170 / 286
Season 3
脅しに乗ったら大惨事⁈(4)
しおりを挟む翌朝――。
「ただいまぁ……」
「お帰り。どうしたの? なんかお疲れ?」
「ん……まあ……」
律や海が学校に行ったのと入れ替わりに帰宅してきた俺は、珍しく朝から起きている司に出迎えられ、項垂れるようにして頷いた。
ってか、また司かよ。なんで俺が帰宅してくると、一番最初に顔を合わすのが司なんだ? そういう決まりでもあんの?
「今朝は早起きだな」
「悠那に朝から仕事が入ってたから。起こしてあげるついでに一緒に起きた」
「お前は?」
「俺はお昼から仕事。陽平も今日はお昼からでしょ?」
「うん」
でもって、またしてもこいつとしたくもない会話をする時間がたっぷりあるようだ。
「久し振りの朝帰りだけど、昨日は湊さんとのデートじゃなくて実家に帰ってたの?」
「あ? まあ……」
「やっぱり。車がなかったからそうかな~って」
「お前なぁ……いちいち俺の車をチェックすんなよ。ストーカーか?」
「いちいちチェックしてるわけじゃないけど、車を停める時にどうしても目に入っちゃうじゃん。陽平の車があるかないか。陽平の駐車スペースって俺の隣りなんだから」
「俺の方が帰りが遅いことだってあんだろ」
「それはそうだけど……。実際に陽平は昨日家に帰ってきてないし、湊さんと遊んでたんなら朝帰りにはならないかなって。それとも、本当は湊さんとデートだったの?」
「いや。実家に帰ってた」
どうして仕事を終えた後の俺の行動を、毎度毎度司に詮索されなきゃいけないんだよ。ま、司も好きでしてるわけじゃないんだろうけど。
「そのわりには帰って来るのが早かったね。せっかくお昼からの仕事なんだから、もう少しのんびりしてくれば良かったのに」
「んん……」
そして、痛いところを……。
昨日は実家に帰ったけれど、実家に泊ったわけじゃない俺は、「帰りが早い」と言われても、適当な言い訳がすぐには見つからなかった。
「ん?」
「ん? な、なんだよ……」
「陽平の反応がおかしい」
「は?」
こらこら。どうしてそうやってすぐに俺を疑うんだよ。俺、そんなに不審な態度でも取ったのか?
疑われるような態度を取った覚えがない俺は、疑わしい目を向けてくる司に後退りしそうになった。
「何か隠してる」
探るように俺を見る司の瞳に問われ
「べっ……別に……なんも隠してねーよ」
必死に平静を装う俺だったが――。
「はい、嘘~」
「はあ⁈ ……って、何っ⁈」
俺の嘘はあっさり司に見破られてしまい、怯んだ俺は何故か司に抱き込まれてしまったから、何がなんだかさっぱりわからなくなってしまった。
ちょっとちょっと。なんで俺を抱き締めてくるんだよ。何がしたいの?
「おい、こら司っ! お前何やって……」
待て待て待て。俺に男と抱き合うような趣味はないんだよ。しかも、お前には悠那がいるだろ。なんで俺にこんなことしてくんの?
焦った俺が必死に司の胸を押し返すものの、司はビクともしなかった。
この野郎……無駄に図体がデカいからか、ピクリとも動かねーじゃねーか。言っても俺、司との体格差はそこまで酷くないはずなんだけど?
「陽平って意外と華奢だね。もっとガッシリしてるのかと思ってた」
「余計なお世話だっ! ひっ……」
一体何をしているのかはわからないけれど、司が俺の髪に鼻先を埋めているのはわかった。その鼻が俺の髪の間をもそもそと動くのが擽ったくて、俺は小さく悲鳴を上げながら肩を窄めた。
まさかとは思うが……こいつ、また俺の匂いでも嗅いでる?
「陽平の実家のシャンプーの匂いじゃない」
やっぱりかーっ! ってか、俺の実家のシャンプーの匂いじゃないって何⁈ 俺の実家がどこのシャンプー使ってるとか知ってんの⁈ 教えたことないんだけどっ! 怖っ! キモっ!
