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悪役令嬢エリザベス
01. 運命の日
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一目惚と感じていたが実際は憧れだったのだろう、とエリザベス・アメリア・フェーマスは今は思う。
キラキラと太陽に反射する金髪、優しげなエメラルドの瞳を持った第二王子イーリス・フェリクス・プレヴェド。そのときエリザベスが彼と話したのはお茶会の一幕でほんの少しだったが、口下手なエリザベスを気遣って話しやすい話題を提供する優しさに、エリザベスは非常に感銘を受けた。彼の隣に立って支えたい、一緒にいたいと思うほどに。
エリザベスは婚約者候補時代から内政について勉強し、外交のためにできる限り各国の言語を学び、儀礼やマナーなども身につけた。夜会やサロンでの嫌味にも卒なく対応できるようになった。
泣きたかった。投げ出したかった。逃げたかった。
それでもエリザベスが耐えられたのはイーリスの婚約者として認められるため。優しくて、機知に富んだイーリスの役に立ちたいため。
エリザベスは容姿に自信はない。ダークブロンドにヴァイオレットの瞳、そして体型にメリハリがなく背が低い。
それでも隣に立って恥ずかしくないように肌や体型、健康の管理などにもエリザベスは励んだ。外見では、エリザベスは他の候補の令嬢たちには劣ると自覚していた。だからその他の分野で勝つために努力をした。
ついにそれらの努力が実を結んで、エリザベスはイーリスの婚約者として認められた。微笑んでくれたイーリスのために、もっと、もっと頑張らねばと思っていたのに。
――ああ、ああ、それなのに。エリザベスは唇を噛み締める。
ここ半年のイーリスは、エリザベスのことなど忘れたかのように、レアーヌ・リリス・ダンフォール伯爵令嬢と過ごしている。エリザベスが声をかけるとイーリスは僅かに眉根を寄せて鬱陶しそうな表情を浮かべることが多くなった。
レアーヌはエリザベスから見ても美しかった。燃えるようなオレンジレッドの髪、透明感があるような肌に淡い薄紫の瞳。面立ちも整っていて、すらりとした背。イーリスとレアーヌが並ぶととても絵になるのは学園内でも噂になるほどだった。
そして何より、彼女は人間では珍しい精霊の愛し子である。
(彼女と一緒のときは、あんなに、優しい笑みを浮かべるのに。わたくしに向ける笑みは、外向けのものだったのね)
泣くものかと耐えた。婚約解消されるのではと口さがない者たちの噂も耐えた。
泣くことは許されない、なぜならエリザベスは誉れ高き四公爵家が一角、フェーマス家の息女なのだから。
でも、もう、それも限界だった。
学園の空き教室で、お互い「フェリクス」「リリス」と呼んで口づけを交わすイーリスとレアーヌをエリザベスは見てしまったのだ。
この世界に住む者たちの名は、親から与えられる通称・創世神エレヴェド神から与えられる真名・家名、という構成になっている。これは人間も、獣人などの他種族も例外ではない。
この世に生まれた瞬間、知恵を持たない動植物以外はエレヴェド神からの祝福と、真名を与えられるのだ。もしかしたら動植物も持っているかもしれないが、意思疎通できないためにその点は不明である、とも言っておこう。
そして神から与えられたその真名は、儀式や契約などの場合を除いて伴侶でなければ呼んではならないというのが世間一般の常識となっている。このあたりも国や種族によって差異はないと言っても過言ではない。
婚約者であったエリザベスは、まだ婚姻を結んでいない段階であったこともありイーリスの真名を呼ぶことを許されていなかった。
それなのにレアーヌには真名を呼ばせた。レアーヌも、自身の真名を呼ばせている。それは互いを伴侶と見ているに等しく、そしてその光景は、エリザベスが長年築き上げてきたものを壊すのに十分だった。
咄嗟にエリザベスはその場から逃げ出した。逃げ出したことなど一度もなかったのに。
はしたないと分かっていても廊下を走って、走って、生徒たちの奇異の目を振り払って、人気が少ない西棟の中庭にまでエリザベスは走ってきた。ここの中庭は手入れがされていないのではないかと思われるほどに草木が生い茂っていて人はほとんど来ることはない。それが好都合だった。
