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第1話
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ピアノの鍵が沈む音と共にこの部屋の静寂は失われた。
「ショパン 別れの曲」。彼女の最も好きな曲。
窓辺に置いた椅子に深く腰掛け、煙草に火を付ける。煙を薫らせて、珈琲を飲み一息つく。
右肺が少し痛み、煙草を持つ手が微かに振れた。煙は縦横無尽に部屋を自由に駆け巡る。時にその様相をほかの何か別の生き物に見立てては、ただ薄らぼんやりと煙の行方に目をやる。
やがて煙は窓から街へと消えていった。
この何も無い街に。
しかし、ピアノの音は部屋に静かに在り続ける。
酷く澄んだ音が聴こえる。
彼女の音は、あの時よりも洗練された音だった。一音一音が鮮明に色を放ち、彼女の音は誰にも真似出来ず、誰にも染まらない。
音の粒がまぐわいを見せるかのように、情熱的に、時に哀愁を漂わせて、また違う音色を遊ばせる。
そこには、強情さや、傲慢さ、弱さといった昔の彼女の音の系譜が見え、また新しい姿も見える。
ピアノの音とともに彼女の言動が想いかえされる。
追憶の彼方に旅する僕の心はピアノの音色とともに窓から入り込む外気によって煙と一緒に消えていく。何処までも。何処までも。
ふと、部屋のドアを開ける音で目を覚ました。
いつの間にか深い眠りについていたようだ。
ピアノの音はもう聞こえなかった。
「ちょっと仕事で来たから、寄ったの。なに?また、CD聴きながら煙草吸ってたの?やめたら?壁に色がつくよ」
愛美はそう僕を窘め、暗闇の中光るCDプレーヤーの電源を落とした。部屋の明かりを付け、ジャケットを脱ぎ捨てると僕の向かいのソファに腰掛けた。
部屋の電気が付き、初めて愛美が来た事を認識した。
急に瞳に光を取り込んだことで、チカチカと視界に鬱陶しい光の残滓がある中、彼女に視線を移す。
何処にでも売っていそうな服から色白の手足がニョキっと生えており、薄いライトブラウンの髪先が僕のソファーに流れて、幾何学的な模様に見える。
愛美は靴下を脱ぐと、僕の側に寄り、テレビのリモコンを取るのも億劫だと、僕に取らせて、バラエティ番組を見始めた。
静寂の中に雑音が混じり、堪らず僕はテレビの音量を小さくしてくれと訴える。
愛美は無言のままテレビの電源を消すと、僕の顔を凝視した。愛美の顔はひどく疲れており、愛美のビジネスバッグの横にはコンビニの袋が所在なさげに倒れこんでいる。
床にボウッと浮かぶ影に目を奪われていると、その影は不意にもう一つの影と重なる。
僕は、手で彼女の挙動を制すと、何も言わずにバルコニーに出て煙草に火を付けた。
夜風に当たりながら、何もない街から放たれた光の海を見下ろし、煙草の煙が空へと舞って見えなくなる。
この煙はどこまで行くのだろう。海は越えられそうにないな。と僕はまた新たに吸い込んだ煙を吐き、星など見えそうもない曇り空を仰ぎ見る。
ピアノの音が蘇る。
また始めからゆっくりと。ゆっくりと。
薄く、薄く丁寧に、丹念に色を付けて、音の層を重ねていく。彼女が音を作っていく作業を僕は見ていたのだ。音のはじまりから終わりまで彼女の事を思い出す。
胡乱だ瞳のその先には何もない街ではなく、何かがあると信じていた時の小さい自分が映っている。
何度もリフレインする音と煙草の煙で少し酔い、自分の胸懐を吐露することを許されたような感覚に陥った。
いつ何時も脳裏に浮かんでいる。
何度反芻しても、決して色褪せずそこに在る。
彼女の顔が、声が、所作が、いや、その全てが思い返される。
ある日ちょっとした諍いで友達と喧嘩をした。小学校六年生の春の事だ。
ちょうどその頃から人間関係に悩みだし、徐々に生きづらさを感じていた。人格形成の誤りなのか、はたまた彼らが特別、僕と合わなかったのか、僕はクラスの中で孤立していった。
クラスの連中とも話さず、登校し席に着くと本を開き、自分の世界に入っていく。他者を拒絶していると言っても過言ではない。
いつからか、クラスの人間との会話は空虚なものへとなっていき、淡々とした口調と、物静かな性格はすでにこの頃から定着しつつあったのだろう。
大人になってもどこか稚拙で、狭量であるのは、昔を思い返すと、それはなるべくしてなったものだろうと諦観する。それでいいと高を括ってしまっているところも僕らしい。
何枚にも僕を覆う壁は形成され、自分ではどうしようもなくなっていく。
まだ学校に行くのは、両親を心配させない為で、通学する理由も僕は普通の人と同じだと安心感を覚えるため。そんな僕にクラスの連中ももう夏休みが始まる頃には誰も話しかけては来なくなっていた。
無論、僕から話しかける事もなく、こんな何も無い毎日にも慣れてきた自分がいた。
僕が春の桜に後ろめたさを感じ、夏の照りつける日差しに鬱陶しさを覚え、月をも凍りそうな冬の極寒に嫌気が指したのは、この頃からなのか。
しかし、秋は好きだった。
彼女と初めて会った季節だから。
彼女は僕の家の隣に引っ越してきた。
