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八幡さまの思し召し
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さきごろ還暦をむかえたばかりの父が倒れたのは、年の暮れも押し詰まったころだ。三十日、職場で仕事納めの仕出し弁当をつついているときに母から報せがあった。廊下へ出て電話に出ると、単なる過労だと思うけれどと母は前置きし、父が実家近くの病院へ入院したことを告げた。
私は、妻にこのことを伝えるべきか迷った。見舞うなら、私ひとりか、家族全員かの二択だ。冬休み中の子どもたちを連れていけば、母は喜ぶが、妻の負担になるだろう。
まずは妹に相談をと思って送った通話アプリの返信には、緊迫感がまるで無かった。『正月明けには顔を見に行こうかな』程度の妹の口ぶりに、つい、自分までのんきに構えて、私はその日を定時まで勤め上げた。
帰宅して、妹と同じ調子で軽く妻に報告をすると、いまにも夕食の配膳をしようとしていた彼女は、血相を変えた。
「何をたわけたこと言っとるの! 急いで帰りゃあ、いますぐ!」
子どもたちがぽかんとしている傍で、寝室のクローゼットから旅行カバンを取り出してくるや、私の着替えやら洗顔用品やらを詰めはじめる。
「ママぁ、どこか出かけるの?」
「パパが鎌倉のおじいちゃんのところに行くのよ」
「えー? まみも行きたぁい」
「大事なご用事で行くのよ、遊びにいくのではないの。行きたければ、パパのご用事がすんでから、ママが連れていってあげる」
長女がごねる脇で手もとめずに、彼女はぴしゃりと反論を封じた。そして、ぼんやりしている私に鋭く指示を飛ばし、子どもたちにやさしく声をかける。
「新幹線の時刻を調べて、切符買って! 車に乗るから、靴を履きなさい」
名古屋駅まで車で送ってくれるらしい。私が仕事着を脱ぎ、出かける服装になる。出かけるまで、十分も無かった。駅までの車中で新幹線のチケットをウェブ購入し、新幹線に飛び乗る。
どうやら、寒気を連れて帰郷したらしい。十時過ぎに鎌倉駅に着くと、雪でも降りそうな冷え込み具合だった。実家は、駅からさほど遠くない。鶴岡八幡宮の参道近くの商店街、小町通りのなかにある。八幡宮の参拝は午後五時で締め切られるので、商店街の客足はそのあたりを境にパタリと止んで、人通りもまばらになる。いまの時間帯に通りを歩くのは、地元民ばかりだろう。
うちは、百四十余年続く酒屋だ。細々と地元向けの商いをしている。いわゆる商家建築の店構えが古めかしいので、観光客もたまに入っては来るが、地元の特産品を置くわけでもない酒屋に長居はしない。
この夜中だ。表の店側の引き戸には、鍵がかかっている。隣の建物との隙間に、からだを横にして入りこみ、勝手口の鍵を開ける。
「ただいま!」
奥へ声をかけながら入ると、廊下の電灯が点いた。
「あらっ! やだ、帰ってくるなら、昼のうちに連絡をよこせばいいのに!」
口では文句を言いつつも、寒かったでしょうと、笑顔で私の腕を撫で、パジャマ姿の母は私を居間に押し込んだ。
「お夕飯は? 食べたの?」
「新幹線のなかで弁当食ったよ」
コートを脱ぎ、ここに至る顛末を話すと、母は「そう、真紀さんが」と妻の名をつぶやいて、ほんのりと微笑んだ。
「明子は、正月明けに来るつもりみたいだった」
「あの子は、むこうのお宅のご都合もあるでしょうしね」
嫁ぎ先の事情というよりは、妹当人の危機感のなさだと思ったが、言わずにおいた。急ぎ用意された布団に寝転がり、古い天井を見つめると、帰ってきたという実感がじわじわと湧いた。
「高校なんざ行かなくたって、立派に店が継げる」というのが父の口癖で、実際、父は中卒だ。この話が始まると、母は決まって、父の膝をちょんと指先で叩き、困ったように笑っていた。