ガゼボに駆け込み、ベンチに座り込む。
「う…うぅ…」
ボロボロと涙が溢れてくる。泣くまい、泣くまいと幼い頃から張り詰めていたものは切れてしまった。
どうして、どうして、とエリザベスはここにはいないイーリスに問う。
『ねえ』
ふ、とエリザベスに声がかかり顔をあげる。けれど周囲を見渡しても、誰もいない。
空耳だったのだろうかとエリザベスが目を瞬かせていると、もう一度声が聞こえた。
『大丈夫?』
「え、あ…」
『ああ、だいぶ目元がはれてるね。しばらくココにいたほうがいいかも』
「そ、そんなに、ひどいですか…?」
『うん』
とても心地よいテノールの声。けれど話し方は丁寧とは言えない。
姿は見えない。いくら周囲を見渡しても、こんなにはっきり聞こえる距離に人はいない。
「あなたは…」
『僕?僕は…まあ、精霊みたいなものかな』
「精霊…?!」
『そう。まあ、気軽にエルって呼んでよ』
クスクスと笑い声がガゼボに響き、エリザベスがエル様、と小さな声で呟けばなぁに?と優しい声が返ってきた。
この世は一般市民でも魔法が使える。魔法にも種類があり、その中でも精霊魔法というものがある。精霊の力を借りて繰り出すその力は借り主の魔力にもよるが、かなりの威力を持つ魔法となる。
それを扱えるのは精霊から加護を受けた精霊の愛し子か、精霊と交流し契約を結んだ者か、精霊族と呼ばれる精霊を始祖に持った種族しかいないと言われている。
精霊との交流方法は授業の一環としてあるが、最終学年である3年の授業で習う内容。エリザベスは2学年だったため、もちろん交流方法は知らない。
精霊の愛し子でもない自分がどうして精霊と話すことができているのか、と呆然としていると目元に何か触れた。それはまるで、涙を拭ってくれているよう。
『泣いている君も美しかったけれど、やっぱり泣き止んでいる方がいいね』
笑ってくれるとなお嬉しいけど、とエルは続ける。
『なにか悲しいことでもあったの?もしよければ、僕が聞くよ』
「エル様にそんな…」
『いきなり話してごらんなんて言われても話せないでしょうよ』
突然、別の声が聞こえてきてエリザベスはぱちり、と目を瞬かせた。
それは呆れたようなアルトの声。周囲を見渡してもやはり、誰もいない。
『だって』
『だってじゃない。申し訳ありませんフェーマス様』
「あ、あの…わたくし、精霊様方に敬称をつけていただくほどではありませんわ。エリザベスとお呼びください」
エリザベスはただの人間である。精霊に敬称をつけられるなんて畏れ多い。
エルはエリザベスの申し出が嬉しかったようで、エリザベス、エリザベスと楽しそうに何度も呼びかけた。もう片方の精霊は呼ぼうかどうか迷ったらしくしばらく黙り込んだあと、エリザベス、と呼んだ。
『…わたくしはエレンと申します』
「エレン様」
『わたくしも敬称はいりません。ただのエレンとお呼びください』
『ええ、ずるい。じゃあ僕もただのエルと呼んでよ』
「…ふふ、分かりましたわ。エル、エレン」
名前も似ているし兄妹か何かなのだろうか?とても仲が良く、羨ましくて自然とエリザベスは笑みを浮かべた。
すると、膝に置いていたエリザベスの左手をぎゅ、と何かに握られた。
『エリザベス、やっぱり君は笑っている方がずっとずっと素敵だ』
握っているのはエルなのだろう。精霊はどのような姿を取っているのか知らないが、触れられている感覚からして人型のような気がした。どきり、とエリザベスの心臓が高鳴る。
(…笑ってる方が、素敵って)
困惑していると突然、突風がエリザベスの目の前を通り過ぎた。それと同時に触れていた手のぬくもりが離れていく。
『あっぶな!あっぶないなぁもう!エリザベスを巻き込んだらどうするんだい?!』
どうやら、エレンが魔法を使ってエルをふっ飛ばしたらしい。
『あんたならすぐ手を離すでしょうよ…てかそもそもなに手を握っているのよ!このおバカ!』
『おバカってなんだ!』
『フェ…エリザベスには婚約者がいらっしゃるのよ!』
婚約者、という単語を聞いてパッと先ほどの口づけしている様子がエリザベスの脳裏に浮かぶ。
