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立てこもり
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「え、何?」
続いた子どもの騒ぎ声に腰を浮かせる。一階だ。遠沢と顔を見合わせたとき、けたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。
「火事?」
つぶやいた私より先に、遠沢は席を立った。
「子どもたちを園庭に誘導してきます。鈴木原さんも、いっしょに避難しましょう」
誘われて、私は二階にいる悠人が気になった。乳児クラスは歩けない子も多い。悠人は歩けるが、人手は足りているだろうか。悠人が保育室に取り残されはしないだろうか。
「悠人を迎えに行きます」
「だいじょうぶです。乳児さんは保育室から直接、滑り台で園庭に降りられますから」
請け合って、遠沢は廊下にむかう。私も鞄を手元に引き寄せ、慌てて後を追った。
非常ベルが鳴っているというのに、廊下にはひとの気配がない。
「申し訳ないんですけど、スリッパのまま、保育室を抜けて、外に出てください。火元はわかりませんが、玄関は調理室にも近いので」
調理室が火元と推測して、遠沢は私を結実花のいる保育室に呼び込む。年少以上の子どもたちが集まっていた大教室に入った直後、私は子どもたちが一点を注視してわめいていることに気がついた。
黒板の前で、スーツ姿の男が保育士を羽交い締めにしている。男の手には、万能包丁が握りしめられていた。自分に刃物が向けられているわけでもないのに、恐怖でからだが熱くなる。
「あのひと、さっきの」
門の前で出会った初老の男性だ。なぜ、彼がこんな真似を? 子どもか孫のお迎えに来たのではなかったのか。呆然とした私をちらりと見てから、遠沢はことさらゆっくりと騒ぎのなかに進み出ていく。
「来ないでくれ!」
気づいた男が包丁をふりかざす。近くにいる子どもに当たるのではないか案じたが、幸いにして、だれも怪我は負わなかった。
私は結実花の姿を探す。よかった。男から遠い場所にいる。呼び寄せたいが、男の出方が怖くて、声もかけられない。
遠沢は自分に突きつけられた包丁を見ようともしない。両手を挙げて、反意のないことを店ながら、話しかける。
「年少組の担任の遠沢です。危険ですから、落ち着いて、包丁をおろしてください」
「うるさい! だまって!」
わめき声にも動じずに、遠沢はもう一度、包丁をおろすようにと要請する。
「園長はどこだ! 隠れているんじゃないのか」
年少クラスの子どもたちにまとわりつかれた遠沢は、いったん押し黙った。包丁をつきつけられた若い保育士の目から涙があふれた。
「洋子園長はいるかって聞かれたんです。今日、いないじゃないですか。そしたら……っ」
「勝手に話さないでください!」
耳元で怒鳴られて、捕まった保育士が顔をくしゃくしゃにして嗚咽しはじめる。それを見て、私もやっと状況を把握しつつあった。
「井口先生の言うことはほんとうです。園長は、今日はフォーラムに出席するために横浜まで出かけていて、不在にしています。午後三時に終わる予定なので、夕方には一度戻るとは聞いています」
遠沢が言うことに間違いはないのだろう。今朝、登園したときにも、姿は見かけていない。
「先生をいじめないで!」
「包丁はあぶないんだよ!」
泣き出した井口を見て、口々に子どもが訴える。遠沢は彼らをおさえながら、男を見た。
「子どもたちを落ち着かせたいので、座らせていいですか? あと、非常ベルを止めたいです」
「ひとつずつなら、構いません。まず、ベルを止めてきてください」
「内藤先生、頼みます」
遠沢に声をかけられて、いちばんドアに近い小太りで年配の保育士が廊下へ出た。
「座らせてください」
指示されて、井口以外が自分の受持ちの子どもたちを整列させ、座らせていく。五十人ほどの子どもが瞬く間に並べられ、静かになった。
私は自分の鞄のなかにスマートフォンがあることに思いいたった。緊急電話なら、すぐに発信できる。男の視線をうかがっていると、相手は私を見て、手を差しだした。子どもたちがちらほら私をふりかえる。「ママ」結実花の声がした。
「遠沢さん、あのおかあさんの鞄をもらってきてください」
声音こそ静かだが、油断できない。まだ、男は井口の喉元に包丁を突きつけたままだ。抵抗できず、私は言われたとおりに鞄を遠沢に手渡した。
私の鞄を手にすると、男は改めて口を開いた。
「よく聞いてください。一度しか言いません」
男は保育士と子どもたちとを順繰りに見つめ、かんでふくめるように言った。
「抵抗はしないでください。あなたたちを傷つけるつもりはありません。目的を達成したら、投降する予定です」
言いながら、男は羽交い締めにしていた井口を解放する。井口はへたり込み、這いつくばるようにして子どもたちのほうへ逃げた。
「外部への連絡は禁じます。警察に通報したら、子どもに手をかけます。園長が戻る前に制圧されては元も子もありません」
男は包丁を握りなおす。
