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最終話
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チラチラと鬱陶しい光は、目の前で点滅する。
それが自分の命の灯だと、思って手を伸ばす。もう届かないだろう。手は空を切るだろう。
しかし、未だ生を渇望するその意思が、前を向いて、手を動かすのだ。
あいつの言葉が頭の中に残っている。
分かっていることを何度も言い直してきやがる。鬱陶しく、辟易する。分かっているんだ。桔梗が、家で帰ってくるはずのない俺を待っていて。もしかしたら五月は俺が帰ってこないことさえ認識できないまま大人になるかもしれない。
そうして待つ家族が何度も頭を過ぎる。しかし、俺はここに来て、案の定帰れなくなった。涙は出ない。
しかし、どうしようもないと吐き捨てることが出来ない。それほど、大切なものだ。それが再認識でき、自分の生きてきた道も捨てたもんじゃないとため息をつきたくなる。
根本的に粗野に、粗雑に生きてきた。
そんな俺が、真っ直ぐだった俺が、社会に揉まれて、先が折れ曲がってしまった。そうして過去を見て、また折れ曲がり、それは前を向く。輪を描いて前を向くのか。
ああ。阿呆なポエムのようだが、この鬱屈とした心は熱を持って、頭を沸かす。そうした日々の憂鬱も、この窮地も、すべてが嫌になっても、なお待っていてくれる場所はどこだろう。
手は少しの間、光に向かい、そして地に降りていく。
そのまま、意識は飛んでいくのだろう。
ああ。
さようなら。桔梗。五月。
さようなら。
過去の俺。
これでやっとお別れだ。
さぁ。次はSF映画みたいなタイムワープなんてものに巻き込まれない人生であってほしいと願う自分。今まで幸せだったし、まぁ総括すると良い人生だったと達観した自分。
おそらく後者であろう。
そういうことにしておこう。
一向に手が地面につかない。
目には光が瞬いて、しばしの暗転。
手は未だ、宙にあるのか?いや、違う。なんだろう。この安心感は。冷たい冬の海に漂っていたみたいにシンと静まり返った地の底に、一つの光が見える。とすると、手は火が付いたように温かい。
家族のような温かさ。過去の幸せのすべてが詰まったような温かさ。
よかった。案外、地獄も悪くない。
こんなに気持ちが良いのだ。
光は徐々に形を帯びていき、一人の女性になった。それは俺が一番好きな女性であった。
「なん………だ。地獄にも綺麗な……女性がいる……もんだ」
彼女が叫んでいる。
不意に現れた赤い光が交錯する中、彼女の声が聞こえる。泣き叫ぶ声はやがて喜びの声に変わる。
「死なせない。死なせない。絶対に死なせない」
彼女からは聞いたこともないような、けたたましい叫び声が、耳朶を打つ。
リフレインする言葉の海に漂って、その声の主の温もりに触れる。
何故だか、泣けてきた。
なんだ。ちゃんと生きたいと泣けるじゃないか。ちゃんと生きているじゃないか。
そんな声が頭上から降ってきた気がした。
温もりが去った後も涙は止まらず、ただ黒い海に漂って、前へと手を動かす。なんとか地に着かなくてはいけない。
黒い海に力を無くして、浮かんでいるのはさぞ楽であろう。しかし、俺は行かなくてはならない。
持てる力のすべてを使って、岸へと向かうのだ。動かないではない。ここで手を動かさねば、自分など人間ではない。
岸には彼女がいて、五月もいて俺を待ってくれている。
がむしゃらに手を動かして、月に背を向けて、やがて前へと泳ぎ進める。
俺を邪魔する波も、月の光も、今では見えない。ただ、目の前の彼女だけが見える。もうすぐ着く。
空も海も黒くて深い。
俺は何度もめげそうになる心を前に向かせて、がむしゃらに手を動かした。
とすると、知らない内に岸に手は着いていた。
地を触り、実感する。
俺はゆっくりと顔を上げる。そこには。
「指が増えると、自分が人間だって思えるだろう?」
鼻持ちならない声は風に乗って消えていく。彼の魂も煙草の灰のように消えていくのだろう。いや、彼は諦めないだろう。うだうだ言っては、最後に目に光を取り戻す。そんな彼だったからつい声をかけてしまった。
馬鹿な感傷だ。
「そうかい?俺は、特にそんなフウには思えない。単なる現象に過ぎな………い。ん?」
俺は言葉を言い切る前に、腕に痛みを覚え、二の腕を見る。そこには、新しい指が生えていた。
「ああ。なんだ、生きたいんじゃないか」
漏れ出る不適な笑い声。
「なんだ?気持ちの悪い。お前でも笑うんだな?」
「当たり前だろ?気持ちまで醜くくなりたくないだろ?」
「現象なんだろ?」
「それとこれとは別だ」