浮かんでいた気分が一気に落ち込んで、涙がまた出てきそうになった。思わずスカートを両手で握りしめると、エリザベスの様子に気づいたふたりは言い争いをやめ、握りしめていた両手の上にそっと手が添えられる。
『エリザベス、どうしたの?どうしてそんなに悲しい顔をしているんだい』
『だから手…ああ、もう…エリザベス、もしあなたさえ良ければわたくしたちに話してみてください。話すだけでも違いますから』
『誰にも言わないよ。約束する』
(誰かに、聞いてほしかった)
だって、エリザベスはイーリスの婚約者だ。将来は第二王子妃として王家を、国を支える人間となる。そのために、頑張ってきた。
だから誰にも言えなかった。妃教育で関わりがある王妃にも、外交関連の教育を担当してくれた教師にも、父にも母にも。弱音を吐けなかった。
エリザベスの瞳からボロボロとまた涙が溢れてきたところに、両手で頬を包み込まれた。
そっと涙を拭われる。エル!と非難めいた声が聞こえたから、おそらくエルだろう。
『泣いてもいいよ、エリザベス。いや、泣くんだ。泣いてしまえ。泣いて、すべて吐き出しなさい。溜め込んじゃダメだ』
「で、も…わたくしは…っ」
『エリザベス、もう我慢しなくていいんだよ』
子どもに言い聞かせるようにエリザベスの名が呼ばれる。頭を撫でられ、エリザベスはついにぼろぼろと涙を零して、声をあげて泣き出した。
その後、ひとしきり泣いてある程度落ち着いてから、ぽつぽつとエリザベスはイーリスのことについて話し始めた。
イーリスを慕っていたこと。王子妃教育を婚約者候補の時代から ―― 10歳頃からがんばってきたこと。定期的に開かれるイーリスとのお茶会では穏やかに過ごしていたこと。
最近の、イーリスのこと。
何度か相槌を打ちながら最後までエリザベスの話を聞いたエルとエレンは、盛大にため息をついた。
『最低』
『その一言に尽きるな』
『なに、なんなの?いや心移りはあるだろうけどもそれ説明せずに態度で分かれってなんなの?バカなの?てかダンフォール様もアホじゃないの?普通慕っていても婚約者がいる殿方にあの距離感で話したり挙句にはスキンシップ取るなんて淑女の恥晒しにも程があるじゃないの!』
『お、おう』
『政略結婚だから愛がない結婚も多々あり得るのは分かるけど!愛人とかそういったのはお互いきちんと話し合った上で進めるべきだわ!それにただの底辺貴族ならいいけど王族なのよ?下手に王族の種ばらまいて将来的に王位継承とか何らかの火種が残ったらどうすんのよあのバカ!いや王子でいいわあんなん!!』
こわい、と呟くエルにエリザベスも思わず頷く。口が悪い、とは思ったが口には出さない。
だが、エレンがエリザベスの言いたいことを代弁してくれたようで、エリザベスの心がスッと軽くなった気がした。
一通り文句を叫び終わったエレンに、エリザベスは手を、と告げて手をのばす。恐る恐る何かがエリザベスの手に触れた。それを包み込むように、ぎゅ、と握る。
「ありがとう、エレン。すっきりしたわ」
『…エリザベス』
「エルもありがとう。わたくし、誰かに聞いてほしかったの。とても嬉しいわ」
『エリザベスのお役に立てたようで何よりだよ』
ちょうどそのとき、昼休み終了間近のベルが鳴り響く。
(ああ、授業に出なくては…でもこの泣き腫らした顔で出ては詮索を受けてしまうかしら。それに、お昼も食べそこねてしまったわ…)
どうしよう、とエリザベスが悩んでいると、頭を優しく撫でられる。
『エリザベス。今日はもう寮に帰った方がいい』
「え、でも…」
『先生方にはわたくしから体調を崩されたとしてお伝えしておきます』
どうやって精霊であるエレンが先生に伝えるのだろう、とエリザベスは思ったが、精霊を見ることができる先生もいるし、きっとその先生に伝えるのだろう、とエリザベスは納得した。
正直、この顔で授業には出たくなかったので助かったと安堵の息をつく。
ふ、とエルとエレンとはこれきりなのだろうかと思い、あの、と声をかけた。
「また、会えますか?」
『うん。僕はこの時間帯はここにいるから、いつでもおいで』
『わたくしは来れたら来ますわ』
「良かった」
人ではないが、はじめて心の内を明かせたこのふたりとエリザベスはまた会いたかった。
エリザベスには本当の意味での友人はいない。だから、エリザベスにとって初めての友人。