ちょうど夏休みが終わり、文化祭などの煩わしい行事が終わった頃だ。
母の話によると、経営者の父に専業主婦の母、そしてその娘。金持ちだという点を除けばオーソドックスな家族なんだそうだ。
他の家族と違った点はその一人娘にあった。
彼女はピアノの才能が有るらしく、ピアノのコンテストを総なめにし、外国人の師に教えを乞うているとか。また、勉学も非常に秀でていると巷で噂されるほどであったという。
噂好きの母が嬉々として隣近所の井戸端会議に参加し、得てきた情報を僕に披露していたが、僕は適当に相槌をうち、翌日彼女と一緒に登校するという事も聞き漏らしていた。
翌朝、僕は深い眠りに陥っていた。そのときインターホンが鳴り、慌てて跳ね起き、玄関のドアを開けた僕はさぞ間抜けな面をしていたに違いない。
なにせ、お人形さんの様な風貌の少女が顰め面でこちらを睥睨していたのだから。
「あの、どちら様ですか?」
「隣に引っ越してきた、三山です。あなたは一義君?」
この子誰だ?こんな知り合いいたか?会ったことのない従妹か?など僕の頭に疑問符が飛び交うなか、母が家から顔を出し、ああもう来たの?学校まではそんなに遠くないわよと彼女に応対している。
その話から僕が転校生の彼女を連れて行くことがもうすでに大人達の中での決定事項であるとはじめて知る。あれ、僕の意思は?と母を見ていると、じゃあ頼むわねと奥に引っ込んでいった。
「では、行きましょうか」
と彼女が僕を促し、僕は渋々彼女と学校に向かう。この時間に出れば、いつもより早く学校に着くだろう。
「一義君は何年生?」
「六年生」
「あら、私と同じね」
会話終了。
クラスの女子にも下の名前で呼ばれた事はなかった。男子にも。
僕は苗字が珍しく、そちらで呼ばれることが多かったからだ。
気恥ずかしさからか、僕は彼女から目線を逸らした。
彼女は怪訝そうな顔をしながらも、僕と並んで歩く。
何か間がもたないなと感じた僕は、さして興味もないが当たり障りない会話を始めてみることにした。
「君の名前は?」
「三山咲よ」
僕は彼女に関する情報を思い出しながら、何か話題を探す。
「三山さんは、ピアノが上手いの?いや、母がそう話していたから」
彼女はフッと息を吐き、僕の定まらない視線を捉えた。
「上手くないわ。全然上手くない。それと、一義君。人と話すときは相手の目を見て話しなさい。失礼よ」
何故か、同学年の子に窘められた。僕は一瞬たじろぎ、彼女の顔を呆然と見つめてしまった。
「すいません」
「わかれば、よろしい」
と満足そうにはにかむ彼女は凄く魅力的で、今までこんな女の子に出会ったことはないなと思い返していた。
僕は、彼女のその凛とした姿勢と端正な顔立ちに、また目を逸らした。
艶のある長い髪に、リスみたいなクリクリとした双眸も、白魚のような透明感のある肌も、彼女を魅力的にする要素は上げつらねれば幾らでも出てくるだろう。
また、彼女には華がある。
まだ出会って数分だが、彼女が纏う雰囲気はそこらの小学生からは感じられない。なんと形容すればいいのか分からないが、眩しい程の存在感があり、気品が備わっているように感じられる。
彼女はこの後、学校の人間にすぐに歓迎され、クラスの人気者として学生生活を謳歌できるであろう。
そう、僕とは相反する存在となる。
僕とは住む世界が違う。
それは、当たり前の事で、純然たる事実として受け入れられる。
いつもの僕ならば。
僕と仲の良い友達はあの諍いから距離を置き、その後、友達はクラスの中心に位置する人達と仲良くなった。そうして、元から僕という存在などなかったように彼らは毎日、教室で楽しそうに談笑している。
僕はそれをなるべくしてなったことだと早々に見切りをつけて、特に何の感慨も抱かなかった。
もう、彼らになんの感情も待ち合わせていなかったのだ。
しかし、今回はなにか引っかかる。この通学路で少し話をしただけの彼女に興味が出てきたのか、少し残念に思う自分がいる。
ただ、この喉につっかえている気持ちもすぐになくなるだろう。一過性の病のようなものである。
それから、僕達は学校の施設、部活の事、授業の進み具合などを話し、学校に着いた。
その中で、僕には友達がいないことも悟られたかもしれない。
いつもより、20分程早く着いたが、校門にはチラホラ人が見える。
「後は職員室に行って、それから担任の先生に説明してもらってくれ。」
自分がまた、人に興味を持って何かを期待することは間違っている。もう面倒は御免だ。と半ば彼女と離れるために提案すると、そこに彼女の突飛な提案が飛来した。
「ねえ、音楽室行かない?」
「は?なんで?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からず、いつもの僕らしくない素の反応をしてしまった。
この時、すでに僕の脆弱な外面は破られていたのかもしれない。
「はは、貴方そんな顔も出来るのね。ほら、ずっと仏頂面でなにを考えてるか分からなかったから」
彼女は笑いながら、その歩を学内に向ける。