俺はふと煙草を吸いたくなる。もう吸えないものだ。それにこんな手では、どの指で挟めばいいのやら分からない。
「………お前、透けてるぞ」
男の声に俺は、身体を見る。それはまるで、灰のように体が風に乗っていく。徐々に意識が切り離されていく。
「最後の火が付いたのかもしれない………」
「早かったな………それが最後の遺留品か?」
「そうかもしれない。でも、そうなら嬉しいな……ああ。嬉しいな」
最後の言葉が地に落ちて、俺が消えていく。
でも、悔いはない。
最後まで、貴方を覚えていたから。
猫のような性格も、見た目も、君が好きな場所もすべて覚えていたから、悔いはないんだ。でも、出来るなら、最後に君に僕の気持ちをちゃんと口で伝えたかった。
君は怒ったような真っ赤な顔で、多分その表情とは正反対の言葉をくれたのかもしれない。
それを、目の前で聞きたかった。
それで良かった。
はぁ。すべて消えていく。
この町の風に消えていく。
次はどこの町へ行けるだろう。
「馬鹿です。美月君は馬鹿です」
そう彼女は泣いていた。俺は真っ白い部屋に寝かされており、生かされていることが分かった。
手には仄かに温もりがある。
彼女があまりに泣くので、俺はそっと彼女の頬を拭う。
「ごめん」
彼女は笑っているような、泣いているような形容しがたい顔で、俺の手を握り締めた。
彼女は橘と連絡を取り合い、俺の異変に気がついた。
聞けば、事件のあった日は、朝から死にそうなほど真っ青な顔で家を出ていったことから、あらかた察しはついていたらしい。
しかし、あまりに早く俺と漆原が出会っていたことで、彼女の過去の記憶との差異が生まれて、発見に手間取った。
救急車を呼び、警察を手配したのは橘らしい。あいつには今度、礼を言っておこう。
漆原はすぐに警察に確保された。その後はよくわかっていない。事情聴取なんて、終われば、何も残らなかった。後遺症も残らなかったのは運が良かった。
ただ腹に指されたときの傷が残って、それがある種、俺の過去を証明するものへと変わっていき、やがて風化するだろう。
俺は退院し、また日常へと戻っていく。しかし、気は晴れない。あいつの脅威もなくなったはずなのに、何かが心に残っている。
そんな俺を気遣う桔梗に、罪悪感を覚え、より一層やるせなさを感じる。
「海に浮かんでいたんだ」
それは、ふと口をついて出た。とくに考えてもいなかったのに、話さなくてはいけないと思った。
「?」
彼女が不可解な顔をする。
「違うんだ。本当なんだ。海にいて、家族を見ていた。そうして、黒い海から、這い上がった」
「なんの話?」
「あいつに腹を刺されて、死にそうになった時。走馬燈が頭を過ぎって………それから」
「そうなんですね………」
桔梗が俺の手に自分の手を重ねる。少し冷たい彼女の手は、馬鹿な俺の熱を冷ましてくれている。しかし、俺はボーッとした頭で、未だ言葉を放つ。
「俺は前の過去では自殺したんだ。」
「………はい」
彼女は優しく、小さく頷いた。
脈絡のない俺の言葉を彼女は静かに聞いている。
「俺は自分が許せなくて自殺したんだ。でも、違う。逃げたかったのかもしれない。弱くて情けない奴なんだ。自分からも、日常からも何からも逃げたかったんだ」
「そうですか………」
「ああ。黒い海に身を投げて死んだんだ。馬鹿げてるだろう。笑ってもいい………それでも、最後に生きていて、今、こうして生きながらえている」
「それは悪いことなんですか?」
桔梗の鋭利な声音が、空気を裂く。
「悪い………か。悪いんじゃないかな。誰にっていうよりも自分に」
「それは………生きていけないくらい悪いことなんですか?」
また死にそうな顔をしていたのだろう。桔梗は眉を顰めて、厳かに言う。
「………過去の俺はそう思っていたんだろう」
少しの自嘲気味な笑みが、空気に相反するように残る。静かな室内に、乾いた笑い声は白布についた黒いシミのようだ。
「何を他人事のように………美月君のことですよ。美月君は私たちと出会って、それを全て否定するんですか?………橘君も美月君のことを思って駆け付けてくれたんです。それもすべて否定するんですか?………過去の私も、今の私も貴方を好きです。それでは駄目ですか?………それは言葉では言い表せないですけど、好きとか嫌いとか、幸せとか、悲しいとか、それもすべて生きているからですよ。別になんてことはないかもしれないですけど、そういうことなんです。意味なんて必要ですか?理屈が必要ですか?生きることに、理由が必要ですか?」
彼女は淡々と言葉を上げ連ねる。
そこに余裕は感じられない。俺は何かを探しているわけでもない。ただボーッと生きて、抗っていた。そこに何かを見出したいのか?生きていて嬉しい。彼女が待っていてくれて、嬉しかったではだめなのか?