…そう、心の中で思うことだけでも許してほしい、とふたりと別れ、中庭を後にしたエリザベスは願う。
キラキラと太陽に反射する金髪、優しげなエメラルドの瞳を持った第二王子イーリス・フェリクス・プレヴェド。そのときエリザベスが彼と話したのはお茶会の一幕でほんの少しだったが、口下手なエリザベスを気遣って話しやすい話題を提供する優しさに、エリザベスは非常に感銘を受けた。彼の隣に立って支えたい、一緒にいたいと思うほどに。
エリザベスは婚約者候補時代から内政について勉強し、外交のためにできる限り各国の言語を学び、儀礼やマナーなども身につけた。夜会やサロンでの嫌味にも卒なく対応できるようになった。
泣きたかった。投げ出したかった。逃げたかった。
それでもエリザベスが耐えられたのはイーリスの婚約者として認められるため。優しくて、機知に富んだイーリスの役に立ちたいため。
エリザベスは容姿に自信はない。ダークブロンドにヴァイオレットの瞳、そして体型にメリハリがなく背が低い。
それでも隣に立って恥ずかしくないように肌や体型、健康の管理などにもエリザベスは励んだ。外見では、エリザベスは他の候補の令嬢たちには劣ると自覚していた。だからその他の分野で勝つために努力をした。
ついにそれらの努力が実を結んで、エリザベスはイーリスの婚約者として認められた。微笑んでくれたイーリスのために、もっと、もっと頑張らねばと思っていたのに。
――ああ、ああ、それなのに。エリザベスは唇を噛み締める。
ここ半年のイーリスは、エリザベスのことなど忘れたかのように、レアーヌ・リリス・ダンフォール伯爵令嬢と過ごしている。エリザベスが声をかけるとイーリスは僅かに眉根を寄せて鬱陶しそうな表情を浮かべることが多くなった。
レアーヌはエリザベスから見ても美しかった。燃えるようなオレンジレッドの髪、透明感があるような肌に淡い薄紫の瞳。面立ちも整っていて、すらりとした背。イーリスとレアーヌが並ぶととても絵になるのは学園内でも噂になるほどだった。
そして何より、彼女は人間では珍しい精霊の愛し子である。
(彼女と一緒のときは、あんなに、優しい笑みを浮かべるのに。わたくしに向ける笑みは、外向けのものだったのね)
泣くものかと耐えた。婚約解消されるのではと口さがない者たちの噂も耐えた。
泣くことは許されない、なぜならエリザベスは誉れ高き四公爵家が一角、フェーマス家の息女なのだから。
でも、もう、それも限界だった。
学園の空き教室で、お互い「フェリクス」「リリス」と呼んで口づけを交わすイーリスとレアーヌをエリザベスは見てしまったのだ。
この世界に住む者たちの名は、親から与えられる通称・創世神エレヴェド神から与えられる真名・家名、という構成になっている。これは人間も、獣人などの他種族も例外ではない。
この世に生まれた瞬間、知恵を持たない動植物以外はエレヴェド神からの祝福と、真名を与えられるのだ。もしかしたら動植物も持っているかもしれないが、意思疎通できないためにその点は不明である、とも言っておこう。
そして神から与えられたその真名は、儀式や契約などの場合を除いて伴侶でなければ呼んではならないというのが世間一般の常識となっている。このあたりも国や種族によって差異はないと言っても過言ではない。
婚約者であったエリザベスは、まだ婚姻を結んでいない段階であったこともありイーリスの真名を呼ぶことを許されていなかった。
それなのにレアーヌには真名を呼ばせた。レアーヌも、自身の真名を呼ばせている。それは互いを伴侶と見ているに等しく、そしてその光景は、エリザベスが長年築き上げてきたものを壊すのに十分だった。
咄嗟にエリザベスはその場から逃げ出した。逃げ出したことなど一度もなかったのに。
はしたないと分かっていても廊下を走って、走って、生徒たちの奇異の目を振り払って、人気が少ない西棟の中庭にまでエリザベスは走ってきた。ここの中庭は手入れがされていないのではないかと思われるほどに草木が生い茂っていて人はほとんど来ることはない。それが好都合だった。
ガゼボに駆け込み、ベンチに座り込む。
「う…うぅ…」
ボロボロと涙が溢れてくる。泣くまい、泣くまいと幼い頃から張り詰めていたものは切れてしまった。
