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私の夜は長い。物心がついたときから長かった。
スマホのアラームが鳴り、朝を伝える。大学に行く為に起きなければならない。
「ねぇ、起きて? 朝だよ」
隣に微睡む人が居ることに喜びを感じ、朝を楽しめるこの生活。触れれば温もりを感じられる。
「もう少し……」
寝ぼけた低い声と温かく大きな手が私を捕まえる。
「夜にちゃんと寝ればいいんだから、起きようよ」
私の主張にくぐもった笑い声が返ってきた。
「しゃーないな」
許容してくれた返答に私は自然と笑みを漏らした。
夜の長さに狼狽えた小さな頃の私。うさぎのぬいぐるみを抱きしめて長い夜を耐えた日々。それが辛かったという認識はなかった。でも、今は比べるまでもなく幸福なのだ。
再び急かすアラームを止めると、立ち上がってカーテンを開ける。待ち侘びた朝日が私を包んでいく。
うちはいわゆる母子家庭で、母の職業は水商売という世間一般からみると典型的な『可哀想な家庭』に当てはまるらしい。それは外から見た印象であって、私はこれっぽっちも可哀想ではなかった。
確かに、幼稚園でお父さんの似顔絵を描きましょうという時間に、お父さんイコール中年の男の人だと思っていた私が園長先生を描いてしまったのは、今思うと気の毒な子だ。でも、年少さんの画力など丸と線のなにかなのだから、特段誰かに憐れみの目で見られたりはしなかったはず。
なぜ、幼い時の事をハッキリ覚えているのかと問われれば、覚えていたわけではない。
母が事あるごとに「姫乃は園長先生を描いて危機を脱したのよね。本当に賢い子」と、褒め称えたからに他ならない。そんな深いことを考えて描いた訳ではなかったけれど、母が嬉しそうにしているのは好きだったから黙っておくことにした。
何度も母が話すそれをどこかムズムズしながら聞いていたので、私は覚えてもいない園長先生の似顔絵が直ぐに思い浮かべられるようになってしまった。きっとヘンテコな顔に髭を生やしていたに違いない。園長先生の写真を見ると顎髭を生やしているから、絶対丸に線を描いて髭をビビビっと引いたはず。幼稚園児の画力だ、そこまでやれていたのかも怪しい。
母はごく一般的なお母さんとは確かに違っていたが、至って普通に私を可愛がり、親として叱りもするし褒めてくれもした。
たとえばおねしょをしてしまって、母に教えられていた通り着替えをし、シーツを剥いで二つまとめて洗濯機に入れ、こたつでうとうとしながら母を待っていたりすると、帰宅した母はやたら大袈裟に私を褒め称えた。
「姫乃! エラい子ね。ちょっと抱き締めさせて。あらあら、お着替えまでしたの? 凄いじゃない、完璧!」
おねしょをしてしまったことを咎めたりなど間違ってもしない、ただひたすらに出来たことを褒めてくれるから私は恥ずかしさより嬉しさが勝り、次におねしょをするのが待ち遠しく思ったりした。次はもっともっと上手くやる。そういう向上心はいつももっていたように思う。
夜は六時に家を出て、近くにある『月華』とかいう、いかにもそれらしい店名のキャバクラに母は出勤する。母は雇われママとかいうものなのだと自慢そうに話していたが、その頃の私には難しくて意味がわからなかった。
ただ愛ちゃんという綺麗なお姉さんが実は男の人だという事は知っていて、その愛ちゃんが途轍もなく好きだった。
大きくて細くてとっても優しくて、いつも私を抱っこしてくれる愛ちゃん。愛ちゃんが私のパパになってくれたらいいのにとすら思っていたが、それは愛ちゃんが困ってしまうから言ってはいけないと母に指切りげんまんをさせられていた。なぜ困ってしまうのだろうと疑問だったが、言ってはいけないと言われたら、私はそういうものなのだとすんなり受け入れるタイプだった。
『月華』は母と愛ちゃんがメインのホステスさんで、あとは基本アルバイトの若い人で成り立っていたはずだ。若い子は定着しなくって困ると母はいつも嘆いていた。そんな訳で万年人手不足だったから、母は常に忙しい日々を送っていたのを記憶している。