「わたしたちのときとは時代が違いますよ。学があれば、店だって、もっとよくできるかもしれないじゃないの」
私も妹も高校へ行き、地元からは遠い大学へ進んだ。就職先には、大学の近くの会社を選んだ。酒屋を継ぐ話は、一度だってしてこなかった。
父が倒れたいまになって、だれも酒屋を継がないということは、この家が無くなるということなのだと気づいたが、父の病状はどうあれ、手遅れかもしれなかった。
父の入院する病院は、参道を下った先にある個人病院だった。うちからは、参道と車道を挟んで向こう側にあたるが、この参道は横切れる場所がかなり限られている。鶴岡八幡宮の大鳥居のほうに大回りをしてを渡っていこうと決めて、散歩がてら、母とのんびりと歩きだした。
面会のはじまる前の午前中のうちに、見舞いの品として、新しい詰め将棋の本を買い求めてある。大仰な果物の籠などよりは、こちらのほうが父も喜ぶだろう。
いまはどうか知らないが、私の子どものころ、八幡宮はこのあたりの子どもの格好の遊び場だった。源平池で亀を捕り、太鼓橋のてっぺんにだれがいちばんによじ登れるかを競ったものだ。
目を細めていると、母が同じように八幡宮の境内へ顔をむけ、ふふ……っと笑った。
「あなたはよく、八幡宮の方から叱られていたわねえ。挙げ句には名前を知られて、小学校の先生を通して、何遍もお小言をいただいたものよ?」
「ここいらの子はみんな、同じようなもんでしょ?」
「明子は違ったわよ」
それは男女の差だ。何かにつけ、明子の肩を持つ母に閉口し、私は病院のドアをくぐった。
父のいる病室は四人部屋で、ほかは高齢者ばかりだった。といっても、父も六十は超えている。今回のことだって、過労というよりは加齢だろう。
「何も、飛んで帰ってくるほどの大病じゃない。大袈裟にするなと言ったろう」
後半は母に向けて言い、父は終始、仏頂面だった。入院と言っても、できる治療は安静と点滴くらいのものだが、一週間は病院で過ごすことになるらしい。
「あら、まあ。それじゃあ、退院は三が日を過ぎてしまうじゃないの」
「もっとだ。四日五日は土日だろう。明けて月曜日にならないと、医者がいなくて退院許可を出してもらえないそうだ」
淡々と、しかし、不機嫌そうに言った父は、少し目を伏せ、私の膝元を見た。
「……店の冷蔵庫に奉納する酒の用意がある。三が日に間に合わないんじゃあ、みっともないから」
「代わりに、八幡さまへ納めておけばいいのね?」
母は優しい口調で確認をして、私を見上げた。請け負えと、目が促す。
「初詣のとき、親父のかわりに納めておくよ」
久しぶりに口にした『親父』の呼びかけに、舌が慣れない。
父は満足したように大きく息を吐き、眠いと言って、早々に私たちを追い返した。
二年参りをしようと思い立ったのは、午後十一時過ぎだ。母は早々に寝付いた。ひとりで年越しを待ち、お笑い番組を見ていたが、なんとなく気が急いた。
店へ降り、奉納の熨斗の付いた一升瓶を二本取ってくる。棚から風呂敷を出し、くるくるっと包んで用意をして、部屋着のうえにセーターを着て、コートを羽織る。
昨晩があれほど冷えたのだ。いまは、もっと寒いかもしれない。昨日慌てて自宅を出たせいで、マフラーや手袋の持ち合わせはない。母が寝る前に聞いておけばよかったなと悔やんだが、年明けまでに、あまり時間も残っていない。捜し物をする暇はなさそうだ。
子どものいなかったときには、妻とふたりで夜中に初詣をすることもあったが、近年はご無沙汰だ。新鮮な気持ちで外へ出ると、夜空から、ちらつくものがあった。
思わず息をのむ。寒さにひりつく頬をこすりながら、写真を撮って妻に送る。ようすはどうかと尋ねると、「雪! そっちは寒いんだね」「子どもたちはもう寝たよ、ひとりでテレビ見てる」と、立て続けに返答があった。
