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 さいきん、やたらと目が霞む。PCの見過ぎで目が疲れたのかと思って、ストレッチや目薬を追加してもいっこうによくならないので、もしかしたら、単に加齢かもしれない。特に、黒点が視界をよぎることがよくある。そう話すと、同じ課の保健師が眉をひそめた。

飛蚊症ひぶんしょうじゃない? 他には? 視野は欠けてない? とにかく早めに一度、眼科にかかって眼底検査受けておきなさいよ」

 化け物がみえるのも眼科で治らないかなあ。わりと切実に考えながら仕事していると、窓の外をやっぱり黒いものが過ぎていく。むこうの建物の外壁が白いから目立つのだろう。
 
 派遣職員にも有給が無いことはないが、日数は少ない。仕事や育児に追われる現役世代が平日の日中に医者にかかるのは、けっこうハードルが高い。まぁ、保健師に言われたのに後回しにして手遅れ、なんて洒落にもならないので、タツコさんと分担の調整をしようとしたところ、めずらしく、タツコさんはよそ見をしていた。

 ガッツリ横を向いて、窓の外を見つめる。その視線をたどって、建物の外壁に染みのような黒いものが落ちていくのにうんざりする。

「またかよ」
「ああ、まただ」

 ひとりごとに返事をされて、ことばに詰まる。タツコさんはこちらを振り向いて、それからまわりを窺った。

「昼休みに、見に行ってみないか?」
「何をですか?」
「あの黒いのを、だ」

 えっ、あれ、飛蚊症じゃないんだ。
 驚きが顔に出たのだろう。タツコさんは、声を低くした。

「君とわたしにだけ視えるなら、正体はひとつだろう?」
「放っておいちゃダメなんですか?」
「正直に言って、この頻度で視えるのはさすがに鬱陶しくないか? それに、何か気になる」

 言う間に、再度、黒いものが落ちていく。確かに鬱陶しいこと、この上ない。「破ァ」で退治していただけるなら、そのほうが仕事に集中できそうだった。

 昼休みの約束をして、なるべく窓のほうを見ないように意識して、どうにか最低限の業務を終える。残りは午後に持ち越しだ。ソワソワしながら食事を済ませ、食器を洗うなり、タツコさんと連れ立って、庁舎の外に出た。

「あれ、石田マンションですよね?」
「たぶん。ひとまず県道を渡るか」

 石田マンションは、この分庁舎と県道を挟んで向かいに建つ七階建ての古い集合住宅だ。意外と人気なのか、どの窓にも常に洗濯物が揺れていて、空室は見当たらない。おそらく、元々事故物件というワケではないのだ。地元民としても、この建物にそうしたいわくつきであるとのうわさは聞いたことがなかった。

 近づいてみても、何の変哲もないただのマンションだ。白い外壁もきちんと手を入れてあり、黒ずんだり剥げたりはしていない。至ってきれいなものだ。──ただし、何か黒いものが何度も繰り返し落ちてさえ来なければ。

 目が慣れてくると、黒いものの大きさがわかってくる。ひとかかえの黒いかたまり。いかにも柔らかそうな。

「ネコ?」

 黒いネコだ。真っ逆さまに、びっくり! の顔のまま、ネコが落ちてくる。ピンクの首輪が見える。

「七階だ」

 そう言ったのは、タツコさんだ。意味を聞くまでもなかった。俺は、空を仰ぐように7階のベランダを見上げた。何分かに一度、不意に七階のとある部屋の手すりを乗り越えて、地面とほぼ垂直に、ネコは落ちてくる。

「右の部屋、ですね」

 見たままに言った俺を置いて、タツコさんは建物に近づいた。入口に向かうのかと思いきや、そのまま、ベランダの真下にある生垣をかき分ける。何歩か踏み込んでいったかと思うと、動きが止まった。

 タツコさんの脇から、手元を覗き込む。血濡れた小さな黒いかたまりが、日陰で剥げた芝生のうえに丸まっている。死体か。息を呑んだ、そのときだ。

 ピクリと、ヒゲが動いた。

「生きてる!」

 思わずほとばしった俺の叫びに、今度は三角の耳が反応する。目は開かないが、ネコは確実に、まだ生きていた。

 そこから先は、必死だった。打ち合わせもなかった。俺はエレベータのないマンションの7階まで駆け上がり、該当の部屋のインターフォンを鳴らした。出てきた家主に状況を説明し、ネコのもとまで連れていく。タツコさんは、着ていた上着をためらいなく脱いで、傷だらけのネコをくるみ、抱き上げていた。

「チョビちゃん!!」

 家主の泣きそうな声に、ネコはうっすらと目を開ける。タツコさんから受け渡されたネコは、飼い主の腕のなかで、少しほっとしたようすだった。

 動物病院に行くと言う飼い主とネコを見送って、分庁舎への帰路をたどる。俺たちはずっと、ひとを脅かす怪異にばかりであってきた気がするけれど、こういう人助け(ネコ助け?)的なものなら、別に視えていても構わないかもな、なんて、都合のいいことを思った。

 タツコさんはしばらくして振り返り、石田マンションを見た。外壁に沿って落ちる黒い影は、無くなっている。

「影だけが残らなくてよかった」

 心配するところ、そこですか?
 ネコの容態を案ずるでもなく、どんなときでも平常運転なタツコさんにやや呆れはしたものの、何かが視えること、常に視え続けることというのは、案外そういうものなのかもしれない。

「残ったら残ったで、ミヤコちゃんに心霊写真撮ってもらえばいいじゃないですか」

 軽口で返すと、タツコさんは怒りもせずにカラッと笑った。
 こんなふうに何もかもをあるがまま受け入れられるだなんて、寺生まれってホントにすごい。
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