「いい、ママが出掛けたら誰が来ても鍵を開けちゃダメ。誰も家に入れてはダメだからね」
母は仕事に向かうとき、必ずそれを私に約束させ、私が頷くのを確認してから投げキスをする。真っ赤なディオールが塗りたくられた唇から放たれるキスを、私は唇を突き出して受け取っていた。小学校低学年まではその儀式を疑うことなくしていたが、ある時から恥ずかしく思いやらなくなると、母は悲しそうに微笑んで「照れくさいのね。大きくなっちゃって」と呟いた。
必要ではないことなら強要はしない、それが寂しくても、そんな母。私は母の残念そうな表情をいつまでも覚えていて、暫くは見送りをするとき胸が痛んだものだった。
夜に一人残された私は、教育テレビを見ながら母が作ってくれた夕飯を食べる。
大抵はおかずが一品、それにお味噌汁、そんなものだった。でも、毎日毎日ちゃんと作ってくれていたことには感謝しかない。千切りキャベツは買ったものでも、コロッケは手作り。手の抜き方を心得た、手抜きの達人だと母は自負していた。それが逆だったりしても──千切りキャベツは母が作り、コロッケが総菜──十分母の気持ちが籠っていると私は感じていただろう。
小さいうちはお味噌汁も白米もよそってから出勤してくれていた。だから、お箸を自分で出してきて、手を合わせていただきますをしてから食べ始める。
近所の美菜っちの家は、ご飯の時はテレビをつけてはいけないらしい。私は本当に可哀想だと美菜っちに同情していた。
だって夕飯の時にテレビをつけなければ、アニメの時間を逃してしまう。そんなの勿体ないことだ。
そんな美菜っちのお母さんは私が一人で夕飯を食べていることをいつも気にして「今日はうちで食べていく?」と聞いてくれた。それはまあまあ楽しそうな誘いではあったけれど、私は母が作ってくれたご飯が好きだし、テレビを見ながらご飯を食べるのも好きだったから「大丈夫です」と、ちゃんと伝えていた。それを聞くと美菜っちのお母さんは「しっかりしているのね」と、なんとも言えない表情をし、私の肩に手を置いたりした。
ご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いたら、髪の毛を乾かす。
母の自慢のドライヤーは髪をサラサラにするらしい。私はいつも髪が綺麗だと褒められていた。そして、自分で髪を洗えることに驚かれ、また同情される。そこは頑張って教えてくれた母を褒めるところだと思うのだけど……世間一般の人からすると、小さい子が自分で何から何まで出来ることは同情すべきことだという事らしかった。
因みに、幼稚園で一緒だった真帆ちゃんも髪は自分で洗えると言っていた。真帆ちゃんの家はお父さんもお母さんもいる、普通のお家だ。
「髪くらい自分で洗えるよねー」
「ねー。みんななんでやらないんだろ?」
「しらなーい。子供だよねー」
こんな会話をしたのを覚えているのは、真帆ちゃんの事があまり好きではなかったのに、その時だけどういう訳か仲間意識が働いて、すごく好きだと感じたからなのだと思う。
そうやって一通りやることを終えると、私は子供だから寝ないとならなかった。
そう、長い夜の始まりだ。
当時住んでいたのは2DKのアパートで、一つは居間兼母の部屋、もう一つは私の部屋。
母の部屋は大きなクローゼットと出窓がありそれらはとても羨ましかったが、私の部屋の方が角部屋だったこともあって陽当たりも風通しも良かった。
玄関というには名ばかりの靴を脱ぐ半畳ないくらいのスペース。横はキッチンダイニング。こちらも六畳しかなく、このダイニングも名前負け、ダイニングテーブルとしてではなく作業台として重宝したテーブルがど真ん中に鎮座していた。
私は寝なければならない時間になると、自室にある白木造りのベッドに登り、ウサギ柄の布団カバーが掛かった布団を頭から被る。
シンとした夜に時計のカチカチという確かな鼓動。昼間はまるで聞こえない時計の音は夜だけ音を大きくするらしい。
