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二 密かな優越感
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「深見さん、ストッキング、穴空いてる」
「えっ」
帰社したとたんに同僚に教えられて、千草はあわてて指さされた箇所を見下ろした。ほんとうだ。右膝の内側に小指ほどの小さな穴があった。わずかだが、縦に伝線もしている。うしろから見ればすぐに気がつくが、前からは見えにくい箇所だった。
思い当たる節といえば、例の東洋海産での転倒しかない。あのときは打った膝ばかり気にしていたが、反対の足のヒールや何かに引っかけてしまっていたのだろう。
「うわあ、みっともな……」
東洋海産の本社ビルを訪問後も、方々の顧客を回ってきたというのに、こんな格好だったなんて、恥ずかしすぎるし、営業担当の女性としてあるまじき状況だ。こんな小さな穴ではなくて、足首近くまで大きく伝線していれば、もっと早く対処できたに違いない。
このあとは、退社までに今日の業務日誌をまとめるくらいの時間しかないが、穴空きストッキングをはいたまま過ごすワケにはいかない。歯がみしながら、予備のストッキングを取りに更衣室へ向かう。そのまま履き替えようと考えていたが、ちょうどパート勤務のおばさまがたが集まって談笑しているところに出くわして、千草はロッカーから新品のストッキングを手にそそくさと更衣室を出た。
女子トイレの個室に入って、パッケージを破る。脱いだストッキングを丸めて、新品に慎重に爪先を通していると、数人の靴音が近づいてくるのがわかった。カーペットの廊下からトイレの床に着地したとたんに高く鳴った踵で、ピンヒールに近いハイヒールだとわかる。先刻のおばさまがたではなさそうだ。
彼女たちの足音は個室までは入ってこなかった。洗面台の前にそれぞれ陣取ったのだろう。退社時刻を目前にして、化粧直しに来るような不真面目な連中のようだった。だいたいのメンツまで思い浮かんで、千草は密やかにためいきをついた。
早く出ていかなければ、この連中と同類扱いされてしまう。膝まで履いたパンティストッキングを急いで引っ張り上げる。
「ねえ。今日の合コン、涼真くん来ないってLIME来たんだけど」
「え、あんた、涼真くんとLIME交換してんの?」
「違うよ、ミカから。直接聞いてみたっぽい」
彼女たちの口から飛び出してきた人名に、慌てていた千草は、びくっとして動きを止めた。池尻涼真は、営業部のエース社員だ。甘いマスクと営業成績のせいで、支社一の有名人と言える。千草は出て行くのも忘れて、息を殺して話の展開に耳を澄ませた。
「なぁんだ、期待してたのに」
「同期から攻めようと思って、高橋さんにも頼んどいたのにぃ。大事な用事があるからダメなんだって」
大事な用事という表現に、自然に頬が緩む。千草は顔を上げ、薄いドアのむこうで交わされる会話の裏を知っていることに、じわじわと優越感がわきあがった。
高橋は、確かに涼真の同期だが、ひとの噂になりやすい涼真のことを一方的にライバル視している。表面上は仲良く見えるふたりに、プライベートの交流なんてない。ふたりのあいだににるのは、確執とわだかまりだけだ。
「ふうん、つまんないの」
「涼真くんはいないけど、男性はみんな正社員なんだからいいでしょ? ちゃんと来てよ、女子の幹事、アタシなんだからね?」
「っていうかさあ、涼真くんって、女いるんじゃないの? 毎週のように金曜日に予定入ってない? 帰りも早いし、今日もろバレンタインじゃん」
──毎週じゃないよ。わたしと会うのは、二週に一度。
二週に一度、金曜日の仕事終わりに、千草は会社から二つ離れた駅の改札口に立つ。涼真が来たら、駅から少し遠ざかるまではつかず離れず歩いて、食事をしてから涼真の家にむかう。そして、翌朝六時か七時ごろに涼真の作った朝食を食べ、お開き。
時々は土日にもデートをするけれど、これがこの五年間、自然にたどり着いたふたりのつきあいかただった。
千草はベージュのストッキングにくるまれた爪先を見下ろす。今晩のために塗ったペディキュアは、涼真の好きなペールピンクだ。彼は毒々しい赤や、元の色のわからないような青みを好まない。それなのに、素の爪は無精だと笑う。
すっぴんではなくて、ナチュラルに見える清楚系のメイク。パンツスタイルやからだの線の出るタイトスカートではなくて、あざとすぎない程度にフェミニンな服装。涼真の好みは一貫している。彼が求めているのは、作られた『自然』であって、素のままの女性ではない。
──女性は加工品。味付け次第で様変わりする。
どこかで聞いたフレーズが頭をよぎる。涼真に出会う前、生まれてはじめて爪に塗った色は、何色だっただろう。
