母性

渡波みずき

文字の大きさ
上 下
3 / 9

立てこもり

しおりを挟む
「え、何?」
 続いた子どもの騒ぎ声に腰を浮かせる。一階だ。遠沢と顔を見合わせたとき、けたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。
「火事?」
 つぶやいた私より先に、遠沢は席を立った。
「子どもたちを園庭に誘導してきます。鈴木原すずきばらさんも、いっしょに避難しましょう」
 誘われて、私は二階にいる悠人ゆうとが気になった。乳児クラスは歩けない子も多い。悠人は歩けるが、人手は足りているだろうか。悠人が保育室に取り残されはしないだろうか。
「悠人を迎えに行きます」
「だいじょうぶです。乳児さんは保育室から直接、滑り台で園庭に降りられますから」
 請け合って、遠沢は廊下にむかう。私も鞄を手元に引き寄せ、慌てて後を追った。
 非常ベルが鳴っているというのに、廊下にはひとの気配がない。
「申し訳ないんですけど、スリッパのまま、保育室を抜けて、外に出てください。火元はわかりませんが、玄関は調理室にも近いので」
 調理室が火元と推測して、遠沢は私を結実花ゆみかのいる保育室に呼び込む。年少以上の子どもたちが集まっていた大教室に入った直後、私は子どもたちが一点を注視してわめいていることに気がついた。
 黒板の前で、スーツ姿の男が保育士を羽交い締めにしている。男の手には、万能包丁が握りしめられていた。自分に刃物が向けられているわけでもないのに、恐怖でからだが熱くなる。
「あのひと、さっきの」
 門の前で出会った初老の男性だ。なぜ、彼がこんな真似を? 子どもか孫のお迎えに来たのではなかったのか。呆然とした私をちらりと見てから、遠沢はことさらゆっくりと騒ぎのなかに進み出ていく。
「来ないでくれ!」
 気づいた男が包丁をふりかざす。近くにいる子どもに当たるのではないか案じたが、幸いにして、だれも怪我は負わなかった。
 私は結実花の姿を探す。よかった。男から遠い場所にいる。呼び寄せたいが、男の出方が怖くて、声もかけられない。
 遠沢は自分に突きつけられた包丁を見ようともしない。両手を挙げて、反意のないことを店ながら、話しかける。
「年少組の担任の遠沢です。危険ですから、落ち着いて、包丁をおろしてください」
「うるさい! だまって!」
 わめき声にも動じずに、遠沢はもう一度、包丁をおろすようにと要請する。
「園長はどこだ! 隠れているんじゃないのか」
 年少クラスの子どもたちにまとわりつかれた遠沢は、いったん押し黙った。包丁をつきつけられた若い保育士の目から涙があふれた。
洋子ようこ園長はいるかって聞かれたんです。今日、いないじゃないですか。そしたら……っ」
「勝手に話さないでください!」
 耳元で怒鳴られて、捕まった保育士が顔をくしゃくしゃにして嗚咽しはじめる。それを見て、私もやっと状況を把握しつつあった。
「井口先生の言うことはほんとうです。園長は、今日はフォーラムに出席するために横浜まで出かけていて、不在にしています。午後三時に終わる予定なので、夕方には一度戻るとは聞いています」
 遠沢が言うことに間違いはないのだろう。今朝、登園したときにも、姿は見かけていない。
「先生をいじめないで!」
「包丁はあぶないんだよ!」
 泣き出した井口を見て、口々に子どもが訴える。遠沢は彼らをおさえながら、男を見た。
「子どもたちを落ち着かせたいので、座らせていいですか? あと、非常ベルを止めたいです」
「ひとつずつなら、構いません。まず、ベルを止めてきてください」
「内藤先生、頼みます」
 遠沢に声をかけられて、いちばんドアに近い小太りで年配の保育士が廊下へ出た。
「座らせてください」
 指示されて、井口以外が自分の受持ちの子どもたちを整列させ、座らせていく。五十人ほどの子どもが瞬く間に並べられ、静かになった。
 私は自分の鞄のなかにスマートフォンがあることに思いいたった。緊急電話なら、すぐに発信できる。男の視線をうかがっていると、相手は私を見て、手を差しだした。子どもたちがちらほら私をふりかえる。「ママ」結実花の声がした。
「遠沢さん、あのおかあさんの鞄をもらってきてください」
 声音こそ静かだが、油断できない。まだ、男は井口の喉元に包丁を突きつけたままだ。抵抗できず、私は言われたとおりに鞄を遠沢に手渡した。
 私の鞄を手にすると、男は改めて口を開いた。
「よく聞いてください。一度しか言いません」
 男は保育士と子どもたちとを順繰りに見つめ、かんでふくめるように言った。
「抵抗はしないでください。あなたたちを傷つけるつもりはありません。目的を達成したら、投降する予定です」
 言いながら、男は羽交い締めにしていた井口を解放する。井口はへたり込み、這いつくばるようにして子どもたちのほうへ逃げた。
「外部への連絡は禁じます。警察に通報したら、子どもに手をかけます。園長が戻る前に制圧されては元も子もありません」
 男は包丁を握りなおす。
 園庭のほうから、子どもの声が微かにする。乳児クラスの子どもたちが騒いでいるのだ。私は肝が冷える思いがした。悠人たちまで捕まってはかなわない。
 私は外の声をかき消すように手を挙げた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

6人の皿

hinatakano
ミステリー
ペンションに集められた6人の男女。 彼らは大金を手に入れるためゲームをすることになる。

夜の動物園の異変 ~見えない来園者~

メイナ
ミステリー
夜の動物園で起こる不可解な事件。 飼育員・えまは「動物の声を聞く力」を持っていた。 ある夜、動物たちが一斉に怯え、こう囁いた—— 「そこに、"何か"がいる……。」 科学者・水原透子と共に、"見えざる来園者"の正体を探る。 これは幽霊なのか、それとも——?