遠くから聞こえてくる犬の鳴き声はいい、嫌なのは猫の発情期の鳴き声。まるでホラーなそれは人間の赤ちゃんの泣き声にそっくりで、聞くたびに頬の産毛が逆立つほど恐怖だった。しかも赤ちゃんみたいにじっとしてないから、どんどん距離を縮めてきたりする。
それだけじゃなく、救急車やただのクラクション音、夜でも音はこんなにするのに、やはりシンとしているような気がするのは、私が緊張していたからなのだろうか。
頭から布団を被ると私だけの世界。絵本が大好きだった私は、妄想に妄想を付け足して、どこまでも広がる物語を考えていると、いつの間にか眠りに落ちる。
けれど、ここからが長いのだ。
夜中、パチッと目が覚めて、世界がまだ闇に包まれていることを知った時の絶望。
私は言い付けをしっかり守って寝たのに、まだそこは辺り一面夜なのだ。母も不在のまま、眠りに落ちた時分よりも夜が増している。本当は窓から朝日が差し込み、母の鼻歌とフライパンが擦れたり叩かれたり、ウインナーの焼ける匂いがしていて欲しいのに、求めているものは何もかも、夜の向こうで出番待ち。悲しいかな、夜はまだまだ続くのだった。
どういう訳なのか、そんな時に限ってトイレに行きたかったり、喉が猛烈に渇いていたりするのだから、運命とはやたらと試練を与えると何かを呪う。
寝入りより鎮まった外の世界。夜であることにかわりないのに、車の走る音もお隣さんや下の階に住む木田さんの家から聞こえてくる生活音もしなくなって、更に静けさが増している。案外猫だけは騒いでいたりするのだから、なお恐ろしいのだ。
そんな時、母に電話をしようかと思ったりするけれど、私のために一生懸命働いているのだから邪魔などしたらいけない。
私は布団の中を手でかき回しうさたんを探り当てる。ウサギのぬいぐるみのうさたんは、怖いときに頼りにする最強の相棒だった。グレーがかった体に、髭が生えていて、目は真っ黒。私は赤い目のウサギは嫌いなので、真っ黒な目が特に気に入っていた。
ある日ゴキブリが出てパニックを起こした私が思わずうさたんを投げたところ、見事にゴキブリにヒットし、ゴキブリはヒクヒク虫の息。弱ったゴキブリを母のファッション雑誌で悲鳴をあげながら掬いあげベランダに投げた武勇伝を、たまたま母に誘われて仕事帰りに遊びに来た愛ちゃんにしたら、愛ちゃんは高い高いをして褒めてくれた。
「スゴイじゃない! 私だってゴキブリは苦手なのよ?」
「愛ちゃんも? お母さんも大嫌いなんだよ」
「姫乃もでしょ?」
「嫌いだけど、頑張る! 次も出来るよ」
愛ちゃんは微笑んで私を抱きしめ、それからヒョイッと高く私を放り投げてキャッチした。私の髪はフワリと浮いて慌てたように落ちていく。
愛ちゃんは背が高いからその高い高いは本当に高くて……それはそれで少しばかり試練だった。
「高い高い、いいわね」
上機嫌の母はうさたんを拾い上げて洗面所へと向かう。
愛ちゃんが私を褒めている間、うさたんはゴシゴシと洗われて可哀想なことに髭がクニクニになってしまったが、代わりにとてもいい匂いの柔軟剤を使われて暫く日向ぼっこを満喫していた。
うさたんの耳を掴んで恐る恐るベッドを出ると私はダイニングキッチンを抜けトイレにダッシュして用を足し、帰りは冷蔵庫を経由して帰ることにしていた。どうせなら喉が渇かないように飲んでおいた方がいいし、トイレに行ったら喉が渇いた気になるから、毎回そうしていた。
冷蔵庫の横には私用の踏み台が置いてあって、うさたんを脇に挟むと私はそれをずるずると引っ張り出して冷蔵庫を開ける。牛乳のパックを慎重に取り出すと、踏み台を降りてテーブルへと牛乳を置いて、カップを棚から出す。踏み台を今度はテーブルの方へと引っ張って来て乗り、牛乳を両手で持って注ぐとやっとありつけるという訳だ。
夜中にやるには結構な労力だし、今考えればそんなことをしていたから眠気がどんどん遠のいて、ベッドに戻った時にはすっかり目が冴えて眠れなくなるのだとわかるのだが、小さかった私にはそんなところに思いが行きつくはずはなく、毎回トイレからの牛乳を済ませるとベッドに戻り、ギンギンに冴えた頭でうさたん相手に布団の中でごっこ遊びなどして時間を潰すはめになった。
