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七
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「誰に頼まれたのかくらいは、想像がつく。トウはまだ転校してきて半年だから。その、おそろいのストラップ、みたことあるし」
「『半年だから』? 理由になるの?」
空色の勾玉のついたシンプルなストラップをつまんで、ことばを失う。黙りこんだあたしに、江龍は弱ったようだった。首のうしろをかいて、迷いながらも話しだす。
「──滝と豊原の家は、ここが穐鷹に吸収される前の、村だったころの肝煎の家柄だ。ひとつの村をふたりの領主が治めていたから、肝煎もふたり居たんだ。領主はうちの寺の本山と、江戸に住む旗本。領主はめったに知行地にはこないから、結託してやりたい放題やったらしい。ばれなければ何をしてもいいと思っているし、外の者が入ってくるのを極端に嫌う。旅人を泊めるのは滝と豊原だけで、その二軒も、金を落とさないとわかれば、雪や嵐の日にも平気で追いだしたそうだ」
よくある話だろ? と江龍は肩をすくめる。
「それが、さっきのことに関係するの?」
「大事なのはこの先。いままでのは説明。いまでも、よそから来る人間はあの二軒とうちの寺が認めて初めて、住むことを許される。勝手に越せば、村八分だ。まぁ、不動産屋が土地を売らないだろうけど。うちと滝と豊原が認めても、盆を過ぎなきゃ、正式な町の人間じゃない」
「認めるって、どういうふうに……?」
指がふるえる。江龍はまさか、知ってるんだろうか。視線があうと、大きな目がにっと笑う。
「知りたい?」
「べ、別にっ!」
あたしは思いっきり否定して、自分でもやりすぎたと思った。江龍は深くためいきをつき、額に手をあてる。ひとしきり悩むそぶりをしてから、バレるよりはマシか、とつぶやいた。
「トウの転校のほんとうのほうの理由、俺は今年の正月には知っていた。豊原たち本人はどうだか知らないが、あの家のひとたちも知っているはずだ」
声がでなかった。スカートの裾をぐしゃぐしゃに握りしめて、でも、視線は落とさない。
「山代さんが義理の姪を預かりたいって、酒を持って相談にきた。親父は、預かればいいと言った。トウが同い年って聞いて、外れ者仲間がいれば、俺が学校に行くと思ったんだろう」
外れ者。ことばが浅く刺さった。でも、事実だし、江龍のことばに揶揄する響きはない。
「行かないの?」
「誰が行くかよ。さっきだって、お前が山代さんの姪っこだって、親父はわかってた!」
吐き捨てた江龍にあたしは弱って、頬を指でかいて。そのまま考えて。
「いいじゃん、あたし、嫌じゃないし。あたしは江龍と話したかったの。自発的行動よ?」
主張しただけだったのに、江龍はなぜか照れたみたいだった。鼻先に触れ、目をそらす。
「でも、相談にきたんじゃ……」
疑うような口ぶりに、あたしはとっさに言いかえしていた。
「違う違う! お寺をたずねる用事が欲しくて、直美たちからケータイ奪ってきたの! ──歌のことは、ほんとうだけど」
なんで江龍が照れていたのかに気がついて、あたしの声は尻つぼみになった。急激に恥ずかしくなる。血がめぐってきてる。顔だけじゃなくって、からだ全体が熱くなる。
「──っ」
空になったグラスを頬につける。視界の端にうつる露のなかで、江龍は軽く頭をかいた。
「豊原たちのケータイは預かるとして、お前はどうする?」
「どうする、って?」
グラスを置く。濡れた頬をぬぐって問うと、江龍は言いあぐねたようにくちびるを動かす。
「うちに、泊まるか?」