何故にうだうだ愚痴を吐いて、気を落ち着かせているのか。
「なんで、素直に生きていてよかったって言えないんですか?………私も五月も貴方を待っていたんですよ」
彼女が耐え切れず、涙を流す。
静まり返った部屋に、彼女の涙が一つ。
ああ。生きていてよかった。………そうか。彼女に言って欲しかった。生きていてよかったって。ただ今までの自分を肯定してほしかった。
過去の自分を自分で否定していたから、今の自分を見て、肯定してほしかった。黒い海へ自殺することから、すべてを捨ててきた自分を認めたかったし、否定する人生に疲れていたんだ。鬱屈とした気持ちはすべてそこにあった。
情けなく、虫の良い話なのは百も承知である。間違っている部分も、悪い部分も、すべて無視して、ただ良いと言って欲しかったんだ。
「そうか。………結局、自分で自分を許して、誰かに必要とされたかった」
「ええ。私が必要としています」
「俺は………よかったよ。君と出会えて良かったよ。死んでも君と出会えて良かったよ。君が飲み会に来てくれてよかった。結婚してくれて、良かった。………二度目も君と出会えて俺は嬉しかったんだ。それを伝えたかったんだ」
当たり前のことを口に出すだけで、涙は漏れ出て、吐息は震えている。
「なぁ。冬になったら海を見に行こう。五月と三人で。それは寒いし……冷たくて入れないさ。でも、何故か無性に見に行きたいんだ」
「何でですか?」
「骨を拾いに?馬鹿な感傷に浸るため?………多分、違う。好きだから行きたいんだ。後は本当に冷たくて嫌になるか確かめるために」
「………急に美月君の言っていることが分からなくなりました」
桔梗は少し笑うと、不思議そうな顔をした。
「ほら。今は冬だから………海を見て、桔梗の実家にでも寄って。それからこの町を出よう」
桔梗はゆっくりとこちらを見る。
そうして、微笑むと、首肯する。
「………もういいんですか?」
俺は、目を閉じて、一度思案し、そうして口を開く。
「ああ。もう大丈夫だ」
五月が「冷たい!!」とはしゃぎながら、海の水を蹴っている。
それを、止める桔梗は、どこかすっきりとした顔で、こちらに手を振る。俺も手を振り返して、ふと空を見る。
月は出ていない。ただ、冷たい風が頬を撫でつけて、誘惑する。俺は少し笑うと家族の下へと駆け寄った。
海に行った帰り道、俺たちは桔梗の家に向かった。
あのアルストロメリアの花はまだあるだろうか。俺はそんなことを思いながら、彼女の実家に行き、彼女の母に町を出ることを告げた。
そうして、ピンクの花を背に、彼女の家を出た。
町を出る日に、電車に乗ったタイミングで携帯に橘から、「旅の幸運を願う」とメッセージがきた。
彼が病院にいる俺の見舞いに来た時にしか彼とは顔を合わせていない。別れの挨拶は、この手中の携帯のみで行った。
しかし、彼からのメッセージが、その坦々とした言葉が、またすぐに会えるような気にさせる。
小西も似たようなメッセージを送ってきた。
皆、俺の事を気にかけ、こちらもそれに応える。過去ではなく、現在の話だ。
街が遠ざかっていく。
徐々に遠ざかっていく。
車窓から見える風景はすぐに、一変する。
ああ。過ぎ去っていく。もう巻き戻ることはない。これから先、こんな感傷は一生取り戻せない。
本当に駄目な自分も、鬱屈とした毎日も、死にたくなるほど辟易した朝も、多分取り戻せない。黒い海を見ることはもうない。
酷く長い道をひた走って、後ろを見たときには、すべてに色がついていて眩しくなる。灰色の過去が見れなくなっている。
それは喜ばしいことであり、悲しいことだ。
隣に座っている桔梗が五月をあやしながら、こちらを見る。