スマホのアラームが鳴り、朝を伝える。大学に行く為に起きなければならない。
「ねぇ、起きて? 朝だよ」
隣に微睡む人が居ることに喜びを感じ、朝を楽しめるこの生活。触れれば温もりを感じられる。
「もう少し……」
寝ぼけた低い声と温かく大きな手が私を捕まえる。
「夜にちゃんと寝ればいいんだから、起きようよ」
私の主張にくぐもった笑い声が返ってきた。
「しゃーないな」
許容してくれた返答に私は自然と笑みを漏らした。
夜の長さに狼狽えた小さな頃の私。うさぎのぬいぐるみを抱きしめて長い夜を耐えた日々。それが辛かったという認識はなかった。でも、今は比べるまでもなく幸福なのだ。
再び急かすアラームを止めると、立ち上がってカーテンを開ける。待ち侘びた朝日が私を包んでいく。
うちはいわゆる母子家庭で、母の職業は水商売という世間一般からみると典型的な『可哀想な家庭』に当てはまるらしい。それは外から見た印象であって、私はこれっぽっちも可哀想ではなかった。
確かに、幼稚園でお父さんの似顔絵を描きましょうという時間に、お父さんイコール中年の男の人だと思っていた私が園長先生を描いてしまったのは、今思うと気の毒な子だ。でも、年少さんの画力など丸と線のなにかなのだから、特段誰かに憐れみの目で見られたりはしなかったはず。
なぜ、幼い時の事をハッキリ覚えているのかと問われれば、覚えていたわけではない。
母が事あるごとに「姫乃は園長先生を描いて危機を脱したのよね。本当に賢い子」と、褒め称えたからに他ならない。そんな深いことを考えて描いた訳ではなかったけれど、母が嬉しそうにしているのは好きだったから黙っておくことにした。
何度も母が話すそれをどこかムズムズしながら聞いていたので、私は覚えてもいない園長先生の似顔絵が直ぐに思い浮かべられるようになってしまった。きっとヘンテコな顔に髭を生やしていたに違いない。園長先生の写真を見ると顎髭を生やしているから、絶対丸に線を描いて髭をビビビっと引いたはず。幼稚園児の画力だ、そこまでやれていたのかも怪しい。
母はごく一般的なお母さんとは確かに違っていたが、至って普通に私を可愛がり、親として叱りもするし褒めてくれもした。
たとえばおねしょをしてしまって、母に教えられていた通り着替えをし、シーツを剥いで二つまとめて洗濯機に入れ、こたつでうとうとしながら母を待っていたりすると、帰宅した母はやたら大袈裟に私を褒め称えた。
「姫乃! エラい子ね。ちょっと抱き締めさせて。あらあら、お着替えまでしたの? 凄いじゃない、完璧!」
おねしょをしてしまったことを咎めたりなど間違ってもしない、ただひたすらに出来たことを褒めてくれるから私は恥ずかしさより嬉しさが勝り、次におねしょをするのが待ち遠しく思ったりした。次はもっともっと上手くやる。そういう向上心はいつももっていたように思う。
夜は六時に家を出て、近くにある『月華』とかいう、いかにもそれらしい店名のキャバクラに母は出勤する。母は雇われママとかいうものなのだと自慢そうに話していたが、その頃の私には難しくて意味がわからなかった。
ただ愛ちゃんという綺麗なお姉さんが実は男の人だという事は知っていて、その愛ちゃんが途轍もなく好きだった。
大きくて細くてとっても優しくて、いつも私を抱っこしてくれる愛ちゃん。愛ちゃんが私のパパになってくれたらいいのにとすら思っていたが、それは愛ちゃんが困ってしまうから言ってはいけないと母に指切りげんまんをさせられていた。なぜ困ってしまうのだろうと疑問だったが、言ってはいけないと言われたら、私はそういうものなのだとすんなり受け入れるタイプだった。
『月華』は母と愛ちゃんがメインのホステスさんで、あとは基本アルバイトの若い人で成り立っていたはずだ。若い子は定着しなくって困ると母はいつも嘆いていた。そんな訳で万年人手不足だったから、母は常に忙しい日々を送っていたのを記憶している。
「いい、ママが出掛けたら誰が来ても鍵を開けちゃダメ。誰も家に入れてはダメだからね」