確かに、俺の実家のシャンプーはあまり一般的ではないというか、普通の薬局には売っていない代物で、匂いがめちゃくちゃいいのが特徴でもある。香りの持続時間も長いから、たとえ銘柄はわからなくても、匂いくらいなら嗅ぎ分けることができるとも思うけど……。
(だからって本当に嗅ぎ分けんなよ。マジで犬かよ)
それを司に嗅ぎ分けられるのはなんか嫌だ。そして、司が俺の実家のシャンプーの匂いを覚えていることも。
「いいから離れろ! 悠那にチクるぞ」
「え? なんで悠那? 俺、別にチクられるようなことしてなくない?」
「いや。今のお前の行動を悠那が知ったら確実に怒ると思うぞ? 俺は」
「陽平相手なのに?」
「俺相手でもっ!」
「そうかなぁ……」
俺に脅され、釈然としない顔ではあったものの、司は俺からすんなり離れてくれた。
ったく……自分はちょっとでも他の男が悠那に触ったらめちゃくちゃ怒るしヤキモチ焼く癖に。その逆に対しては何も思っていないらしい。悠那も司に負けず劣らずのヤキモチ焼きだから、自分の行いで悠那を怒らせてしまったことがあるはずなのに。
「どこ行ってたの?」
「だから、実家に帰ってたんだって」
「その後の話」
「そ……それは……」
たかがシャンプーの匂いだけで、昨夜の俺の行動に不審を抱かれてしまった俺は、この場をどうやって切り抜けるべきかで頭を悩ませた。
っていうか、そこ聞きたい? 俺が昨日の夜はどこで何をしていたかなんて、司には全然関係ないことのように思うけど……。
「まさか……湊さんの家に泊まったの?」
「んなわけねーだろ。なんで俺が湊の家に泊まんなきゃいけねーんだよ。自殺行為じゃん」
「違うんだ」
「なんでちょっと残念そうな顔とかすんの?」
「え? えへへ」
えへへ、じゃねーんだよ。お前は俺に何を期待してるんだ。
もしかして司の奴、俺と湊がくっつけばいいとか思ってるんじゃないだろうな。だから、俺と湊のことにもあまり協力的じゃないっていうか、どっちかというと湊の味方っぽい態度を取ることが多いのでは?
正直、そう思えるのは司だけじゃなく、うちのメンバー全員と言っても過言ではない。唯一、律だけが俺の味方っぽいところはあるけれど、湊が俺を好きであることに関しては、“仕方ないよね”と認めてしまっている節がある。
全員が同性カップル同士だからだろうか。俺にも同じ男と付き合って欲しいという願望を持たれているとかじゃないことを祈りたい。
「いやね、陽平にもそろそろ春が来てもいいんじゃないかと思って」
「何が春だよ。このクソ寒い時期に」
何が“春”だ。今は真冬だっつーの。この脳内お花畑野郎が。
「えー……でも、陽平だって彼氏欲しくない?」
「彼女なっ! 俺が欲しいとすれば彼女だからっ!」
つくづく余計なお世話である。なんで“彼氏”って言葉を遣った。そこは“彼女”って言えよ。仮に湊との進展を想定したとしても。
俺が湊に犯されたことがあると知っている司は、俺と湊が付き合ったら、当然俺が彼女役になると思っているんだろう。
ほんと、ムカつく奴だ。俺がそう簡単に同じ男からいいようにされるとでも思ってんのか?