「そういえば、橘くんは最近、誠ちゃんと一緒に出掛けたりしているらしいです」
「それを今、言うのかよ?」
急な報告に俺は苦笑いで答える。
「美月君が入院してて、お見舞いに来た時に偶然会ったらしいです」
「………ま、人生色々あるわな」
「なんですか?それ。アニメの台詞みたいです」
桔梗が笑うと、五月もはにかんだ。
俺は車窓から見える景色を、ただ漠然とした期待と不安が入り混じった気持ちで眺める。そうして、ため息一つ。
これから長い長い道が続いていて、もう見えることはない。既視感なんて皆無だ。それが少し怖いのかもしれない。
「おひっこし!どんなところ?」
五月が俺に問う。その顔は期待に胸を膨らませて、突き進む純粋無垢な子供の顔。
「多分、何もないところだよ。町があって、人がいて、暮らしがある。どこも変わらないさ」
五月は困ったような顔で、こちらを見る。桔梗はそれを静かに見守っていた。
「だから探してみるんだ。五月の楽しい事を。案外見つかるもんさ。…そうして、いつか自分の足で前の町に帰ってみれば、違うものが見つかるかもな」
「どういうこと?」
五月は首を傾げる。
「過去には戻れないけど、過去を見ることは出来る…前の家は好きだったか?」
「ん?…………うん!好き!楽しかった!」
真っ直ぐな答えに、こちらも嬉しくなる。
「そっか。………お、次の町が見えてきた」
駅に着くと、五月が電車を勢いよく飛び出す。
俺はそれを見ながら、ふと電車に忘れ物がないか席を見た。
何も無い席に光がかかり、眩しさに目を伏せる。
その時、桔梗が優しく俺の手を握りしめた。
「行こうか」
「はい」
俺は彼女の手を握りしめ、電車を降りた。
それが自分の命の灯だと、思って手を伸ばす。もう届かないだろう。手は空を切るだろう。
しかし、未だ生を渇望するその意思が、前を向いて、手を動かすのだ。
あいつの言葉が頭の中に残っている。
分かっていることを何度も言い直してきやがる。鬱陶しく、辟易する。分かっているんだ。桔梗が、家で帰ってくるはずのない俺を待っていて。もしかしたら五月は俺が帰ってこないことさえ認識できないまま大人になるかもしれない。
そうして待つ家族が何度も頭を過ぎる。しかし、俺はここに来て、案の定帰れなくなった。涙は出ない。
しかし、どうしようもないと吐き捨てることが出来ない。それほど、大切なものだ。それが再認識でき、自分の生きてきた道も捨てたもんじゃないとため息をつきたくなる。
根本的に粗野に、粗雑に生きてきた。
そんな俺が、真っ直ぐだった俺が、社会に揉まれて、先が折れ曲がってしまった。そうして過去を見て、また折れ曲がり、それは前を向く。輪を描いて前を向くのか。
ああ。阿呆なポエムのようだが、この鬱屈とした心は熱を持って、頭を沸かす。そうした日々の憂鬱も、この窮地も、すべてが嫌になっても、なお待っていてくれる場所はどこだろう。
手は少しの間、光に向かい、そして地に降りていく。
そのまま、意識は飛んでいくのだろう。
ああ。
さようなら。桔梗。五月。
さようなら。
過去の俺。
これでやっとお別れだ。
さぁ。次はSF映画みたいなタイムワープなんてものに巻き込まれない人生であってほしいと願う自分。今まで幸せだったし、まぁ総括すると良い人生だったと達観した自分。
おそらく後者であろう。
そういうことにしておこう。
一向に手が地面につかない。
目には光が瞬いて、しばしの暗転。
手は未だ、宙にあるのか?いや、違う。なんだろう。この安心感は。冷たい冬の海に漂っていたみたいにシンと静まり返った地の底に、一つの光が見える。とすると、手は火が付いたように温かい。
