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十一 わたしだと思っていたもの
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ハンカチもスカーフもコースターも、千草はすでにいくつか持っている。対価を金銭で支払ったことはない。あさぎが厚意と思いつきで寄越すものなので、お礼にお菓子を贈ったり、食事の払いを持ったりすることで、都度都度返してきたつもりだ。
でも、いま、客として何かを買うとしたら、どれを選ぼうか。棚の上のほうに目を向けると、見たことのないデザインのカットソーが飾られていた。リアルクローズというよりは、ちょっぴり高級感のあるアーティスティックな仕上がりだ。
とろみのある光沢をもった濃い藍色の地に、白糸で和柄の地紋が浮かび上がる。どうやって染めれば、あんなふうに紋が染め抜けるのだろう。あれはきっと、綿や麻では出せない艶だ。絹だろう。ところどころアシンメトリにつまんで、できた表面のしわが、絹地らしいひかりをはらみ、目をひく。
見入っていると、あさぎが隣に立った。千草と同じように顎をあげて作品を見上げ、解説してくれる。
「あれは、絣。あたしは糸の染めにだけ参加したけん、ほんとうは、ここに飾るもんじゃないの」
「あれ、やっぱり染めたあとに織ったものなのね」
あさぎが絹糸を染め分け、織元が絵絣に織り、その布を使って、服飾デザイナーが仕上げた。
阿波藍と、絣の技術をどうしても使いたいけれども、自分の思い描く色がないのだと、独立したばかりの新人デザイナーがあさぎを訪ね、話を持ちかけてきたのだそうだ。織元と三人で打ち合わせを重ね、いっしょにつくりあげた渾身の作だったが、デザイナーはたった二年で廃業した。
「若い衆が夢を諦めるのを見るのは、辛い」
苦しげな表情で作品を見つめるあさぎの横顔に、千草は、カットソーに視線を戻す。
デザイナーの行く末を嘆くあさぎの発言が、いまの千草には、ひどく傲慢に思えた。あさぎには、アドバンテージがあった。あさぎは藍師の娘だ。それは、人脈にも環境にも大いに作用しただろう。そして、くだんのデザイナーには、そうした『何か』が無かったのだ、きっと。
道半ばで挫折したデザイナーほどにも秀でた才能は、千草にはない。東京でやっと手に入れたと思った環境も人脈も、手のうちには残らなかった。五年もともに過ごした恋人にも裏切られていたのだ、魅力もないだろうし、それを職場で暴露されるくらいだ、運もない。
「……あれ、いくらくらい?」
「そうね、敢えて値をつけるなら、十五万くらいかなあ。手で染めて、手で織って、手で縫って、やけん」
会ったこともないデザイナーが、夢を諦めるに至った理由など、千草にはわからない。厳しい世界なのだろう。けれど、そのだれか若いひととは対象的に、あさぎはずっと自分の夢を追い続け、やりたいことを遂げてきている。才能や運、環境や人脈。どれが欠けても、夢には手を触れることすら叶わない。
「──わたし、叔母さんの染めた服が欲しい」
口をついたことばに、あさぎが振りかえる。その顔をまっすぐ見る自信がなくて、千草は棚のうえを見上げ続ける。
「ほな、作ろ」
返ってきたことばに、千草のほうが驚いた。
「実はね、秋頃、東京のデパートで藍染めの催事があるんやって。お声がけいただいたのよ。県内の藍染め作家さんたちといっしょに出展することになったの。そのときに、モデルさん頼めんかな」
「モデルぅ? ちょっと待ってよ、わたし、背も低いし、スタイルも別によくないよ?」
そう言うと、あさぎはからりと笑った。
「ちーちゃんはそのままでええのよ。若いんじゃけん。あたしの染めた服着て、売り子さんしてくれたら、うれしいんじゃけど」
「……ホントに、わたしでいいの?」
千草の問いかけに「もちろん」とうなずいて、あさぎは事務所の外へ出た。その後ろ姿が頼もしくて、千草は、つい先程の自分の考えが恥ずかしくなった。
独り身でも孤独を感じさせず、故郷に根ざした職を得て、口を糊しているあさぎはまぶしくて、いたたまれなくて、たまらなかった。
こんなひとを、涼真はバカにしたのだ。指が青くては、と、たったそれだけのことで。それなのに、自分は何をした? あさぎをかばうことも、言い返すこともしなかった。
あさぎが裏手へ回るのについていき、二階の玄関を入ると、思いがけず襲ってきたのは、既視感だった。まるで、東京で住んでいたマンションそのもののような気がして、千草は三和土に立ち尽くした。
壁に飾られた藍染めのタペストリー。靴箱のうえの小さなサボテンの植木鉢。降り注ぐ暖色のあかり。リビングダイニングには、アイボリーの布カバーのかけられた背の低いソファが見える。
東京で捨ててきたものが、なぜかまだ、すぐそこにある。なぜ……?
