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第一部ヴァルキュリャ編  第一章 ベルゲン

迷い

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「聞こえるか。私だ」
 
 ベルゲン、ソルベルグ家の客室の一室。
 時は滞在五日目の午後に遡る。
 椅子に腰掛けたジトレフは姿のない誰かに話しかけていた。
 
『あぁ。良好だ』
 
 部屋には誰もいない。
 返事は何処かからジトレフの頭部に響いていた。
 
「定期報告だ。始めていいか」
 
『今、部屋に戻る。少し待て……あぁ、大丈夫だ、始めてくれ』
 
 カールローサと中庭での一戦を終えた後、ジトレフは自分用に用意された客室へ戻って来ていた。
 鍛練の他にやることもないし、明日にはベルゲンを発つことになった。
 このタイミングで報告を入れておくのもいいか、と振動声を飛ばしていた。
 
「アセウス・エイケンについて分かったことがある。エイケン家はワルキューレ伝承のワルキューレを生んだ血統だった。直接的な理由が分かった訳ではないが、襲撃されたのはそれが理由と考えて良いだろう。アセウス・エイケンが『災い』である可能性も消えたと考えている」
 
『エイケン家か、なるほど。確かにオージン神が選んだワルキューレ一族が災いたるとは考えられんな。他には?』
 
「……ベルゲン滞在中も襲撃はなかった。アセウス・エイケンはワルキューレ一族を訪ねて情報を集めるつもりらしい。明朝ローセンダールへ戻る。今回の報告は以上だ」
 
『分かった。帰隊は明日か明後日か。隊長には伝達しておく』
 
「……知っていたのか?」
 
『何がだ?』
 
「ワルキューレ一族のことだ」
 
『一族の何をだ? エイケン家がそうだと知っていたら出発前に伝えている。任務自体消えたかも知れん』
 
「そうではなく……」
 
『なんだ? まさか、知らなかったのか? 次期当主殿が。ワルキューレは空想などではなくオージンに選ばれた元人間だ。ランドヴィーク家からも一人いるだろう』
 
「?!」 
 
『この話がしたいなら戻ってきてから話してやる。任務は終了だろう? 定期報告は終わりだ』
 
「……わかった」
 
 
 深いため息と共にジトレフは椅子に身体を預けた。
 報告の相手はオッダ部隊唯一の上級魔法戦士、アジュット・ランドヴ・・・・ィーク・・・
 同年代の同族部隊員だ。
 
 何故、私は知らない。
 
 肘掛けに休ませていた右腕を上げ、額を手で覆う。
 こんなことは初めてだった。
 
 ――知らないことが、多過ぎる。
 
 ジトレフは戸惑う自分に戸惑っていた。
 こんな風に自分の感情が理解できないのも、その感情に振り回されるのも初めてだった。
 別にそれほど思い悩むべきことでもないのに。
 
 知らないことが多いことなど当然だ。
 必要なこと以外、私は目を向けてこなかった。
 戦士として強くなることと、オッダ部隊の幹部を務めるための知識。
 それ以外は知る必要がなかったし、知らなくても問題なかった。
 
 ジトレフは絞り出すように口を動かす。
 
 
「……分隊長……」
 
 無意識に振動声を飛ばしていた。
 向かう場所を知らぬ振動は、いたずらに空に散って消えてゆく。
 呼び掛けても、もう居ない人には届かない。
 
 何をしているんだ、私は。
 
 分隊長は必要と思われないことも教えてくる人だった。
 訓練過程カリキュラムだから仕方なく従っていたが、どんな時に必要になるのか分からないようなことまで、いろいろなことを良く知っていた。
 きっと分隊長あのひとなら、今の私の戸惑いにも理由を見つけ、的確な助言をくれただろう。
 
 何故、知らないということに、こんなにももどかしさを感じてしまうのか。
 何故、エルドフィン殿が抱えている秘密ことを知りたいと思うのか。
 何故、本来の任務を扨置さておき、どう対処すべきか・・・・・・・・を考えているのか。
 何故、ワルキューレ一族とランドヴィーク家の関わりを知らなかったことが、こんなにも悔しいのか。
 
 どれも意味のないことだ。
 答えは分かっている。
 だが、分隊長は違う答えを教えてくれたんじゃないだろうか。
 実現しない「もし」を思うことも無意味なのに。
 
  
『いいかいジトレフ、これから少しでも迷うことがあったら、どんな少しのことでも必ず、私に言うんだ。自分で判断できて必要ないと思っても言いなさい。私が決める。キミは判断しなくていい。その判断も、結果にも、責任は私がすべて負う。随分な厚遇だろう?』
 
 
 あの人の口から出る言葉はいつも変わっていた。
 他の人は絶対言わないような変なことばかり言う。
 だからもう何年も前のことでも、鮮明に思い出せた。
 
 
『いいかいジトレフ、私が判断するのはこれが最後だ。これからはどんなに迷おうと、自分で決めなければならない。その判断も結果も、全部自分で背負うんだ』
 
 
 一年前の、あの時がフラッシュバックする。
 分隊長の動き一つ一つが、表情が、息づかいさえ、脳裏によみがえってくる。
 思い出さないようにしていたのに。
 額を覆う手に力がこもる。
 
 
『案ずるな。ジトレフ。お前ならできる。今までやり方を示してきただろう。分かってるはずだ』
 
 
 薄暗い闇の中に、かっての師の声だけが深く響いていた。
 
 
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