家族のような温かさ。過去の幸せのすべてが詰まったような温かさ。
よかった。案外、地獄も悪くない。
こんなに気持ちが良いのだ。
光は徐々に形を帯びていき、一人の女性になった。それは俺が一番好きな女性であった。
「なん………だ。地獄にも綺麗な……女性がいる……もんだ」
彼女が叫んでいる。
不意に現れた赤い光が交錯する中、彼女の声が聞こえる。泣き叫ぶ声はやがて喜びの声に変わる。
「死なせない。死なせない。絶対に死なせない」
彼女からは聞いたこともないような、けたたましい叫び声が、耳朶を打つ。
リフレインする言葉の海に漂って、その声の主の温もりに触れる。
何故だか、泣けてきた。
なんだ。ちゃんと生きたいと泣けるじゃないか。ちゃんと生きているじゃないか。
そんな声が頭上から降ってきた気がした。
温もりが去った後も涙は止まらず、ただ黒い海に漂って、前へと手を動かす。なんとか地に着かなくてはいけない。
黒い海に力を無くして、浮かんでいるのはさぞ楽であろう。しかし、俺は行かなくてはならない。
持てる力のすべてを使って、岸へと向かうのだ。動かないではない。ここで手を動かさねば、自分など人間ではない。
岸には彼女がいて、五月もいて俺を待ってくれている。
がむしゃらに手を動かして、月に背を向けて、やがて前へと泳ぎ進める。
俺を邪魔する波も、月の光も、今では見えない。ただ、目の前の彼女だけが見える。もうすぐ着く。
空も海も黒くて深い。
俺は何度もめげそうになる心を前に向かせて、がむしゃらに手を動かした。
とすると、知らない内に岸に手は着いていた。
地を触り、実感する。
俺はゆっくりと顔を上げる。そこには。
「指が増えると、自分が人間だって思えるだろう?」
鼻持ちならない声は風に乗って消えていく。彼の魂も煙草の灰のように消えていくのだろう。いや、彼は諦めないだろう。うだうだ言っては、最後に目に光を取り戻す。そんな彼だったからつい声をかけてしまった。
馬鹿な感傷だ。
「そうかい?俺は、特にそんなフウには思えない。単なる現象に過ぎな………い。ん?」
俺は言葉を言い切る前に、腕に痛みを覚え、二の腕を見る。そこには、新しい指が生えていた。
「ああ。なんだ、生きたいんじゃないか」
漏れ出る不適な笑い声。
「なんだ?気持ちの悪い。お前でも笑うんだな?」
「当たり前だろ?気持ちまで醜くくなりたくないだろ?」
「現象なんだろ?」
「それとこれとは別だ」
俺はふと煙草を吸いたくなる。もう吸えないものだ。それにこんな手では、どの指で挟めばいいのやら分からない。
「………お前、透けてるぞ」
男の声に俺は、身体を見る。それはまるで、灰のように体が風に乗っていく。徐々に意識が切り離されていく。
「最後の火が付いたのかもしれない………」
「早かったな………それが最後の遺留品か?」
「そうかもしれない。でも、そうなら嬉しいな……ああ。嬉しいな」
最後の言葉が地に落ちて、俺が消えていく。
でも、悔いはない。
最後まで、貴方を覚えていたから。
猫のような性格も、見た目も、君が好きな場所もすべて覚えていたから、悔いはないんだ。でも、出来るなら、最後に君に僕の気持ちをちゃんと口で伝えたかった。
君は怒ったような真っ赤な顔で、多分その表情とは正反対の言葉をくれたのかもしれない。
それを、目の前で聞きたかった。
それで良かった。
はぁ。すべて消えていく。
この町の風に消えていく。
次はどこの町へ行けるだろう。
「馬鹿です。美月君は馬鹿です」
そう彼女は泣いていた。俺は真っ白い部屋に寝かされており、生かされていることが分かった。