「と、泊まるわけ……っ。帰るよ、帰る!」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。話しただろ。俺に会ったばかりだし、例の歌の名前を口に出したし、今日は特に危険な目に遭う可能性が高い。それに、ほんとうに伝染するなら、今晩は、トウのケータイに着信があるかもしれない」
う。それは微妙に心細いです。
あたしは迷った末にことんとケータイをテーブルに置いた。
「じゃ、あたしもこれ、預けてく」
「バカ。それじゃ、助けを呼べないだろう。だから、泊まるかってきいてるんだ」
あたしは下くちびるを噛んだ。でも、首を横にふる。
「いい。嫌でしょ? おとうさんの思うツボみたいになるの」
「メンツなんか気にしてられるか」
あたし、絶句した。まるで、まんがのヒーローみたいなセリフ。江龍にはふざけたようすは全然ない。さらに言いつのることには。
「お前の安全のほうが大事」
すみません。相手が江龍でなければ、いまの、確実にフラグ立ちました。
うーん、なんだか慣れて来ちゃった。あたしはへなへなと畳に崩れてぼやいた。
「江龍ってさぁ、実はかなりの天然ものだよね」
「は?」
「あたし、帰るね。うす暗くなったらお墓の前、怖いし」
立ちあがったあたしを江龍も追う。
「頼む、送らせて」
む、敵もなかなか。下手に出られては断れない。あたしはしぶしぶうなずいた。
誰もいない大きな家というのは、夕方に向かうにつれて、ものさみしい雰囲気になる。
今日は、従妹は友達の家へお泊まり、叔父さんと叔母さんは町内会の集まりに出かけていった。祭りについての打ち合わせがあるそうで、夕飯も食べてくると言う。あたしのぶんのごはんにラップをかけてくれながら、叔母さんは申し訳なさそうにしていたけど、従妹とふたりきりでないだけ、気楽と言えば気楽だ。
あたしは宿題に手をつける気にもなれなくて、かちっとケータイを開いた。
直美とみずほに報告しなきゃ。ケータイ預けてきたって。電話をかけようとして、思いとどまる。今日は家にかけなきゃ、つながんないじゃん。
一階に降りて、玄関脇の電話台を探る。電話連絡網のプリントを探すうちに、磨りガラスごしの夕日がかげってきた。三和土のうえのあかりだけ点ける。
蛍光灯型の電球は、すぐには明るくならない。ぼんやりと待っていたら、玄関の引き戸の鍵が目についた。また開けっ放しだ。子どもひとりで留守番するには不用心だと思うけど、叔母さんも叔父さんも、寝るときですら鍵をかけなくても平気らしい。
まあ、どうせ、内側からかけられるのは、くるくる捻るタイプの古い鍵だし、そんなに頑丈ではなさそうなんだけど。鍵を掛けたころにはあかりが安定していた。連絡網を発見し、あかりを消して、ケータイをかけながら階段をあがる。
直美への報告は堅苦しい事務連絡だったけれど、みずほのほうは違った。話し相手に飢えていたのか、あたしは電話を切るタイミングを見失った。
ベッドのふちを背もたれにえんえんとあいづちをうって、シーツをつまんでこよりにしたり、爪切りを持ってきて足の爪を切ったり。
がたがたっと玄関の戸が揺れたのは、そのときだった。叔父さんか、叔母さんが帰ってきたんだろう。これさいわいと、あたしは立ちあがった。廊下を歩きながらみずほに断る。
「ごめん、下にひとが来た。切るね」
「待ってよ。保留にしておけば?」
「こっちはケータイなの! 今度はみずほからかけなおしてよ。いったん切るよ」
階段を二、三段降りると、三和土に人がみえた。外の電灯に照らされて、影が黒く上がり框に伸びている。おかえりなさいと言おうとして、もう数段降りたら、そのひとが何か言った。
「ごめ……くだ……」
『ごめんください』?
