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説得と誤解
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むー、むー、むー、と、間抜けな音を立てて、スマートフォンが着信を知らせる。私のスマホだ。いつのまに取り出されていたのか、佐開の座っていた椅子の下に放り出されたスマホの画面に、相手の名前が表示されている。
──「市原洋子」。
佐開は、鋭い目つきでスマホを見た。あごをしゃくって、私に「取れ」と指示をする。私は言われたとおりにスピーカーフォンにして、電話に出た。スマホを佐開のほうにむけてさしだす。
「みやま保育園、園長の市原です。いま、門のところにいます。見えますか」
肩で息をしながら、門にしがみつく女性の姿に、私は泣きたいような心地になった。
よそいきの上品なツイードのスーツを着込み、チェーンのついた眼鏡を胸元に下げて、洋子園長は、じっとこちらをむいている。だが、視線の先にあるのはたぶん、私の顔ではない。私のそばにいる佐開の背中だろう。
佐開がふりむく。男の子を抱えたままだ。園長は顔色も変えずに、佐開と相対した。
「ずいぶんおひさしぶりですね、佐開さん。こんなかたちでお会いするとは、思いもよりませんでしたわ」
園長のことばを聞いて、彼の目が大きく見開かれたのは、近くにいた私にしかわからなかったのではないかと思う。
「覚えて……」
「あたりまえです。結実花ちゃんは、いまでも大事な教え子のひとりですわ」
「それなら、なぜ! なんであの日、あんなことを!」
激昂した佐開に、園長は微笑むにとどめた。二十一年前、園長ではなく、一保育士であった彼女が、佐開の娘と関わりを持っていたことに、私は少なからず驚いた。
佐開は怒鳴った。
「あんたが、前の日に『早く迎えに来い』なんて言わなければ、妻は迎えより先に買物を済ませたはずだ。結実花をスーパーになんか連れて行かずにすんだのに! 妻はいつも自分のせいだと言い続けて死んだんだ。自分で、首をつって」
絞り出すような声だった。これまでの慇懃なまでの物腰が嘘だったかのように、佐開は感情を叩きつけていく。まるで自分に投げつけられたことばみたいに感じて、スマホをかかげる手が震える。
園長は窓の向こう、門よりも外側で、この場にいるだれよりも佐開に寄り添い、いたわしそうにしていた。
「奥様は、ほんとうに心根のおやさしいかたでした。同僚のかたがお子さんを預けている保育所が遠くて、職場から時間がかかると聞いて、そのかたが早く帰れるようにと、仕事を肩代わりして引き受けていらっしゃったでしょう?」
「……え?」
園長と佐開の視線が交錯する。佐開の目が驚愕に見開かれたことは、園長からは見えるだろうか。いや、きっと、眼鏡をかけたって、見えやしないだろう。
「どうして私も知っているのかとお思いでしょう? 事件の前、一週間近くお迎え時間に間に合わなかったのを不審に思って、事情を詳しくお聞きしたのです。私は、あの前日に、奥様を叱りました。そうして肩代わりしてやるのは、思いやりではないと。管理職が事態を知らず、仕事の再配分がなければ、同僚のかたはいつまでも肩身が狭いでしょう。あなたも、他人の子のために自分の子をないがしろにしてはいけないと言いました。あなたひとりで終わる話ではない、私の子も迎えがあるまで学童から帰れないし、学童の先生も自分の家に帰れなくなる。きっと、ほかにも多くのひとに波及してしまう行為ですよと、お話ししました」
「否、妻は、自分の仕事が遅いからと……」
そのもごもごとした返答は、果たして園長に届いただろうか。
すとん、と、抱えていた男の子の足が床についた。彼が逃げ出すのを追いかけもしないで、佐開は呆けていた。開いたくちびるから漏れるのはもはや声ではなく、ただ吐息だけだった。
「翌日、定刻にお迎えにいらした奥様は、晴れやかなお顔でお礼を言ってくださいました。結実花ちゃんと、仲良く夕食の相談をしながら帰っていったんです。チーズのハンバーグにお花のにんじんを乗せようか、挽き肉を買いに行かなきゃね、なんて言いながら」
「嘘だ」
言い返した声は、しかしながら小さく弱弱しかった。
「ええ、私もずっと、嘘であったらと願っていました。事件が起きて、自分を責めました。私こそ、早く我が子を迎えに行きたくて急いていただけなのではないかと思いました。テレビや新聞で奥様に対するひどい風評が出るたびに、発信元へ抗議しましたわ。けれどもどこも、取り上げてくれませんでした。だれかが、あの事件は私のせいだと糾弾してくれないか、罰してくれないかと、幾度も考えました。犯した罪は、消えません」
園長のしたことは、事件の原因とするには弱い。因果関係を辿るにも、あまりにもたよりない糸だった。それにもかかわらず、このひとは気に病み、その詳しい事情をだれにも明かさず、二十年間あまりも胸に秘め続けてきたのだろう。