手には仄かに温もりがある。
彼女があまりに泣くので、俺はそっと彼女の頬を拭う。
「ごめん」
彼女は笑っているような、泣いているような形容しがたい顔で、俺の手を握り締めた。
彼女は橘と連絡を取り合い、俺の異変に気がついた。
聞けば、事件のあった日は、朝から死にそうなほど真っ青な顔で家を出ていったことから、あらかた察しはついていたらしい。
しかし、あまりに早く俺と漆原が出会っていたことで、彼女の過去の記憶との差異が生まれて、発見に手間取った。
救急車を呼び、警察を手配したのは橘らしい。あいつには今度、礼を言っておこう。
漆原はすぐに警察に確保された。その後はよくわかっていない。事情聴取なんて、終われば、何も残らなかった。後遺症も残らなかったのは運が良かった。
ただ腹に指されたときの傷が残って、それがある種、俺の過去を証明するものへと変わっていき、やがて風化するだろう。
俺は退院し、また日常へと戻っていく。しかし、気は晴れない。あいつの脅威もなくなったはずなのに、何かが心に残っている。
そんな俺を気遣う桔梗に、罪悪感を覚え、より一層やるせなさを感じる。
「海に浮かんでいたんだ」
それは、ふと口をついて出た。とくに考えてもいなかったのに、話さなくてはいけないと思った。
「?」
彼女が不可解な顔をする。
「違うんだ。本当なんだ。海にいて、家族を見ていた。そうして、黒い海から、這い上がった」
「なんの話?」
「あいつに腹を刺されて、死にそうになった時。走馬燈が頭を過ぎって………それから」
「そうなんですね………」
桔梗が俺の手に自分の手を重ねる。少し冷たい彼女の手は、馬鹿な俺の熱を冷ましてくれている。しかし、俺はボーッとした頭で、未だ言葉を放つ。
「俺は前の過去では自殺したんだ。」
「………はい」
彼女は優しく、小さく頷いた。
脈絡のない俺の言葉を彼女は静かに聞いている。
「俺は自分が許せなくて自殺したんだ。でも、違う。逃げたかったのかもしれない。弱くて情けない奴なんだ。自分からも、日常からも何からも逃げたかったんだ」
「そうですか………」
「ああ。黒い海に身を投げて死んだんだ。馬鹿げてるだろう。笑ってもいい………それでも、最後に生きていて、今、こうして生きながらえている」
「それは悪いことなんですか?」
桔梗の鋭利な声音が、空気を裂く。
「悪い………か。悪いんじゃないかな。誰にっていうよりも自分に」
「それは………生きていけないくらい悪いことなんですか?」
また死にそうな顔をしていたのだろう。桔梗は眉を顰めて、厳かに言う。
「………過去の俺はそう思っていたんだろう」
少しの自嘲気味な笑みが、空気に相反するように残る。静かな室内に、乾いた笑い声は白布についた黒いシミのようだ。
「何を他人事のように………美月君のことですよ。美月君は私たちと出会って、それを全て否定するんですか?………橘君も美月君のことを思って駆け付けてくれたんです。それもすべて否定するんですか?………過去の私も、今の私も貴方を好きです。それでは駄目ですか?………それは言葉では言い表せないですけど、好きとか嫌いとか、幸せとか、悲しいとか、それもすべて生きているからですよ。別になんてことはないかもしれないですけど、そういうことなんです。意味なんて必要ですか?理屈が必要ですか?生きることに、理由が必要ですか?」
彼女は淡々と言葉を上げ連ねる。
そこに余裕は感じられない。俺は何かを探しているわけでもない。ただボーッと生きて、抗っていた。そこに何かを見出したいのか?生きていて嬉しい。彼女が待っていてくれて、嬉しかったではだめなのか?