苦労をかけて済まないなと思ったが、そう言えば、妻は怒るだろう。こんなもの、苦労でもなんでもないと。
数年前、母がそれとなく同居話を打診してきた。
私も妻も名古屋で仕事をしていたし、関東に転勤先のあるような大きな会社に勤めているワケではなかった。これは、言外に酒屋を継げという話だと察したし、ちょうど長女が小学校に上がったばかりで、タイミングの悪いこと、この上なかった。
だが、断るには理由が必要だ。
夫婦で話し合いの場を持ちながらも押し黙る私の気持ちを察したか、諦めたか、妻は「あたしが嫌がってるって伝えなよ」と言い、それきり鎌倉には顔を見せなくなった。悪者を買って出てくれたのだ。それだというのに、なぜ酒屋を継ぎたくなかったのかをまだ、妻には話せていなかった。
鼻先が冷たくなってきた。気温が低いせいか、雪は地面をうっすらと覆いはじめている。
大鳥居のむこうに、明るい本殿を見て、まばらに歩くひとを目で追い、重たい一升瓶を持ち替える。かじかんだ手は、風呂敷に擦れて真っ赤になっていた。握って開いて、体温を取り戻そうと試みつつ、石の太鼓橋に足をかける。
てっぺんにたどり着くと、子どものころとずいぶんと見える景色が違った。広々とした源平池も、あのころはもっと広大な海のように感じていたし、社殿はずっと遠く、高い山のうえにあると思っていた。何より、この太鼓橋はひどい急勾配のはずで、仲間みんなで手を突いて登っていたものだ。
つい、笑みを漏らしながら一歩踏み出したとたんのことだ。気を抜いていたせいだろう。私は、つるん、と、盛大に足を滑らせた。
ガシャンと瓶ものの割れる音に、やったか! と、背筋が冷えた。胸に抱えていたはずの奉納酒はと思ったが、仰向けに倒れた腹のうえに、あるべき重みはやはり無い。
からだを起こそうとして、空が真っ白に明るいことに、ぽかんとする。真夜中だったはずだ。どういうことだ? 空を見上げる額に雪が降りかかり、次いで、父の顔が覗いた。
「だから言わんこっちゃない! 抱っこしてやるって言ったじゃねえか!」
怒鳴りながら、父は軽々と私を抱き上げる。首にしがみつくと、着物にショールを羽織った母が参道にしゃがんで、風呂敷包みをまとめているのが父の肩越しに見えた。
「あんまり大声を出さないでちょうだいな。……あなた、いきなりお酒を放り出すんだもの、びっくりしましたよ」
「いま、酒なんかどうでもいいだろ。転んだんだぞ」
「酒屋が何をおっしゃいますか。それにね、放っておいたら、お邪魔でしょ」
石畳には、黒々と染みが広がっている。カチャンカチャンと音を立てながら、しずくの垂れる風呂敷を参道の脇へやって、あとで持って帰ればいいわねと、母は鷹揚に笑った。
「頭を打たなかった? 泣かなくて偉いわ」
頬を撫でられ、見下ろした母の若さに驚く。
どうも、いつかの正月の夢を見ているようだ。社殿の脇に書かれた年号は、三十年近く前のものだった。
母に五円玉を握らされ、父に脇を抱えられて賽銭を入れ、見よう見まねで柏手を打つ。一生懸命な私の耳元で、父が囁く。
「いいか、八幡さまに届くように、名前を言って、目を閉じて南無南無するんだ」
「南無南無じゃあ、お寺ですよ」
母が笑う。照れくさそうに言いかえす父をよそに、私は手を合わせ、目を閉じた。
ふたたび目を開くと、夜空が広がっていた。息が白くのぼっていき、かわりに雪が降りてくる。私は身を起こし、胸に抱えたままの酒を確かめた。
奉納酒の無事を知り、ぐっと抱きしめる。固い瓶の口が胸を突く。石畳に冷やされて、からだはすっかりと凍えていた。私はよろよろと立ち上がり、参道を見通した。
わあっと、境内の奥のほうから、ひとびとの歓声があがる。社殿へむかう階段には、すでに列ができはじめていた。寝転んでいるうちに、年が明けてしまったらしい。
ふりかえると、先程確かに通ったはずの太鼓橋は、柵で封鎖され、通れなくなっていた。化かされたような心地で立ち上がり、深く息を吐く。