彼女がまた意味不明な事を提案してくる前に僕は仕方なく職員室まで彼女を連れていく。
「じゃあ、僕はこれで」
僕は彼女に背を見せると、速やかにその場を後にした。
いや、出来なかった。
「一義君、同じクラスでしょ。このカバンをクラスまで持っていっといて」
「え、なんで?」
「重いから」
そう言うと、彼女は自分のカバンを僕に押し付けてきた。
僕のような弱気な男子ならば、すぐに尻に敷けると思っているクチか。僕は何故か苛立ちを覚えながら、彼女を見ずに言葉を吐き捨てる。
「そういうことを頼むのは、自分のママだけにしてもらいな。もう十代なんだから」
それは金持ちの娘というだけの偏見から生まれた言葉であった。
いつもならこんな安い挑発に乗りはしない、しかしもう学校内である。
これ以上、誰かと関わりたくなかった。また誰かと話している自分をクラスの連中に見られたくなかった。僕は嗜めるような口調で彼女を迎撃し、彼女のカバンを押し返す。
彼女はカバンを受け取らず、竿に食いついた魚を見るようなしたり顔でニヤリと笑った。
「ふっ一義君。貴方、ケチだし、面白くもないのね。朝から退屈な人と学校に向かうってのは気が滅入いるわ」
「それは、お互い様だ」
「はじめから大人みたいな口調で、堅っ苦しい。下手な芝居を朝から見せられる方の身にもなってほしいわ。大人みたいな子供より、子供っぽい子供の方が良いのよ」
最後の言葉の意味が分からなかった。しかし、馬鹿にされていることは分かった。
「そんなの、アンタも一緒だ」
急に堰を切ったように彼女は僕を罵倒し始めた。
売り言葉に買い言葉で僕も応戦する。
彼女は僕の外側の顔を剥がすために、わざと挑発して僕の平常心をかき乱そうしているのではないかと勘ぐってしまう。僕は怪訝な瞳で彼女を睨め付ける。
「ささっ、音楽室に連れて行って。一応、説明してくれて、学校まで連れて来てくれた訳だし、礼くらいするわ」
なんなんだろう。この子は変だ。
僕に突っかかってくる意味もよく分からないし、彼女がなぜ音楽室に行きたいのかも分からない。
そもそも、出会った時からずっと高圧的な態度だったし。可憐な美少女だと思っていたがこれでは自己中心的な高慢女である。
「音楽室にいっても、鍵が無いから入れないよ」
「そりゃ、そうよね。うん、分かった。待ってて」
そういうと彼女は職員室に入っていってしまった。
僕は仕方なく彼女のカバンを持ったまま待つことにする。こんな非常識な人間にはあったことがないため困惑しており、自分を落ち着かせるためにも少し時間が必要だ。
徐々に冷静さを取り戻してくると、彼女のカバンを廊下にほっぽって先に教室に向かうという考えも生まれたが、彼女に冷たく接することは今後の学校生活を送るうえで得策ではないという判断のもと、残ることにした。
彼女ともうこの先話す機会が訪れるとも思えない。
ならば、もう少し彼女に付き合ってもいいのではないかという下心のような感情があったのも確かだが。
数分後、彼女は職員室から笑顔で鍵を弄びながら出てきた。
「え?どうやって鍵を借りたの?」
時刻は7時50分。学生の登校時間よりは少し早いくらいだ。こんな時間に音楽室の鍵を借りに来る生徒はいないだろう。
驚いている僕に彼女は淡々と説明する。
「ああ、それはね、学校の方には私はピアノの練習とかコンクールで忙しいから授業を抜けることがあることは了承してもらっているの。そのこともあって、この学校のグランドピアノを週に2,3日使わせてもらえることになっていて、私が使うことになっているピアノを見せてほしいと頼んだのよ」
「見るのは放課後にしろとか言われなかったの?」
「そんなの、放課後はピアノの練習で忙しいとか色々言い訳できるわ。貴方、いちいちそんな予防線を張るような生き方しているの?」
「ちょっと気にかかっただけだよ。いちいち突っかかってくるなよ」
「はは、私も大人ぶった子供をちょっと揶揄いたかっただけよ」
と彼女は音楽室に歩いていく。僕も仕方なく彼女のカバンを持って、そのあとを追う。
しかし、この時にはもう、嫌な感情は薄れていた。
彼女に対するネガティブな感情も鳴りをひそめ、何かが始まるかもしれないという期待も少なからずあったのかもしれない。
彼女は音楽室に入ると、すぐさまピアノの前に位置づく。
ああ、彼女は僕への礼とかではなく、ただただピアノを弾きたかっただけなのか。彼女の逸る気持ちはその爛々とした眼が物語っている。
小さい子がおやつを前に大きな目にいっぱいの光を集めたような彼女の瞳の輝きに僕は少し笑ってしまった。
彼女は鍵盤にひかれた深緑の布を剥がすと、爪がきれいに切りそろえられた小さなその指を静かに鍵盤に置いた。
そろそろ、登校のピークの時間に入る。外から活気のある学生の声が聞こえてくる。そんな中、彼女のピアノ演奏は始まった。
僕は特にクラシックに詳しいわけではない。しかし。彼女の弾くこの曲には聞き覚えがあった。
「ショパンの別れの曲だったかな」
「そう、この曲好きなの。出会いの曲とか弾ければ気が利く女の子かしら?」
