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第3章 ワールドメイク

第49話 ワールドメイク①

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「鬼嶋あかり」という名前の女子がいた。

この名前は記憶の最奥にしまっていたのに、ふとした時にその顔を覗かせる。
ああ。どうにも気が滅入る話だ。

この女の名前を聞くと、嫌悪感から吐き気がする。胃が委縮したように思えて、その場ですべてを吐きそうになる。

忌々しく、腹立たしい。その名を見るだけで、嫌気が指す。その日一日が暗く鬱屈とした気分に陥るほどだ。

この女がすべての元凶だ。

しかし、今思えばこの女がすべて悪いと思うことで心の安定を保とうとしていたのかもしれない。自分は何一つ悪くないと、そう思いたかったのかもしれない。

だが、この女の所為で何人もの人間の人生が捻じ曲げられたのも事実だ。

小学校時代、引っ込み思案であった東を裏で虐めていたのもこの女だ。

そして、中学校のあの事件もこの女の所為である。

口に出すのも憚られるあの事件を起こしたのも思えばこの女のいじめからだった。

そう。それがすべての始まりだった。

 

 

 

それは中学二年生の夏ごろだった気がする。

東が最近になってよく、放課後の遊びについてくるようになった。

妙に俺たちの下らない放課後の時間潰しについてくるようになったのだ。

俺と南は放課後になるといつも、デパートで時間を潰したり、ゲームセンターに行って遊んでいた。

南にはその時、付き合っている女子もいなかったし、特別女好きではなかったように思える。

それよりも、俺と遊んでいるほうが気兼ねなく過ごせると言っていた気がする。

そんな俺たちに東はよくついてきた。

それは小学校時代からの知り合いだったが、中学に上がると彼女は恥ずかしいからと俺たちから少し距離を置いていたのだ。

しかしながら、最近は何故か俺たちの後を追って来ていたことを疑問に思っていた。

聞けば、家に帰りたくないとのこと。

家に居場所がないから、家に出来る限りいたくないとそう言った。

俺と南は人様の家の事情だと特に聞かずに彼女を受け入れ、夏が終わるころには三人で遊ぶのが普通になっていた。

放課後のチャイムが鳴れば、三人で遊びにいくのだ。

近くのデパートだったり、喫茶店、ゲームセンター。思いつくところはどこでも三人で行っていた。

俺と南が馬鹿なことを言って、東が窘めるというのがいつもの俺たちだ。

南が女子に校舎裏に呼び出されて、その様子を俺と東で隠れて見たり、夜のプールに忍び込んだり、海を三人で見に行ったりととにかく遊び倒していた気がする。

今日は特別帰りたくないと東が駄々をこねたときには、遠くの方に遊びいって、三人で野宿したりすることもよくあった。

あの頃が一番楽しかった気がする。

三人でいるのがとにかく楽だったのだ。

誰もが誰かの空気を読んだり、気を遣うこともなく、自然体でいられる三人だからこそお互いに心を開けたのかもしれない。

夏を三人で満喫して、落ちてくる夕日に三人そろって何を話すでもなく、ただじっと見ていた。

無言である時間も苦にならず、各々の時間を過ごす。

それでも、一人じゃないから、孤独感もなくて、ただ楽しかった。本当に居心地によかったのだ。

変わりだしたのは、東がよく頬を腫らしてきたり、調子が悪くなって遠出もできなくなった頃からだろうか。

彼女の家の事情は知らなかったが、明らかに誰かに殴られた痕が付いていると流石に心配になった。

いくら家の事情だと配慮していても、これはもう聞かなくてはならないなと東に聞けば、ちょうど親同士が離婚を考えているとのことだった。

それが表面上、どれほど深刻な問題だとしても子供の俺たちにはその問題の本質的な意味も、解決方法も分からなかった。

彼女の父親は本当にろくでもない人間だったようで、賭博に、酒に煙草、果ては愛人まで作っており、酒に酔っぱらうと気が大きくなり、よく家族に暴力を振るっていたそうだ。

しかし、それを聞いても俺たちにどうにかする力はなくて、俺と南は二人して落ち込んだ思い出もある。

そうして、彼女の離婚が成立する、しないという問題に直面していたころ、もう一つの問題にもぶち当たる。

 

