1 / 5
一枚目
しおりを挟む
朝の満員電車のなか、身動きが取れなくなって、清花はつり革を掴む左手にいっそう力を込めた。この路線はいつも混雑する。痴漢に遭わないことだけが救いだが、冬の時期は車内の蒸し暑さに、朝から消耗してしまう。
──満員のときくらい、暖房切ってくれないかなあ。
腋下を、汗が伝い落ちる。セーラー服やコートの裏地のポリエステルは、寒い屋外でこそ重宝するものの、こうも暑い環境では、じっとりと肌に湿気をこもらせてしまい、不快感を増すばかりだ。
清花は汗にぬめる指で何度もつり革を握りなおし、目の前に座る乗客の頭ごしに、窓の外を見やった。窓はうっすらと白く曇っているが、景色がまったく見えないほどではない。
見慣れた車窓の風景に目をこらす。同じひとの日常が日々垣間見えると、得をした気分になる。マンションのベランダで洗濯物を干すおばさん。その足下で柵を掴みながら、こちらを指さす幼児。踏切が開くのを自転車にまたがったままで待つ男子学生。スマホに夢中でひどい顔になっているおしゃれな女性。同じ時間の電車に乗れば、車窓に同じ人物を見かけることは、意外に多いものだ。
窓の外のだれかにフォーカスして、そのひとの状況を推測したり、交わしている会話を妄想するのは、手元で本を読んだり、スマホをいじったりするよりも、ずっと面白かった。
趣味が悪いとは、自分でも思っている。それでも、ひとに知られなければいい。単に窓の外を見ている人間なら、この電車の一両のなかにだって大勢いる。その目的がある種ののぞきだったからと言って、傍からわかるものでもないのだ。
清花が乗るのは、上りの快速特急の電車だ。各駅停車しか停まらない通過駅が六つも続き、大きなターミナル駅の横浜駅に着く。そこで一度改札口を出て、別路線の下りに乗り換え、三駅目が学校の最寄り駅である石川町駅だ。
カーブでカバンが持っていかれる。どうにか手元に取り戻したものの、横浜駅まではまだ、十数分ある。息苦しさを紛らわそうと窓の外を注視していると、ふと、通過駅のひとつで気になる人影を見つけた。
目立つ女性だった。目深にかぶった白いつば広帽子は、真っ赤なリボンがアクセントになっている。帽子の下に流れる長い黒髪。まとっているのは、ミモレ丈のシンプルなノースリーブワンピースだ。紺色の布地はすとんとしている。足下は赤いハイヒールのサンダル。まるで真夏のリゾートにいる女優のような風体の女性が、向かいのホームの端にぽつねんとたたずんでいる。
清花から彼女が見えたのは、ほんの一瞬だった。何しろ、ここは通過駅に過ぎない。
だが、印象は強かった。季節外れの服装もさることながら、帽子のつばから覗いた口元にやはり赤いルージュが引かれていたから、だけではない。その口元が、歯をむき出しにして、大きく笑っていたからだった。
──何に対して?
考える間もなく、ターミナル駅に到着するとの車内アナウンスが流れる。電車がホームに入る直前、タイミングをみてドア近くに移動しようとしたとき、すぐ背後に立っていた男子学生と目が合った。
彼はうろたえたようすで顔をそむけ、自分もドアのほうへとからだを向ける。見知らぬ顔だ。少なくとも、同じ学校の制服でもないし。
電車が停止する。他の乗客も次々にドアを目指して動きはじめる。
相手の態度を訝しく思いながらも、清花は特に問いただすこともせず、自分も周囲の流れに乗って、ドアへむかう行列に加わった。
一時間目に体育がある日は、憂鬱だ。運動はあまり得意ではない。走るのが遅いとか、鉄棒の逆上がりがいつまでもできないとか、跳び箱がせいぜい五段しか飛べないとか、そういう小さな不得意が積み重なると、体育の授業なんてちっとも楽しくなくなる。マシなのは、バドミントンや卓球くらいのものだ。
