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二十七 会いたかったひと
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作業場に残っていた面々は、違う話題に鼻を咲かせていたようだが、あさぎと千草が帰ってきたことで、それぞれにテーブルの席に着いた。
チーズタルトの感想を述べたり、千草と同じくカップホルダーに目をつけたりと、初めのうちこそ話題が続いたが、やがて、おしゃべりは自然と収束していく。神田が須原に話を振ったのは、そんな頃合いだった。
「あやかちゃんは、これまでにも藍染めの講座に行ったことがあるの?」
須原はカップをテーブルに置き、からだごと神田にむける勢いで話に乗った。
「うん、関東で行ける範囲のものはいくつか行ったわ。でも、どこも一時間か一時間半でおしまいなの。一度だけ布を甕につけて、藍色に染まったね、で、終わっちゃうのよ。物足りないったらないわ」
あさぎは口も挟まず、ゆっくりとタルトを楽しんでいる。須原は自分の経験を誇示しているようだった。わざとあさぎに聞かせるような声量で言いつのる。
「講習の代金って、どこも結構するのに、たった一度なんて、ひどいと思わない? 染める材料の素材ごとにグラム単価を決めているところなんかはよく見たわ。染め液を布地が吸うからかしらね。ウールだと高かったり、一〇〇グラム超えると一気に値上がりしたり。たとえば、さっきのハンカチは五十グラムくらいの品だから、グラム単価が五十円だとしたら二千二百五十円。プラス、一律の授業料を取るところも見たことがあったわ」
須原の独壇場になってしまったことに、神田は完全に失敗を悟った顔つきになっている。千草は助け船を出すべきか迷ったが、松葉は話者を変えることにしたようだった。
「あさぎさん。こちらの講習って、おいくらなんですか? 俺たち、千草さんに任せっきりで、知らなくて」
「半日コースで三千円」
事実だけをさらりと述べて、あさぎはカップを傾ける。
「なんべんでも染めてもうて構わんけんど、甕をかき混ぜるのだけはやめてね」
明らかに須原の話題への当てこすりだなと思ったが、残念ながら相手は鈍感だった。
「あら、お手頃」
価格を聞いた須原は眼鏡の奥の目を細め、意外そうにする。
「千草さん。内緒にしてたってことは、おごるつもりだったな?」
断定的に松葉に言われて、ぎくっとしながら目をそらす。松葉はさらに自分が着ている白Tシャツの裾をつまんだ。
「これのお金も、講習代金も、自分のぶんは自分で払うから。俺たちはお客さんのつもりじゃないし、千草さんもホストじゃない。そうでしょう?」
「──はい」
やんわりとたしなめられて、しょげかえる脇で、須原はまたとんでもないことを言いだす。
「あさぎさんはお弟子さん取ってらっしゃるんですか? 私、弟子になりたいなあ」
「弟子を取るつもりやったら、教室はやらんなあ」
笑ってかわし、あさぎは腰をあげる。そろそろ、布を引き揚げるころあいだった。
藍甕の底から布を引き揚げるときは、どれがだれのものかわからなかったが、糸の結びかたで見分けて、それぞれに急いで防染の糸を切った。水を湛えた流しにつっこんで、あさぎを見習って豪快にじゃぶじゃぶと洗う。ハンカチは一気に発色して、藍色になる。
「このままでも味があるけんど、今回は、この残った白地部分も浅い色に染めるからね」
あさぎの号令で、ぞろぞろと建物裏の階段を上る。屋上の物干し竿に腕を伸ばして洗濯ばさみをつまみ取ると、神田が隣に立った。
「前から思ってたけど、千草ちゃんって、階段のぼるときの姿勢、きれいだよね」
「えっ、そうかな? そんなこと、初めて言われた」
神田のまっすぐで裏のない褒めことばに気恥ずかしくなる。むこうでハンカチを一度音を立てて広げた松葉が、少しふてくされたようすで言った。