 

 

それは、ある噂だった。

たんなる噂であり、そんなフウに彼女をいじめようとする輩は小学校からもいたし、東本人もそんな噂にいちいち気を配らなくてもいいと言っていたので気にしていなかった。

しかし、その噂が徐々に大きくなり、現実味を増してくると、それが思わぬ方向に話が展開していった。

俺たちが想像もしていなかった方向に話は転んでいったのだ。

暗い暗い、闇の淵へと転げ落ちていった。

その噂は、東 彼方はどうしようもない売女であると。

尻の軽いあの女は誰とでも寝るという根も葉もない噂だ。しかし、その噂は徐々に肥大化し、果てはその証拠写真をばらまかれていた。

なんの証拠にもならない。繁華街で彼女が男と話している写真だ。東はその時、道を尋ねられて答えていただけだったようだ。

それが彼女を陥れるための罠だとも知らずに。

その写真が何故か皆に広く知れ渡り、東自身にも実害が出てきた。

上級生の男に急に校舎裏に連れていかれたり、同級生に急に蹴られたりと、目に見えた実害が出てきた。

無論、俺と南で前述の件については東を助け出したり、その同級生を殴りとばしたことで南は停学を食らったりしていた。

彼女と関わることで俺と南も謂れのない罵詈雑言を吐かれたりもしたが、それでも別によかった。

この三人さえいれば他には何もいらなかったのだ。

そうして、彼らの馬鹿な噂や、いじめを軽くいなして、学校生活を送っていた。

しかし、そんなフウに彼女を守れない事柄も存在した。

それが最初のターニングポイントだったのだろう。

そこで止めておかなければならなかったのだ。

 

 

 

ある日、東が教師に呼び出され、噂の真意を聞かれていたことがあった。学校は彼女が良からぬことに関与していると睨んでいたのだ。そう。援助交際をしていると。

その時、彼女の後ろに控えていた妙齢の女性と、髭を蓄えて、派手なスーツに身を包んだいかにも悪そうな男が一緒に指導室に入っていったが、あれが彼女の両親かもしれない。

その面談が終わってから、本格的に東家の離婚を進めた。

娘の不祥事に気を悪くしたその男はまたもや娘と妻に暴力を振るった。その時、東の母は深手を負い、一度田舎に逃げ帰ることにしたようだ。

俺たちはそう聞いていた。

そう東から聞かされていたのだ。

ここで気が付けばまだ間に合っただろう。

しかし、俺と南は呑気に東が安全地帯に逃げられたことで安心していた。警戒心を完全に解いていたのだ。

 

 

 

