『青』の作り手 失恋女子と見習い藍師

渡波みずき

文字の大きさ
上 下
1 / 34

一 はじまりの足音

しおりを挟む
 非常階段を上るうちに、パンプスのなかで足が滑るようになった。二月中旬の肌寒いころとはいえ、五階ぶんもあがってくれば、汗をかくのもしかたがない。頬も上気しているらしく、コンクリート打ちっぱなしの階段室に満ちるひんやりとした空気は、かえって心地がよかった。

 A4サイズの革カバンの持ち手がスーツの左肩に食いこむ。生命保険のパンフレット類や、顧客ごとの資料をぎっしりと詰め込んだカバンのほかに、今日はバレンタインデーのノベルティ入りの小さな紙袋を右手に提げている。中身は単なるチロルチョコとメッセージカードをラッピングした程度のものだが、数があれば、それなりにかさばる。

 営業回りにエレベータを使わないのは、深見千草ちぐさの信条だ。自分がエレベータを呼べば、訪問先の社員の業務に差し支えることがある。元はと言えば、新人のときに教育係だった先輩の受け売りだ。営業成績のよい先輩は、ことあるごとに言っていた。「お客様のリソースを使うなんて、とんでもない!」と。

 ──もっとも、エレベータくらいは、先輩だって使っていたけれども。

 今日の訪問先、東洋海産は、地上八階建て。都心の高層ビル群になれている千草にとって、このぐらいは扱いやすい部類に入る。六階までたどり着いて、分厚い防火扉のノブを引いて、ぐんっと後ろに体重をかける。小柄な千草には少々重いが、がんばれば開く、はずだった。

 防火扉が、内側から勢いよく開かなければ。

 扉にからだが弾き飛ばされて、後ろにふっとぶ。右手から紙袋が離れ、左肩からもカバンが抜けた。足元が空を踏む。

「ひゃ」

 まるで、すべてがスローモーションになったみたいだった。

 顔をのぞかせた大柄な男の口元が、驚愕に大きく開くのが見えた。片手に持ったスマートフォン。ああ、お昼休みに私用の電話がかかってきて、階段室に出ようとしたのね。そんな些末なことまで、しっかりと見てとれた。

 男の両手が伸びる。千草の右手首を掴み、反対の手で腰を支えられる。だが、一歩間に合わなかった。滑り落ちた膝をしたたか階段に打ち付けて、思わず呻く。

 動きが止まる。男の背後で防火扉が大きな音を立てて閉まった。千草は遭遇した出来事の衝撃に顔を上げることもできず、目の前に落ちたスマートフォンをただ見つめた。通話相手の表示に、『上板町役場』と書かれているのが目に入り、思いがけず目にした故郷の地名に、胸が跳ねる。

「すみませんでした。だいじょうぶですか」

 低い声に我に返り、仰向くと、キスできそうな間近から、男がこちらを気遣わしげに見おろしていた。そのことにもドキリとしたが、彼の手を借り、どうにか体勢を立てなおす。男はスマホを拾いあげると、かけなおす旨を短く述べ、改めてこちらをむいた。

 朴訥とした感じの男だ。千草と、年齢はそう離れていないだろう。二十代後半と見えた。黒髪のスポーツ刈りはさわやかだが、意思の強そうな目元や太い眉のせいか、真面目さが際だっている。

「ほんとうに申し訳ないです、歩けますか?」

 問われて、千草はなんとか営業スマイルを立て直して、きっぱりとうなずいた。

「はい、だいじょうぶです。お電話をお邪魔してしまいまして、こちらこそ申し訳ありませんでした。助けていただきまして、ほんとうにありがとうございます」

 太眉の男は戸惑ったような表情で、こちらを見ている。千草はそれを無視して、階段に散らばったノベルティを手早くかき集めた。

 さいわい、打ち付けた膝にも血はにじんでいない。あとで打ち身になるかもしれないが、ストッキングも伝線していなかった。よかった、次に支障が出なくて……。

 考えながらノベルティを拾っていると、先程の太眉がまだそこにいることに気づいた。彼は踊り場に落ちた紙袋を手に、呆けたように千草を見おろしていた。

「あ! 申し訳ないです、拾っていただきまして、ありがとうございます!」

 作業途中だが、慌てて階段を駆け戻り、太眉に両手をさしのべる。彼は我に返ったようすで千草に紙袋の持ち手を渡しながら、自分の右手の手首をちょんちょんと示した。

「それ、いま俺がやっちゃいましたか」

 一瞬なんのことかわからなかったが、すぐに了解する。右手にはめていたバングルがずれ、赤紫色の傷が覗いていた。

「これ、子どものころの傷なんです。ご心配には及びません」

 バングルの位置を戻すと、重ねて非礼を詫びた千草に、彼はさっと名刺を差しだした。

「品質管理部の松葉まつばと申します。もし、あとになって、どこか痛みが生じたら、必ずご連絡ください」
「松葉さま、ですね。ご丁寧にありがとうございます。申し遅れました。わたくし、サンサン生命保険営業担当の深見ふかみと申します」

 名刺入りのノベルティを手渡し、重ねて非礼を詫びると、千草はさっと会話を切り上げ、心配そうな松葉の視線を振り切るように、六階の防火扉を今度こそ開いた。

 暖房の効いた廊下に入ると、からだじゅうから汗が噴き出そうになった。上着を脱ぎたいが、こめかみの汗をハンカチで押さえるに留める。

 目当ての部署は、すぐそこだ。千草はカウンターの手前で立ち止まり、フロアの奥に座る若手の男性社員に声をかける。

「神田さん! こんにちは、お休みのところ、申し訳ありません」
「あ! 深見さんだぁ!」

 神田は千草を認めると、すかさず弁当に蓋をして席を立った。明るめの茶色に染められた髪は長めで、頭のかたちのよい丸みを強調する。背は高く、スタイルがいいし、派手な顔立ちだから、小走りにやってくる姿すらサマになる。そのくせ、本人の態度は子犬のようだから、かわいさも満点。ちょっとおバカな気配もあるが、いわゆる愛されキャラだ。

 ──イケメンは得だなあ。バカっぽくても、容姿でお釣りがくるんだもん。

 内心の侮蔑をおくびにも出さずに会釈して、千草はにこやかに資料を示す。先日、聞き取った状況を踏まえて、神田のために用意したものだ。

「通院医療費の給付にご不安があるとのことでしたので、いくつか神田さんにぴったりのプランを設定してみたんです。もし、お時間があれば、詳しくご説明しますけど、お食事中ですよね。どうしましょうか?」
「……あー。じゃあ、資料だけもらって見ておきます。次のときに声かけてもらえます?」

 にへらっと小首を傾げながら笑い返されて、千草は手応えのなさを感じ、あっさりと引き下がる。

「わかりました。こちら、ささやかではありますが、バレンタインデーのチョコレートです。よろしければ、召し上がってください」

 ノベルティを見ると、神田はうれしそうに目尻にしわをよせた。

「わあっ、チロルチョコだぁ! 二個も入ってる! ありがとうございますっ」

 大袈裟すぎるリアクションにも嫌みがないのは、才能だ。千草は微笑みを貼り付けたまま挨拶をして、ほかの社員にも声をかける。

 八年前、千草が保険外交員をはじめたころは、セキュリティやプライバシーにうるさい会社は少なかった。総務部や受付に一声かければ、どこへだって入っていって営業できたものだったが、いまでは建物に入るにも許可が必要で、滞在時間も立ち寄り先も細かく申告させられることが増えた。

 数人の顔見知りの顧客に声をかけ終わり、腕時計に目を走らせる。昼休みのうちに回ってしまわなければ、捕まらなくなる。次のフロアはひとつ下だ。

 階段室に戻るのは、ためらわれた。松葉がまだいるかもしれないと思うと、気まずい。悩んだが、思い切って開いた防火扉のむこうにはもう、彼の姿は見当たらなかった。
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

友達の母親が俺の目の前で下着姿に…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
とあるオッサンの青春実話です

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

人生を共にしてほしい、そう言った最愛の人は不倫をしました。

松茸
恋愛
どうか僕と人生を共にしてほしい。 そう言われてのぼせ上った私は、侯爵令息の彼との結婚に踏み切る。 しかし結婚して一年、彼は私を愛さず、別の女性と不倫をした。

公主の嫁入り

マチバリ
キャラ文芸
 宗国の公主である雪花は、後宮の最奥にある月花宮で息をひそめて生きていた。母の身分が低かったことを理由に他の妃たちから冷遇されていたからだ。  17歳になったある日、皇帝となった兄の命により龍の血を継ぐという道士の元へ降嫁する事が決まる。政略結婚の道具として役に立ちたいと願いつつも怯えていた雪花だったが、顔を合わせた道士の焔蓮は優しい人で……ぎこちなくも心を通わせ、夫婦となっていく二人の物語。  中華習作かつ色々ふんわりなファンタジー設定です。

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

バリキャリオトメとボロボロの座敷わらし

春日あざみ
キャラ文芸
 山奥の旅館「三枝荘」の皐月の間には、願いを叶える座敷わらし、ハルキがいた。  しかし彼は、あとひとつ願いを叶えれば消える運命にあった。最後の皐月の間の客は、若手起業家の横小路悦子。 悦子は三枝荘に「自分を心から愛してくれる結婚相手」を望んでやってきていた。しかしハルキが身を犠牲にして願いを叶えることを知り、願いを断念する。個性的な彼女に惹かれたハルキは、力を使わずに結婚相手探しを手伝うことを条件に、悦子の家に転がり込む。  ハルキは街で出会ったあやかし仲間の力を借り、悦子の婚活を手伝いつつも、悦子の気を引こうと奮闘する。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

断る――――前にもそう言ったはずだ

鈴宮(すずみや)
恋愛
「寝室を分けませんか?」  結婚して三年。王太子エルネストと妃モニカの間にはまだ子供が居ない。  周囲からは『そろそろ側妃を』という声が上がっているものの、彼はモニカと寝室を分けることを拒んでいる。  けれど、エルネストはいつだって、モニカにだけ冷たかった。  他の人々に向けられる優しい言葉、笑顔が彼女に向けられることない。 (わたくし以外の女性が妃ならば、エルネスト様はもっと幸せだろうに……)  そんな時、侍女のコゼットが『エルネストから想いを寄せられている』ことをモニカに打ち明ける。  ようやく側妃を娶る気になったのか――――エルネストがコゼットと過ごせるよう、私室で休むことにしたモニカ。  そんな彼女の元に、護衛騎士であるヴィクトルがやってきて――――?

処理中です...