どうして、どうして、とエリザベスはここにはいないイーリスに問う。
『ねえ』
ふ、とエリザベスに声がかかり顔をあげる。けれど周囲を見渡しても、誰もいない。
空耳だったのだろうかとエリザベスが目を瞬かせていると、もう一度声が聞こえた。
『大丈夫?』
「え、あ…」
『ああ、だいぶ目元がはれてるね。しばらくココにいたほうがいいかも』
「そ、そんなに、ひどいですか…?」
『うん』
とても心地よいテノールの声。けれど話し方は丁寧とは言えない。
姿は見えない。いくら周囲を見渡しても、こんなにはっきり聞こえる距離に人はいない。
「あなたは…」
『僕?僕は…まあ、精霊みたいなものかな』
「精霊…?!」
『そう。まあ、気軽にエルって呼んでよ』
クスクスと笑い声がガゼボに響き、エリザベスがエル様、と小さな声で呟けばなぁに?と優しい声が返ってきた。
この世は一般市民でも魔法が使える。魔法にも種類があり、その中でも精霊魔法というものがある。精霊の力を借りて繰り出すその力は借り主の魔力にもよるが、かなりの威力を持つ魔法となる。
それを扱えるのは精霊から加護を受けた精霊の愛し子か、精霊と交流し契約を結んだ者か、精霊族と呼ばれる精霊を始祖に持った種族しかいないと言われている。
精霊との交流方法は授業の一環としてあるが、最終学年である3年の授業で習う内容。エリザベスは2学年だったため、もちろん交流方法は知らない。
精霊の愛し子でもない自分がどうして精霊と話すことができているのか、と呆然としていると目元に何か触れた。それはまるで、涙を拭ってくれているよう。
『泣いている君も美しかったけれど、やっぱり泣き止んでいる方がいいね』
笑ってくれるとなお嬉しいけど、とエルは続ける。
『なにか悲しいことでもあったの?もしよければ、僕が聞くよ』
「エル様にそんな…」
『いきなり話してごらんなんて言われても話せないでしょうよ』
突然、別の声が聞こえてきてエリザベスはぱちり、と目を瞬かせた。
それは呆れたようなアルトの声。周囲を見渡してもやはり、誰もいない。
『だって』
『だってじゃない。申し訳ありませんフェーマス様』
「あ、あの…わたくし、精霊様方に敬称をつけていただくほどではありませんわ。エリザベスとお呼びください」
エリザベスはただの人間である。精霊に敬称をつけられるなんて畏れ多い。
エルはエリザベスの申し出が嬉しかったようで、エリザベス、エリザベスと楽しそうに何度も呼びかけた。もう片方の精霊は呼ぼうかどうか迷ったらしくしばらく黙り込んだあと、エリザベス、と呼んだ。
『…わたくしはエレンと申します』
「エレン様」
『わたくしも敬称はいりません。ただのエレンとお呼びください』
『ええ、ずるい。じゃあ僕もただのエルと呼んでよ』
「…ふふ、分かりましたわ。エル、エレン」
名前も似ているし兄妹か何かなのだろうか?とても仲が良く、羨ましくて自然とエリザベスは笑みを浮かべた。
すると、膝に置いていたエリザベスの左手をぎゅ、と何かに握られた。
『エリザベス、やっぱり君は笑っている方がずっとずっと素敵だ』
握っているのはエルなのだろう。精霊はどのような姿を取っているのか知らないが、触れられている感覚からして人型のような気がした。どきり、とエリザベスの心臓が高鳴る。
(…笑ってる方が、素敵って)
困惑していると突然、突風がエリザベスの目の前を通り過ぎた。それと同時に触れていた手のぬくもりが離れていく。
『あっぶな!あっぶないなぁもう!エリザベスを巻き込んだらどうするんだい?!』
どうやら、エレンが魔法を使ってエルをふっ飛ばしたらしい。
『あんたならすぐ手を離すでしょうよ…てかそもそもなに手を握っているのよ!このおバカ!』
『おバカってなんだ!』
『フェ…エリザベスには婚約者がいらっしゃるのよ!』
婚約者、という単語を聞いてパッと先ほどの口づけしている様子がエリザベスの脳裏に浮かぶ。
浮かんでいた気分が一気に落ち込んで、涙がまた出てきそうになった。思わずスカートを両手で握りしめると、エリザベスの様子に気づいたふたりは言い争いをやめ、握りしめていた両手の上にそっと手が添えられる。
『エリザベス、どうしたの?どうしてそんなに悲しい顔をしているんだい』
