『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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三十ニ 秋の催事

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 催事場は、新宿にある老舗デパートの特設会場に置かれる。出展のための商品は、すでにデパートの担当者宛てに配送してあるので、千草もあさぎも最小限の着替えのみで身軽な旅だった。とはいえ、あさぎの染めてくれた大事なワンピースと、試験勉強用の参考書類は千草が持ったので、小さなDバッグひとつとはいかない。

 昼の早いうちにデパートへ出向き、商品がきちんと届いていることを目視で確認すると、あさぎは担当者と挨拶がてら、明日の段取りを軽く打ち合わせに入る。千草はただの売り子だからと、そちらには参加せず、荷物だけ預かって、ひとりでビジネスホテルにチェックインした。

 これから一週間も泊まるホテルだが、想定通り、広々とした部屋ではない。ツインの狭苦しい部屋の窓際まで、あさぎと自分の荷を運び込むと、どっと疲れが押し寄せた。

 飛行機も朝早くの便だったし、デパートやこのホテルにしても、空港から在来線を乗り継いでたどりついた。移動距離は大したものだと思う。

 それに、東京は暑かった。九月下旬だとは信じられないほどだ。これほどまでに気候が異なっていたのかと、千草は舌を巻いた。 

 だが、きっと、この疲労感のいちばんの原因は、人混みだ。しばらくぶりに人波をかきわけてあるいてみると、周囲の意思を絶えず読みとりながら、ぶつからぬように進むことが、どれだけ気を張る行為なのか、あらためて思い知る。まっすぐ行きたい、追い抜きたい、横切りたい。そんな意思のやりとりがひっきりなしに繰りかえされるのは、予想以上に息が詰まった。

 徳島に帰郷するまで、こんな環境に身をおいていたのだ。自分でも気づかぬうちに、自分の意思を封じ込めることに慣れ、感覚が麻痺していたのかもしれない。

 それにつけても、あさぎはすごい。ひとの流れなど意に介さずにまっすぐ歩いていけるのだ。周囲から聞こえてくる意思のすべてにいちいち応える必要がないのだと、あさぎを見ていると驚かされる。いや、あさぎが発する意思が、周囲に伝わりやすいのかもしれない。

 あさぎは足元もろくに確かめない。ただ、目指す場所を見て、そちらにむかって歩くことができる。案外、そうして目標物を見つめる人間というのは、人ごみのほうから避けてくれるのだ。はっきりと意思表示をしてもらったほうが相手も動きやすいし、対応しやすい。そのことは、あたりに目配りを続けていた千草にも、よく理解できた。

 スーツケースからワンピースを取りだし、しわにならないようにクローゼットにかける。参考書と筆記用具も出してきて、ベッドにうつ伏せになりながら、内容を復習する。マーカーの引かれた重要箇所をふりかえり、頭にたたき込みつつも、別のことが脳裏をよぎる。

 どうやったら職場の女性陣に気に入ってもらえるかとか、どうしたら恋人を怒らせないで済むかとか、どうやって祖父を説得するかとか、そうしたことにばかり目を向けてきた。周りの目ばかり気にしていた。職場で痴話ゲンカを繰り広げてしまって、いたたまれなくて、保険営業の仕事を辞めた。藍師の孫娘と言われるのに辟易して、無知が恥ずかしくて蒅づくりに手を出した。どうか辞めないでくれと言われて役場にとどまり、勧められるがままにこうして公務員試験にむけて勉強している。

 どこに進みたかったのか、自分でもわからなかった。ただ、ペンを握る指先は、あさぎと同じように青く染まっている。すでにすっかりと生活の一部に組み込まれている藍染めを仕事にする気はない。それだけの才覚がないことだけは、はっきりとわかっている。

 夕食の時間が近くなったころ、あさぎはようやく部屋にやってきた。観光ができるのは前泊の今日だけだからスカイツリーに上ってきたとか、テレビで見たどこどこの店でお茶をしたとか、そんな話に耳を傾けながら、ホテル内の食堂にむかい、素っ気ない夕食を摂る。明日からは外食続きになる予定だから、洋食にしてはあっさりした内容でも不満はなかった。

「今日ね、叔母さんが駅の混んでるところとかを上手に歩いてるのみて、なんかすごいなって思った」
「すごいって、何が?」
「わたし、すぐひとにぶつかりそうになったり、ひとを避けるのに一所懸命になって人酔いしたりするんだよね」

 説明しながら、劣等感に食事の手が止まる。千草のようすを見て、あさぎは首を傾げる。

「見たいほうを見て歩くだけやないの」
「──それが難しいんだってば」

 案の定、このひとには伝わらないのか。もどかしさよりも敗北感のほうが強い。そのまま自然消滅的に話題を終わらせようとしていたのに、あさぎは少し考えるそぶりを見せたあと、口を開いた。

