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第7話

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 あの日からも彼女との演奏会は続いた。
  
 彼女の音の変化をこうして見守っていられることに幸せを感じる。
 それは歪んだエゴの塊かもしれないが。
  
 しかし、この時期から彼女の音楽は陰りを見せ始めた。無論、僕は彼女の音が好きだ。

 しかし、コンクールの成績は伸び悩み、ピアノの師にも怒られる回数が増えてきたようだ。

 彼女はただ、楽しく音楽をしたいという思いと、評価される演奏というジレンマを克服する時期に差し掛かったようだ。
 それとも何か別の要因から彼女の音は変化したのかもしれない。
  
 僕にできることは何もない。
 ただ見守るだけなのだ。
  
 そう、見守るだけ。
  
  
  
 高校三年のある日、彼女の口から、高校卒業と同時に海外に行く旨を聞かされた。
  
 彼女は悩んだ末、決めたことなのでとその話の最後に添えた。
  
 僕はそうか、あっちでも活躍することを期待していると、思ってもない言葉を彼女に投げかけると彼女と別れた。
  
 彼女は泣きそうな顔で伝えてきたのに、僕は終始、能面のような、表情のない顔で受け答えをし、その会は幕を閉じた。
  
 そこから、彼女が海外に行くまで一切話すことはなかった。
  
 彼女からの電話にも一切出ず、学校で話しかけてきても一切取り合わなかった。
  
 周りの人間が僕に話しかける彼女を訝しげに、珍しいものでも見るように睨み、彼女が僕から離れると他の生徒は彼女に話しかけ、また教室は喧騒に包まれる。
  
 何故だろう。そんな未来は想像していた。
 僕は踏み込むことも怖く、逃げられることも怖くて、つかず離れずを保つ。

 しかし、自分は問題から逃げてはただ、事の成り行きを傍観している。
 この性根は小学校からなんら変わりない。所謂、臆病者の強欲とはかくも愚かである。

 僕は彼女の夢の為に身を引いたと表向きに納得させていたが、その実、手を出す度胸が無かっただけなのかもしれない。

 そうして黙する自分に理由付けしているのが一番気持ちが悪い。
  
 何カ月も彼女と話さないことは今までなかったことであり、僕はすぐに暇を持て余す。
  
 今まで彼女と会うことに充てていた時間は、勉強の時間となり、つくづく自分は面白みのない人間なのだと実感させられた。
  
 特に行きたい大学もないが、父の意見により、僕は父の望む大学を志望する。
 また、他人に選択を委ねたわけだ。

 彼女のいない未来に興味などないのだ。
 彼女との未来の為の努力もせずに、それを期待するなんてもう意味が分からないが、それが僕という人間なのだろう。
  
  
  
 大学のセンター受験に差し掛かるといままで勉強をしていたおかげか、志望大学はA判定をもらい、そこからは特に苦労することもなく志望校への合格は決まった。
  
 彼女も無事、海外の大学合格が決まったとメールで知らされた。
  
 そのメールから、彼女が飛び立つ一日前、彼女から空き教室への呼び出しを受けた。

 どうやら、僕の現実逃避の時間はここで終わるようだ。
  
 そして、彼女との縁もここで終わるかもしれない。いや、きっと終わりを告げられるだろう。
 それを惜しむ気持ちも、後悔も全てがない交ぜになり、一種の飽和状態で、僕は彼女の元へと向かった。
  
 音楽室に着くと彼女はこちらを見向きもせず、ピアノの椅子に座していた。
  
 音楽室にはここ何カ月も来ていなかったが、未だ懐かしさは覚えず、またここから彼女との音楽会が始まるかもしれないという雰囲気があったが、彼女の顔を見るとやはりその考えは間違いであると思い知らされる。
  
 カーテンが風によってなびき、少し肌寒さを覚え、窓を閉めると、その音で彼女は僕に目を合わせた。
  
 話しだすタイミングを見計らっていたのだろう。
  
「大学の合格おめでとう。貴方のおかあさんに聞いたわ」
  
「そう。君もおめでとう」
  
 僕らはにこりともせずともに言葉を紡ぐ。そして次の言葉を探す。意味のない会話の次の言葉を。
  
「向こうに行っても手紙を書くわ」
  
 そう言う彼女の顔は少しやつれており、いつもの活気のある彼女の声からは想像もできないほどの、羽音のような小さい声だった。
  
「いや、いいよ。忙しいだろうし。大体、その言葉を吐いたやつは手紙をよこさない」
  
「相変わらずの性格ね」
  
 そこで、彼女は少し微笑むと僕から視線を外し、ピアノの方を向く。
  
「はじめて会ったとき、この子は私と似ていると感じたの。小学校の時の貴方のことよ」
  
「過去の話をするために僕を呼んだの?なら、また電話でしよう」
  
 僕は踵を返し、またもや逃げようとしている。
  
「待って。逃げないで。話を聞いて。」
  
 彼女が僕に何かを頼んだのは後にも先にもこの時だけだろう。聞いている、こちらまで辛くなるような悲痛な声音であった。
 いつもの勝気な彼女からは想像もできない、泣き出しそうな少女の声。
  
「似ているからこそ、その子に腹が立った。一目見て気が付いたの。この子は私と違ってちゃんと大人の皮をかぶれている子だと。でも、私は親の言うままにピアノを習い、大人の人形なのに、人の目をどうしても気にしてしまうから」
  
 小学校の時に彼女がなぜ突っかかってきたのか。彼女はその時の自身の現状に不満をもっていたから。
 その点、すべてを諦めている僕にいら立ちを覚え、自分もすべてをやめて、気楽に生きたいと願ったからなのだろう。
  