「そりゃあ、東洋海産みたいな五階以上あるビルの非常階段を上り下りするくらいだ。よそでも日々、同じことをしていたなら、運動不足の俺たちとは、体幹の鍛えられかたが違うだろうな」
「すごい、一階から? 松っちゃんと僕のいたフロア、六階なのに。階段使うひとなんて、滅多にいないよ?」
恐れ入ったようすで神田はジェスチャーで『ひええ』という動きをしてみせ、軽やかに階段をおりていく。おどけた仕草に笑いながら、千草もそちらへ足をむけると、うしろから悔しそうな声が届いた。
「……俺だって同じことを思っていたのに」
ぽんと松葉の肩をたたくふりだけして、あさぎが下へいく。千草は数段下から、松葉を見上げた。
「じゃあ、言ってよ。わたし、松葉さんの口から聞きたい」
微笑むと、彼は動揺したようすで顔を真っ赤にして動かなくなった。脇を通りぬけながら、須原がちらりと横目でこちらをみて、悪態をついていく。
「よそでやってくれる? 邪魔なんだけど」
はくはくとくちびるだけ動かして、うろたえる松葉に、千草は一歩近寄った。須原の足音が消えるまで待ってから、おなかにぐっと抱きつく。
「千草さんは、いつだってきれいだ」
小さな声に笑う。姿勢を褒めてくれるはずだったのに、違うことばになってしまった。
キスをしようと彼の胸に手を当て、背伸びをしてみて、あっ! と気づく。気づいただけではなくて、声が出た。
「ごめん、手型ついちゃった」
「えっ、あ、ホントだ」
松葉の背中に、くっきりと抱きついた千草の手のあとが残っている。そうか、だからあさぎは、肩をたたくふりだけしていったのか。
たぶん、ゴム手袋を脱ぐときに染め液がついていたのだろう。てのひらを広げ、松葉と見せ合う。まだらに青く染まった肌は見慣れないが、勲章みたいで悪くないと思った。
藍染めの帰り道、運転席と助手席に並んで座りながら、千草は思い切って、例の人捜しについて、松葉に尋ねてみた。
「昼の話の続きだけど、見つかったんでしょう? ピースが足らないって、どういうこと?」
水を向けると、松葉は少し言いにくそうにした。やはり、女性なのかと、不安になる。
「……目星はついたけど、決め手に欠ける。俺の記憶のほうに、抜けや曖昧な部分が多すぎるんだ」
「たとえば?」
「徳島にいた正確な時期がわからない。戸籍謄本を見れば、離婚の時期はわかる。離婚協議にどのくらいの時間を要したのかは、母にもはぐらかされてきたから、わからない。俺がここにいたのは、両親の話しあいのあったころのはずなんだ」
運転中は、聞きにくい話にはもってこいだと思う。だって、相手の顔を真正面から見なくていい。気まずい思いになりながら、答えを待つのなんて、まっぴらだ。
「離婚は十月。俺には、転校の記憶がない。阿波弁を話す友人はいなかった。だから、あれは夏休みだったと思う。夏休みに入るか入らないか。親戚に預けられて、そのまま九月を少し過ぎたころに迎えが来たんだ、たぶん」
謎にむきあう探偵のように、松葉は確実に足場を固めていく。
「そっか、そうだよね。松葉さん、藍粉成しを見たって言ってたものね。あれは七月ごろだから、確かにちょうど、時期は合ってる」
「徳島には藍師は五軒きり。それぞれの家に電話で問い合わせてみたが、藍粉成しの工程を屋外で行っているのは、──深見製藍所だけなんだ」
信号待ちのタイミングで爆弾を投下するのはやめていただきたい。千草は、息をするのも忘れて、松葉を振り向いた。彼の発言の真意を探ろうと、目を合わせ、ゆっくりと息を吐きながら、なんとか笑う。
「いまは、でしょ? 二十年前は、どこも庭でやっていたんじゃないの?」
「そうかもしれない。記憶がたよりで、正確な方法を調べる手段もない。作業場を建てたり乾燥機を購入したりした時期なんて、理由付けが難しくて、おいそれと聞けないしな」
「松葉さんの見た藍粉成しの風景がうちの庭のものだったとして、それって、住んでいた地域の特定にしか役立たないよね? 預けられていたおじいさんの家の住所はわかってるの?」
後続車からクラクションを鳴らされて、あわてて前に向きなおる。だが、気持ちは完全に松葉のほうをむいていた。