清花はおっくうな気持ちを押し殺しながら、カバンから体操服入れを取り出して、のろのろと着替える。朝の電車で湿った制服が、今度は静電気を起こすからたまらない。
髪をなでつけていると、隣の席の田辺(たなべ)がスッと床に屈んだ。
「これ、カバンから落ちたよ」
「え?」
差しだされたものをてのひらに受け取って、清花はきょとんとした。
黄ばんだ紙切れだった。それも、ちょっと厚手の。くしゃくしゃに丸められて、紙の繊維まで柔らかくなってしまっている。
「何だろ」
こんなもの、カバンに入れた覚えはない。紙を広げて、机のうえで伸ばす。名刺大の紙の内側は、セピアっぽく色がついていた。しわがついた部分は、筋状に白い繊維が飛び出してしまっている。
「モノクロ写真?」
教科書に載っている江戸末期や明治時代の人物写真に似ている。背景がシンプルなのは、写真館かどこかなのだろう。大きな花瓶だけは見てとれる。
改めて見返すと、確かに中央に人物らしきものが写っていた。でも、一度丸められ、用紙が傷んでしまったせいか、人物の顔かたちどころか性別や服装すらも、よくわからない。
「変なの」
つぶやいて、清花は写真を二つ折りにした。自分のものではないけれども、ここまで傷んだものを取っておいてもしかたがない。教室を出る間際、ぽいっとゴミ箱に投げ入れ、おしまいにした。
──満員のときくらい、暖房切ってくれないかなあ。
腋下を、汗が伝い落ちる。セーラー服やコートの裏地のポリエステルは、寒い屋外でこそ重宝するものの、こうも暑い環境では、じっとりと肌に湿気をこもらせてしまい、不快感を増すばかりだ。
清花は汗にぬめる指で何度もつり革を握りなおし、目の前に座る乗客の頭ごしに、窓の外を見やった。窓はうっすらと白く曇っているが、景色がまったく見えないほどではない。
見慣れた車窓の風景に目をこらす。同じひとの日常が日々垣間見えると、得をした気分になる。マンションのベランダで洗濯物を干すおばさん。その足下で柵を掴みながら、こちらを指さす幼児。踏切が開くのを自転車にまたがったままで待つ男子学生。スマホに夢中でひどい顔になっているおしゃれな女性。同じ時間の電車に乗れば、車窓に同じ人物を見かけることは、意外に多いものだ。
窓の外のだれかにフォーカスして、そのひとの状況を推測したり、交わしている会話を妄想するのは、手元で本を読んだり、スマホをいじったりするよりも、ずっと面白かった。
趣味が悪いとは、自分でも思っている。それでも、ひとに知られなければいい。単に窓の外を見ている人間なら、この電車の一両のなかにだって大勢いる。その目的がある種ののぞきだったからと言って、傍からわかるものでもないのだ。
清花が乗るのは、上りの快速特急の電車だ。各駅停車しか停まらない通過駅が六つも続き、大きなターミナル駅の横浜駅に着く。そこで一度改札口を出て、別路線の下りに乗り換え、三駅目が学校の最寄り駅である石川町駅だ。
カーブでカバンが持っていかれる。どうにか手元に取り戻したものの、横浜駅まではまだ、十数分ある。息苦しさを紛らわそうと窓の外を注視していると、ふと、通過駅のひとつで気になる人影を見つけた。
目立つ女性だった。目深にかぶった白いつば広帽子は、真っ赤なリボンがアクセントになっている。帽子の下に流れる長い黒髪。まとっているのは、ミモレ丈のシンプルなノースリーブワンピースだ。紺色の布地はすとんとしている。足下は赤いハイヒールのサンダル。まるで真夏のリゾートにいる女優のような風体の女性が、向かいのホームの端にぽつねんとたたずんでいる。
清花から彼女が見えたのは、ほんの一瞬だった。何しろ、ここは通過駅に過ぎない。
だが、印象は強かった。季節外れの服装もさることながら、帽子のつばから覗いた口元にやはり赤いルージュが引かれていたから、だけではない。その口元が、歯をむき出しにして、大きく笑っていたからだった。
──何に対して?