お客さんはあたしに気づいていないみたいだった。声を聞いたのに男女の別もわからない。
変なの。まっくらななかに突っ立って。違和感を覚えて、あたしは見つからないようにゆっくりと、足を一段下ろした。お客さんの声がクリアになる。
「ごめんくださいごめんくださいごめんくださいごめんくださいごめんください……」
背中の産毛がざわっとした。その場にへたりこんでいた。階段の手すりがわりの壁に隠れて、影は見えなくなる。声だけが絶え間なく続いている。
あたしは息を殺した。
玄関の鍵、閉めたはずだ。泥棒なら、さっさとあがってくる。まさか、本気で江龍のストーカー女さん? そうならそうと教えてくれればいいのにっ。
音が鳴らないように気をつけてケータイを開き、あたしはふるえる指で江龍の番号を探した。
スピーカーを耳に押しあてる。せめてもの悪あがきで、通話口を手で覆う。電話が通じるまで、すごく長く感じた。床がつめたくて、あたしは膝を抱える。そうしたら、声がした。
つい何時間か前まで耳にしていたのに懐かしくなっちゃって、涙ぐんでしまう。
「トウ?」
気遣わしげな音は、心地よすぎた。
「来れる……?」
たずねる声が鼻声になった。江龍がするどく聞きかえす。
「どこにいる」
答えようとして、目線をあげたときだった。
びたん、まないたに魚でも載せたような音がして、階段の手すりに黒いものが乗っかった。生ゴミのにおいが漂ってくる。違う。生ゴミというより、熱帯魚の水槽の水が、腐ったにおい。
電話口でむせそうになって、口に手をあてて吐き気をこらえる。
そういえば、いつのまにか、あの声が止んでいる。じゃあ、じゃあ、これは──
あたしは声を失った。いけない、思うのに、足が動かない。
黒い影が覗いた。本体、というか、頭? とにかく、お客さんなんかじゃない。これ、人間ですら、なくない? まるで、泥のかたまりみたいな。
目があった。たぶん、目があったんだと思う。確かにそいつはあたしを見た。
べた。影が一歩近づいてきて、腕が、あたしにむかって伸びてきて。
「ああああぁぁぁっ!」
あたしは階段をよつんばいになって駈けのぼった。影は焦らすように、ぼた、べたん、と一歩一歩ゆったりと這いあがってくる。手からケータイがこぼれた。
江龍の声が遠ざかっていく。階段を転がり落ちて見えなくなるも、影はケータイのほうに気を取られたようだった。
その隙を突いて、あたしは部屋にこもり、鍵をかけた。学習机の椅子をひきずって、背もたれの穴をドアノブにひっかける。座面に百科事典を積んで、即席のバリケードをつくる。
二階の床に、泥が落ちた。影の足音が這ってくる。あたしは百科事典に手を置いたまま、耳を澄ませる。他にみるものもなくて、机のうえの目覚まし時計の秒針ばかり見つめてしまう。
カチ、カチ、べたん、カチ、カチ、びた。
足音は従妹の部屋まで来て、ぴたりととまった。ドアノブが軋る。おそらく、一周ぐるっと従妹の部屋を歩き、出てきて、遠ざかる。おじさんと叔母さんの寝室へ。その隣の納戸の引き戸を開く。ものでいっぱいになった納戸のなかは諦めたのだろう。律儀に閉める音がした。
──来る。
足のふるえがとまらない。
怖くない。怖くないったら。これは、武者ぶるい。おそろしいからふるえたんじゃない。
足音は、あたしの部屋の前でとまった。
「『半年だから』? 理由になるの?」
空色の勾玉のついたシンプルなストラップをつまんで、ことばを失う。黙りこんだあたしに、江龍は弱ったようだった。首のうしろをかいて、迷いながらも話しだす。
「──滝と豊原の家は、ここが穐鷹に吸収される前の、村だったころの肝煎の家柄だ。ひとつの村をふたりの領主が治めていたから、肝煎もふたり居たんだ。領主はうちの寺の本山と、江戸に住む旗本。領主はめったに知行地にはこないから、結託してやりたい放題やったらしい。ばれなければ何をしてもいいと思っているし、外の者が入ってくるのを極端に嫌う。旅人を泊めるのは滝と豊原だけで、その二軒も、金を落とさないとわかれば、雪や嵐の日にも平気で追いだしたそうだ」
よくある話だろ? と江龍は肩をすくめる。
「それが、さっきのことに関係するの?」
「大事なのはこの先。いままでのは説明。いまでも、よそから来る人間はあの二軒とうちの寺が認めて初めて、住むことを許される。勝手に越せば、村八分だ。まぁ、不動産屋が土地を売らないだろうけど。うちと滝と豊原が認めても、盆を過ぎなきゃ、正式な町の人間じゃない」
「認めるって、どういうふうに……?」
指がふるえる。江龍はまさか、知ってるんだろうか。視線があうと、大きな目がにっと笑う。
「知りたい?」
「べ、別にっ!」
あたしは思いっきり否定して、自分でもやりすぎたと思った。江龍は深くためいきをつき、額に手をあてる。ひとしきり悩むそぶりをしてから、バレるよりはマシか、とつぶやいた。
「トウの転校のほんとうのほうの理由、俺は今年の正月には知っていた。豊原たち本人はどうだか知らないが、あの家のひとたちも知っているはずだ」
声がでなかった。スカートの裾をぐしゃぐしゃに握りしめて、でも、視線は落とさない。