「母の離婚以降会っていないし、葬式が十年前だから、住民除票も戸籍の附票もたどれなかった。住所がわからなくて家にたどり着けない」
否定を繰りかえしながらも、松葉はもどかしそうだった。
「──本籍と住所が同じだったりは?」
「しなかった」
松葉がたどり着こうとする先を、きっと、千草は知っていた。松葉の父方の祖父のご登場を願うまでもない。松葉が会いたいひとはたぶん、千草の知る範囲にいるだれかだ。
「深見製藍所にお世話になると聞いて、同じ苗字を持つ千草さんのことが気にかかっていた。もしかして、と考えては、馬鹿らしい考えを自分で否定した。でも、千草さんが空港に迎えにきたとき、確信したんだ。俺の直感は間違っていなかったって」
「どういう、意味」
千草は混乱しながら、うしろを気にした。後部座席のふたりは、こちらの会話が聞こえていないのか、割って入ろうともしない。いや、あちらはあちらで何か盛り上がっているのか。
「千草さんの手首の火傷は、俺のせいで付いたものだ」
「……違う。わたしの火傷は、だれのせいでもないもの」
強い口調で否定して、千草は自分に苛立った。こんなふうに言いたくはないのに。だが、もっと言い張るかと思った松葉は、千草のことばを受けて、あっさりと引き下がった。
「どの路地にも見覚えがあるように思えるんだ。植えられはじめた藍畑や、藍粉成しの情景、製藍所の建物を見て、激しい既視感に襲われて、最後に、あさぎさんに会った。頭のなかをかき回されているみたいだ」
松葉は屈みこむように顔を両手で覆う。意思の強そうな目も太い眉も見えないでいると、松葉の気配はどこか不安げに感じられた。
「俺は何をしに来たんだろうと、毎晩、布団のなかから天井を見ながら考える。まだ、こちらに来て、ひとつきも経たないのに。謝りたいと思って、そのひとを探しているはずが、何か手がかりが出るたびにどれもこれも、千草さんと結びつけてしまう」
「──それじゃ、いつまでも見つからないよ」
「おっしゃるとおりで」
苦笑が聞こえる。でも、それは、とても静かで、ちょっと疲れたような響きだった。
チーズタルトの感想を述べたり、千草と同じくカップホルダーに目をつけたりと、初めのうちこそ話題が続いたが、やがて、おしゃべりは自然と収束していく。神田が須原に話を振ったのは、そんな頃合いだった。
「あやかちゃんは、これまでにも藍染めの講座に行ったことがあるの?」
須原はカップをテーブルに置き、からだごと神田にむける勢いで話に乗った。
「うん、関東で行ける範囲のものはいくつか行ったわ。でも、どこも一時間か一時間半でおしまいなの。一度だけ布を甕につけて、藍色に染まったね、で、終わっちゃうのよ。物足りないったらないわ」
あさぎは口も挟まず、ゆっくりとタルトを楽しんでいる。須原は自分の経験を誇示しているようだった。わざとあさぎに聞かせるような声量で言いつのる。
「講習の代金って、どこも結構するのに、たった一度なんて、ひどいと思わない? 染める材料の素材ごとにグラム単価を決めているところなんかはよく見たわ。染め液を布地が吸うからかしらね。ウールだと高かったり、一〇〇グラム超えると一気に値上がりしたり。たとえば、さっきのハンカチは五十グラムくらいの品だから、グラム単価が五十円だとしたら二千二百五十円。プラス、一律の授業料を取るところも見たことがあったわ」
須原の独壇場になってしまったことに、神田は完全に失敗を悟った顔つきになっている。千草は助け船を出すべきか迷ったが、松葉は話者を変えることにしたようだった。
「あさぎさん。こちらの講習って、おいくらなんですか? 俺たち、千草さんに任せっきりで、知らなくて」
「半日コースで三千円」
事実だけをさらりと述べて、あさぎはカップを傾ける。
「なんべんでも染めてもうて構わんけんど、甕をかき混ぜるのだけはやめてね」
明らかに須原の話題への当てこすりだなと思ったが、残念ながら相手は鈍感だった。