『だから手…ああ、もう…エリザベス、もしあなたさえ良ければわたくしたちに話してみてください。話すだけでも違いますから』
『誰にも言わないよ。約束する』
(誰かに、聞いてほしかった)
だって、エリザベスはイーリスの婚約者だ。将来は第二王子妃として王家を、国を支える人間となる。そのために、頑張ってきた。
だから誰にも言えなかった。妃教育で関わりがある王妃にも、外交関連の教育を担当してくれた教師にも、父にも母にも。弱音を吐けなかった。
エリザベスの瞳からボロボロとまた涙が溢れてきたところに、両手で頬を包み込まれた。
そっと涙を拭われる。エル!と非難めいた声が聞こえたから、おそらくエルだろう。
『泣いてもいいよ、エリザベス。いや、泣くんだ。泣いてしまえ。泣いて、すべて吐き出しなさい。溜め込んじゃダメだ』
「で、も…わたくしは…っ」
『エリザベス、もう我慢しなくていいんだよ』
子どもに言い聞かせるようにエリザベスの名が呼ばれる。頭を撫でられ、エリザベスはついにぼろぼろと涙を零して、声をあげて泣き出した。
その後、ひとしきり泣いてある程度落ち着いてから、ぽつぽつとエリザベスはイーリスのことについて話し始めた。
イーリスを慕っていたこと。王子妃教育を婚約者候補の時代から ―― 10歳頃からがんばってきたこと。定期的に開かれるイーリスとのお茶会では穏やかに過ごしていたこと。
最近の、イーリスのこと。
何度か相槌を打ちながら最後までエリザベスの話を聞いたエルとエレンは、盛大にため息をついた。
『最低』
『その一言に尽きるな』
『なに、なんなの?いや心移りはあるだろうけどもそれ説明せずに態度で分かれってなんなの?バカなの?てかダンフォール様もアホじゃないの?普通慕っていても婚約者がいる殿方にあの距離感で話したり挙句にはスキンシップ取るなんて淑女の恥晒しにも程があるじゃないの!』
『お、おう』
『政略結婚だから愛がない結婚も多々あり得るのは分かるけど!愛人とかそういったのはお互いきちんと話し合った上で進めるべきだわ!それにただの底辺貴族ならいいけど王族なのよ?下手に王族の種ばらまいて将来的に王位継承とか何らかの火種が残ったらどうすんのよあのバカ!いや王子でいいわあんなん!!』
こわい、と呟くエルにエリザベスも思わず頷く。口が悪い、とは思ったが口には出さない。
だが、エレンがエリザベスの言いたいことを代弁してくれたようで、エリザベスの心がスッと軽くなった気がした。
一通り文句を叫び終わったエレンに、エリザベスは手を、と告げて手をのばす。恐る恐る何かがエリザベスの手に触れた。それを包み込むように、ぎゅ、と握る。
「ありがとう、エレン。すっきりしたわ」
『…エリザベス』
「エルもありがとう。わたくし、誰かに聞いてほしかったの。とても嬉しいわ」
『エリザベスのお役に立てたようで何よりだよ』
ちょうどそのとき、昼休み終了間近のベルが鳴り響く。
(ああ、授業に出なくては…でもこの泣き腫らした顔で出ては詮索を受けてしまうかしら。それに、お昼も食べそこねてしまったわ…)
どうしよう、とエリザベスが悩んでいると、頭を優しく撫でられる。
『エリザベス。今日はもう寮に帰った方がいい』
「え、でも…」
『先生方にはわたくしから体調を崩されたとしてお伝えしておきます』
どうやって精霊であるエレンが先生に伝えるのだろう、とエリザベスは思ったが、精霊を見ることができる先生もいるし、きっとその先生に伝えるのだろう、とエリザベスは納得した。
正直、この顔で授業には出たくなかったので助かったと安堵の息をつく。
ふ、とエルとエレンとはこれきりなのだろうかと思い、あの、と声をかけた。
「また、会えますか?」
『うん。僕はこの時間帯はここにいるから、いつでもおいで』
『わたくしは来れたら来ますわ』
「良かった」
人ではないが、はじめて心の内を明かせたこのふたりとエリザベスはまた会いたかった。
エリザベスには本当の意味での友人はいない。だから、エリザベスにとって初めての友人。
…そう、心の中で思うことだけでも許してほしい、とふたりと別れ、中庭を後にしたエリザベスは願う。
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