口ではそんなことを宣いながら、そんな気はさらさらないと言わんばかりに教室に深く響くグランドピアノの音色。
スローテンポで僕も好きな曲調であったためか、はたまたいつもと違う状況に頭が麻痺していたのか、僕は何も言わずにそのまま音楽室の端にある椅子に腰かけた。
彼女はその音色に酔ったように、鍵盤の上の手はひらひらと蝶のように舞う。そうしてゆらゆらと漂う音色にいつしか聞き入ってしまう。
クラシックなんて大人の趣味でテレビや格式高い店でしか聞く機会もないと思っていた僕にとってはBGMのようなものだった。
しかし、彼女の音はどうだろう。
音が僕を覆う。
朝の澄んだ空気に彼女の音は共存し、僕の体全体に浸透する。
僕にとって学校という場は親の意に反し、暇を持て余す場で、特に何かに打ち込んでいるわけでもない。
そうして、あの諍い以降、信用できない学校の人間相手の外向きの顔を作り、距離を置きだした。
昔から人間関係に悩むことは何度かあった。
しかし、あの諍いは違う。僕にとっては、いままでの些細な出来事とは一線を画す出来事だった。
僕は彼らの興じる、グループの中からはみ出し者を作り、いたぶるという趣向の遊びは断じて容認することができなかったのだ。
信じていた。彼らは友達がいのある優しい人間で、僕らは仲良しだと。
もう一度彼らに裏切られたら僕はもう立ち直れない。だから、無関心と大人ぶった外面を纏いすべてを遮断していたのだ。
しかし、今はどうだろう。
僕の脆い外面をいともたやすく破いた彼女の音楽に、甘美な花に吸い寄せられるように聞き入り、僕はこの場から離れられない。
諦めかけていた人間に対してここまで心を揺さぶられている。
そう、僕は今を楽しんでいたのだ。
彼女と過ごす今に高揚し、底知れぬ幸福を感じている。
人は人をたやすく裏切るし、僕だってそうだ。
また、人に裏切られるかもしれない。
でも、またこの演奏を聴くときのような楽しい日は来る。それは、一人では作れない時間だ。
ならば、もう一度。もう一度信じてみてもいいのかもしれない。
人なんて信じられまいと閉じていた殻は緩やかに伸びる音に、徐々にほぐされ、剥がされていく。
序盤とは違い、曲はより技巧的な、激情的な面を見せ、やがて始めの旋律に帰ってくる。
彼女は楽しそうに曲を奏でている。僕はその光景をただ楽しむ。
僕の外面はもういらない。彼女相手には使えそうにないものだ。
春頃から始まった僕の短い社会に対する反抗期は終わりを迎える。
対人関係に怯えるのも、人に壁をつくって安心しているのもただの僕の弱さだから。
自分自身と、あるいは他人と、もう一度向き合ってみるのもいいかもしれない。
これを機にまた新たな自分を始めるのもいいのかもしれない。
そう、これは別れの曲なのだから。
登校してくる生徒の喧騒も、僕の耳にはもう入ってこない。
彼女は楽し気にピアノを弾き、何故か照れたような笑顔を見せ、先ほどの強気な姿勢は鳴りを潜め、和らいだ笑みを見せる。
つられて僕も笑顔を見せる。
この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。
しかし、悠久の時のように思われたこの時間は終わりを迎える。
音楽室の前に人影が見えたのだ。音楽担当の教師がドアの前でなにやら喚いているようだ。
しかし、彼女は何食わぬ顔で演奏を続ける。彼女は曲をちゃんと弾き終えるつもりのようだ。
彼女なりの曲に対する礼儀なのかもしれない。それとも聞いている僕に対してかもしれない。
僕は名残惜しい気持ちとともに演奏を静かに見守る。
彼女のピアノは僕の心を掻っ攫い、そして静かに消えていった。
彼女は曲を弾き終えると椅子から立ち上がり、僕に言う。
「すごく楽しそうに聞いてくれるから、つい笑っちゃった。さっきは突っかかってごめんね。いろいろと教えくれてありがとう」
彼女は気恥ずかしそうに言う。
「いや、こっちこそごめん。後、ありがとう。最高の演奏だった」
僕は別れの曲の終わりを初めて知った。
僕の予想通り、彼女は瞬く間に学校中の人気者となった。
僕の元友達を含むクラスの人間も、それ以外の人間も、学年の違う人間も彼女が歩けば、目で追ってしまう。彼女は誰にでも気さくに話しかけるような人間なので、皆、彼女と話したいのだ。
美人で人懐っこい性格の人間を嫌う人間などそうそういないだろう。
彼女はすぐにクラスにとけ込み、仲の良いグループを形成した。
彼女とは相反し、僕はまだ本とともに学校生活を送っていた。人間を信じようと思ったのでなく、彼女を信じただけのようだ。
これでは彼女に群がるほかのクラスメートと変わりない。
しかし、一つ他の生徒と違う点は、僕は週に2,3度、放課後に彼女と二人で会っているということだ。
教室では彼女には取り巻きともいえる仲の良い生徒が多くいるため、一言も言葉を交わさないが、僕たちは放課後、音楽室に集まっていた。
音楽室でピアノを弾く彼女の隣で、僕は本を読む。彼女の演奏が終わり次第、僕らは他愛ない話をしながら帰路に就くのだ。
一度、なぜ他の生徒を放課後の音楽室に誘わないのか聞いたことがあるが、彼女は素知らぬ顔で、他の生徒は誘っても来ないのよと言っていた。
しかし彼女が放課後、誰かを誘っている姿は見たことがない。
僕は彼女との謎の関係に優越感を得ていた。
「ショパン 別れの曲」。彼女の最も好きな曲。
窓辺に置いた椅子に深く腰掛け、煙草に火を付ける。煙を薫らせて、珈琲を飲み一息つく。
右肺が少し痛み、煙草を持つ手が微かに振れた。煙は縦横無尽に部屋を自由に駆け巡る。時にその様相をほかの何か別の生き物に見立てては、ただ薄らぼんやりと煙の行方に目をやる。
やがて煙は窓から街へと消えていった。
この何も無い街に。
しかし、ピアノの音は部屋に静かに在り続ける。
酷く澄んだ音が聴こえる。
彼女の音は、あの時よりも洗練された音だった。一音一音が鮮明に色を放ち、彼女の音は誰にも真似出来ず、誰にも染まらない。
音の粒がまぐわいを見せるかのように、情熱的に、時に哀愁を漂わせて、また違う音色を遊ばせる。
そこには、強情さや、傲慢さ、弱さといった昔の彼女の音の系譜が見え、また新しい姿も見える。
ピアノの音とともに彼女の言動が想いかえされる。
追憶の彼方に旅する僕の心はピアノの音色とともに窓から入り込む外気によって煙と一緒に消えていく。何処までも。何処までも。
ふと、部屋のドアを開ける音で目を覚ました。
いつの間にか深い眠りについていたようだ。
ピアノの音はもう聞こえなかった。
「ちょっと仕事で来たから、寄ったの。なに?また、CD聴きながら煙草吸ってたの?やめたら?壁に色がつくよ」
愛美はそう僕を窘め、暗闇の中光るCDプレーヤーの電源を落とした。部屋の明かりを付け、ジャケットを脱ぎ捨てると僕の向かいのソファに腰掛けた。
部屋の電気が付き、初めて愛美が来た事を認識した。
急に瞳に光を取り込んだことで、チカチカと視界に鬱陶しい光の残滓がある中、彼女に視線を移す。
何処にでも売っていそうな服から色白の手足がニョキっと生えており、薄いライトブラウンの髪先が僕のソファーに流れて、幾何学的な模様に見える。
愛美は靴下を脱ぐと、僕の側に寄り、テレビのリモコンを取るのも億劫だと、僕に取らせて、バラエティ番組を見始めた。
静寂の中に雑音が混じり、堪らず僕はテレビの音量を小さくしてくれと訴える。
愛美は無言のままテレビの電源を消すと、僕の顔を凝視した。愛美の顔はひどく疲れており、愛美のビジネスバッグの横にはコンビニの袋が所在なさげに倒れこんでいる。
床にボウッと浮かぶ影に目を奪われていると、その影は不意にもう一つの影と重なる。
僕は、手で彼女の挙動を制すと、何も言わずにバルコニーに出て煙草に火を付けた。
夜風に当たりながら、何もない街から放たれた光の海を見下ろし、煙草の煙が空へと舞って見えなくなる。
この煙はどこまで行くのだろう。海は越えられそうにないな。と僕はまた新たに吸い込んだ煙を吐き、星など見えそうもない曇り空を仰ぎ見る。
ピアノの音が蘇る。
また始めからゆっくりと。ゆっくりと。
薄く、薄く丁寧に、丹念に色を付けて、音の層を重ねていく。彼女が音を作っていく作業を僕は見ていたのだ。音のはじまりから終わりまで彼女の事を思い出す。
胡乱だ瞳のその先には何もない街ではなく、何かがあると信じていた時の小さい自分が映っている。
何度もリフレインする音と煙草の煙で少し酔い、自分の胸懐を吐露することを許されたような感覚に陥った。
いつ何時も脳裏に浮かんでいる。
何度反芻しても、決して色褪せずそこに在る。
彼女の顔が、声が、所作が、いや、その全てが思い返される。
ある日ちょっとした諍いで友達と喧嘩をした。小学校六年生の春の事だ。
ちょうどその頃から人間関係に悩みだし、徐々に生きづらさを感じていた。人格形成の誤りなのか、はたまた彼らが特別、僕と合わなかったのか、僕はクラスの中で孤立していった。
クラスの連中とも話さず、登校し席に着くと本を開き、自分の世界に入っていく。他者を拒絶していると言っても過言ではない。
いつからか、クラスの人間との会話は空虚なものへとなっていき、淡々とした口調と、物静かな性格はすでにこの頃から定着しつつあったのだろう。
大人になってもどこか稚拙で、狭量であるのは、昔を思い返すと、それはなるべくしてなったものだろうと諦観する。それでいいと高を括ってしまっているところも僕らしい。
何枚にも僕を覆う壁は形成され、自分ではどうしようもなくなっていく。
まだ学校に行くのは、両親を心配させない為で、通学する理由も僕は普通の人と同じだと安心感を覚えるため。そんな僕にクラスの連中ももう夏休みが始まる頃には誰も話しかけては来なくなっていた。
無論、僕から話しかける事もなく、こんな何も無い毎日にも慣れてきた自分がいた。
僕が春の桜に後ろめたさを感じ、夏の照りつける日差しに鬱陶しさを覚え、月をも凍りそうな冬の極寒に嫌気が指したのは、この頃からなのか。
しかし、秋は好きだった。
彼女と初めて会った季節だから。
彼女は僕の家の隣に引っ越してきた。
ちょうど夏休みが終わり、文化祭などの煩わしい行事が終わった頃だ。
母の話によると、経営者の父に専業主婦の母、そしてその娘。金持ちだという点を除けばオーソドックスな家族なんだそうだ。
他の家族と違った点はその一人娘にあった。
彼女はピアノの才能が有るらしく、ピアノのコンテストを総なめにし、外国人の師に教えを乞うているとか。また、勉学も非常に秀でていると巷で噂されるほどであったという。
噂好きの母が嬉々として隣近所の井戸端会議に参加し、得てきた情報を僕に披露していたが、僕は適当に相槌をうち、翌日彼女と一緒に登校するという事も聞き漏らしていた。
翌朝、僕は深い眠りに陥っていた。そのときインターホンが鳴り、慌てて跳ね起き、玄関のドアを開けた僕はさぞ間抜けな面をしていたに違いない。
なにせ、お人形さんの様な風貌の少女が顰め面でこちらを睥睨していたのだから。
「あの、どちら様ですか?」
「隣に引っ越してきた、三山です。あなたは一義君?」
この子誰だ?こんな知り合いいたか?会ったことのない従妹か?など僕の頭に疑問符が飛び交うなか、母が家から顔を出し、ああもう来たの?学校まではそんなに遠くないわよと彼女に応対している。
その話から僕が転校生の彼女を連れて行くことがもうすでに大人達の中での決定事項であるとはじめて知る。あれ、僕の意思は?と母を見ていると、じゃあ頼むわねと奥に引っ込んでいった。
「では、行きましょうか」
と彼女が僕を促し、僕は渋々彼女と学校に向かう。この時間に出れば、いつもより早く学校に着くだろう。
「一義君は何年生?」
「六年生」
「あら、私と同じね」
会話終了。
クラスの女子にも下の名前で呼ばれた事はなかった。男子にも。
僕は苗字が珍しく、そちらで呼ばれることが多かったからだ。
気恥ずかしさからか、僕は彼女から目線を逸らした。
彼女は怪訝そうな顔をしながらも、僕と並んで歩く。
何か間がもたないなと感じた僕は、さして興味もないが当たり障りない会話を始めてみることにした。
「君の名前は?」
「三山咲よ」
僕は彼女に関する情報を思い出しながら、何か話題を探す。
「三山さんは、ピアノが上手いの?いや、母がそう話していたから」
彼女はフッと息を吐き、僕の定まらない視線を捉えた。
「上手くないわ。全然上手くない。それと、一義君。人と話すときは相手の目を見て話しなさい。失礼よ」
何故か、同学年の子に窘められた。僕は一瞬たじろぎ、彼女の顔を呆然と見つめてしまった。
「すいません」
「わかれば、よろしい」
と満足そうにはにかむ彼女は凄く魅力的で、今までこんな女の子に出会ったことはないなと思い返していた。
僕は、彼女のその凛とした姿勢と端正な顔立ちに、また目を逸らした。
艶のある長い髪に、リスみたいなクリクリとした双眸も、白魚のような透明感のある肌も、彼女を魅力的にする要素は上げつらねれば幾らでも出てくるだろう。
また、彼女には華がある。
まだ出会って数分だが、彼女が纏う雰囲気はそこらの小学生からは感じられない。なんと形容すればいいのか分からないが、眩しい程の存在感があり、気品が備わっているように感じられる。
彼女はこの後、学校の人間にすぐに歓迎され、クラスの人気者として学生生活を謳歌できるであろう。
そう、僕とは相反する存在となる。
僕とは住む世界が違う。
それは、当たり前の事で、純然たる事実として受け入れられる。
いつもの僕ならば。
僕と仲の良い友達はあの諍いから距離を置き、その後、友達はクラスの中心に位置する人達と仲良くなった。そうして、元から僕という存在などなかったように彼らは毎日、教室で楽しそうに談笑している。
僕はそれをなるべくしてなったことだと早々に見切りをつけて、特に何の感慨も抱かなかった。
もう、彼らになんの感情も待ち合わせていなかったのだ。
しかし、今回はなにか引っかかる。この通学路で少し話をしただけの彼女に興味が出てきたのか、少し残念に思う自分がいる。
ただ、この喉につっかえている気持ちもすぐになくなるだろう。一過性の病のようなものである。
それから、僕達は学校の施設、部活の事、授業の進み具合などを話し、学校に着いた。
その中で、僕には友達がいないことも悟られたかもしれない。
いつもより、20分程早く着いたが、校門にはチラホラ人が見える。
「後は職員室に行って、それから担任の先生に説明してもらってくれ。」
自分がまた、人に興味を持って何かを期待することは間違っている。もう面倒は御免だ。と半ば彼女と離れるために提案すると、そこに彼女の突飛な提案が飛来した。
「ねえ、音楽室行かない?」
「は?なんで?」
一瞬、彼女が何を言っているのか分からず、いつもの僕らしくない素の反応をしてしまった。
この時、すでに僕の脆弱な外面は破られていたのかもしれない。
「はは、貴方そんな顔も出来るのね。ほら、ずっと仏頂面でなにを考えてるか分からなかったから」
彼女は笑いながら、その歩を学内に向ける。
彼女がまた意味不明な事を提案してくる前に僕は仕方なく職員室まで彼女を連れていく。
「じゃあ、僕はこれで」
僕は彼女に背を見せると、速やかにその場を後にした。
いや、出来なかった。
「一義君、同じクラスでしょ。このカバンをクラスまで持っていっといて」