「あら、お手頃」
価格を聞いた須原は眼鏡の奥の目を細め、意外そうにする。
「千草さん。内緒にしてたってことは、おごるつもりだったな?」
断定的に松葉に言われて、ぎくっとしながら目をそらす。松葉はさらに自分が着ている白Tシャツの裾をつまんだ。
「これのお金も、講習代金も、自分のぶんは自分で払うから。俺たちはお客さんのつもりじゃないし、千草さんもホストじゃない。そうでしょう?」
「──はい」
やんわりとたしなめられて、しょげかえる脇で、須原はまたとんでもないことを言いだす。
「あさぎさんはお弟子さん取ってらっしゃるんですか? 私、弟子になりたいなあ」
「弟子を取るつもりやったら、教室はやらんなあ」
笑ってかわし、あさぎは腰をあげる。そろそろ、布を引き揚げるころあいだった。
藍甕の底から布を引き揚げるときは、どれがだれのものかわからなかったが、糸の結びかたで見分けて、それぞれに急いで防染の糸を切った。水を湛えた流しにつっこんで、あさぎを見習って豪快にじゃぶじゃぶと洗う。ハンカチは一気に発色して、藍色になる。
「このままでも味があるけんど、今回は、この残った白地部分も浅い色に染めるからね」
あさぎの号令で、ぞろぞろと建物裏の階段を上る。屋上の物干し竿に腕を伸ばして洗濯ばさみをつまみ取ると、神田が隣に立った。
「前から思ってたけど、千草ちゃんって、階段のぼるときの姿勢、きれいだよね」
「えっ、そうかな? そんなこと、初めて言われた」
神田のまっすぐで裏のない褒めことばに気恥ずかしくなる。むこうでハンカチを一度音を立てて広げた松葉が、少しふてくされたようすで言った。
「そりゃあ、東洋海産みたいな五階以上あるビルの非常階段を上り下りするくらいだ。よそでも日々、同じことをしていたなら、運動不足の俺たちとは、体幹の鍛えられかたが違うだろうな」
「すごい、一階から? 松っちゃんと僕のいたフロア、六階なのに。階段使うひとなんて、滅多にいないよ?」
恐れ入ったようすで神田はジェスチャーで『ひええ』という動きをしてみせ、軽やかに階段をおりていく。おどけた仕草に笑いながら、千草もそちらへ足をむけると、うしろから悔しそうな声が届いた。
「……俺だって同じことを思っていたのに」
ぽんと松葉の肩をたたくふりだけして、あさぎが下へいく。千草は数段下から、松葉を見上げた。
「じゃあ、言ってよ。わたし、松葉さんの口から聞きたい」
微笑むと、彼は動揺したようすで顔を真っ赤にして動かなくなった。脇を通りぬけながら、須原がちらりと横目でこちらをみて、悪態をついていく。
「よそでやってくれる? 邪魔なんだけど」
はくはくとくちびるだけ動かして、うろたえる松葉に、千草は一歩近寄った。須原の足音が消えるまで待ってから、おなかにぐっと抱きつく。
「千草さんは、いつだってきれいだ」
小さな声に笑う。姿勢を褒めてくれるはずだったのに、違うことばになってしまった。
キスをしようと彼の胸に手を当て、背伸びをしてみて、あっ! と気づく。気づいただけではなくて、声が出た。
「ごめん、手型ついちゃった」
「えっ、あ、ホントだ」
松葉の背中に、くっきりと抱きついた千草の手のあとが残っている。そうか、だからあさぎは、肩をたたくふりだけしていったのか。
たぶん、ゴム手袋を脱ぐときに染め液がついていたのだろう。てのひらを広げ、松葉と見せ合う。まだらに青く染まった肌は見慣れないが、勲章みたいで悪くないと思った。
藍染めの帰り道、運転席と助手席に並んで座りながら、千草は思い切って、例の人捜しについて、松葉に尋ねてみた。
「昼の話の続きだけど、見つかったんでしょう? ピースが足らないって、どういうこと?」
水を向けると、松葉は少し言いにくそうにした。やはり、女性なのかと、不安になる。
「……目星はついたけど、決め手に欠ける。俺の記憶のほうに、抜けや曖昧な部分が多すぎるんだ」
「たとえば?」