個室から出るタイミングを完全に失って、千草はぼんやりとそんなことを考え考え、新しいストッキングを纏った爪先を、指でたどった。
「えっ」
帰社したとたんに同僚に教えられて、千草はあわてて指さされた箇所を見下ろした。ほんとうだ。右膝の内側に小指ほどの小さな穴があった。わずかだが、縦に伝線もしている。うしろから見ればすぐに気がつくが、前からは見えにくい箇所だった。
思い当たる節といえば、例の東洋海産での転倒しかない。あのときは打った膝ばかり気にしていたが、反対の足のヒールや何かに引っかけてしまっていたのだろう。
「うわあ、みっともな……」
東洋海産の本社ビルを訪問後も、方々の顧客を回ってきたというのに、こんな格好だったなんて、恥ずかしすぎるし、営業担当の女性としてあるまじき状況だ。こんな小さな穴ではなくて、足首近くまで大きく伝線していれば、もっと早く対処できたに違いない。
このあとは、退社までに今日の業務日誌をまとめるくらいの時間しかないが、穴空きストッキングをはいたまま過ごすワケにはいかない。歯がみしながら、予備のストッキングを取りに更衣室へ向かう。そのまま履き替えようと考えていたが、ちょうどパート勤務のおばさまがたが集まって談笑しているところに出くわして、千草はロッカーから新品のストッキングを手にそそくさと更衣室を出た。
女子トイレの個室に入って、パッケージを破る。脱いだストッキングを丸めて、新品に慎重に爪先を通していると、数人の靴音が近づいてくるのがわかった。カーペットの廊下からトイレの床に着地したとたんに高く鳴った踵で、ピンヒールに近いハイヒールだとわかる。先刻のおばさまがたではなさそうだ。
彼女たちの足音は個室までは入ってこなかった。洗面台の前にそれぞれ陣取ったのだろう。退社時刻を目前にして、化粧直しに来るような不真面目な連中のようだった。だいたいのメンツまで思い浮かんで、千草は密やかにためいきをついた。
早く出ていかなければ、この連中と同類扱いされてしまう。膝まで履いたパンティストッキングを急いで引っ張り上げる。
「ねえ。今日の合コン、涼真くん来ないってLIME来たんだけど」
「え、あんた、涼真くんとLIME交換してんの?」
「違うよ、ミカから。直接聞いてみたっぽい」
彼女たちの口から飛び出してきた人名に、慌てていた千草は、びくっとして動きを止めた。池尻涼真は、営業部のエース社員だ。甘いマスクと営業成績のせいで、支社一の有名人と言える。千草は出て行くのも忘れて、息を殺して話の展開に耳を澄ませた。
「なぁんだ、期待してたのに」
「同期から攻めようと思って、高橋さんにも頼んどいたのにぃ。大事な用事があるからダメなんだって」
大事な用事という表現に、自然に頬が緩む。千草は顔を上げ、薄いドアのむこうで交わされる会話の裏を知っていることに、じわじわと優越感がわきあがった。
高橋は、確かに涼真の同期だが、ひとの噂になりやすい涼真のことを一方的にライバル視している。表面上は仲良く見えるふたりに、プライベートの交流なんてない。ふたりのあいだににるのは、確執とわだかまりだけだ。
「ふうん、つまんないの」
「涼真くんはいないけど、男性はみんな正社員なんだからいいでしょ? ちゃんと来てよ、女子の幹事、アタシなんだからね?」
「っていうかさあ、涼真くんって、女いるんじゃないの? 毎週のように金曜日に予定入ってない? 帰りも早いし、今日もろバレンタインじゃん」
──毎週じゃないよ。わたしと会うのは、二週に一度。
二週に一度、金曜日の仕事終わりに、千草は会社から二つ離れた駅の改札口に立つ。涼真が来たら、駅から少し遠ざかるまではつかず離れず歩いて、食事をしてから涼真の家にむかう。そして、翌朝六時か七時ごろに涼真の作った朝食を食べ、お開き。
時々は土日にもデートをするけれど、これがこの五年間、自然にたどり着いたふたりのつきあいかただった。
千草はベージュのストッキングにくるまれた爪先を見下ろす。今晩のために塗ったペディキュアは、涼真の好きなペールピンクだ。彼は毒々しい赤や、元の色のわからないような青みを好まない。それなのに、素の爪は無精だと笑う。
すっぴんではなくて、ナチュラルに見える清楚系のメイク。パンツスタイルやからだの線の出るタイトスカートではなくて、あざとすぎない程度にフェミニンな服装。涼真の好みは一貫している。彼が求めているのは、作られた『自然』であって、素のままの女性ではない。
──女性は加工品。味付け次第で様変わりする。
どこかで聞いたフレーズが頭をよぎる。涼真に出会う前、生まれてはじめて爪に塗った色は、何色だっただろう。
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