母は仕事に向かうとき、必ずそれを私に約束させ、私が頷くのを確認してから投げキスをする。真っ赤なディオールが塗りたくられた唇から放たれるキスを、私は唇を突き出して受け取っていた。小学校低学年まではその儀式を疑うことなくしていたが、ある時から恥ずかしく思いやらなくなると、母は悲しそうに微笑んで「照れくさいのね。大きくなっちゃって」と呟いた。
必要ではないことなら強要はしない、それが寂しくても、そんな母。私は母の残念そうな表情をいつまでも覚えていて、暫くは見送りをするとき胸が痛んだものだった。
夜に一人残された私は、教育テレビを見ながら母が作ってくれた夕飯を食べる。
大抵はおかずが一品、それにお味噌汁、そんなものだった。でも、毎日毎日ちゃんと作ってくれていたことには感謝しかない。千切りキャベツは買ったものでも、コロッケは手作り。手の抜き方を心得た、手抜きの達人だと母は自負していた。それが逆だったりしても──千切りキャベツは母が作り、コロッケが総菜──十分母の気持ちが籠っていると私は感じていただろう。
小さいうちはお味噌汁も白米もよそってから出勤してくれていた。だから、お箸を自分で出してきて、手を合わせていただきますをしてから食べ始める。
近所の美菜っちの家は、ご飯の時はテレビをつけてはいけないらしい。私は本当に可哀想だと美菜っちに同情していた。
だって夕飯の時にテレビをつけなければ、アニメの時間を逃してしまう。そんなの勿体ないことだ。
そんな美菜っちのお母さんは私が一人で夕飯を食べていることをいつも気にして「今日はうちで食べていく?」と聞いてくれた。それはまあまあ楽しそうな誘いではあったけれど、私は母が作ってくれたご飯が好きだし、テレビを見ながらご飯を食べるのも好きだったから「大丈夫です」と、ちゃんと伝えていた。それを聞くと美菜っちのお母さんは「しっかりしているのね」と、なんとも言えない表情をし、私の肩に手を置いたりした。
ご飯を食べて、お風呂に入って、歯を磨いたら、髪の毛を乾かす。
母の自慢のドライヤーは髪をサラサラにするらしい。私はいつも髪が綺麗だと褒められていた。そして、自分で髪を洗えることに驚かれ、また同情される。そこは頑張って教えてくれた母を褒めるところだと思うのだけど……世間一般の人からすると、小さい子が自分で何から何まで出来ることは同情すべきことだという事らしかった。
因みに、幼稚園で一緒だった真帆ちゃんも髪は自分で洗えると言っていた。真帆ちゃんの家はお父さんもお母さんもいる、普通のお家だ。
「髪くらい自分で洗えるよねー」
「ねー。みんななんでやらないんだろ?」
「しらなーい。子供だよねー」
こんな会話をしたのを覚えているのは、真帆ちゃんの事があまり好きではなかったのに、その時だけどういう訳か仲間意識が働いて、すごく好きだと感じたからなのだと思う。
そうやって一通りやることを終えると、私は子供だから寝ないとならなかった。
そう、長い夜の始まりだ。
当時住んでいたのは2DKのアパートで、一つは居間兼母の部屋、もう一つは私の部屋。
母の部屋は大きなクローゼットと出窓がありそれらはとても羨ましかったが、私の部屋の方が角部屋だったこともあって陽当たりも風通しも良かった。
玄関というには名ばかりの靴を脱ぐ半畳ないくらいのスペース。横はキッチンダイニング。こちらも六畳しかなく、このダイニングも名前負け、ダイニングテーブルとしてではなく作業台として重宝したテーブルがど真ん中に鎮座していた。
私は寝なければならない時間になると、自室にある白木造りのベッドに登り、ウサギ柄の布団カバーが掛かった布団を頭から被る。
シンとした夜に時計のカチカチという確かな鼓動。昼間はまるで聞こえない時計の音は夜だけ音を大きくするらしい。
遠くから聞こえてくる犬の鳴き声はいい、嫌なのは猫の発情期の鳴き声。まるでホラーなそれは人間の赤ちゃんの泣き声にそっくりで、聞くたびに頬の産毛が逆立つほど恐怖だった。しかも赤ちゃんみたいにじっとしてないから、どんどん距離を縮めてきたりする。