何故にうだうだ愚痴を吐いて、気を落ち着かせているのか。
「なんで、素直に生きていてよかったって言えないんですか?………私も五月も貴方を待っていたんですよ」
彼女が耐え切れず、涙を流す。
静まり返った部屋に、彼女の涙が一つ。
ああ。生きていてよかった。………そうか。彼女に言って欲しかった。生きていてよかったって。ただ今までの自分を肯定してほしかった。
過去の自分を自分で否定していたから、今の自分を見て、肯定してほしかった。黒い海へ自殺することから、すべてを捨ててきた自分を認めたかったし、否定する人生に疲れていたんだ。鬱屈とした気持ちはすべてそこにあった。
情けなく、虫の良い話なのは百も承知である。間違っている部分も、悪い部分も、すべて無視して、ただ良いと言って欲しかったんだ。
「そうか。………結局、自分で自分を許して、誰かに必要とされたかった」
「ええ。私が必要としています」
「俺は………よかったよ。君と出会えて良かったよ。死んでも君と出会えて良かったよ。君が飲み会に来てくれてよかった。結婚してくれて、良かった。………二度目も君と出会えて俺は嬉しかったんだ。それを伝えたかったんだ」
当たり前のことを口に出すだけで、涙は漏れ出て、吐息は震えている。
「なぁ。冬になったら海を見に行こう。五月と三人で。それは寒いし……冷たくて入れないさ。でも、何故か無性に見に行きたいんだ」
「何でですか?」
「骨を拾いに?馬鹿な感傷に浸るため?………多分、違う。好きだから行きたいんだ。後は本当に冷たくて嫌になるか確かめるために」
「………急に美月君の言っていることが分からなくなりました」
桔梗は少し笑うと、不思議そうな顔をした。
「ほら。今は冬だから………海を見て、桔梗の実家にでも寄って。それからこの町を出よう」
桔梗はゆっくりとこちらを見る。
そうして、微笑むと、首肯する。
「………もういいんですか?」
俺は、目を閉じて、一度思案し、そうして口を開く。
「ああ。もう大丈夫だ」
五月が「冷たい!!」とはしゃぎながら、海の水を蹴っている。
それを、止める桔梗は、どこかすっきりとした顔で、こちらに手を振る。俺も手を振り返して、ふと空を見る。
月は出ていない。ただ、冷たい風が頬を撫でつけて、誘惑する。俺は少し笑うと家族の下へと駆け寄った。
海に行った帰り道、俺たちは桔梗の家に向かった。
あのアルストロメリアの花はまだあるだろうか。俺はそんなことを思いながら、彼女の実家に行き、彼女の母に町を出ることを告げた。
そうして、ピンクの花を背に、彼女の家を出た。
町を出る日に、電車に乗ったタイミングで携帯に橘から、「旅の幸運を願う」とメッセージがきた。
彼が病院にいる俺の見舞いに来た時にしか彼とは顔を合わせていない。別れの挨拶は、この手中の携帯のみで行った。
しかし、彼からのメッセージが、その坦々とした言葉が、またすぐに会えるような気にさせる。
小西も似たようなメッセージを送ってきた。
皆、俺の事を気にかけ、こちらもそれに応える。過去ではなく、現在の話だ。
街が遠ざかっていく。
徐々に遠ざかっていく。
車窓から見える風景はすぐに、一変する。
ああ。過ぎ去っていく。もう巻き戻ることはない。これから先、こんな感傷は一生取り戻せない。
本当に駄目な自分も、鬱屈とした毎日も、死にたくなるほど辟易した朝も、多分取り戻せない。黒い海を見ることはもうない。
酷く長い道をひた走って、後ろを見たときには、すべてに色がついていて眩しくなる。灰色の過去が見れなくなっている。
それは喜ばしいことであり、悲しいことだ。
隣に座っている桔梗が五月をあやしながら、こちらを見る。
「そういえば、橘くんは最近、誠ちゃんと一緒に出掛けたりしているらしいです」
「それを今、言うのかよ?」
急な報告に俺は苦笑いで答える。
「美月君が入院してて、お見舞いに来た時に偶然会ったらしいです」
「………ま、人生色々あるわな」
「なんですか?それ。アニメの台詞みたいです」
桔梗が笑うと、五月もはにかんだ。
俺は車窓から見える景色を、ただ漠然とした期待と不安が入り混じった気持ちで眺める。そうして、ため息一つ。
これから長い長い道が続いていて、もう見えることはない。既視感なんて皆無だ。それが少し怖いのかもしれない。
「おひっこし!どんなところ?」
五月が俺に問う。その顔は期待に胸を膨らませて、突き進む純粋無垢な子供の顔。
「多分、何もないところだよ。町があって、人がいて、暮らしがある。どこも変わらないさ」
五月は困ったような顔で、こちらを見る。桔梗はそれを静かに見守っていた。
「だから探してみるんだ。五月の楽しい事を。案外見つかるもんさ。…そうして、いつか自分の足で前の町に帰ってみれば、違うものが見つかるかもな」
「どういうこと?」
五月は首を傾げる。
「過去には戻れないけど、過去を見ることは出来る…前の家は好きだったか?」
「ん?…………うん!好き!楽しかった!」
真っ直ぐな答えに、こちらも嬉しくなる。
「そっか。………お、次の町が見えてきた」
駅に着くと、五月が電車を勢いよく飛び出す。
俺はそれを見ながら、ふと電車に忘れ物がないか席を見た。
何も無い席に光がかかり、眩しさに目を伏せる。
その時、桔梗が優しく俺の手を握りしめた。
「行こうか」
「はい」
俺は彼女の手を握りしめ、電車を降りた。
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