私は、そうか、と、腑に落ちた。
洋子園長は──母は、だから、私の娘にこの名前をつけてほしいと言ったのだ。
──「市原洋子」。
佐開は、鋭い目つきでスマホを見た。あごをしゃくって、私に「取れ」と指示をする。私は言われたとおりにスピーカーフォンにして、電話に出た。スマホを佐開のほうにむけてさしだす。
「みやま保育園、園長の市原です。いま、門のところにいます。見えますか」
肩で息をしながら、門にしがみつく女性の姿に、私は泣きたいような心地になった。
よそいきの上品なツイードのスーツを着込み、チェーンのついた眼鏡を胸元に下げて、洋子園長は、じっとこちらをむいている。だが、視線の先にあるのはたぶん、私の顔ではない。私のそばにいる佐開の背中だろう。
佐開がふりむく。男の子を抱えたままだ。園長は顔色も変えずに、佐開と相対した。
「ずいぶんおひさしぶりですね、佐開さん。こんなかたちでお会いするとは、思いもよりませんでしたわ」
園長のことばを聞いて、彼の目が大きく見開かれたのは、近くにいた私にしかわからなかったのではないかと思う。
「覚えて……」
「あたりまえです。結実花ちゃんは、いまでも大事な教え子のひとりですわ」
「それなら、なぜ! なんであの日、あんなことを!」
激昂した佐開に、園長は微笑むにとどめた。二十一年前、園長ではなく、一保育士であった彼女が、佐開の娘と関わりを持っていたことに、私は少なからず驚いた。
佐開は怒鳴った。
「あんたが、前の日に『早く迎えに来い』なんて言わなければ、妻は迎えより先に買物を済ませたはずだ。結実花をスーパーになんか連れて行かずにすんだのに! 妻はいつも自分のせいだと言い続けて死んだんだ。自分で、首をつって」
絞り出すような声だった。これまでの慇懃なまでの物腰が嘘だったかのように、佐開は感情を叩きつけていく。まるで自分に投げつけられたことばみたいに感じて、スマホをかかげる手が震える。
園長は窓の向こう、門よりも外側で、この場にいるだれよりも佐開に寄り添い、いたわしそうにしていた。
「奥様は、ほんとうに心根のおやさしいかたでした。同僚のかたがお子さんを預けている保育所が遠くて、職場から時間がかかると聞いて、そのかたが早く帰れるようにと、仕事を肩代わりして引き受けていらっしゃったでしょう?」
「……え?」
園長と佐開の視線が交錯する。佐開の目が驚愕に見開かれたことは、園長からは見えるだろうか。いや、きっと、眼鏡をかけたって、見えやしないだろう。
「どうして私も知っているのかとお思いでしょう? 事件の前、一週間近くお迎え時間に間に合わなかったのを不審に思って、事情を詳しくお聞きしたのです。私は、あの前日に、奥様を叱りました。そうして肩代わりしてやるのは、思いやりではないと。管理職が事態を知らず、仕事の再配分がなければ、同僚のかたはいつまでも肩身が狭いでしょう。あなたも、他人の子のために自分の子をないがしろにしてはいけないと言いました。あなたひとりで終わる話ではない、私の子も迎えがあるまで学童から帰れないし、学童の先生も自分の家に帰れなくなる。きっと、ほかにも多くのひとに波及してしまう行為ですよと、お話ししました」
「否、妻は、自分の仕事が遅いからと……」
そのもごもごとした返答は、果たして園長に届いただろうか。
すとん、と、抱えていた男の子の足が床についた。彼が逃げ出すのを追いかけもしないで、佐開は呆けていた。開いたくちびるから漏れるのはもはや声ではなく、ただ吐息だけだった。
「翌日、定刻にお迎えにいらした奥様は、晴れやかなお顔でお礼を言ってくださいました。結実花ちゃんと、仲良く夕食の相談をしながら帰っていったんです。チーズのハンバーグにお花のにんじんを乗せようか、挽き肉を買いに行かなきゃね、なんて言いながら」
「嘘だ」
言い返した声は、しかしながら小さく弱弱しかった。
「ええ、私もずっと、嘘であったらと願っていました。事件が起きて、自分を責めました。私こそ、早く我が子を迎えに行きたくて急いていただけなのではないかと思いました。テレビや新聞で奥様に対するひどい風評が出るたびに、発信元へ抗議しましたわ。けれどもどこも、取り上げてくれませんでした。だれかが、あの事件は私のせいだと糾弾してくれないか、罰してくれないかと、幾度も考えました。犯した罪は、消えません」
園長のしたことは、事件の原因とするには弱い。因果関係を辿るにも、あまりにもたよりない糸だった。それにもかかわらず、このひとは気に病み、その詳しい事情をだれにも明かさず、二十年間あまりも胸に秘め続けてきたのだろう。
私は、そうか、と、腑に落ちた。
洋子園長は──母は、だから、私の娘にこの名前をつけてほしいと言ったのだ。
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