いつかの初詣で父が納められなかった酒を、これから私が納める。そんな気持ちになって、感慨深さと、己の身勝手さが寒さよりもいっそう、身に染みた。
名古屋に帰ったら、一度、妻にきちんと話をしよう。
酒を窓口で奉納し、身軽になって社殿への行列の最後尾につくと、雪は小雨に変わっていた。
私の足を掬ったわずかな積雪は、跡形もなく姿を消している。その潔さが、少しうらやましかった。
私は、妻にこのことを伝えるべきか迷った。見舞うなら、私ひとりか、家族全員かの二択だ。冬休み中の子どもたちを連れていけば、母は喜ぶが、妻の負担になるだろう。
まずは妹に相談をと思って送った通話アプリの返信には、緊迫感がまるで無かった。『正月明けには顔を見に行こうかな』程度の妹の口ぶりに、つい、自分までのんきに構えて、私はその日を定時まで勤め上げた。
帰宅して、妹と同じ調子で軽く妻に報告をすると、いまにも夕食の配膳をしようとしていた彼女は、血相を変えた。
「何をたわけたこと言っとるの! 急いで帰りゃあ、いますぐ!」
子どもたちがぽかんとしている傍で、寝室のクローゼットから旅行カバンを取り出してくるや、私の着替えやら洗顔用品やらを詰めはじめる。
「ママぁ、どこか出かけるの?」
「パパが鎌倉のおじいちゃんのところに行くのよ」
「えー? まみも行きたぁい」
「大事なご用事で行くのよ、遊びにいくのではないの。行きたければ、パパのご用事がすんでから、ママが連れていってあげる」
長女がごねる脇で手もとめずに、彼女はぴしゃりと反論を封じた。そして、ぼんやりしている私に鋭く指示を飛ばし、子どもたちにやさしく声をかける。
「新幹線の時刻を調べて、切符買って! 車に乗るから、靴を履きなさい」
名古屋駅まで車で送ってくれるらしい。私が仕事着を脱ぎ、出かける服装になる。出かけるまで、十分も無かった。駅までの車中で新幹線のチケットをウェブ購入し、新幹線に飛び乗る。
どうやら、寒気を連れて帰郷したらしい。十時過ぎに鎌倉駅に着くと、雪でも降りそうな冷え込み具合だった。実家は、駅からさほど遠くない。鶴岡八幡宮の参道近くの商店街、小町通りのなかにある。八幡宮の参拝は午後五時で締め切られるので、商店街の客足はそのあたりを境にパタリと止んで、人通りもまばらになる。いまの時間帯に通りを歩くのは、地元民ばかりだろう。
うちは、百四十余年続く酒屋だ。細々と地元向けの商いをしている。いわゆる商家建築の店構えが古めかしいので、観光客もたまに入っては来るが、地元の特産品を置くわけでもない酒屋に長居はしない。
この夜中だ。表の店側の引き戸には、鍵がかかっている。隣の建物との隙間に、からだを横にして入りこみ、勝手口の鍵を開ける。
「ただいま!」
奥へ声をかけながら入ると、廊下の電灯が点いた。
「あらっ! やだ、帰ってくるなら、昼のうちに連絡をよこせばいいのに!」
口では文句を言いつつも、寒かったでしょうと、笑顔で私の腕を撫で、パジャマ姿の母は私を居間に押し込んだ。
「お夕飯は? 食べたの?」
「新幹線のなかで弁当食ったよ」
コートを脱ぎ、ここに至る顛末を話すと、母は「そう、真紀さんが」と妻の名をつぶやいて、ほんのりと微笑んだ。
「明子は、正月明けに来るつもりみたいだった」
「あの子は、むこうのお宅のご都合もあるでしょうしね」
嫁ぎ先の事情というよりは、妹当人の危機感のなさだと思ったが、言わずにおいた。急ぎ用意された布団に寝転がり、古い天井を見つめると、帰ってきたという実感がじわじわと湧いた。
「高校なんざ行かなくたって、立派に店が継げる」というのが父の口癖で、実際、父は中卒だ。この話が始まると、母は決まって、父の膝をちょんと指先で叩き、困ったように笑っていた。