「山代さんが義理の姪を預かりたいって、酒を持って相談にきた。親父は、預かればいいと言った。トウが同い年って聞いて、外れ者仲間がいれば、俺が学校に行くと思ったんだろう」
外れ者。ことばが浅く刺さった。でも、事実だし、江龍のことばに揶揄する響きはない。
「行かないの?」
「誰が行くかよ。さっきだって、お前が山代さんの姪っこだって、親父はわかってた!」
吐き捨てた江龍にあたしは弱って、頬を指でかいて。そのまま考えて。
「いいじゃん、あたし、嫌じゃないし。あたしは江龍と話したかったの。自発的行動よ?」
主張しただけだったのに、江龍はなぜか照れたみたいだった。鼻先に触れ、目をそらす。
「でも、相談にきたんじゃ……」
疑うような口ぶりに、あたしはとっさに言いかえしていた。
「違う違う! お寺をたずねる用事が欲しくて、直美たちからケータイ奪ってきたの! ──歌のことは、ほんとうだけど」
なんで江龍が照れていたのかに気がついて、あたしの声は尻つぼみになった。急激に恥ずかしくなる。血がめぐってきてる。顔だけじゃなくって、からだ全体が熱くなる。
「──っ」
空になったグラスを頬につける。視界の端にうつる露のなかで、江龍は軽く頭をかいた。
「豊原たちのケータイは預かるとして、お前はどうする?」
「どうする、って?」
グラスを置く。濡れた頬をぬぐって問うと、江龍は言いあぐねたようにくちびるを動かす。
「うちに、泊まるか?」
「と、泊まるわけ……っ。帰るよ、帰る!」
「あ、いや、そういう意味じゃなくて。話しただろ。俺に会ったばかりだし、例の歌の名前を口に出したし、今日は特に危険な目に遭う可能性が高い。それに、ほんとうに伝染するなら、今晩は、トウのケータイに着信があるかもしれない」
う。それは微妙に心細いです。
あたしは迷った末にことんとケータイをテーブルに置いた。
「じゃ、あたしもこれ、預けてく」
「バカ。それじゃ、助けを呼べないだろう。だから、泊まるかってきいてるんだ」
あたしは下くちびるを噛んだ。でも、首を横にふる。
「いい。嫌でしょ? おとうさんの思うツボみたいになるの」
「メンツなんか気にしてられるか」
あたし、絶句した。まるで、まんがのヒーローみたいなセリフ。江龍にはふざけたようすは全然ない。さらに言いつのることには。
「お前の安全のほうが大事」
すみません。相手が江龍でなければ、いまの、確実にフラグ立ちました。
うーん、なんだか慣れて来ちゃった。あたしはへなへなと畳に崩れてぼやいた。
「江龍ってさぁ、実はかなりの天然ものだよね」
「は?」
「あたし、帰るね。うす暗くなったらお墓の前、怖いし」
立ちあがったあたしを江龍も追う。
「頼む、送らせて」
む、敵もなかなか。下手に出られては断れない。あたしはしぶしぶうなずいた。
誰もいない大きな家というのは、夕方に向かうにつれて、ものさみしい雰囲気になる。
今日は、従妹は友達の家へお泊まり、叔父さんと叔母さんは町内会の集まりに出かけていった。祭りについての打ち合わせがあるそうで、夕飯も食べてくると言う。あたしのぶんのごはんにラップをかけてくれながら、叔母さんは申し訳なさそうにしていたけど、従妹とふたりきりでないだけ、気楽と言えば気楽だ。
あたしは宿題に手をつける気にもなれなくて、かちっとケータイを開いた。
直美とみずほに報告しなきゃ。ケータイ預けてきたって。電話をかけようとして、思いとどまる。今日は家にかけなきゃ、つながんないじゃん。
一階に降りて、玄関脇の電話台を探る。電話連絡網のプリントを探すうちに、磨りガラスごしの夕日がかげってきた。三和土のうえのあかりだけ点ける。
蛍光灯型の電球は、すぐには明るくならない。ぼんやりと待っていたら、玄関の引き戸の鍵が目についた。また開けっ放しだ。子どもひとりで留守番するには不用心だと思うけど、叔母さんも叔父さんも、寝るときですら鍵をかけなくても平気らしい。
まあ、どうせ、内側からかけられるのは、くるくる捻るタイプの古い鍵だし、そんなに頑丈ではなさそうなんだけど。鍵を掛けたころにはあかりが安定していた。連絡網を発見し、あかりを消して、ケータイをかけながら階段をあがる。
直美への報告は堅苦しい事務連絡だったけれど、みずほのほうは違った。話し相手に飢えていたのか、あたしは電話を切るタイミングを見失った。
ベッドのふちを背もたれにえんえんとあいづちをうって、シーツをつまんでこよりにしたり、爪切りを持ってきて足の爪を切ったり。
がたがたっと玄関の戸が揺れたのは、そのときだった。叔父さんか、叔母さんが帰ってきたんだろう。これさいわいと、あたしは立ちあがった。廊下を歩きながらみずほに断る。
「ごめん、下にひとが来た。切るね」
「待ってよ。保留にしておけば?」
「こっちはケータイなの! 今度はみずほからかけなおしてよ。いったん切るよ」
階段を二、三段降りると、三和土に人がみえた。外の電灯に照らされて、影が黒く上がり框に伸びている。おかえりなさいと言おうとして、もう数段降りたら、そのひとが何か言った。
「ごめ……くだ……」
『ごめんください』?