園庭のほうから、子どもの声が微かにする。乳児クラスの子どもたちが騒いでいるのだ。私は肝が冷える思いがした。悠人たちまで捕まってはかなわない。
私は外の声をかき消すように手を挙げた。
続いた子どもの騒ぎ声に腰を浮かせる。一階だ。遠沢と顔を見合わせたとき、けたたましい非常ベルの音が鳴り響いた。
「火事?」
つぶやいた私より先に、遠沢は席を立った。
「子どもたちを園庭に誘導してきます。鈴木原さんも、いっしょに避難しましょう」
誘われて、私は二階にいる悠人が気になった。乳児クラスは歩けない子も多い。悠人は歩けるが、人手は足りているだろうか。悠人が保育室に取り残されはしないだろうか。
「悠人を迎えに行きます」
「だいじょうぶです。乳児さんは保育室から直接、滑り台で園庭に降りられますから」
請け合って、遠沢は廊下にむかう。私も鞄を手元に引き寄せ、慌てて後を追った。
非常ベルが鳴っているというのに、廊下にはひとの気配がない。
「申し訳ないんですけど、スリッパのまま、保育室を抜けて、外に出てください。火元はわかりませんが、玄関は調理室にも近いので」
調理室が火元と推測して、遠沢は私を結実花のいる保育室に呼び込む。年少以上の子どもたちが集まっていた大教室に入った直後、私は子どもたちが一点を注視してわめいていることに気がついた。
黒板の前で、スーツ姿の男が保育士を羽交い締めにしている。男の手には、万能包丁が握りしめられていた。自分に刃物が向けられているわけでもないのに、恐怖でからだが熱くなる。
「あのひと、さっきの」
門の前で出会った初老の男性だ。なぜ、彼がこんな真似を? 子どもか孫のお迎えに来たのではなかったのか。呆然とした私をちらりと見てから、遠沢はことさらゆっくりと騒ぎのなかに進み出ていく。
「来ないでくれ!」
気づいた男が包丁をふりかざす。近くにいる子どもに当たるのではないか案じたが、幸いにして、だれも怪我は負わなかった。
私は結実花の姿を探す。よかった。男から遠い場所にいる。呼び寄せたいが、男の出方が怖くて、声もかけられない。
遠沢は自分に突きつけられた包丁を見ようともしない。両手を挙げて、反意のないことを店ながら、話しかける。
「年少組の担任の遠沢です。危険ですから、落ち着いて、包丁をおろしてください」
「うるさい! だまって!」
わめき声にも動じずに、遠沢はもう一度、包丁をおろすようにと要請する。
「園長はどこだ! 隠れているんじゃないのか」
年少クラスの子どもたちにまとわりつかれた遠沢は、いったん押し黙った。包丁をつきつけられた若い保育士の目から涙があふれた。
「洋子園長はいるかって聞かれたんです。今日、いないじゃないですか。そしたら……っ」
「勝手に話さないでください!」
耳元で怒鳴られて、捕まった保育士が顔をくしゃくしゃにして嗚咽しはじめる。それを見て、私もやっと状況を把握しつつあった。
「井口先生の言うことはほんとうです。園長は、今日はフォーラムに出席するために横浜まで出かけていて、不在にしています。午後三時に終わる予定なので、夕方には一度戻るとは聞いています」
遠沢が言うことに間違いはないのだろう。今朝、登園したときにも、姿は見かけていない。
「先生をいじめないで!」
「包丁はあぶないんだよ!」
泣き出した井口を見て、口々に子どもが訴える。遠沢は彼らをおさえながら、男を見た。
「子どもたちを落ち着かせたいので、座らせていいですか? あと、非常ベルを止めたいです」
「ひとつずつなら、構いません。まず、ベルを止めてきてください」
「内藤先生、頼みます」
遠沢に声をかけられて、いちばんドアに近い小太りで年配の保育士が廊下へ出た。
「座らせてください」
指示されて、井口以外が自分の受持ちの子どもたちを整列させ、座らせていく。五十人ほどの子どもが瞬く間に並べられ、静かになった。
私は自分の鞄のなかにスマートフォンがあることに思いいたった。緊急電話なら、すぐに発信できる。男の視線をうかがっていると、相手は私を見て、手を差しだした。子どもたちがちらほら私をふりかえる。「ママ」結実花の声がした。
「遠沢さん、あのおかあさんの鞄をもらってきてください」
声音こそ静かだが、油断できない。まだ、男は井口の喉元に包丁を突きつけたままだ。抵抗できず、私は言われたとおりに鞄を遠沢に手渡した。
私の鞄を手にすると、男は改めて口を開いた。
「よく聞いてください。一度しか言いません」
男は保育士と子どもたちとを順繰りに見つめ、かんでふくめるように言った。
「抵抗はしないでください。あなたたちを傷つけるつもりはありません。目的を達成したら、投降する予定です」
言いながら、男は羽交い締めにしていた井口を解放する。井口はへたり込み、這いつくばるようにして子どもたちのほうへ逃げた。
「外部への連絡は禁じます。警察に通報したら、子どもに手をかけます。園長が戻る前に制圧されては元も子もありません」
男は包丁を握りなおす。
園庭のほうから、子どもの声が微かにする。乳児クラスの子どもたちが騒いでいるのだ。私は肝が冷える思いがした。悠人たちまで捕まってはかなわない。
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