「まわりを気にしすぎなんちゃうん? だれかの考えに引きずられても、ええことなんてない。……人間も、藍建てと似とると思わん? 染め液を均一に発酵させようとして混ぜ過ぎると、酸化して青みが出るし、ぶくぶくと泡が出るの。染め液が青いと、もう上手くは染まらんのよね。うつくしい色を出し続けるためには、下手に混ざる必要は無いし、染め液の見た目や色味が多少悪うても、自信があるなら気にせんのがいちばん。ちーちゃんは、ひとのことなんか気にせんで、ちーちゃんの思うとおりで、ええのよ」

 あさぎは食堂からの戻りがけに自動販売機でビールを買って、部屋に戻るや否や、いい音を立ててプルタブを引いた。

「飲む?」

 誘いを断って、千草はベッドに座り、あさぎがグラスにビールを注ぐのを見つめた。

「ちーちゃんはおとなしいし、わがままも言わんし、公務員に向くのかしら」
「叔母さんのイメージする公務員がどんなものかはよくわかんないけど、実際は単なるサービス業だよ。マニュアルに従うか、法令に従うかの違いしかないもん」
「そういうもの? じゃあ、職人とも変わらんね」

 おつかれと、だれにともなくつぶやいて、あさぎはグラスにくちびるをつける。

「似てるかなあ? 職人ってもっとクリエイティブなイメージがあるんだけど。特に、染め師って、いろいろ新しいものに挑戦していかなきゃいけないんじゃないの?」
「そんなことないわよ。職人なんて、愚直なまでに基本に忠実に、何度も何度も何度も教わったことを繰りかえしていって、あるとき、ふと、基本を外れたところに見えるものがあるかどうかって世界よ。そこへ至る道が見えてくるまでにも時間がかかるし。製造業なのに、創造性とは激しく無縁よ。いきなり新しいことなんてできんの。まずは、基本をたたき込まな。必要なのは、素直さなの。我が強いのも、思い込みが激しいのも、職人には向かん」

 ぐいとビールをあおって、あさぎは空のグラスの壁を伝っていく泡の残りを見下ろす。

「前にも言うたでしょ、あたしには芸術的なセンスやファッションセンスはないって。そんなもの、あるひとのほうが少ないんちゃうん? デザイナーや塗師と御縁があったけんよかったけんど、そうでなかったら、できなんだ作品はようけあったと思う。松葉くんにも話したけど、船渡さんが亡くなったのは、惜しかったわ」
「──松葉さんが、何の関係があるの?」

 聞きとがめた千草をふりかえり、あさぎは首をかしげかけ、ハッとしたようすで口元を手で押さえた。

「やってしもうた。内緒やったのに」

 どういうことかと問い詰めると、あさぎは渋々、白状した。

 千草の持っているあの金魚の柄のハンカチ、須原が求めたあの型を作ったのは、松葉の祖父なのだと、あさぎは言った。

「父方のおじいさんらしいのよ。松葉くんは、小さいころ、何度かおじいさんに連れられてウチにきたことがあるの。松葉って苗字は母方のものらしいから、当時は別の名前やった。ほなけん、最初は気づかなんだけんど、こないだ、家ぇ寄ったら声かけられてね。それで、あたしもやっと思い出したのよ。あの日、ちーちゃんが火傷したとき、ちーちゃんはひとりじゃなかった、この子があたしを呼びにきたんやって。そう考えて顔を見てみれば、面影が残っとるのよねえ」
「……嘘でしょ」

 口からこぼれたのは、そんなことばだったが、もう逃れようがない事実なのだと、千草は知っていた。外堀から埋めるように事実を積み上げていた松葉のことばを思いおこす。決定打は、ごく身近なところにあったのだ。

「松葉さんは、知ってるの?」
「うん、話したわよ」

 それでは、知っていながら、知らない振りをし続けてくれたということか。

 千草はすかさずスマホを手に取った。松葉へのLIMEの画面を開いて、メッセージの作成に手間取る。

『あさぎ叔母さんから、聞いたよ』

 数秒で既読がつく。松葉からの返信はやや間をおいたものの、非常に短かった。

『今度、面と向かって話そう』

 脳内で再生される松葉のことばは、穏やかな声音で響く。いささかの動揺も見られない筆致に、ドキドキしているのは自分だけだと悟る。こんなかたちで知るのでなければ、ここまで驚かなかっただろう。

 まだ、徳島に戻るまで一週間もある。そのことがこれほどもどかしい気持ちになるなんて、あちらを発つときには思いもしなかった。
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