そんな時、ある女が俺に話しかけてきた。

その女は同じクラスで名を「鬼嶋 あかり」という。

その女が裏で東の噂を流しているとこの時の俺と南は知らなかった。小学校時代でもう懲りただろうと思い込んでおり、その女の存在すら忘れていたのだ。

その女が言うには、この噂はすべて自分が流したという。東 彼方を恨んでいるが、俺と南には恨みはないという。

だから俺と南が東から離れたら、いじめをやめてやっていいというものだった。

「意味が分からないんだが。お前はなんでそこまで東を嫌うんだ?」

そう聞いた。

そしたら、あの女は笑いながら下らないことを宣った。本当に下らなく、醜悪な性格を露わにしたのだ。

俺は後にも先にも、これほど人間として壊れている奴を見たことがない。

確かに容姿は整っていた。そこらの学生より一線を画す容姿を持っていた。

しかし、その目がギョロギョロと動くたびに背筋に寒気が走る。整った顔はその表情を変貌させ、とがった瞳に口の端がひしゃげて曲がると低い笑い声が漏れ出た。

そして、彼女は東について話し出す。

東 彼方のすべてが嫌いだ。

あの女の目も、鼻も、口も、髪も、身体も、声も、匂いでもさえも。そのすべてが私を否定する。心の底から嫌いだ。

あの女が本当に嫌いだった。

小学校で初めてあの女を見たとき、酷く心を傷つけられた。あんな顔で、あんな性格で澄ました歩き方をする。そして、私のすべてを奪っていった。

仲のよかった男も。私の友達も。皆、口をそろえて言う。あの女は綺麗だと。

耐えがたい屈辱であり、このままでは生きていけない。

あの女がいては生きていけない。それでも殺したいとは思わない。あの女をどうにかして、私よりも下に置きたい。私の下に置いて、その心を踏み潰せば少しは気が晴れる。

呼び出されたときのあいつの父親を見たか?あれは人間の屑だ。

あんな男の娘だ。それは下卑た視線を向けて男を篭絡し、すべてを支配しようとする。そんなことを許していいのか?

駄目だ。

あんな娼婦にも似た品のない匂いと笑顔でそこらに集る蠅のように男に手をつく、穢れた女に与するのか?

そう宣った。

意味が分からなかったが、一つ思った。

この女はヤバイと。

自身のコンプレックスの肥大化なのか、それとも屈折した正義の表れなのか。意味が分からない彼女の理論は、酷く浅ましく、酷く欠陥のある人間の理論であった。

この女はおかしい。

その目を見て、この女は人間ではなく、何か別の生き物なんじゃないのかと疑ったほどだ。

鬼嶋の顔は確かに綺麗だった。

しかし、何かがずれていた。綺麗だと見て取れるのに、ジッと見ていると何かが徹底的にずれてくる。

何かは分からないが、彼女の目も鼻も口も情人よりも整ってそこにあるのに、何かがずれてくるのだ。

口を開けば、ずれは目に見えて分かる。

その荒んだ性格が肉壁を越えて、漏れ出る彼女の醜悪さは肉体では内包しきれず、その面を食い破ろうとする蛆やら、溶かして穢す膿のような心の汚れがその顔にずれを生じさせているのか。

いや、きっとそうだ。

今、目の前で笑っているこの女の下劣極まりない顔を見ていれば分かる。

今も地獄からせり上げってきたような声が聞こえる。ケッケッケッケと甲高い、人を心底不快にさせる声が聞こえてくる。

この女は人間じゃない。

鬼だ。

鬼そのものだ。

そう思った。

そうして、俺と南に接触してきた鬼嶋 あかりは俺たちがそれを断ると、次に他校の生徒をよこし、俺と南を徹底的に痛めつけた。

急に何人もの男に襲われ、体の自由を封じられると、いきなり殴りつけられた。

俺にいたっては腕をバットか何かで殴られて、腕が明後日の方向に向いていたが、気絶していたので気が付かなった。なんとか南が救急車を呼び、死なずに済んだが。

そうして、彼らは俺たちの安寧を侵食していくと、最後に東に向かった。

東を他校の生徒に襲わせる気だったようだ。

文字通り、嬲り殺しにでもしようとしていたのかもしれない。

その時、奇しくも東はまだ祖母のいる実家に帰省していたので、事なきを得た。

東にそのことを伝えて、まだ実家にいろと連絡をしたことでそれから事態は沈静化していく。

彼らも手が出せないと分かるとこちらに危害を加えてこなくなった。

まぁ俺と南も入院していたし、彼女も田舎にいることで手を出せなかったといった方が正しい。

東に俺と南が襲われた旨を伝えると、電話越しに泣き崩れていたが、俺も南もそこまで酷くないと嘘をつき、平然を装った。

彼女が自分の所為でと、何も悪くないのに自信を責める性格だと知っていたからだ。

最後に東は電話越しに笑っていた気がする。

そうして、噂も徐々に絶えていき、人の噂も七十五日という言葉を噛み締めていた時、久々に東が学校に顔を出した。

休学届を出しに来たのだ。

事前に連絡を受けてそれを俺たちは知っていた。

その時、俺と南は彼女に会った。東は酷く痩せており、彼女の家の事情が深刻なものだとは気が付いた。あの東の馬鹿な噂は彼女の家に不幸をもたらしたのだ。

それまでは表面上、取り繕っていた東家のすべてを破壊したのだ。

彼女は俺を見ると、酷く顔を歪めた。そして、俺の折れた腕を触ろうと手を伸ばしたが、躊躇がちにすぐにその手を下ろした。

何故そんなことをしたのか分からず俺たちは困惑してしまう。

そうして、そんな俺たちを見て、東は小さく嗚咽を漏らして泣いた。

彼女は何故か俺から二歩下がり距離を置くと、その場にうずくまり泣いていた。

俺も南も耐え切れず、三人で涙を流した。

まさかこんなことになるなんてあの夏には思ってもみなかった。

すべての不幸が重なって、この現状を生んだ気がする。

そうして、彼女は俺と南を見て何故か薄っすら笑った。

その笑いがどこからくる笑いだったのかは分からない。その時の彼女は酷く美しく、儚く見えて、何も言えなかった。

今、何かを言ってしまうと彼女が涙と一緒に溶けて消えてしまいそうだったのだ。

そうして、彼女が口をつぐんで、沈黙が訪れると、誰とも知れず一人ずつ帰っていった。

彼女の家は崩壊し、学校での俺たちに近づく者もいない。すべてが終わったのだ。

これが最後だった。

それから彼女は家に引きこもった。

俺は毎日、彼女の家に通った。

そうして、彼女の心がいつか治って、また元気に笑ってくれる日を待っていたのだ。

しかし、彼女が部屋から出てくる日は到頭訪れなかった。

ある日。

夏が過ぎ、秋が来て、肌寒い季節に移り変わった。冷たい風が頬を過ぎ、服越しにその季節の変化を感じさせる。

夏を乗り越えられなかった俺たちを残して、町はもう秋の香を漂わせて、一層気が滅入った。

俺はいつもと変わらず、放課後彼女の家に向かう。

やっとクラスの中でも俺と南は許されたのか、輪の中にも戻ってこられた時期だ。

何を許されたのかは分からない。鬼嶋は東を学校から追放できたことで満足したのか、クラスでも目立つ存在となり、学生生活を謳歌しているように思えた。

しかし、それを見ても特になんの感慨も抱かなかった。

もう止められない。

それに止める気も起きない。

俺たちはただあの日々を取り返したかっただけなのだから。

俺は彼女の家に入ると、異変に気が付く。彼女の母がおらず、彼女の靴だけが所在なさげに玄関に散らかっていた。

静寂が家を包み込み、俺が床を歩く音だけがやけに響いた。

そうして、彼女の部屋の前に立つ。

「東。東。いるか?ジュースとか買ってきたけど。どうだ?」

勿論、いつもなら返事はない。

しかし今日は違った。「そこに置いておいて」と返事が返ってきた。

それが彼女の調子が良くなってきた兆候だと勘違いした俺は彼女に話しかける。

それはただ最後の会話だからだったとは知らずに。

すると、彼女は昔の様に気だるげに話をしてくれた。まるで前に戻ったみたいに。

そうして昔話をした。

そう。あの夏のことや。三人で遊びに行った時のこと。

楽しかったころのことを。

そうして、話し疲れると、彼女は何故か笑っていた。

それは無理やり喉を鳴らして、笑い声を部屋に響かせているように思える。

そうして笑い終えると、ドア越しに俺に言う。 

「ごめんね。…………肇。ごめん。私。もう汚れちゃったから。私。もう駄目だから。私なんてもう駄目だから。いらないね。私はもういらない。私がいてもみんなに迷惑をかけるだけだから…………。もう私は肇とは会えない。いらない子だから。」

そう泣き言が聞こえる。

何故そんなことを言うのかと問うと、彼女は何があったか語りだす。

それは本当に酷く気持ちの悪い話で、はらわたが煮えくり返るような怒りを覚える話。

俺はそれを聞いても、それが本当のことだとは信じられなくて、ただ涙を流した。

どうして、そんなことになっていると気が付けなかったのか。何を楽観視していたのか。彼女の口から紡がれた話は聞くに堪えない話だった。

あの噂の話が親に伝わったあの日。
彼女の父親は彼女に服を脱ぐことを強制した。
それがどういう意味合いなのか分かるであろう年の娘に対してだ。

そうして、実子に対して、欲情を高ぶらせ、自らを慰めた。

そうして彼女にまともな人間ならそもそも噂すら立たぬ、お前が卑しい人間だからそんな噂を立てられるのだと、折檻し、赤子の姿と変わらぬ、一糸まとわぬその体に触れようとしたようだ。
彼女は抵抗し逃げ惑う。
そこに彼女の母が帰宅した。

彼女の母はあろうことか、彼女を責めた。

父を誘惑したのかと。

そうして、両親からも家を奪われ、居場所を奪われた。

俺は彼女の母と彼女が父から逃げるべく実家に帰省したと思っていた。

違うのだ。

話は全く別の軸で動いており、母は完全に壊れており、父親の悪逆非道に屈したようにその場でただ狂人のように笑っているだけの人形になったようだ。

そうして、父母の両親が介入して、初めて離婚は成立したのだ。

「大丈夫。私。なにもされてないよ。ただ汚い言葉を浴びせられただけ。触れさせではいないよ。でも。もう私は人としての矜持を失ってしまった。あんな男にすべてを見られて、貴方に顔を出すときの恥ずかしさ、怒り、悲しさ切なさ。どうしていいのか分からない。ねぇ。肇。ねぇ。どうしてこうなったのかな?私は肇と南くんと三人で遊んでいたかっただけなのに。どうして。ねぇ。ねぇ。どうして…………。」

俺はもう何も言えず、その場で立ち尽くして声を上げて泣くことしか出来なかった。

今、彼女のもとに駆け寄って、抱きしめることも彼女にとっては酷く辛いことだと分かる。彼女の鳴き声がこの黒い家に響いて、心を揺らすのだ。

ヒタリヒタリと涙が頬を伝うごとに、自分の感情は高ぶり、この理不尽さを恨む。

どうしようもない。

もう何も考えられない。

言葉も出ない。

ただただ悲しい。

悲しくて、胸が締め付けられて、この現実を受け入れることを拒絶したいと心が望んでいる。しかし、彼女の泣く声が聞こえるたびに、これが現実だ。

真実だと、強く心を打ち付けるから、泣くことしか出来ない。

怒りも悲しみも限界を超えると、表情はなくなってただ涙が心を安定させようと漏れ出るのかもしれない。

そうして、彼女の泣き声聞いていると、ふと衣擦れのような、現実味のある音が耳に張り付いた。

それが、何の音か気が付いていたのに、俺は部屋の前で何もできず、ただその場に突っ立っていた。

そうして、その音が止んで、彼女の何か声とも取れぬ「ボゴッ。ゲホッ」だの聞き取れぬ喉の内から漏れ出る声が響けば、静寂が訪れた。

不意に訪れた静寂に耳を傾けて、事の終わりを見届けた。

ドア越しに沈黙を噛み締めていれば、不意に正気に戻って慌ててドアに入った。分かっていたから。

もう。

もう。

もう死んでいることを。

だから気兼ねなく入れた。

もう心配する必要もない。

だって死んでいるから。

そうして、彼女は短い生を終えた。

俺は救急車を呼び、すべてが終わると、家に帰って、布団をかぶった。

聞こえてくる。

聞こえてくるぞ。

耳の奥から這い上がる音が張り付いているぞ。

もぞもぞと蠢く蟲の声かしら?

聞こえてくる。
これは彼女の最後の声だ。
蠢くは死に向かう彼女の声。最後に吐き出された無念の声は空気が喉を撫でて発した音の粒なのだ。

こんなことあってはならない。

現実なんて見ていてもいいことなんて何もない。これがその結果じゃないのか?