「貴方は私と会ってからも、ずっとそのまま。自分の生き方を変えない。芯の強い人間だった。私はピアノだけが他の人とは違う点だから、ピアノを続けた。それに、貴方が私のピアノを褒めてくれるから」
  
「多分、もう気付いていると思うけど、僕はそんな出来た人間でもなければ、良い人間でもない。だって、君のピアノの演奏を独占しようとしていただけだから」
  
「それは違うわ。私は貴方の変わらない姿勢に甘えてたの。あの演奏会は誰も私を貶さない。貴方はどんな演奏でも手放しで褒めてくれる。居心地のいい場所だったの。だから甘えてしまった。貴方が私をあの会で独占している間、私も貴方をこの何年間独占してきた。貴方に友達でも誰でも紹介して、あの会にももっと人を呼んで貴方の交友を広げることも可能だった。でも、嫌だった。あの会は私にとってなくてはならない場所だったから。貴方に変わってもらいたくなかった」
  
「それは君の思いやがりだ。僕は人を紹介されても仲良くなどしなかった。交友会になるなら他の日に君との時間を作る提案をしていただろう」
  
「貴方ならそう言うと思った。でも、それはわからないじゃない。貴方と気の合う人間もいたかもしれない。でも、私は貴方を、この場所を、誰かに取られたくなかった。だから、他の人間は寄せ付けなかった。そのくせ、クラスでは人との距離を詰めて、いっぱい友達も作ってまわりを囲んだ。怖かったから。人に無視されたり、人に傷つけられるのが。幻滅するでしょ?本当は単なる怖がりの臆病者なのよ」
  
「そんなことはないよ。君との時間は楽しかった。僕は君といられさえすればそれでよかった。よかったはずなのに」
  
 言葉が出ない。
 自分がその場所を壊したから。
 今まで、近づかなかったくせに、勝手に嫉妬し、勝手に落胆した。その結果が今、彼女が泣きそうな顔で言いたくもないことを言わせている現状だ。
  
「貴方は知っていたのよね。私が先輩と付き合っていたことも。でも何も言わなかった。私もあなたに言わなかった。距離を間違えては、この場所はなくなってしまうから。こうなる未来を分かっていながら、私はここを手放す気になれなかった。そんな迷いから適当に付き合ってみたのかもしれないわね」

彼女の自分を蔑むように吐かれた言葉は彼女自身を傷つけているようにも思えた。
  
「それは、君が謝ることじゃない。僕が勝手にやったことだ!別れる必要もなかった。そんなこと望んでいなかった!君を悲しませることなんて」

 抑えきれない激情は声音に現れる。それは情け無い最後の抵抗にも思えた。
  
「違うの。別に好きじゃなかった。でも、これ以上貴方といると馬鹿なことを考えてしまうから、先輩を利用したの。自分の感情のストッパーに使ってしまった。貴方には言えないことを先輩にはいとも容易く言えたわ
でもそのせいで、貴方は傷ついて、わからなくなった。自分は間違っていると。こんなのおかしい。好きな人に言えないから、嘘の恋で埋めようとするなんて…………どうせどこかで分かっていたのに。こんな関係はいつか終わるって」
  
「それは、僕のせいなのかもしれない。僕は……」
  
「違うわよ。私のせい。貴方を自分に括り付けていただけ。でも、これはもう恋ではないのかもしれないわね。こんな汚れた感情は」
  
「………分からない。僕は結局、君に依存していただけなのかもしれない。君と会えば、他の人間と関わらなくても平気でいられた。だからなのかもしれない」

もう声にはならない声をなんとか形にした。息だけがスーッと抜けていく感覚に、頭も冴えていくのに、喉元に熱が残る。
いや、これは認めたくないだけの執着心か。涙なんて出ない。
渇いた目元には、どうにか出来ないかという浅ましい気持ちが未だ現れている。
  
「私も……貴方が私の演奏を聴いてくれるなら、どんなことでもしようとしていた。依存しているかしら。多分、そうね。滑稽だわ。でも貴方を好きだったのは事実よ。でもあの時………あの時、ボロボロになった貴方を見たときからピアノにも真摯に向かうことができなくなった。何のためにピアノを弾いているのか分からなくなった。私は弱い人間だから」
  
「僕だって……」
  
「いいの、いいのよ。もう終わりにしましょう。ピアノの師にも海外でいろいろ見てくればまた演奏の幅も広がると言われたわ。海外の大学も合格したし、もう行かないという選択肢はないの」
  
「それは、僕のせいだ。君の演奏を駄目にしたのは。なら、僕が」
  
 なら、僕が………なんなんだ?
 僕ごときに彼女にしてあげられることなど皆無だ。

 それすなわち、未来にどちらかの選択を迫られることは明白であった。
 それを指を咥えて見ていたのはどこのどいつだ?
 逃げていただけだろう?
  
 結局、彼女との関係が終わるのが怖くて、逃げていただけだ。
 演奏を見守っていただけだと逃げ道を用意して、彼女に何も言えなかっただけなのだ。
  
「うん、だから貴方との距離を置いて。一から勉強しようとも思うの。貴方の好きになってくれた音楽をもっと磨いて、いろんな人に聴いてほしい。そう思ったの」
  
「そう………か」
  
 僕の声は宙に触れるとかき消されるほど小さく、彼女はうなずくとその泣き顔を手でこすり、最後にと、一曲弾いた。
 演奏は全く頭に入ってこなかったが、彼女が席を立ち、晴れやかな顔で僕を見たとき、最後の音が聴こえた。

 すべてが終わった音が。
  
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