまう、不思議な生き物だと思う。
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