死に戻り令嬢の契約婚

渡波みずき

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「今日は約束がおありでしょう? わたくしはこちらでおとなしくしておりますから、旦那さまはどうぞお出でになって」
「──なぜ、私を名で呼ばなくなったのですか」

 アンヘルの問いかけに、ヴィオレータは口の端を上げるだけで答えなかった。彼はそれでも諦めずに、質問を投げかける。

「やはり、怒っていませんか?」
「いいえ」

 短く否定だけして、ぬるくなりかけたタオルをたたみ直し、当てる位置を変える。その手元をじっとりと見つめて、なおもアンヘルは尋ねる。

「いつ、どこで怪我を?」
「昨晩、部屋で。……もうよろしいでしょう? 怪我をしたのは、わたくしです。旦那さまには障りもないのですから、ご予定どおりに過ごされませ」
「どうして除け者にしようとするのですか! 心配くらいさせてください!」

 自分勝手な! と、怒りが胸のうちに灯る。長く細く息を吐くことで、気持ちを抑え、ヴィオレータはまた、にっこりと笑ってみせた。

「もう、じゅうぶん心配していただきましたわ」
「作り笑いはやめてください、ヴィオレータ!」

 言われて、ふっと表情をおとす。静かに向き合っても、アンヘルはたじろぐようすもない。それでも、口にするのは見当違いでとんちんかんな内容だった。

「昨日の対応がまずかったのはわかっているんです。あなたの矜持を傷つけたのでしょう? 抱き寄せたのがいけませんでしたか? それとも、子どもまで産んでもらう必要はないと伝えたのがダメですか? こんなに怒ると思わなかったんです。許してください」
「──違います。わたくしは、怒ってなどいません」

 繰り返し否定することに疲れて、声から力が抜ける。なぜ、ここまでわかってもらえないのか。口に出して伝えていないからか? でも、だからと言って、こちらへ愛を囁くつもりもない男に、二年で離縁しようと言った男に、どうして自分から恋情を告白せねばならないのか。

「わたくしには、自分を守ることは許されませんの? とつぜん、近づきすぎだと突き放してよこすなら、こちらがあらかじめあなたと距離を置くことくらい、許してくださらない?」

 アンヘルが顔をこわばらせる。榛の髪を撫でてやりたくなって、ヴィオレータはすんでのところで思いとどまる。

「結婚を選ばなければ、あなたと親しくいられたのかしら。でも、そのときは他のかたを伴侶としなければならなかったでしょうから、結局、殿方と親しくあるのは無理ね」

 独り言めいたことばに、アンヘルが反応を示す。

「修道院に逃げ込むのでは、ダメだったのですか」
「ええ。きっとすぐに大金を積んで還俗させられたはずです。なにしろ、神託が降りたので」
「神託?」

 初めてひとに明かす内容に、ヴィオレータはミントの香りを聞きながら、目を伏せる。

「わたくしを救国の乙女だとする神託がおりたのです。あなたと結婚した次の日には御前に呼ばれ、あやうく王太子殿下と娶せられるところでした。わたくしはそのときにはもう、あなたの妻でしたから、こうして難を逃れ、王家に不都合な神託は公になることなく闇に葬られました」

 絶句したアンヘルに、くすりと笑って、まぶたを薄く開く。

「わたくしを求めてくださるかたのところに嫁げれば最上でしたが、あのときは、事態に気づいてから一日しか猶予がなかったのです。二年と期間を区切るほど結婚を嫌がっていらっしゃったあなたには、ほんとうに申し訳ないことをいたしました」
「──求めています」
「はい?」

 差し挟まれたことばを捉え損ねて、ヴィオレータはふりむく。アンヘルは、ザッと床に滑り降りて膝をつき、ヴィオレータの両手を掴んだ。手当てのタオルが床に落ち、引かれた手首が少し痛んだが、アンヘルの紅潮した顔を見たら、何も言えなくなった。

「初めてあなたと話したときに、一目で惹かれました。でも、何か事情のありそうなヴィオレータを長く私のもとに置くわけにはいかないと思って、敢えて二年と言ったんです。嫌なことなど、何もない! もし、あなたが望んでくださるなら、二年と言わず、私の妻でいてもらえませんか」
「それは」
「あなたが好きです、ずっとそばにいて欲しい!」

 ヴィオレータはぽかんとして、それから、小さな声でねだった。

「昨日のように、抱きしめてくださる?」

 立ち上がった彼に背骨が折れる勢いで抱き寄せられて、じわじわと実感する。自身より高めの体温に包まれ、支えられて、目尻からすっと涙がこぼれた。

「あっ、ヴィオレータっ? すみません、苦しかったのですか?」

 慌ててからだを離すアンヘルのようすに首を横に振って答え、ヴィオレータは指先で涙を拭った。

「うれしいときにも、涙は出ますわ。……言わなければ伝わらないのだという先人のことばの重みを改めて理解しました」
「いったいだれのことばです?」

 きっと哲学者の名でも思い浮かべているだろう夫に、ヴィオレータは答えを告げることはしなかった。あまりにも普遍的な考えに、発言者の名は要らぬように思えた。それよりも、目下の関心事は、別にあった。

「アンヘルさま。わたくし、ガボやラファが可愛くてたまらないのです。思いのほか子どもが好きなようなのですけれど」
「ええと? はい」

 文脈が読めなかったのだろう。いきなり何を口にしだしたのかと言いたげなアンヘルに、どういえば伝わるかと頭をひねる。ことば選びを間違えると、これは直接に過ぎはしないか。迷いながら、ヴィオレータは思い切って問いかけてみた。

「昨晩は不要とおっしゃいましたでしょう? でも、ここにいてよいのでしたら、子どもは、産んでも、よろしいですか?」

 ──言えた!
 達成感でホッとしたヴィオレータの目の前で、みるみるうちにアンヘルが茹で上がった。その場にしゃがみ込んで、顔をすっかりと覆う。その両手の奥から声がしたのは、だいぶ経ってからだ。

「……ヴィオレータ」
「はい」
「いずれ子を持つのは構いませんが、その、私の気持ちがまだ追いつかないので、しばらく待ってもらえますか?」
「はい」

 真っ赤に染まった耳たぶを見つめながら、アンヘルの言う「しばらく」とは具体的にどのくらいの期間を指すのか気になった。これも口に出して聞くべきなのか。

 アンヘルが立ちなおるまでのあいだ、ヴィオレータは真剣にそのことについて悩んでいた。


 





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