「徳島にいた正確な時期がわからない。戸籍謄本を見れば、離婚の時期はわかる。離婚協議にどのくらいの時間を要したのかは、母にもはぐらかされてきたから、わからない。俺がここにいたのは、両親の話しあいのあったころのはずなんだ」
運転中は、聞きにくい話にはもってこいだと思う。だって、相手の顔を真正面から見なくていい。気まずい思いになりながら、答えを待つのなんて、まっぴらだ。
「離婚は十月。俺には、転校の記憶がない。阿波弁を話す友人はいなかった。だから、あれは夏休みだったと思う。夏休みに入るか入らないか。親戚に預けられて、そのまま九月を少し過ぎたころに迎えが来たんだ、たぶん」
謎にむきあう探偵のように、松葉は確実に足場を固めていく。
「そっか、そうだよね。松葉さん、藍粉成しを見たって言ってたものね。あれは七月ごろだから、確かにちょうど、時期は合ってる」
「徳島には藍師は五軒きり。それぞれの家に電話で問い合わせてみたが、藍粉成しの工程を屋外で行っているのは、──深見製藍所だけなんだ」
信号待ちのタイミングで爆弾を投下するのはやめていただきたい。千草は、息をするのも忘れて、松葉を振り向いた。彼の発言の真意を探ろうと、目を合わせ、ゆっくりと息を吐きながら、なんとか笑う。
「いまは、でしょ? 二十年前は、どこも庭でやっていたんじゃないの?」
「そうかもしれない。記憶がたよりで、正確な方法を調べる手段もない。作業場を建てたり乾燥機を購入したりした時期なんて、理由付けが難しくて、おいそれと聞けないしな」
「松葉さんの見た藍粉成しの風景がうちの庭のものだったとして、それって、住んでいた地域の特定にしか役立たないよね? 預けられていたおじいさんの家の住所はわかってるの?」
後続車からクラクションを鳴らされて、あわてて前に向きなおる。だが、気持ちは完全に松葉のほうをむいていた。
「母の離婚以降会っていないし、葬式が十年前だから、住民除票も戸籍の附票もたどれなかった。住所がわからなくて家にたどり着けない」
否定を繰りかえしながらも、松葉はもどかしそうだった。
「──本籍と住所が同じだったりは?」
「しなかった」
松葉がたどり着こうとする先を、きっと、千草は知っていた。松葉の父方の祖父のご登場を願うまでもない。松葉が会いたいひとはたぶん、千草の知る範囲にいるだれかだ。
「深見製藍所にお世話になると聞いて、同じ苗字を持つ千草さんのことが気にかかっていた。もしかして、と考えては、馬鹿らしい考えを自分で否定した。でも、千草さんが空港に迎えにきたとき、確信したんだ。俺の直感は間違っていなかったって」
「どういう、意味」
千草は混乱しながら、うしろを気にした。後部座席のふたりは、こちらの会話が聞こえていないのか、割って入ろうともしない。いや、あちらはあちらで何か盛り上がっているのか。
「千草さんの手首の火傷は、俺のせいで付いたものだ」
「……違う。わたしの火傷は、だれのせいでもないもの」
強い口調で否定して、千草は自分に苛立った。こんなふうに言いたくはないのに。だが、もっと言い張るかと思った松葉は、千草のことばを受けて、あっさりと引き下がった。
「どの路地にも見覚えがあるように思えるんだ。植えられはじめた藍畑や、藍粉成しの情景、製藍所の建物を見て、激しい既視感に襲われて、最後に、あさぎさんに会った。頭のなかをかき回されているみたいだ」
松葉は屈みこむように顔を両手で覆う。意思の強そうな目も太い眉も見えないでいると、松葉の気配はどこか不安げに感じられた。
「俺は何をしに来たんだろうと、毎晩、布団のなかから天井を見ながら考える。まだ、こちらに来て、ひとつきも経たないのに。謝りたいと思って、そのひとを探しているはずが、何か手がかりが出るたびにどれもこれも、千草さんと結びつけてしまう」
「──それじゃ、いつまでも見つからないよ」
「おっしゃるとおりで」
苦笑が聞こえる。でも、それは、とても静かで、ちょっと疲れたような響きだった。
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