【完結】Amnesia(アムネシア)~カフェ「時遊館」に現れた美しい青年は記憶を失っていた~

紫紺
ミステリー
郊外の人気カフェ、『時游館』のマスター航留は、ある日美しい青年と出会う。彼は自分が誰かも全て忘れてしまう記憶喪失を患っていた。 行きがかり上、面倒を見ることになったのが……。 ※「Amnesia」は医学用語で、一般的には「記憶喪失」のことを指します。

10日間の<死に戻り>

矢作九月
ミステリー
火事で死んだ中年男・田中が地獄で出逢ったのは、死神見習いの少女だった―…田中と少女は、それぞれの思惑を胸に、火事の10日前への〈死に戻り〉に挑む。人生に絶望し、未練を持たない男が、また「生きよう」と思えるまでの、10日間の物語。

この欠け落ちた匣庭の中で 終章―Dream of miniature garden―

至堂文斗
ミステリー
ーーこれが、匣の中だったんだ。 二〇一八年の夏。廃墟となった満生台を訪れたのは二人の若者。 彼らもまた、かつてGHOSTの研究によって運命を弄ばれた者たちだった。 信号領域の研究が展開され、そして壊れたニュータウン。終焉を迎えた現実と、終焉を拒絶する仮想。 歪なる領域に足を踏み入れる二人は、果たして何か一つでも、その世界に救いを与えることが出来るだろうか。 幻想、幻影、エンケージ。 魂魄、領域、人類の進化。 802部隊、九命会、レッドアイ・オペレーション……。 さあ、あの光の先へと進んでいこう。たとえもう二度と時計の針が巻き戻らないとしても。 私たちの駆け抜けたあの日々は確かに満ち足りていたと、懐かしめるようになるはずだから。

磯村家の呪いと愛しのグランパ

しまおか
ミステリー
資産運用専門会社への就職希望の須藤大貴は、大学の同じクラスの山内楓と目黒絵美の会話を耳にし、楓が資産家である母方の祖母から十三歳の時に多額の遺産を受け取ったと知り興味を持つ。一人娘の母が亡くなり、代襲相続したからだ。そこで話に入り詳細を聞いた所、血の繋がりは無いけれど幼い頃から彼女を育てた、二人目の祖父が失踪していると聞く。また不仲な父と再婚相手に遺産を使わせないよう、祖母の遺言で楓が成人するまで祖父が弁護士を通じ遺産管理しているという。さらに祖父は、田舎の家の建物部分と一千万の現金だけ受け取り、残りは楓に渡した上で姻族終了届を出して死後離婚し、姿を消したと言うのだ。彼女は大学に無事入学したのを機に、愛しのグランパを探したいと考えていた。そこでかつて住んでいたN県の村に秘密があると思い、同じ県出身でしかも近い場所に実家がある絵美に相談していたのだ。また祖父を見つけるだけでなく、何故失踪までしたかを探らなければ解決できないと考えていた。四十年近く前に十年で磯村家とその親族が八人亡くなり、一人失踪しているという。内訳は五人が病死、三人が事故死だ。祖母の最初の夫の真之介が滑落死、その弟の光二朗も滑落死、二人の前に光二朗の妻が幼子を残し、事故死していた。複雑な経緯を聞いた大貴は、専門家に調査依頼することを提案。そこで泊という調査員に、彼女の祖父の居場所を突き止めて貰った。すると彼は多額の借金を抱え、三か所で働いていると判明。まだ過去の謎が明らかになっていない為、大貴達と泊で調査を勧めつつ様々な問題を解決しようと動く。そこから驚くべき事実が発覚する。楓とグランパの関係はどうなっていくのか!?

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

支配するなにか

結城時朗
ミステリー
ある日突然、乖離性同一性障害を併発した女性・麻衣 麻衣の性格の他に、凶悪な男がいた(カイ)と名乗る別人格。 アイドルグループに所属している麻衣は、仕事を休み始める。 不思議に思ったマネージャーの村尾宏太は気になり 麻衣の家に尋ねるが・・・ 麻衣:とあるアイドルグループの代表とも言える人物。 突然、別の人格が支配しようとしてくる。 病名「解離性同一性障害」 わかっている性格は、 凶悪な男のみ。 西野:元国民的アイドルグループのメンバー。 麻衣とは、プライベートでも親しい仲。 麻衣の別人格をたまたま目撃する 村尾宏太:麻衣のマネージャー 麻衣の別人格である、凶悪な男:カイに 殺されてしまう。 治療に行こうと麻衣を病院へ送る最中だった 西田〇〇:村尾宏太殺害事件の捜査に当たる捜一の刑事。 犯人は、麻衣という所まで突き止めるが 確定的なものに出会わなく、頭を抱えて いる。 カイ :麻衣の中にいる別人格の人 性別は男。一連の事件も全てカイによる犯行。 堀:麻衣の所属するアイドルグループの人気メンバー。 麻衣の様子に怪しさを感じ、事件へと首を突っ込んでいく・・・ ※刑事の西田〇〇は、読者のあなたが演じている気分で読んで頂ければ幸いです。 どうしても浮かばなければ、下記を参照してください。 物語の登場人物のイメージ的なのは 麻衣=白石麻衣さん 西野=西野七瀬さん 村尾宏太=石黒英雄さん 西田〇〇=安田顕さん 管理官=緋田康人さん(半沢直樹で机バンバン叩く人) 名前の後ろに来るアルファベットの意味は以下の通りです。 M=モノローグ (心の声など) N=ナレーション

処理中です...