考える間もなく、ターミナル駅に到着するとの車内アナウンスが流れる。電車がホームに入る直前、タイミングをみてドア近くに移動しようとしたとき、すぐ背後に立っていた男子学生と目が合った。
彼はうろたえたようすで顔をそむけ、自分もドアのほうへとからだを向ける。見知らぬ顔だ。少なくとも、同じ学校の制服でもないし。
電車が停止する。他の乗客も次々にドアを目指して動きはじめる。
相手の態度を訝しく思いながらも、清花は特に問いただすこともせず、自分も周囲の流れに乗って、ドアへむかう行列に加わった。
一時間目に体育がある日は、憂鬱だ。運動はあまり得意ではない。走るのが遅いとか、鉄棒の逆上がりがいつまでもできないとか、跳び箱がせいぜい五段しか飛べないとか、そういう小さな不得意が積み重なると、体育の授業なんてちっとも楽しくなくなる。マシなのは、バドミントンや卓球くらいのものだ。
清花はおっくうな気持ちを押し殺しながら、カバンから体操服入れを取り出して、のろのろと着替える。朝の電車で湿った制服が、今度は静電気を起こすからたまらない。
髪をなでつけていると、隣の席の田辺(たなべ)がスッと床に屈んだ。
「これ、カバンから落ちたよ」
「え?」
差しだされたものをてのひらに受け取って、清花はきょとんとした。
黄ばんだ紙切れだった。それも、ちょっと厚手の。くしゃくしゃに丸められて、紙の繊維まで柔らかくなってしまっている。
「何だろ」
こんなもの、カバンに入れた覚えはない。紙を広げて、机のうえで伸ばす。名刺大の紙の内側は、セピアっぽく色がついていた。しわがついた部分は、筋状に白い繊維が飛び出してしまっている。
「モノクロ写真?」
教科書に載っている江戸末期や明治時代の人物写真に似ている。背景がシンプルなのは、写真館かどこかなのだろう。大きな花瓶だけは見てとれる。
改めて見返すと、確かに中央に人物らしきものが写っていた。でも、一度丸められ、用紙が傷んでしまったせいか、人物の顔かたちどころか性別や服装すらも、よくわからない。
「変なの」
つぶやいて、清花は写真を二つ折りにした。自分のものではないけれども、ここまで傷んだものを取っておいてもしかたがない。教室を出る間際、ぽいっとゴミ箱に投げ入れ、おしまいにした。
0
お気に入りに追加
1
あなたにおすすめの小説
朧《おぼろ》怪談【恐怖体験見聞録】
その子四十路
ホラー
しょっちゅう死にかけているせいか、作者はときどき、奇妙な体験をする。
幽霊・妖怪・オカルト・ヒトコワ・不思議な話……
日常に潜む、胸をざわめかせる怪異──
作者の実体験と、体験者から取材した実話をもとに執筆した怪談短編集。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
本当にあった怖い話
邪神 白猫
ホラー
リスナーさんや読者の方から聞いた体験談【本当にあった怖い話】を基にして書いたオムニバスになります。
完結としますが、体験談が追加され次第更新します。
LINEオプチャにて、体験談募集中✨
あなたの体験談、投稿してみませんか?
投稿された体験談は、YouTubeにて朗読させて頂く場合があります。
【邪神白猫】で検索してみてね🐱
↓YouTubeにて、朗読中(コピペで飛んでください)
https://youtube.com/@yuachanRio
※登場する施設名や人物名などは全て架空です。

こちら御神楽学園心霊部!
緒方あきら
ホラー
取りつかれ体質の主人公、月城灯里が霊に憑かれた事を切っ掛けに心霊部に入部する。そこに数々の心霊体験が舞い込んでくる。事件を解決するごとに部員との絆は深まっていく。けれど、彼らにやってくる心霊事件は身の毛がよだつ恐ろしいものばかりで――。
灯里は取りつかれ体質で、事あるごとに幽霊に取りつかれる。
それがきっかけで学校の心霊部に入部する事になったが、いくつもの事件がやってきて――。
。
部屋に異音がなり、主人公を怯えさせる【トッテさん】。
前世から続く呪いにより死に導かれる生徒を救うが、彼にあげたお札は一週間でボロボロになってしまう【前世の名前】。
通ってはいけない道を通り、自分の影を失い、荒れた祠を修復し祈りを捧げて解決を試みる【竹林の道】。
どこまでもついて来る影が、家まで辿り着いたと安心した主人公の耳元に突然囁きかけてさっていく【楽しかった?】。
封印されていたものを解き放つと、それは江戸時代に封じられた幽霊。彼は門吉と名乗り主人公たちは土地神にするべく扱う【首無し地蔵】。
決して話してはいけない怪談を話してしまい、クラスメイトの背中に危険な影が現れ、咄嗟にこの話は嘘だったと弁明し霊を払う【嘘つき先生】。
事故死してさ迷う亡霊と出くわしてしまう。気付かぬふりをしてやり過ごすがすれ違い様に「見えてるくせに」と囁かれ襲われる【交差点】。
ひたすら振返らせようとする霊、駅まで着いたがトンネルを走る窓が鏡のようになり憑りついた霊の禍々しい姿を見る事になる【うしろ】。
都市伝説の噂を元に、エレベーターで消えてしまった生徒。記憶からさえもその存在を消す神隠し。心霊部は総出で生徒の救出を行った【異世界エレベーター】。
延々と名前を問う不気味な声【名前】。
10の怪異譚からなる心霊ホラー。心霊部の活躍は続いていく。
すべて実話
さつきのいろどり
ホラー
タイトル通り全て実話のホラー体験です。
友人から聞いたものや著者本人の実体験を書かせていただきます。
長編として登録していますが、短編をいつくか載せていこうと思っていますので、追加配信しましたら覗きに来て下さいね^^*

変わった音
川輝 和前
ホラー
何かがあるわけじゃない。けれど、不気味で気持ちの悪い出来事。私の身にそれがおきたのは、高校二年生の夏のことでした。
親戚のおじさん、おじさんから聞いた話から始まる奇妙な出来事。そして、そこから聞こえてくる音が日常を一変させる。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる