写真

渡波みずき

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また、一枚目

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 とにもかくにも、写真を手放せた安堵感が強かった。間山に報告しようと思い立ったのは、夜遅くなってからだった。
 ベッドに寝転がりながら、LITEを起動する。
『写真、渡せたよ』
『よかったじゃん! これで安心だね』
 短いやりとりを終え、久々に何の憂いも無く眠りにつく。日常が戻ってきた。もう、あの女に追いかけられることはないのだ。
 そう考えた三日後のことだった。
 いつものように帰宅して、食事を摂っていると、母のスマホが鳴った。電話だ。
「何よ、間の悪い」
 悪態をつきながら発信元を確認した母は、怪訝そうに眉を寄せた。
「学校からだわ」
 母はスマホを手にリビングのほうに歩きながら電話に出たが、すぐにダイニングに戻ってきた。通話口を押さえながら鋭く問われる。
「清花! 今日、加奈子ちゃんと帰ってきた?」
 加奈子ちゃん? だれのことだと首をひねり、ああ、と気づく。いっしょに下校している友人のことだ。
「うん。いつもどおり上大岡で降りていったよ?」
「わかった。……もしもし?」
 母が電話のむこうと会話するのを聞いて、おおよそのところを察する。友人が帰宅していないのだ。でも、まだ七時である。小学生でもあるまいし、騒ぎ立てる時間ではない。
 写真を渡したのが彼女でなければ、それでおしまいにできたろう。だが、不安は拭えなかった。
 万が一を考えたとき、相談できる先は間山しかいない。LITEしてみたが、いつものような反応は無い。既読もつかなかった。間を置いてもう一度。でも、同じだった。
 ──忙しいのかな。
 食後にLITE通話してみるも、相手は一向に出なかった。応じる意思がないのかもしれない。ブロックされている可能性もあった。
 清花は切り替えて、交友関係の広い同級生にLITEを送った。
『O高の二年生に知り合い居る? 間山って子と、いますぐ連絡をとりたいの』
 一時間待って、ようやく届いた同級生からの返信は、目を疑うものだった。
『他の学年はわからないけど、二年生に間山なんていないって』
 名前が違う? いや、LITEのトーク画面には間山至の表示がある。間違いない。もう一度問いかけようとしたけれど、そのあとは個人よりもグループトークがやかましくなった。みんなのところにも、加奈子の不在が伝えられたのだ。口々に噂話に興じる同級生たちをよそに、清花はひとり物思いに沈んだ。
 間山が清花との連絡を絶ったのは、なぜだろう。きっかけはと振りかえるも、相手を不快にさせるような言動は無かったと思う。
 トーク画面の履歴をたどって、清花は膝を抱えた。
 もう、清花と連絡を取らなくてもいい、ということだろうか。清花が写真をだれかに渡して、安全圏内に入ったから? だから、自分の手助けは要らないと。
「あれ?」
 ほんとうに、清花はもう安全なのだろうか。
 間山は初対面で言っていなかったか。写真を二回見つけたのだと。
 この写真は、一回手放しても戻ってくるのだ。何らかの理由で。
 気づいた瞬間、すうっと血の気が引いた。
 戻ってくる。また。
 間山はこうも言っていた。写真は、なるべく知らないヤツに渡したほうがよいと。最寄り駅まで追いつかれたら、どうなるか知らないとも。
 どうして、知らないほうがいいのか。知人のほうが渡しやすいし、事情も説明できるのに。なぜ、追いつかれたあとのことを知らないのに、彼は清花が早々に写真を手放すよう仕向けるのか。
「もしかして」
 清花は両手で口元を覆った。
 間山も、一度目は知り合いに渡したのか。
 そう考えれば、辻褄が合う。間山の知り合いはたぶん、写真を次のだれかに渡さなかった。最寄り駅まで追いつかれ、何かが起きた。
 そしてきっと、写真だけが間山のもとに戻ってきたのだ。
 渡した相手が次のだれかに渡さなければ、その前に何かが起きてしまえば、永遠に自分の手元に戻ってくるかもしれない。そのことにあとから気づいた間山は、清花を探して、早く次に渡すようにと急かした。三度目に自分のもとに戻ってくることがないようにと。
 まるで、電車の窓からだれかの日常をのぞき見たときのように、間山の置かれた状況を妄想し、組み上げてみて、いままでになく情報の整合性がとれていることに、乾いた笑いさえ漏れた。
 清花は立ち上がると、壁に掛けた制服のポケットに手を入れた。ほとんど確信を持って探った胸ポケットに、果たしてそれはあった。
 写真にうつる女は、全身を露わにして、写真の中からこちらに向かって禍々しい笑みを見せている。
 加奈子は、あの友人は、写真の女のせいでいなくなったのか。それは、ただの行方不明だろうか、それとも。
 その先を考えたくなくて、写真を元のポケットに戻す。
 明日になれば、友人の無事がわかるかもしれない。間山とも連絡がつくかもしれない。いまは考えすぎないほうがいい。悩めば悩むほど、悪い考えに引きずられてしまう。
 清花は必死に頭を切り替えるべく机に向かい、参考書を開いた。



 朝の横須賀中央駅は混雑している。改札口を抜け、ひとの波に乗り、いつものように上りエスカレーターに乗ろうと順番を待つ。何気なくホームを見上げ、清花は凍りついた。
 白いつば広帽子が見えた。ひとの流れに逆らって、女がひとり、エスカレーターの降り口に佇んでいる。しかし、だれもとがめ立てするようすがない。
 清花は身を翻した。ひとにぶつかり、怒鳴られる。それどころではない。謝罪も忘れて、通路を走る。反対のホームに来る電車のほうが発車が早い。下りで遠回りしても、登校できる経路がある。遅刻してもいい、いつもとは違う経路で。発車ベルが鳴る。急がなければ。考え考え、階段を駆け上がりはじめてすぐに、誤りに気づいて足が止まる。
 降車客に紛れて、女が降りてきていた。
 真っ赤なルージュのくちびるを大きく開けて嗤いながら、黒髪と紺のワンピースの裾をなびかせて、一段一段、近づいてくる。
 カツン……、カツン……
 サンダルのヒールが階段を叩く。
「やだ、来ないでっ!」
 叫んだことで、やっとからだが動いた。昇ったばかりの数段を飛び降りる。周囲の目が不審そうにこちらを見る。
 どこに逃げよう、正解はどっちだ?
 いったん、降車客に流されるように改札口のひとつへとむかう。入ったのとは違う改札口を出て、しばらくしてからふりかえる。女はゆっくりと清花を追ってきていたが、改札口の手前で、まるで写真のなかでのポージングのように立ち止まった。
 これ以上は追えない、とでも言うように。その姿は、蜃気楼よろしく、時折ゆらぐ。
「駅からは出られないの?」
 つぶやいて、清花は女から目をそらさずにあとじさり、ある程度離れてから、ぱっと走り出した。
 学校には行かなければ。一駅歩いて、別の駅から乗る? でも、そこにも女がいたら?
 この状況を打破できるであろう効果的な方法を、清花はひとつしか知らなかった。
 渡すのだ、だれかに、この写真を。胸ポケットの上から感触を確かめる。間山が勧めるようにカバンに放り込むのは、至難の業だ。そう何度も都合よく、化粧ポーチが足下に転がってこようはずもない。
 それに、そんな渡しかたではダメだ。間山のように相手とじかにコンタクトを取らなければならなくなる。
 清花は写真を取りだして裏返すと、手近な壁を支えにして、一言書き入れた。
「この写真を三日以内にだれかに渡してください」
 これでは、不幸の手紙だ。こんな子供だまし、だれが信じてくれるだろう。でも、これ以上のメッセージをいまは思いつかない。そうして、これを清花が直接相手に手渡しすることで、メッセージはほんとうの意味で完成する。
 清花は意を決して、ふたたび改札口をくぐった。女の姿は見えない。
 だれか、できれば若くて、本気にしてくれそうなひとにと、ターゲットを絞りこむ。二十代前半くらいのOLを見つけて、あとを追う。彼女の靴音と自分の足音に混じって、高いヒールの音が聞こえる。ゆるりゆらりと近づいてくる。
 もう、ふりかえる勇気はなかった。
 OLはホーム行きのエスカレーターに乗ると見せて、すぐ脇のトイレにむかう。清花は逡巡した。出入り口がひとつしかない閉鎖空間に入るのは、怖い。でも、トイレまで追うなら、あのひとが個室に入る前に捕まえないと、ゲームオーバーだ。
 悩んでいる暇は無かった。トイレに飛び込んで、列が出来ていることに安堵する。最後尾に並んだOLに思い切って声をかける。
「あの! このひと、見たことありませんか?」
 いささか、声が大きすぎた。何人かが一斉に振り向く。気にせず、清花はOLの手元に写真を差しだす。押しつけるように持たせる。
「何、これ」
 ほんとうは、裏を見て、とまで伝えるつもりだった。でも、できなかった。清花は転がるようにその場を逃げ出した。階段を息もつかずに駆け上がる。
 上り電車が近づいてきている。点滅信号がひらめいている。トンネルを抜けてくる車両のライトが見える。
 早く早く早く早く!
 OLに追いかけられていたら。だれかに見とがめられていたら。それより何より、まだ女がうしろにいるような気がしてならない。
 一刻も早く、この場を立ち去りたかった。
 犬のように浅く速い呼吸を繰りかえし、清花は何度も階段やエスカレーターを確かめ、現れる客に目を走らせる。
 電車が走り込んできた。突風がスカートを揺らす。電車の窓という窓が鏡のように反射して、プラットホームの客を映し出す。
 清花は窓を見つめ、ほっと息をつく。やっと、助かった。そう思ったときだった。
 カツン……
 背後で響いた音に心臓が跳ねる。電車にうつる清花の背後に、白いつば広帽子が見えた。女が屈みこむ。清花の両肩にガリガリの指がかかる。女の顔がすぐ真横に近づく。さらり、女の黒髪が清花の肩口を流れる。
 身じろぎひとつできない清花の耳元で、女は真っ赤なくちびるを動かし、ニタァと嗤う。
 後ろに並んだひとに小突かれて、清花はハッと我に返った。電車に詰め込まれ、呆然とドアに寄りかかる。
 うっすらと、自分の口元が窓ガラスに映りこんでいる。女がしたように、くちびるを動かしてみる。
 『ま』『た』『ね』
 うしろを見ても、女はいない。だが、逃げきれた気は、まるでしなかった。
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