つきあいはじめのころ、涼真は、合鍵を使って、よく千草の家に入りこんでいた。ふたりぶんのビールや缶チューハイと、つまみを買い込んできて、ひとあし先に始めているのだ。
『おかえり! 千草の好きなビアソーセージ買ったよ!』
からだをひねるようにして千草を見返り、人懐っこい笑顔でビールの缶を振るい、飲もうと誘う。
人感センサーで点いていた玄関の照明が、パチンと音を立てて切れた。白昼夢から覚めて、身じろぎもできずにいた千草は、よろよろと膝をついた。
先に奥にむかっていたあさぎが、怪訝そうにふりかえる。
「ちーちゃん? どうした?」
玄関から見えるあさぎの居室は、東京でひとりぐらしをしていたころの千草の部屋に、よく似ていた。
涼真といるときは涼真の好むものを選び続け、自分ひとりで過ごすときには、自分の好みで選んだつもりだった。でも、ほんとうは、身近な憧れとして、あさぎを指針としていた?
──なんだ、わたしのセンスなんて、どこにもなかった。
三十路近くにもなって、自分では何も考えてこなかったのか。周囲に見せびらかし、悦に入るための彼氏と、そんな彼氏に言いなりな自分。言いなりで無いときでさえ、借り物を身にまとって。すべてがおまえの勘違いだと、鼻先につきつけられていた。
まるで、母親のドレッサーの前に座った女の子のようだ。幼いくちびるには不似合いな太くて真っ赤なルージュを引いて、チークをほっぺたに塗りたくって、ご満悦な女の子。
震える手で顔を覆うと、あさぎが足早に玄関まで戻ってくる足元がみえた。
「何、気持ち悪いの? 酔った? やあだ、なんで、もっと早う言わんの!」
心配そうに肩を抱かれ、背を撫でられる。体温に、涙があふれる。けれども、さっき、このアトリエにたどり着くまでの車内で帰郷の理由を明かしたときとは違って、この涙のワケは、口にはできなかった。
でも、いま、客として何かを買うとしたら、どれを選ぼうか。棚の上のほうに目を向けると、見たことのないデザインのカットソーが飾られていた。リアルクローズというよりは、ちょっぴり高級感のあるアーティスティックな仕上がりだ。
とろみのある光沢をもった濃い藍色の地に、白糸で和柄の地紋が浮かび上がる。どうやって染めれば、あんなふうに紋が染め抜けるのだろう。あれはきっと、綿や麻では出せない艶だ。絹だろう。ところどころアシンメトリにつまんで、できた表面のしわが、絹地らしいひかりをはらみ、目をひく。
見入っていると、あさぎが隣に立った。千草と同じように顎をあげて作品を見上げ、解説してくれる。
「あれは、絣。あたしは糸の染めにだけ参加したけん、ほんとうは、ここに飾るもんじゃないの」
「あれ、やっぱり染めたあとに織ったものなのね」
あさぎが絹糸を染め分け、織元が絵絣に織り、その布を使って、服飾デザイナーが仕上げた。
阿波藍と、絣の技術をどうしても使いたいけれども、自分の思い描く色がないのだと、独立したばかりの新人デザイナーがあさぎを訪ね、話を持ちかけてきたのだそうだ。織元と三人で打ち合わせを重ね、いっしょにつくりあげた渾身の作だったが、デザイナーはたった二年で廃業した。
「若い衆が夢を諦めるのを見るのは、辛い」
苦しげな表情で作品を見つめるあさぎの横顔に、千草は、カットソーに視線を戻す。
デザイナーの行く末を嘆くあさぎの発言が、いまの千草には、ひどく傲慢に思えた。あさぎには、アドバンテージがあった。あさぎは藍師の娘だ。それは、人脈にも環境にも大いに作用しただろう。そして、くだんのデザイナーには、そうした『何か』が無かったのだ、きっと。
道半ばで挫折したデザイナーほどにも秀でた才能は、千草にはない。東京でやっと手に入れたと思った環境も人脈も、手のうちには残らなかった。五年もともに過ごした恋人にも裏切られていたのだ、魅力もないだろうし、それを職場で暴露されるくらいだ、運もない。
「……あれ、いくらくらい?」
「そうね、敢えて値をつけるなら、十五万くらいかなあ。手で染めて、手で織って、手で縫って、やけん」