「わたしたちのときとは時代が違いますよ。学があれば、店だって、もっとよくできるかもしれないじゃないの」
私も妹も高校へ行き、地元からは遠い大学へ進んだ。就職先には、大学の近くの会社を選んだ。酒屋を継ぐ話は、一度だってしてこなかった。
父が倒れたいまになって、だれも酒屋を継がないということは、この家が無くなるということなのだと気づいたが、父の病状はどうあれ、手遅れかもしれなかった。
父の入院する病院は、参道を下った先にある個人病院だった。うちからは、参道と車道を挟んで向こう側にあたるが、この参道は横切れる場所がかなり限られている。鶴岡八幡宮の大鳥居のほうに大回りをしてを渡っていこうと決めて、散歩がてら、母とのんびりと歩きだした。
面会のはじまる前の午前中のうちに、見舞いの品として、新しい詰め将棋の本を買い求めてある。大仰な果物の籠などよりは、こちらのほうが父も喜ぶだろう。
いまはどうか知らないが、私の子どものころ、八幡宮はこのあたりの子どもの格好の遊び場だった。源平池で亀を捕り、太鼓橋のてっぺんにだれがいちばんによじ登れるかを競ったものだ。
目を細めていると、母が同じように八幡宮の境内へ顔をむけ、ふふ……っと笑った。
「あなたはよく、八幡宮の方から叱られていたわねえ。挙げ句には名前を知られて、小学校の先生を通して、何遍もお小言をいただいたものよ?」
「ここいらの子はみんな、同じようなもんでしょ?」
「明子は違ったわよ」
それは男女の差だ。何かにつけ、明子の肩を持つ母に閉口し、私は病院のドアをくぐった。
父のいる病室は四人部屋で、ほかは高齢者ばかりだった。といっても、父も六十は超えている。今回のことだって、過労というよりは加齢だろう。
「何も、飛んで帰ってくるほどの大病じゃない。大袈裟にするなと言ったろう」
後半は母に向けて言い、父は終始、仏頂面だった。入院と言っても、できる治療は安静と点滴くらいのものだが、一週間は病院で過ごすことになるらしい。
「あら、まあ。それじゃあ、退院は三が日を過ぎてしまうじゃないの」
「もっとだ。四日五日は土日だろう。明けて月曜日にならないと、医者がいなくて退院許可を出してもらえないそうだ」
淡々と、しかし、不機嫌そうに言った父は、少し目を伏せ、私の膝元を見た。
「……店の冷蔵庫に奉納する酒の用意がある。三が日に間に合わないんじゃあ、みっともないから」
「代わりに、八幡さまへ納めておけばいいのね?」
母は優しい口調で確認をして、私を見上げた。請け負えと、目が促す。
「初詣のとき、親父のかわりに納めておくよ」
久しぶりに口にした『親父』の呼びかけに、舌が慣れない。
父は満足したように大きく息を吐き、眠いと言って、早々に私たちを追い返した。
二年参りをしようと思い立ったのは、午後十一時過ぎだ。母は早々に寝付いた。ひとりで年越しを待ち、お笑い番組を見ていたが、なんとなく気が急いた。
店へ降り、奉納の熨斗の付いた一升瓶を二本取ってくる。棚から風呂敷を出し、くるくるっと包んで用意をして、部屋着のうえにセーターを着て、コートを羽織る。
昨晩があれほど冷えたのだ。いまは、もっと寒いかもしれない。昨日慌てて自宅を出たせいで、マフラーや手袋の持ち合わせはない。母が寝る前に聞いておけばよかったなと悔やんだが、年明けまでに、あまり時間も残っていない。捜し物をする暇はなさそうだ。
子どものいなかったときには、妻とふたりで夜中に初詣をすることもあったが、近年はご無沙汰だ。新鮮な気持ちで外へ出ると、夜空から、ちらつくものがあった。
思わず息をのむ。寒さにひりつく頬をこすりながら、写真を撮って妻に送る。ようすはどうかと尋ねると、「雪! そっちは寒いんだね」「子どもたちはもう寝たよ、ひとりでテレビ見てる」と、立て続けに返答があった。
苦労をかけて済まないなと思ったが、そう言えば、妻は怒るだろう。こんなもの、苦労でもなんでもないと。
