『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

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三十一 退職と藍の寝床

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 役場での昼休み、自席で公務員試験の勉強をしていると、喫煙所から戻った課長が思い出したように千草に声をかけてきた。

「おたくに世話になっとった女の子、辞めたんやって? 堪え性がないよな、まだ三か月かそこらだっていうのに」
「──え?」

 うちに世話になっていたとは、だれのことだ。一瞬、話がみえなくて混乱したが、女の子ということばに立ちどまる。

「辞めたんですか、須原さん」
「あれ? 知らなんだ? 辞めたらしいよ、先週のうちに引っ越しとったみたいで、ついさっき、郵送で転出届が届いたって」
「課長。退職後の住所異動なんやけん、口外無用ですよ」

 山田が諫める。課長は頭をかいたが、椅子に腰をおろすと、不満げにくちびるをとがらせた。

「なんやよ、退職を知っとったなら、もっと早う教えてくれよ、山田くん」
「うちの業務には関係ありませんからね。それに、深見さんが知らんってことも知っとったけん」
「なんや、そりゃ。ごっつい事情通やないか」

 どういうことかと、課長がうるさく聞くのに辟易したらしく、山田はため息をつくと、箸を置き、弁当から顔をあげた。

「深見製藍所に挨拶もなしに帰ってしまったらしいんですよ。弥吉さんのところに課長と詫びを入れに行かなと、同期がぼやいとったものですから」
「散々世話になったろうに、ひとことも無しか! はあ、さすがやな。最近の若い子はメールやLIMEで退職を申し出るとは聞いたことがあるけんど、それすら無いとは、いやはや世も末やな」
「ほんとうですよ、藍作りも、これからが忙しい時期だというのに」

 須原のことが完全な他人事として世間話のネタになっているのを耳にして、千草は呆然となった。いつのまにか、参考書のページを押さえていた手は外れて、本が閉じている。それをもう一度開く気にもならずに、指はスマホを辿っていた。

『須原さん、辞めちゃったの?』

 松葉にLIMEする。あちらも昼の休憩はあるが、忙しいのだろう。既読はつかない。

 けれど松葉は、きっと知っていただろう。神田も、耳にはしていたのかもしれない。よもや、千草や祖父が知らないとは、思いも寄らなかった。たぶん、ただ、それだけのことなのだろう。

 千草は返信を待ちかねて、参考書を開き、シャープペンシルを手にとった。何度も同じ箇所を読みかえし、諦めて栞を挟む。

 自分のせいなのか。

 あさぎから藍染めを教わったのが、須原ではなく自分だったからなのか。それが、せっかくの仕事や環境をなげうつほどの衝撃だった? それとも、藍粉成しの日、神田が言い放ったことばが鋭すぎた?

 何が原因なのかなんて、千草にはわからなかった。あるいは、思いつくすべての物事が影響したのかもしれなかった。

 あの日、あさぎの工房で、ほんの少しこころが通ったように感じた。それなのに、結局、須原とは友人になり損ねたままだった。あの曖昧な関係性ですら、もう取り戻せないのだと思うと、ちょっぴり切なかった。



 八月に藍草の二番刈りを終えたころ、千草は上板町役場に公務員試験の申し込みをした。第一次試験は筆記だ。試験日は、九月二十七日の日曜日だと募集要項に書いてあった。ちょうど、東京でのあさぎの催事の手伝いを終えて次の日曜日にあたる。試験日程を聞いたあさぎは、気がかりそうにしたが、手伝うと決めたのは千草だ。東京行きも譲らなかった。

 求めていたワンピースは、仕立て上がってすでに手元にある。懐はだいぶ痛んだが、満足なできあがりだ。だが、まだ、これを染める勇気は出ない。

 あさぎは口では、千草が作るワンピースが催事で着る衣装だと言っていたが、自分でも構想があったようで、つい先日、そちらもできあがっていた。

 透けるほど薄い生地をふんわりと幾層か重ねてつくられたノースリーブワンピースだ。もとの布地と裏地はオフホワイトで、胸元のあたりにだけ、その白が残っている。足元から腰のあたりまでは群青だ。近づいて、布を手に取ると、印象は変わる。実は、薄い生地の層の一枚一枚で色合いが異なるのだ。表にむかうにつれて、淡い色合いになるように重ねあわされている。層を重ねることで、ひかりをはらむ青は、透明感があって、非常にうつくしい。

 ひとめ見たとたんに、これは、自分にはできない仕事だと、千草は思い知った。丹念に染め分けた布地を持ち込んで、縫製してもらっただけ。あさぎなら、そういうだろう。あたしは染めただけだと。でも、そうではない。