「え、なんで?」
「重いから」
そう言うと、彼女は自分のカバンを僕に押し付けてきた。
僕のような弱気な男子ならば、すぐに尻に敷けると思っているクチか。僕は何故か苛立ちを覚えながら、彼女を見ずに言葉を吐き捨てる。
「そういうことを頼むのは、自分のママだけにしてもらいな。もう十代なんだから」
それは金持ちの娘というだけの偏見から生まれた言葉であった。
いつもならこんな安い挑発に乗りはしない、しかしもう学校内である。
これ以上、誰かと関わりたくなかった。また誰かと話している自分をクラスの連中に見られたくなかった。僕は嗜めるような口調で彼女を迎撃し、彼女のカバンを押し返す。
彼女はカバンを受け取らず、竿に食いついた魚を見るようなしたり顔でニヤリと笑った。
「ふっ一義君。貴方、ケチだし、面白くもないのね。朝から退屈な人と学校に向かうってのは気が滅入いるわ」
「それは、お互い様だ」
「はじめから大人みたいな口調で、堅っ苦しい。下手な芝居を朝から見せられる方の身にもなってほしいわ。大人みたいな子供より、子供っぽい子供の方が良いのよ」
最後の言葉の意味が分からなかった。しかし、馬鹿にされていることは分かった。
「そんなの、アンタも一緒だ」
急に堰を切ったように彼女は僕を罵倒し始めた。
売り言葉に買い言葉で僕も応戦する。
彼女は僕の外側の顔を剥がすために、わざと挑発して僕の平常心をかき乱そうしているのではないかと勘ぐってしまう。僕は怪訝な瞳で彼女を睨め付ける。
「ささっ、音楽室に連れて行って。一応、説明してくれて、学校まで連れて来てくれた訳だし、礼くらいするわ」
なんなんだろう。この子は変だ。
僕に突っかかってくる意味もよく分からないし、彼女がなぜ音楽室に行きたいのかも分からない。
そもそも、出会った時からずっと高圧的な態度だったし。可憐な美少女だと思っていたがこれでは自己中心的な高慢女である。
「音楽室にいっても、鍵が無いから入れないよ」
「そりゃ、そうよね。うん、分かった。待ってて」
そういうと彼女は職員室に入っていってしまった。
僕は仕方なく彼女のカバンを持ったまま待つことにする。こんな非常識な人間にはあったことがないため困惑しており、自分を落ち着かせるためにも少し時間が必要だ。
徐々に冷静さを取り戻してくると、彼女のカバンを廊下にほっぽって先に教室に向かうという考えも生まれたが、彼女に冷たく接することは今後の学校生活を送るうえで得策ではないという判断のもと、残ることにした。
彼女ともうこの先話す機会が訪れるとも思えない。
ならば、もう少し彼女に付き合ってもいいのではないかという下心のような感情があったのも確かだが。
数分後、彼女は職員室から笑顔で鍵を弄びながら出てきた。
「え?どうやって鍵を借りたの?」
時刻は7時50分。学生の登校時間よりは少し早いくらいだ。こんな時間に音楽室の鍵を借りに来る生徒はいないだろう。
驚いている僕に彼女は淡々と説明する。
「ああ、それはね、学校の方には私はピアノの練習とかコンクールで忙しいから授業を抜けることがあることは了承してもらっているの。そのこともあって、この学校のグランドピアノを週に2,3日使わせてもらえることになっていて、私が使うことになっているピアノを見せてほしいと頼んだのよ」
「見るのは放課後にしろとか言われなかったの?」
「そんなの、放課後はピアノの練習で忙しいとか色々言い訳できるわ。貴方、いちいちそんな予防線を張るような生き方しているの?」
「ちょっと気にかかっただけだよ。いちいち突っかかってくるなよ」
「はは、私も大人ぶった子供をちょっと揶揄いたかっただけよ」
と彼女は音楽室に歩いていく。僕も仕方なく彼女のカバンを持って、そのあとを追う。
しかし、この時にはもう、嫌な感情は薄れていた。
彼女に対するネガティブな感情も鳴りをひそめ、何かが始まるかもしれないという期待も少なからずあったのかもしれない。
彼女は音楽室に入ると、すぐさまピアノの前に位置づく。
ああ、彼女は僕への礼とかではなく、ただただピアノを弾きたかっただけなのか。彼女の逸る気持ちはその爛々とした眼が物語っている。
小さい子がおやつを前に大きな目にいっぱいの光を集めたような彼女の瞳の輝きに僕は少し笑ってしまった。
彼女は鍵盤にひかれた深緑の布を剥がすと、爪がきれいに切りそろえられた小さなその指を静かに鍵盤に置いた。
そろそろ、登校のピークの時間に入る。外から活気のある学生の声が聞こえてくる。そんな中、彼女のピアノ演奏は始まった。
僕は特にクラシックに詳しいわけではない。しかし。彼女の弾くこの曲には聞き覚えがあった。
「ショパンの別れの曲だったかな」
「そう、この曲好きなの。出会いの曲とか弾ければ気が利く女の子かしら?」
口ではそんなことを宣いながら、そんな気はさらさらないと言わんばかりに教室に深く響くグランドピアノの音色。
スローテンポで僕も好きな曲調であったためか、はたまたいつもと違う状況に頭が麻痺していたのか、僕は何も言わずにそのまま音楽室の端にある椅子に腰かけた。
彼女はその音色に酔ったように、鍵盤の上の手はひらひらと蝶のように舞う。そうしてゆらゆらと漂う音色にいつしか聞き入ってしまう。
クラシックなんて大人の趣味でテレビや格式高い店でしか聞く機会もないと思っていた僕にとってはBGMのようなものだった。
しかし、彼女の音はどうだろう。
音が僕を覆う。
朝の澄んだ空気に彼女の音は共存し、僕の体全体に浸透する。
僕にとって学校という場は親の意に反し、暇を持て余す場で、特に何かに打ち込んでいるわけでもない。
そうして、あの諍い以降、信用できない学校の人間相手の外向きの顔を作り、距離を置きだした。
昔から人間関係に悩むことは何度かあった。
しかし、あの諍いは違う。僕にとっては、いままでの些細な出来事とは一線を画す出来事だった。
僕は彼らの興じる、グループの中からはみ出し者を作り、いたぶるという趣向の遊びは断じて容認することができなかったのだ。
信じていた。彼らは友達がいのある優しい人間で、僕らは仲良しだと。
もう一度彼らに裏切られたら僕はもう立ち直れない。だから、無関心と大人ぶった外面を纏いすべてを遮断していたのだ。
しかし、今はどうだろう。
僕の脆い外面をいともたやすく破いた彼女の音楽に、甘美な花に吸い寄せられるように聞き入り、僕はこの場から離れられない。
諦めかけていた人間に対してここまで心を揺さぶられている。
そう、僕は今を楽しんでいたのだ。
彼女と過ごす今に高揚し、底知れぬ幸福を感じている。
人は人をたやすく裏切るし、僕だってそうだ。
また、人に裏切られるかもしれない。
でも、またこの演奏を聴くときのような楽しい日は来る。それは、一人では作れない時間だ。
ならば、もう一度。もう一度信じてみてもいいのかもしれない。
人なんて信じられまいと閉じていた殻は緩やかに伸びる音に、徐々にほぐされ、剥がされていく。
序盤とは違い、曲はより技巧的な、激情的な面を見せ、やがて始めの旋律に帰ってくる。
彼女は楽しそうに曲を奏でている。僕はその光景をただ楽しむ。
僕の外面はもういらない。彼女相手には使えそうにないものだ。
春頃から始まった僕の短い社会に対する反抗期は終わりを迎える。
対人関係に怯えるのも、人に壁をつくって安心しているのもただの僕の弱さだから。
自分自身と、あるいは他人と、もう一度向き合ってみるのもいいかもしれない。
これを機にまた新たな自分を始めるのもいいのかもしれない。
そう、これは別れの曲なのだから。
登校してくる生徒の喧騒も、僕の耳にはもう入ってこない。
彼女は楽し気にピアノを弾き、何故か照れたような笑顔を見せ、先ほどの強気な姿勢は鳴りを潜め、和らいだ笑みを見せる。
つられて僕も笑顔を見せる。
この時間がずっと続けばいいのにと思ってしまう。
しかし、悠久の時のように思われたこの時間は終わりを迎える。
音楽室の前に人影が見えたのだ。音楽担当の教師がドアの前でなにやら喚いているようだ。
しかし、彼女は何食わぬ顔で演奏を続ける。彼女は曲をちゃんと弾き終えるつもりのようだ。
彼女なりの曲に対する礼儀なのかもしれない。それとも聞いている僕に対してかもしれない。
僕は名残惜しい気持ちとともに演奏を静かに見守る。
彼女のピアノは僕の心を掻っ攫い、そして静かに消えていった。
彼女は曲を弾き終えると椅子から立ち上がり、僕に言う。
「すごく楽しそうに聞いてくれるから、つい笑っちゃった。さっきは突っかかってごめんね。いろいろと教えくれてありがとう」
彼女は気恥ずかしそうに言う。
「いや、こっちこそごめん。後、ありがとう。最高の演奏だった」
僕は別れの曲の終わりを初めて知った。
僕の予想通り、彼女は瞬く間に学校中の人気者となった。
僕の元友達を含むクラスの人間も、それ以外の人間も、学年の違う人間も彼女が歩けば、目で追ってしまう。彼女は誰にでも気さくに話しかけるような人間なので、皆、彼女と話したいのだ。
美人で人懐っこい性格の人間を嫌う人間などそうそういないだろう。
彼女はすぐにクラスにとけ込み、仲の良いグループを形成した。
彼女とは相反し、僕はまだ本とともに学校生活を送っていた。人間を信じようと思ったのでなく、彼女を信じただけのようだ。
これでは彼女に群がるほかのクラスメートと変わりない。
しかし、一つ他の生徒と違う点は、僕は週に2,3度、放課後に彼女と二人で会っているということだ。
教室では彼女には取り巻きともいえる仲の良い生徒が多くいるため、一言も言葉を交わさないが、僕たちは放課後、音楽室に集まっていた。
音楽室でピアノを弾く彼女の隣で、僕は本を読む。彼女の演奏が終わり次第、僕らは他愛ない話をしながら帰路に就くのだ。
一度、なぜ他の生徒を放課後の音楽室に誘わないのか聞いたことがあるが、彼女は素知らぬ顔で、他の生徒は誘っても来ないのよと言っていた。
しかし彼女が放課後、誰かを誘っている姿は見たことがない。
僕は彼女との謎の関係に優越感を得ていた。
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