数年前、母がそれとなく同居話を打診してきた。
私も妻も名古屋で仕事をしていたし、関東に転勤先のあるような大きな会社に勤めているワケではなかった。これは、言外に酒屋を継げという話だと察したし、ちょうど長女が小学校に上がったばかりで、タイミングの悪いこと、この上なかった。
だが、断るには理由が必要だ。
夫婦で話し合いの場を持ちながらも押し黙る私の気持ちを察したか、諦めたか、妻は「あたしが嫌がってるって伝えなよ」と言い、それきり鎌倉には顔を見せなくなった。悪者を買って出てくれたのだ。それだというのに、なぜ酒屋を継ぎたくなかったのかをまだ、妻には話せていなかった。
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大鳥居のむこうに、明るい本殿を見て、まばらに歩くひとを目で追い、重たい一升瓶を持ち替える。かじかんだ手は、風呂敷に擦れて真っ赤になっていた。握って開いて、体温を取り戻そうと試みつつ、石の太鼓橋に足をかける。
てっぺんにたどり着くと、子どものころとずいぶんと見える景色が違った。広々とした源平池も、あのころはもっと広大な海のように感じていたし、社殿はずっと遠く、高い山のうえにあると思っていた。何より、この太鼓橋はひどい急勾配のはずで、仲間みんなで手を突いて登っていたものだ。
つい、笑みを漏らしながら一歩踏み出したとたんのことだ。気を抜いていたせいだろう。私は、つるん、と、盛大に足を滑らせた。
ガシャンと瓶ものの割れる音に、やったか! と、背筋が冷えた。胸に抱えていたはずの奉納酒はと思ったが、仰向けに倒れた腹のうえに、あるべき重みはやはり無い。
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怒鳴りながら、父は軽々と私を抱き上げる。首にしがみつくと、着物にショールを羽織った母が参道にしゃがんで、風呂敷包みをまとめているのが父の肩越しに見えた。
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「いま、酒なんかどうでもいいだろ。転んだんだぞ」
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石畳には、黒々と染みが広がっている。カチャンカチャンと音を立てながら、しずくの垂れる風呂敷を参道の脇へやって、あとで持って帰ればいいわねと、母は鷹揚に笑った。
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「いいか、八幡さまに届くように、名前を言って、目を閉じて南無南無するんだ」
「南無南無じゃあ、お寺ですよ」
母が笑う。照れくさそうに言いかえす父をよそに、私は手を合わせ、目を閉じた。
ふたたび目を開くと、夜空が広がっていた。息が白くのぼっていき、かわりに雪が降りてくる。私は身を起こし、胸に抱えたままの酒を確かめた。
奉納酒の無事を知り、ぐっと抱きしめる。固い瓶の口が胸を突く。石畳に冷やされて、からだはすっかりと凍えていた。私はよろよろと立ち上がり、参道を見通した。
わあっと、境内の奥のほうから、ひとびとの歓声があがる。社殿へむかう階段には、すでに列ができはじめていた。寝転んでいるうちに、年が明けてしまったらしい。
ふりかえると、先程確かに通ったはずの太鼓橋は、柵で封鎖され、通れなくなっていた。化かされたような心地で立ち上がり、深く息を吐く。
いつかの初詣で父が納められなかった酒を、これから私が納める。そんな気持ちになって、感慨深さと、己の身勝手さが寒さよりもいっそう、身に染みた。
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