それだけじゃなく、救急車やただのクラクション音、夜でも音はこんなにするのに、やはりシンとしているような気がするのは、私が緊張していたからなのだろうか。
頭から布団を被ると私だけの世界。絵本が大好きだった私は、妄想に妄想を付け足して、どこまでも広がる物語を考えていると、いつの間にか眠りに落ちる。
けれど、ここからが長いのだ。
夜中、パチッと目が覚めて、世界がまだ闇に包まれていることを知った時の絶望。
私は言い付けをしっかり守って寝たのに、まだそこは辺り一面夜なのだ。母も不在のまま、眠りに落ちた時分よりも夜が増している。本当は窓から朝日が差し込み、母の鼻歌とフライパンが擦れたり叩かれたり、ウインナーの焼ける匂いがしていて欲しいのに、求めているものは何もかも、夜の向こうで出番待ち。悲しいかな、夜はまだまだ続くのだった。
どういう訳なのか、そんな時に限ってトイレに行きたかったり、喉が猛烈に渇いていたりするのだから、運命とはやたらと試練を与えると何かを呪う。
寝入りより鎮まった外の世界。夜であることにかわりないのに、車の走る音もお隣さんや下の階に住む木田さんの家から聞こえてくる生活音もしなくなって、更に静けさが増している。案外猫だけは騒いでいたりするのだから、なお恐ろしいのだ。
そんな時、母に電話をしようかと思ったりするけれど、私のために一生懸命働いているのだから邪魔などしたらいけない。
私は布団の中を手でかき回しうさたんを探り当てる。ウサギのぬいぐるみのうさたんは、怖いときに頼りにする最強の相棒だった。グレーがかった体に、髭が生えていて、目は真っ黒。私は赤い目のウサギは嫌いなので、真っ黒な目が特に気に入っていた。
ある日ゴキブリが出てパニックを起こした私が思わずうさたんを投げたところ、見事にゴキブリにヒットし、ゴキブリはヒクヒク虫の息。弱ったゴキブリを母のファッション雑誌で悲鳴をあげながら掬いあげベランダに投げた武勇伝を、たまたま母に誘われて仕事帰りに遊びに来た愛ちゃんにしたら、愛ちゃんは高い高いをして褒めてくれた。
「スゴイじゃない! 私だってゴキブリは苦手なのよ?」
「愛ちゃんも? お母さんも大嫌いなんだよ」
「姫乃もでしょ?」
「嫌いだけど、頑張る! 次も出来るよ」
愛ちゃんは微笑んで私を抱きしめ、それからヒョイッと高く私を放り投げてキャッチした。私の髪はフワリと浮いて慌てたように落ちていく。
愛ちゃんは背が高いからその高い高いは本当に高くて……それはそれで少しばかり試練だった。
「高い高い、いいわね」
上機嫌の母はうさたんを拾い上げて洗面所へと向かう。
愛ちゃんが私を褒めている間、うさたんはゴシゴシと洗われて可哀想なことに髭がクニクニになってしまったが、代わりにとてもいい匂いの柔軟剤を使われて暫く日向ぼっこを満喫していた。
うさたんの耳を掴んで恐る恐るベッドを出ると私はダイニングキッチンを抜けトイレにダッシュして用を足し、帰りは冷蔵庫を経由して帰ることにしていた。どうせなら喉が渇かないように飲んでおいた方がいいし、トイレに行ったら喉が渇いた気になるから、毎回そうしていた。
冷蔵庫の横には私用の踏み台が置いてあって、うさたんを脇に挟むと私はそれをずるずると引っ張り出して冷蔵庫を開ける。牛乳のパックを慎重に取り出すと、踏み台を降りてテーブルへと牛乳を置いて、カップを棚から出す。踏み台を今度はテーブルの方へと引っ張って来て乗り、牛乳を両手で持って注ぐとやっとありつけるという訳だ。
夜中にやるには結構な労力だし、今考えればそんなことをしていたから眠気がどんどん遠のいて、ベッドに戻った時にはすっかり目が冴えて眠れなくなるのだとわかるのだが、小さかった私にはそんなところに思いが行きつくはずはなく、毎回トイレからの牛乳を済ませるとベッドに戻り、ギンギンに冴えた頭でうさたん相手に布団の中でごっこ遊びなどして時間を潰すはめになった。
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