もう駄目だ。もう駄目なんだ。

蘇る。
頭の中に焼き付いて離れない。
ああ。蘇る。

首に布を巻き付けて、胡乱だ瞳がこちらを向いている。涙の軌跡が乾いて、そこを上塗りする涙。青白く、干からびたような細く薄くなったやせ細った体がブランッと天井から垂れている。首だけが布にくっついたように上にあり、その他が重力に耐え切れず垂れ下がる。目も飛び出さんばかりに見開かれている。

涎がだらしなく半開きになった口から垂れていて、それがまた何とも生々しく、記憶に焼き付いた。

死んだ人間を見たのはこれが初めてだった。

ああ。なんということをしたのか。

なんという。

これはもう。

これはもう。

これはもう。

笑うしかない。

こんなのおかしい。
ああ。可笑しい。
本当に可笑しい。
喜劇だ。これは喜劇だ。
こんな現実あり得ない。こんなことが有ってはならない。

これは嘘だ。

嘘だ。

嘘だ。

嘘だ。

嘘にまみれた世界なんだ。

俺は悪くない。この世界が悪い。俺は悪くない。涙なんて出ない。

こんなことあり得ない。

こんなことはあってはならない。夢だ。

そうだこれは夢だ。

夢でなければ理解できない。

もうどうしようもない。

これは夢だ。

そうだ。いずれ覚める夢なんだ。


 

 


そうして引きこもっているうちに、右腕に違和感を覚える。

まだ骨折後のギプスをはめたままの腕に違和感を覚える。

そこには時計があった。

古くて汚い腕時計だった。

こんな時計を買った覚えも付けた覚えもない。

その時計は時間も正確ではなく、外装も汚く付けるに値しないものだった。

何故だか俺はその時計を一日中眺めていた。

ある日、その時計をみながら妄想を始めた。あの時に戻れたらな。あの夏に戻って、また遊んで。

三人でまた会って笑って。

それから。

それから。

それから。

「西京。次お前の番だぞ?もう始まってるぞ?早く歌えよ。」

「は?」

「いや。お前だろうが。この萌え萌えの曲入れたのは?なぁ東?」

「そうだよ。肇がこの間、絶賛していたアニメのオープニングでしょ?早く歌ってよ。」

俺は訳もわからずカラオケで歌を歌う。

その時、カラオケの照明に反射して、俺の右腕にはめられた時計が鈍く光っていた。骨折していた右腕のギプスは消えており、楽し気に笑う二人につられて俺も笑っていた。

 

 

 

そうして、またこれは現実ではない。こんな楽しそうに遊ぶ俺たちはもういないと想像し、また時計を眺めていると、不意に静寂が訪れた。

見渡せば、部屋は荒れており、酷い異臭が鼻を突いた。そして、右腕を見れば、やはりギプスがはめてあった。

なんだこれは。

なんなんだ。

やはり夢を見ているのか?

胡蝶の夢かなにか。

俺はどこでなにをしているのだろう。

その時、ドア越しに声が聞こえる。

それは久しぶりに聞く友人の声だ。

「おーい西京。おーい西京。」

南の声が俺の家に響いていた。

しかし俺は気が動転し、それに相打ちを打つこともできず、ただボーっと無言でそのドアを眺めていた。

ついにおかしな幻覚を見るまで俺の精神はおかしくなったのかと、俯瞰的に見て、それを自覚すると可笑しくなってまた笑い転げて、それを繰り返していた。

馬鹿な話だ。

こんな妄想はあり得ない。

でも、もしこれが本当なら?

もし戻ってすべてを変えられるなら?

最後に縋ってみようか?

俺はある日、時計をはめたまま、町に繰り出した。

そうして、鉄橋の上にさしかかると、そのまま橋から下を流れる川を見渡した。

緩やかに流れる川に目を奪われ、夜の空に光る月に手を伸ばす。どうせ終わったような世界だ。もう飛んでもいいだろう。

このまま飛んでいってしまうもよし、何かの間違いですべてが元に戻るならそれもよし。

俺はまた笑いに包まれる。

こんな馬鹿な世界に未練もない。

さて、どこに行けるだろう。

橋の上から町の方を見渡す。キラキラと光っていて、まるで希望に満ち溢れている。

はは。馬鹿め。そこには希望はないぞ。そこにあるのは糞の吹き溜まりもいいところの黒く不透明な人間の本心の塊だぞ。

そんな世界に身を置いて、これからも頑張るのかい?それは、それは可哀想に。

俺は一足先にお邪魔するよ。

それでは皆さん。さようなら。

俺はそのまま、橋の上から月に向かって飛んだ。

 

 
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