会ったこともないデザイナーが、夢を諦めるに至った理由など、千草にはわからない。厳しい世界なのだろう。けれど、そのだれか若いひととは対象的に、あさぎはずっと自分の夢を追い続け、やりたいことを遂げてきている。才能や運、環境や人脈。どれが欠けても、夢には手を触れることすら叶わない。
「──わたし、叔母さんの染めた服が欲しい」
口をついたことばに、あさぎが振りかえる。その顔をまっすぐ見る自信がなくて、千草は棚のうえを見上げ続ける。
「ほな、作ろ」
返ってきたことばに、千草のほうが驚いた。
「実はね、秋頃、東京のデパートで藍染めの催事があるんやって。お声がけいただいたのよ。県内の藍染め作家さんたちといっしょに出展することになったの。そのときに、モデルさん頼めんかな」
「モデルぅ? ちょっと待ってよ、わたし、背も低いし、スタイルも別によくないよ?」
そう言うと、あさぎはからりと笑った。
「ちーちゃんはそのままでええのよ。若いんじゃけん。あたしの染めた服着て、売り子さんしてくれたら、うれしいんじゃけど」
「……ホントに、わたしでいいの?」
千草の問いかけに「もちろん」とうなずいて、あさぎは事務所の外へ出た。その後ろ姿が頼もしくて、千草は、つい先程の自分の考えが恥ずかしくなった。
独り身でも孤独を感じさせず、故郷に根ざした職を得て、口を糊しているあさぎはまぶしくて、いたたまれなくて、たまらなかった。
こんなひとを、涼真はバカにしたのだ。指が青くては、と、たったそれだけのことで。それなのに、自分は何をした? あさぎをかばうことも、言い返すこともしなかった。
あさぎが裏手へ回るのについていき、二階の玄関を入ると、思いがけず襲ってきたのは、既視感だった。まるで、東京で住んでいたマンションそのもののような気がして、千草は三和土に立ち尽くした。
壁に飾られた藍染めのタペストリー。靴箱のうえの小さなサボテンの植木鉢。降り注ぐ暖色のあかり。リビングダイニングには、アイボリーの布カバーのかけられた背の低いソファが見える。
東京で捨ててきたものが、なぜかまだ、すぐそこにある。なぜ……?
つきあいはじめのころ、涼真は、合鍵を使って、よく千草の家に入りこんでいた。ふたりぶんのビールや缶チューハイと、つまみを買い込んできて、ひとあし先に始めているのだ。
『おかえり! 千草の好きなビアソーセージ買ったよ!』
からだをひねるようにして千草を見返り、人懐っこい笑顔でビールの缶を振るい、飲もうと誘う。
人感センサーで点いていた玄関の照明が、パチンと音を立てて切れた。白昼夢から覚めて、身じろぎもできずにいた千草は、よろよろと膝をついた。
先に奥にむかっていたあさぎが、怪訝そうにふりかえる。
「ちーちゃん? どうした?」
玄関から見えるあさぎの居室は、東京でひとりぐらしをしていたころの千草の部屋に、よく似ていた。
涼真といるときは涼真の好むものを選び続け、自分ひとりで過ごすときには、自分の好みで選んだつもりだった。でも、ほんとうは、身近な憧れとして、あさぎを指針としていた?
──なんだ、わたしのセンスなんて、どこにもなかった。
三十路近くにもなって、自分では何も考えてこなかったのか。周囲に見せびらかし、悦に入るための彼氏と、そんな彼氏に言いなりな自分。言いなりで無いときでさえ、借り物を身にまとって。すべてがおまえの勘違いだと、鼻先につきつけられていた。
まるで、母親のドレッサーの前に座った女の子のようだ。幼いくちびるには不似合いな太くて真っ赤なルージュを引いて、チークをほっぺたに塗りたくって、ご満悦な女の子。
震える手で顔を覆うと、あさぎが足早に玄関まで戻ってくる足元がみえた。
「何、気持ち悪いの? 酔った? やあだ、なんで、もっと早う言わんの!」
心配そうに肩を抱かれ、背を撫でられる。体温に、涙があふれる。けれども、さっき、このアトリエにたどり着くまでの車内で帰郷の理由を明かしたときとは違って、この涙のワケは、口にはできなかった。
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