お客さんはあたしに気づいていないみたいだった。声を聞いたのに男女の別もわからない。
変なの。まっくらななかに突っ立って。違和感を覚えて、あたしは見つからないようにゆっくりと、足を一段下ろした。お客さんの声がクリアになる。
「ごめんくださいごめんくださいごめんくださいごめんくださいごめんください……」
背中の産毛がざわっとした。その場にへたりこんでいた。階段の手すりがわりの壁に隠れて、影は見えなくなる。声だけが絶え間なく続いている。
あたしは息を殺した。
玄関の鍵、閉めたはずだ。泥棒なら、さっさとあがってくる。まさか、本気で江龍のストーカー女さん? そうならそうと教えてくれればいいのにっ。
音が鳴らないように気をつけてケータイを開き、あたしはふるえる指で江龍の番号を探した。
スピーカーを耳に押しあてる。せめてもの悪あがきで、通話口を手で覆う。電話が通じるまで、すごく長く感じた。床がつめたくて、あたしは膝を抱える。そうしたら、声がした。
つい何時間か前まで耳にしていたのに懐かしくなっちゃって、涙ぐんでしまう。
「トウ?」
気遣わしげな音は、心地よすぎた。
「来れる……?」
たずねる声が鼻声になった。江龍がするどく聞きかえす。
「どこにいる」
答えようとして、目線をあげたときだった。
びたん、まないたに魚でも載せたような音がして、階段の手すりに黒いものが乗っかった。生ゴミのにおいが漂ってくる。違う。生ゴミというより、熱帯魚の水槽の水が、腐ったにおい。
電話口でむせそうになって、口に手をあてて吐き気をこらえる。
そういえば、いつのまにか、あの声が止んでいる。じゃあ、じゃあ、これは──
あたしは声を失った。いけない、思うのに、足が動かない。
黒い影が覗いた。本体、というか、頭? とにかく、お客さんなんかじゃない。これ、人間ですら、なくない? まるで、泥のかたまりみたいな。
目があった。たぶん、目があったんだと思う。確かにそいつはあたしを見た。
べた。影が一歩近づいてきて、腕が、あたしにむかって伸びてきて。
「ああああぁぁぁっ!」
あたしは階段をよつんばいになって駈けのぼった。影は焦らすように、ぼた、べたん、と一歩一歩ゆったりと這いあがってくる。手からケータイがこぼれた。
江龍の声が遠ざかっていく。階段を転がり落ちて見えなくなるも、影はケータイのほうに気を取られたようだった。
その隙を突いて、あたしは部屋にこもり、鍵をかけた。学習机の椅子をひきずって、背もたれの穴をドアノブにひっかける。座面に百科事典を積んで、即席のバリケードをつくる。
二階の床に、泥が落ちた。影の足音が這ってくる。あたしは百科事典に手を置いたまま、耳を澄ませる。他にみるものもなくて、机のうえの目覚まし時計の秒針ばかり見つめてしまう。
カチ、カチ、べたん、カチ、カチ、びた。
足音は従妹の部屋まで来て、ぴたりととまった。ドアノブが軋る。おそらく、一周ぐるっと従妹の部屋を歩き、出てきて、遠ざかる。おじさんと叔母さんの寝室へ。その隣の納戸の引き戸を開く。ものでいっぱいになった納戸のなかは諦めたのだろう。律儀に閉める音がした。
──来る。
足のふるえがとまらない。
怖くない。怖くないったら。これは、武者ぶるい。おそろしいからふるえたんじゃない。
足音は、あたしの部屋の前でとまった。
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