「昨日は夏凛の家に泊まったんだっ!」
このままだと、俺の男としての威厳を失いかねない。そう思った俺は、意を決して、昨夜はどこに行っていたのかを司に告げることにした。
「え……」
いきなり俺から真実を聞かされた司は目を丸くして驚き、信じられないような顔でまじまじと俺を見てきた。
ま、そういう反応になるとは思ったけどさ。自分でも“何やってるんだろう”って思ったし。
「なんで夏凛さんの家に行ったの? もしかして陽平、夏凛さんとよりを戻すことにしたの?」
「いや……そういうわけじゃねーんだけど……」
「でも、夏凛さんって今も陽平のこと好きなんだよね? 前に飲み会で言ってたじゃん。その相手の家に泊まるってことは、そういうことになるんじゃないの?」
「えっと……それは……」
勢い余って暴露してしまったものの、そこを突っ込まれると困る。
実際、俺は夏凛の家に行こうと思った時点で、そうなる可能性も少しは考えた。
正直、自分の都合で一方的に振ってしまった相手に、身勝手すぎる行動だとは思ったし、夏凛がそれを望むかどうかもわからなかったけど。
でも、このまま湊との関係をずるずる続けるわけにもいかないから、現状を打破するためにも、夏凛とよりを戻す道も考えてしまった。
以前の飲み会で、夏凛が未だに俺に未練があるという話は聞いていたし……。
「ハッキリしないな。よりは戻ったの? 戻ってないの? どっち?」
「えっと……結論から言うと、戻ってはいない」
「じゃあ、どういうことになったの?」
「別にどうも……どうもなってないけど……」
珍しく厳しい口調で俺を問い詰めてくる司に、俺は気まずくなる一方だった。
相手が湊の時はのらりくらりと呑気に喋る癖に。なんで夏凛が相手になると責めるような口調になるんだよ。相手が女だからか?
そりゃま、女相手となると事情が変わってくるのもわかるけどさ。
「よりは戻らなくても、元カノの家に一晩泊ったってことは、そういうことしたんだよね?」
「う……」
まるで尋問のように次々と質問を浴びせてくる司に、俺はとうとう口を噤んでしまった。
こうなることを予測できなかったわけじゃないんだから、俺もムキになって昨日のことを話さなきゃ良かった。今更悔やんでも遅いけど。
「何も答えないってことは、シたんだ」
「……………………」
もともと怒っていたような司の顔はより一層怖いものになり、俺を軽蔑するような目で見下ろしてくるから、俺は俯くしかなかった。
最初に夏凛と再会した話を司にした時、俺は夏凛に未練があるような発言は一切しなかったし、夏凛とよりを戻すつもりも全くなかった。なんなら湊と夏凛をくっつけようとさえ考えた。
夏凛を「利用するつもりはない」とも言ったのに、結局夏凛を利用するようなことをしてしまっている俺に、司も呆れているんだろう。
「陽平が湊さんのことで悩んでるのは知ってるけどさ。だからって夏凛さんを巻き込むのはどうかと思うよ? 陽平は今も夏凛さんが好きなの?」
「嫌いじゃない……」
「じゃあ、また恋人同士に戻りたいと思ってる?」
「戻ってもいいかな……くらいには……」
「ふーん……」
たった今、俺が司から説教されているようなこの状況は無理もない。誰に言っても、今回の俺の行動は責められるに値する自覚はある。自覚はあるけど……。
「だったら望み通りよりを戻したら? 湊さんから逃れるため、陽平が元カノに頼ったって知れば、湊さんもちょっとは愛想尽かすかもね」
でも、俺はそこで知ってしまったんだ。俺はもう、夏凛とよりを戻すことなんてできないってことを……。
「ま、もともと陽平は湊さんと付き合うつもりなんかなかったんだから良かったんじゃない? 夏凛さんも陽平とよりを戻せて嬉しいだろうし」
「…………違う」
「え?」
ああもう……ほんと泣きそうだ、俺。自分が色々と残念すぎるのと情けないのとで。
「夏凛とはよりを戻せない」
俺の声は悲痛に満ちていた。俺は夏凛とよりを戻してもいいと思ったし、昨日はそのつもりも半分あった。
自分が恋愛というものからどんどん遠のいていって、興味すら失いかけていることに焦った俺は、元カノである夏凛に救いを求めようとしたんだ。
別に喧嘩別れしたわけじゃないし、嫌いになって別れたわけじゃない夏凛となら、もう一度やり直せる気がしなくもなかったし。