 どうすれば、藍がもっとも輝くかを知らなければ、こうはできあがらないのだから。

 経験が足りない。自由に楽しく染められれば上出来のはずの趣味の藍染めだ。それなのに、千草はあさぎの作ったワンピースをみて、急に臆病になった。

 本畑の藍が白い花をつけ、葉藍の寝せ込みの支度が始まるころには、蒅づくりの工程は、千草にとっては未知の領域に入った。

 深見製藍所の藍の寝床は、九床ある。寝床というのは、単に場所を指すことばではない。屋内に籾殻や粘土などを敷き固めて、やや高く盛り、水はけをよくしたものだ。そうした施設が、九つあるという意味合いだ。

 藍の寝床は、生ものゆえに、数年おきに作り替えを要す。今年これが作り替えられたのは、どう考えても、若い男手があるからに違いなかった。

 寝せ込みを始める九月中旬を前にして、千草は祖父や職人たちとともに、寝床づくりから、みっちりと仕込まれることになった。

 もとの床を剥がして掃除をして、一番底には小石を厚めに三十センチメートルも敷く。さらに、やや粒の細かい川砂、籾殻、砂と層を重ねていく。最後に粘土を三センチメートル、その粘土を細かく砕いたものを同じだけ広げ、水を打つ。それぞれの工程で全体を平らにならしながら打ち固めて仕上げる。

 もとの地面から階段二段ぶん、千草の膝の高さよりは少し低いくらいになった床も、建物も、すべては保温と通水のためにある。寝せ込みは、大量の水を使い、葉藍を発酵させていく工程だからだ。

 一床あたり、葉藍は三千キログラム。藍粉成しで乾燥させたぶんだけ、目に見える嵩は増える。そこへ同じ重量の水を混ぜながら、一メートルほどの高さに積み上げていく。これを九つ続ける。

 四つ熊手で切るようにして、木鋤に似たはねで底から返し、竹熊手で細かく混ぜる。四つ熊手というのは、熊手というが、見た目は木鍬だ。歯は太く四本だけで、小さいころ見たとき、まるでカバの歯のようだと思ったのを思い出して懐かしくなった。

 五日後に、葉のうえに水を打った。水を吸った葉藍を底から切り返し、台形にならす。こめかみを伝う汗をタオルで拭い、上がった息を整える。農作業なんて目ではないほどの重労働だったが、神田も松葉も黙々と祖父の指示に従っていた。神田のおちゃらけた態度はなりを潜め、彼は以前よりもおとなしく真面目になったように見えた。いや、もしかしたら、これが松葉の知っていた「ほんとうの彼」なのかもしれない。

 並行して、花の終わった本畑の藍はすべて取り除いた。深見の藍畑では他に何も作らないが、よその畑は二毛作や三毛作が主流らしい。二番刈りが終われば、花を待たずに他の作物を蒔く。それを刈り取ったら、麦を蒔く。麦の畝のあいだに藍の苗を植えると、日よけや風よけになってよいのだと、物の本にも書いてあった。深見では、蒅づくりの規模が大きいぶんだけ、農家としての側面にはあまり重きがおかれていないのだろう。

 寝せ込みの期間は、五日ごとに葉藍に水を与え続ける。一回目は一番水、二回目は二番水と回数を数えていき、五番水のあたりで二番刈りの葉を加える。寝せ込みの終わりは十七番から二十番。それが終われば、蒅ができあがる。夕飯の席で寝せ込み全体の工程教えられ、五番水の日を指折り数えてみると、ちょうど十月一日だ。よかった、一次試験とも催事ともかぶらなかった。だが、三番水も四番水も参加できない。催事の手伝いで、明後日には徳島を離れてしまうからだ。

 そのあいだに、葉藍はどれだけようすを変えるだろうか。幼い自分が火傷をしたというのは、時期を考えればそのころのはずだが、当の千草は、今年はその場に居合わせられない。そう考えると、少し惜しい。

 ──また来年、見る機会がある。

 思いながらも、来年も藍づくりに関わるつもりなら、公務員試験の受験申込をしたのはなぜなのか。そもそも、須原と仲良くなりたいなんて口実が嘘であったことだって、この状況だ、父も祖父もわかっているだろう。許されているのだ、千草に何の理由がなくても藍に関わってよいのだと。

 それからも、ぐるぐると考えがまとまらないまま、千草はあさぎに伴われて徳島を発ち、東京にむかった。
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