だけど、俺は夏凛と一緒にいても、前みたいに夏凛に特別な感情を感じなかったし、抱きたいとも思わなかった。夜中に突然家に押し掛けてきた俺に、夏凛の方はそういう期待を抱いていたにも拘わらず……だ。
「え……なんで? だって、一晩一緒にいたんでしょ?」
「いた」
「当然ヤったんでしょ? 夏凛さんと」
「……………………」
そもそも、俺が昨夜夏凛の家に訪れたのは、一度男に抱かれてしまった自分が、今も女を抱けるかどうかを確かめたかったというのがある。過去に恋人同士だったことがある夏凛相手なら、二人っきりでいればそういう流れにもなるだろうと思ったし。
今も俺に未練があるという夏凛は、別れた俺の訪問に最初は戸惑っていたけれど、久し振りに俺と一緒に過ごしているうちに、次第に気持ちが過去へと引き戻されていったのか、俺との距離を縮めてきた。
計画通りだった。多少の罪悪感はあったものの、そこまでは順調だったと言える。
しかし、二人の唇が重なった瞬間、俺は何故か身体が拒否反応を起こしたかのように、慌てて夏凛を押し返してしまった。
「シなかった……できなかったんだ」
「……………………」
今度は司が絶句する番だった。
これまで、散々湊の気持ちを迷惑がり、愚痴を聞かされ、「付き合うなら女がいい!」と繰り返し言い続けてきた俺を知っている司なら、女相手に何もしなかった俺に驚くのも無理はない。
「嘘でしょ? ほんとに?」
「ああ……」
これで隠し事は何一つないほどに全てを暴露した俺は、力なく溜息を吐くと、ようやく司の顔を見上げた。
司の顔はもう怒っていなかった。怒っていない代わりに、ただただ驚いているだけだった。
「もしかして……それを確かめたかったの? 自分がちゃんと女の子に欲情できるかどうかって」
「そうだよっ! で、その結果がこれだっ!」
「……………………」
自分でも知りたくなかった結論に、俺は全てが嫌になりそうだった。
結局、何しにきたのかよくわからないことになった俺は
『とりあえず泊っていきなよ。もう遅いし。安心して。別に何かしようとか、して欲しいなんて思わないから。私達別れたんだもんね』
却って夏凛に気を遣わせただけだった。
そのうえ
『さっきはごめん。キスなんかして』
悪いのは俺なのに謝らせてもしまったから、罪悪感で胸がいっぱいになった。
『お前は悪くない』
辛うじてそう伝えることはできたものの、朝まで気まずい空気は消えなかった。
そして、目が覚めるなり夏凛の家を後にした俺は、遣る瀬無い思いと自己嫌悪に苛まれながら、こうして我が家へと帰ってきたのである。
「もし、夏凛とそういうことになったなら、そのまま夏凛とよりを戻そうと思ったんだ。なのに俺、夏凛に指一本触れることができなかった。俺、もう恋愛なんてできないかもしれない……」
夏凛に手を出せなかった俺は、だからと言って男相手に欲情するとも思えないから、恋愛自体からリタイアしてしまったのかもしれない。
あまりにも湊にしつこくされたせいで、恋愛云々に辟易としてしまっている俺は、そうなってもおかしくない状況にいると思うし。
それならそれで仕方ない。諦めるしかない。恋愛は人生において大事なことだとは思うけど、無理矢理するようなものでもない。だから、このまま一生独り身でいることを選んだとしても、それはそれで俺の自由だ。
きっと、自分の都合で一人の女の子を振り回してしまった罰なんだ。だとしたら、身に覚えのあるその罰は甘んじて受ける。
「うーん……そういうことじゃないんじゃない? 陽平は単に恋愛の方向っていうか、好みが変わったんだと思うよ?」
「え……」
自分の将来に悲観していると、いつの間にか通常モードに戻っている司に言われ、俺の眉毛はピクッと吊り上がった。
こいつの口調が呑気に戻った時は要注意だ。
「いや……別に変わってねーけど……」
「自覚がないだけでしょ。俺だって、昔はそれなりに女の子に興味があったし、可愛いと思うこともあったけど、今は全然何も感じないもん」
「それは、お前が悠那と付き合ってるからで、お前が男同士の恋愛を受け入れたから、そうなっただけだろ」
「そうなんだろうけど、俺って悠那と付き合う前から、悠那とはエッチなこととかしてたじゃん。そうこうしてるうちに、悠那のことが凄く可愛く思えるようになったし、悠那にしか欲情しなくなったんだよね」
「悠那にしかって……」
それはそれで大問題なのでは? 万が一、司が悠那と別れた時はどうするんだよ。その場合、司の恋愛観は一度リセットされるものなのか?
今のところ、二人が別れる可能性は限りなくゼロに等しく、親公認になった勢いに任せて、そのままゴールインしてしまいそうだけど。
結婚できない状況では、何をもって“ゴールイン”になるのかはわからないけど。
「きっと陽平もそうなんだよ。湊さんとデートして、キスしてるうちに、女の子に興味がなくなっちゃったんだよ」
「“してる”じゃなくて“されてる”なっ! ってか、俺は別に湊に恋愛感情なんて抱いてねーぞっ!」
無理矢理デートに連れ出され、そのたびにキスを強要されているうちにそんなことに?
それ、もう事件じゃん。人生最大のピンチじゃん。脅迫されてるうちに懐柔されたってこと? だとしたら、俺がチョロ過ぎる。
「自覚がないだけじゃない?」
「そんなことないっ!」
「じゃあ聞くけど、今まで一度も湊さんにときめいたことはないの?」
「んなもん、あるわけ……」
…………あれ? そう言われてみると、一度や二度ならドキッとしたことがなくもない。でも、それって湊に変なことされそうになったから、心臓が驚いただけだよな? それは“ときめき”に入るのか?
「あるんだ」
「なっ……!」
「陽平も素直じゃないね。湊さんにときめくことがあるんなら、湊さんと付き合ってあげればいいのに」
「勝手に“ある”って決めつけんなっ! 俺は驚いただけなのっ! 驚いてドキッとしただけなんだからなっ!」
「またまた……。はいはい。そういうことにしといてあげる」
「なんだその言い方っ!」
なんだ、その言い方。その態度。司は俺を怒らせたいのか?
他の誰よりも一番俺の事情を知っているはずの司が、俺に対してこの態度。散々言いたくないことまで聞き出された俺としては、腹立たしくて仕方がない。
「俺は湊なんか好きじゃないっ! これは絶対だっ! 湊にときめいたりもしないっ!」
真剣に考えて損しちゃった。みたいな顔になる司に、俺は諦め悪く食い掛ったが、司はまるで子供を宥めるような顔で笑ったうえ、俺の頭を撫でてきやがった。
司の態度に腹を立てすぎた俺は、頭の中で血管の一、二本が切れたんじゃないかと思う。
「司……お前って奴は……」
俺の頭を撫でる司の手の下で、ぶるぶると身体を震わせ始めた俺は、握った拳に湧き上がってくる怒りを込めた。
これはもう殴っていいだろ。それくらいには俺を怒らせたよな?
「ぶっ飛ばすっ!」
これまでの所業の数々。今回の態度。その全てを思い出した俺は、怒りを拳に乗せ、司に向かって大きく繰り出そうとした。が――。
「んんっ⁈」
俺の腕が前に押し出されそうになったまさにその時。俺は再び司の腕の中にいて、唇に柔らかいものを感じていた。
(え……?)
一瞬にして頭の中が真っ白になってしまった俺は、一体何が起こったのかを把握するのに、かなりの時間を有する羽目になった。
この感触って……もしかしなくても司の唇か? ってことは俺、今司とキスしてるってことになる?
「あ、ごめん。陽平が殴りかかってきそうだと思ったから止めようとしたら、唇が当たっちゃった」
「……………………」
「いきなり暴力とかやめてよね。しかも陽平、本気で殴ろうとしたでしょ」
「……………………」
嘘だ……こんな災難ってある? 俺が一体何をしたと言う。
昨日の俺の行いが間違っていたとしても、こんな目に遭わされる謂れはなくない? なんで俺が司とキスしなきゃいけないんだよ。
ただでさえ湊のキスで、男からのキスにはうんざりしてるのに、そこへきて司ともキスする羽目になると、さすがに不運を通り越して悲劇だ。運命に呪われてるとしか思えない。
「お前ーっ! 一体どういう止め方したら、唇と唇がぶつかるような事態が起こるんだよっ! ありえないだろっ! 大惨事じゃんっ!」
「ごめんって。わざとじゃないんだからそんなに怒んないでよ」
「これが怒らずにはいられるかーっ!」
司を殴ろうとしていた拳はすっかり忘れ去られ、盛大に足を踏み鳴らして怒る俺に、司は不服そうな顔で答える。
なんだ、その顔。そんな面倒臭そうな顔すんな。
「もとはと言えば陽平が悪いんだよ? 全力で殴りかかってこようとするから」
「殴られるようなことをしたお前が悪いっ!」
「俺が何したっていうの。何もしてなくない?」
「お前の態度がムカついたんだっ!」
「えー……」
落ち込んで帰ってきたと思ったら、今度は頭の血管が切れそうなくらいに怒らされる羽目になり……。
俺のプライベートってほんと散々じゃね?
「キスしたくらいでそんなに目くじら立てて怒らなくても……。初めてってわけでもないんだから」
「初めて云々の問題じゃなくて、相手の問題だろ」
「でも俺、メンバーとなら全員キスできるよ」
「しなくていいっ! ってか、さっき悠那にしか欲情しないって言ったじゃんっ!」
「キスできるって言っただけで、セックスできるとは言ってないじゃん。愛情表現っていうか、友情の証として、メンバーにならキスできるってだけの話なのに」
「実際にされた俺は非常に不愉快だっ!」
そもそも、帰って来るなり司と出くわしたのが大きな間違いで、その司とうっかり立ち話を始めてしまった俺が愚かだった。司はただの暇潰しで俺に声を掛けてきただけなんだから、適当な理由をつけて部屋に籠ってしまえば良かったんだ。
司の暇潰しにまんまと付き合ってしまい、挙句の果てにはキスされる事故が起こってしまったわけだから、司だけを責めるのは筋違いって気もする。
「不愉快は酷いな。俺は別に嫌じゃなかったよ? しまった、とは思ったけど」
「いや……そこはもっと嫌がれよ。悠那に言いつけるぞ?」
「別にいいよ。だって事故だもん。それに、悠那はもっといけないことを律としたことがあるから、俺のことは責められないと思う」
「は? 何それ。どういうこと?」
それでも、二度と同じ過ちが起きないよう、司には少しくらい反省して欲しいと思う俺の願いは、司の口から発せられた意外な言葉で砕かれた。
ちょっと待て。悠那と律がなんだって? 俺の知らないところで、あの二人がどうかなったりとかしてたのか? 初耳なんですけど。
「去年の9月だったかな? 夏休みが終わって、律が知恵熱出した後のことだよ。俺と陽平、海の三人に仕事が入って家にいなかった時、悠那が律に“気持ちいいを教えてあげる”とか言って、律と触りっことかしたらしいんだよね。もちろん、後でちゃんとお仕置きしといたけど」
「なっ……」
何その馬鹿全開エピソード。俺の知らないところでそんなことが?
馬鹿かな? 馬鹿だな。とは思っていたけど、悠那ってほんと馬鹿だったんだな。付き合わされた律が哀れだ。
「ちょうどその時、陽平は陽平で湊さんに貞操を奪われてたりするんだけどね」
「あーっ! 俺が帰ってきたら、悠那が学校休んでお前とセックスしてた時かっ!」
忘れもしない最悪な一日。俺が湊の家で散々な目に遭っている間、我が家ではそんな淫行が行われていたとは思いもしなかった。
俺的には、悠那が学校を休んでいるのは、司とヤりすぎてバテてるだけだと思っていたが――そのわりには、俺が帰ってきた時も司とヤってたけど――、その前に律ともエロいことしてたってことか。あいつはエロの塊か?
「ま、そういうわけだから、自ら俺以外の人間といけないことをしちゃった悠那は、ちょっとした事故で陽平とキスしただけの俺を責めることはできないんだよ」
「くっ……」
一年以上前の真実を今更聞かされた俺は、勝ち誇った顔で得意気に言う司に何も言い返せなかった。
俺はいつも司に弱味を握られてばっかりなのに、俺が司の弱味を握れないのはどういうことだ? こいつ、弱味なんていくらでもありそうな顔してるのに。
意外としっかり者……ではなく、自分に正直過ぎて隠し事を全くしないからかもしれない。もともと人に知られたくないものがない人間に、弱味なんて存在しないもんな。
司の弱味と言えば悠那くらいのものなんだろうが、その悠那だって存在自体が弱味みたいなものだから、俺がどうこうできるものじゃないし。
「それはそうと……」
「あん?」
今度はなんだ。いい加減、司との会話も終わらせたいってのに。
「本当に不愉快なだけだった?」
「はあ?」
「いやほら。もしかしたら、ちょっとくらいはドキッとしたかな~って」
「お前なぁ……」
何を寝惚けたことを言ってやがるんだ。なんで俺が司にキスされてときめかなきゃなんねーんだよ。それとも、俺にときめいて欲しいのか?
「陽平がちょっとでもドキッとしたんなら、やっぱり陽平は男の人にときめくようになったって証明になると思ったんだけど」
「~……」
一体なんの証明だ。そんな証明が必要か?
仮にもし、だ。俺が今の司とのキスにドキッとしたとしても、大抵の場合、突然の出来事に人の心臓はドキッとするものなんだよ。それを“ときめき”と言ってしまえば、人はさぞかしときめきの多い人生を送っていることになる。
正直に言う。司とのキスにドキッとはした。でも、それは司と突発的にキスすることになった驚きからで、“ドキッ”と言うよりは“ギクッ”とか“ビクッ”とか“ギョッ”って感じで、ときめきとは程遠い代物だった。
「事故紛いのキスじゃダメか。なんなら、もう一回ちゃんとしたキスして確かめてみる?」
「断固お断りだ。っつーか、お前は俺とキスしたいの?」
「ううん。別に。陽平がしたいならしてもいいけど」
「誰がお前とキスなんかしたいと思うかーっ!」
疲れる。司の相手は本当に疲れる。
久し振りにのんびり過ごせる時間を利用して、実家に帰るまでは良かったのに……。
その後の行動を完全に間違えてしまった俺は、時間の使い方をもっと学ぶ必要があると思った。
0
お気に入りに追加
73
あなたにおすすめの小説

男子寮のベットの軋む音
なる
BL
ある大学に男子寮が存在した。
そこでは、思春期の男達が住んでおり先輩と後輩からなる相部屋制度。
ある一室からは夜な夜なベットの軋む音が聞こえる。
女子禁制の禁断の場所。


ある少年の体調不良について
雨水林檎
BL
皆に好かれるいつもにこやかな少年新島陽(にいじまはる)と幼馴染で親友の薬師寺優巳(やくしじまさみ)。高校に入学してしばらく陽は風邪をひいたことをきっかけにひどく体調を崩して行く……。
BLもしくはブロマンス小説。
体調不良描写があります。

塾の先生を舐めてはいけません(性的な意味で)
ベータヴィレッジ 現実沈殿村落
BL
個別指導塾で講師のアルバイトを始めたが、妙にスキンシップ多めで懐いてくる生徒がいた。
そしてやがてその生徒の行為はエスカレートし、ついに一線を超えてくる――。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由
フルーツパフェ
大衆娯楽
クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。
トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。
いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。
考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。
赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。
言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。
たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる