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ヴィオレータがカルティべ伯爵領に赴いたのは、婚姻からひと月後のことだ。馬車の窓から移り行く景色を眺めながらの道程は、目に楽しく飽きなかった。
同行するのは下女ひとりきり、他は伯爵家が寄越してくれた。盛大な見送りも、嫁入り支度もない。王家に配慮してのことだ。
アンヘルと婚姻した翌日、予想していたとおり、スケートは中止になった。しかし、聖エバの日の暖かさのせいではない。長女であるヴィオレータが両親への相談なしに、それも初対面の男性と結婚してきたせいで、エストレラ家一同、娯楽どころではなくなったからだ。
まさか、おとなしく慎ましやかなヴィオレータがそのような行動に出るとは思っていなかった両親は、驚き、落胆した。母は心痛のあまり床に伏せ、父は翌日も登城を取りやめ、長時間にわたって娘を説き伏せようと試みた。しかしながら、すでになってしまったものは取り返せない。
裁判で婚姻取消を申し立てようにも、成人したふたりの婚姻に、近親婚や脅迫による結婚といった瑕疵はなかった。くわえてヴィオレータ本人の結婚の意思は固く、度重なる説得にも決して首を縦に振らなかった。
そうこうするうちに、屋敷に国王の御璽の捺された召喚状が届いた。エストレラ公爵とヴィオレータを呼び出す内容に、家内はさらに騒然となった。いったい、娘はどんな不始末を起こしたのかと気を揉む父公爵をよそに、ヴィオレータは淡々と婚姻証明書を容れ物に戻し入れ、手に携えた。きっと、これが必要になると踏んでいた。
──お父さまが登城されていたあのときとは、王族の動きが異なるのね。
理由も知らされず、至急と呼び出されたヴィオレータたち親子は、謁見の間に通され、国王からの声を聞いた。直答を許され、挨拶をのべる際に、先手を打つ。
「初めてお目にかかります。わたくしはカルティべ伯爵が長子アンヘルの妻、ヴィオレータでございます。国王陛下の御健勝と王室の御繁栄を衷心よりお祈り申し上げます」
既婚者だと印象づける名乗りに、その場にいたひとびとがどよめく。国王が父に目をやる。説明を求められているのを察して、父が口を開く。
「──昨日、私共に相談も無しに本人が結んでまいった婚姻でございます」
「そうか、あいわかった。して、エストレラ公爵。これにある貴族名鑑にある息女の生年、生まれ日、出生地に誤りはないか」
侍従の差し出す書物に目を落とし、父はややあってうなずいた。
「聖暦328年7月20日、アウラリオラ。間違いございません」
ヴィオレータは何度も聞かされたことがある。アウラリオラは母の出身地だ。初産を不安がる母を気遣って、父は母の実家に身を寄せ、出産までを過ごしたそうだ。聖ラリサの日のころは、一面のラベンダー畑が部屋の窓から見えたという。そこでラヴァンダとでも名付けないあたりが面白いと思ったが、すみれ色という名を自分は存外気に入っている。
国王は公爵の返答に少々の不機嫌さを滲ませる。事情がわからないだろう父は、かわいそうにいまにも震えそうな顔をしていた。
「エストレラ公爵。先刻、神託が降りたのだ。フェリペの誕生より三年あと、つまり聖暦328年の聖ラリサの日に生まれた娘が国を救うと言う。そなたの娘以外に見当たらぬ。いやしかし、当の娘が伯爵のせがれとすでに結婚していたとは思わなんだ。しかも、昨日とは、運のない娘だ。親不孝な娘を持つと、そなたも苦労するものだな」
せっかく王室に迎え入れてやろうとしたのに、伯爵家の嫡男風情にほんの一日、先を越されていた。その口惜しさからだろう国王の当てこすりに、父は縮こまる。そのさまを横目に、ヴィオレータはただただ平伏してこの場をやり過ごすことに決めた。王太子との婚約を免れたのであれば、それで構わなかった。
「息女を救国の乙女として公表するのはよしておこう。本日の件は他言無用である。だが、万が一にも国の危機が訪れたときには、ヴィオレータ、そなたは己が務めを果たせ。よいな?」
念を押す国王のことばは、しっかりと胸に刻まれている。
王太子と婚約した前回とは異なり、救国の乙女に関する神託の存在自体が公表されなかったために、カルティべ伯爵領にむかうまでの日々においても、ヴィオレータの周辺は非常に穏やかだった。
あのとき謁見の間にいた貴族のあいだでは、玉の輿を逃した親不孝者として、ヴィオレータのことは密かな語り草になっているのかもしれないが、国王が非公表と決めた内容について、おおっぴらに騒ぐ者がないだけ、気が楽だ。
いちばん立ち直るのが早かったのは、意外にも床に伏せっていた母だった。決まったものはしかたがないとばかりに、まず仕立て屋を呼び、新しい肌着を何着も注文した。気候も伯爵領付近の地方での流行もわからないからと、持参するドレスについては婚家の女性であるアンヘルの母に挨拶の手紙を出しつつ質問する。それから、伯爵領に近い地域に嫁いだ知己に、次々と手紙で娘の結婚を知らせた。
「人脈は大事ですよ、ヴィオレータ。あなたは口下手なほうだけれど、誠実に話せば、ひとの信頼は得られます。お母さまの知り合いには、不慣れなあなたによくしてくださるようにと、お願いをしておきましたから、存分に頼りなさい。お母さまと同じような年周りの女性というものはね、頼られるのも好きなものなのです。せいぜい甘え上手におなりなさい」
そう言って、最後に気にかけてくれたのは靴だった。
同行するのは下女ひとりきり、他は伯爵家が寄越してくれた。盛大な見送りも、嫁入り支度もない。王家に配慮してのことだ。
アンヘルと婚姻した翌日、予想していたとおり、スケートは中止になった。しかし、聖エバの日の暖かさのせいではない。長女であるヴィオレータが両親への相談なしに、それも初対面の男性と結婚してきたせいで、エストレラ家一同、娯楽どころではなくなったからだ。
まさか、おとなしく慎ましやかなヴィオレータがそのような行動に出るとは思っていなかった両親は、驚き、落胆した。母は心痛のあまり床に伏せ、父は翌日も登城を取りやめ、長時間にわたって娘を説き伏せようと試みた。しかしながら、すでになってしまったものは取り返せない。
裁判で婚姻取消を申し立てようにも、成人したふたりの婚姻に、近親婚や脅迫による結婚といった瑕疵はなかった。くわえてヴィオレータ本人の結婚の意思は固く、度重なる説得にも決して首を縦に振らなかった。
そうこうするうちに、屋敷に国王の御璽の捺された召喚状が届いた。エストレラ公爵とヴィオレータを呼び出す内容に、家内はさらに騒然となった。いったい、娘はどんな不始末を起こしたのかと気を揉む父公爵をよそに、ヴィオレータは淡々と婚姻証明書を容れ物に戻し入れ、手に携えた。きっと、これが必要になると踏んでいた。
──お父さまが登城されていたあのときとは、王族の動きが異なるのね。
理由も知らされず、至急と呼び出されたヴィオレータたち親子は、謁見の間に通され、国王からの声を聞いた。直答を許され、挨拶をのべる際に、先手を打つ。
「初めてお目にかかります。わたくしはカルティべ伯爵が長子アンヘルの妻、ヴィオレータでございます。国王陛下の御健勝と王室の御繁栄を衷心よりお祈り申し上げます」
既婚者だと印象づける名乗りに、その場にいたひとびとがどよめく。国王が父に目をやる。説明を求められているのを察して、父が口を開く。
「──昨日、私共に相談も無しに本人が結んでまいった婚姻でございます」
「そうか、あいわかった。して、エストレラ公爵。これにある貴族名鑑にある息女の生年、生まれ日、出生地に誤りはないか」
侍従の差し出す書物に目を落とし、父はややあってうなずいた。
「聖暦328年7月20日、アウラリオラ。間違いございません」
ヴィオレータは何度も聞かされたことがある。アウラリオラは母の出身地だ。初産を不安がる母を気遣って、父は母の実家に身を寄せ、出産までを過ごしたそうだ。聖ラリサの日のころは、一面のラベンダー畑が部屋の窓から見えたという。そこでラヴァンダとでも名付けないあたりが面白いと思ったが、すみれ色という名を自分は存外気に入っている。
国王は公爵の返答に少々の不機嫌さを滲ませる。事情がわからないだろう父は、かわいそうにいまにも震えそうな顔をしていた。
「エストレラ公爵。先刻、神託が降りたのだ。フェリペの誕生より三年あと、つまり聖暦328年の聖ラリサの日に生まれた娘が国を救うと言う。そなたの娘以外に見当たらぬ。いやしかし、当の娘が伯爵のせがれとすでに結婚していたとは思わなんだ。しかも、昨日とは、運のない娘だ。親不孝な娘を持つと、そなたも苦労するものだな」
せっかく王室に迎え入れてやろうとしたのに、伯爵家の嫡男風情にほんの一日、先を越されていた。その口惜しさからだろう国王の当てこすりに、父は縮こまる。そのさまを横目に、ヴィオレータはただただ平伏してこの場をやり過ごすことに決めた。王太子との婚約を免れたのであれば、それで構わなかった。
「息女を救国の乙女として公表するのはよしておこう。本日の件は他言無用である。だが、万が一にも国の危機が訪れたときには、ヴィオレータ、そなたは己が務めを果たせ。よいな?」
念を押す国王のことばは、しっかりと胸に刻まれている。
王太子と婚約した前回とは異なり、救国の乙女に関する神託の存在自体が公表されなかったために、カルティべ伯爵領にむかうまでの日々においても、ヴィオレータの周辺は非常に穏やかだった。
あのとき謁見の間にいた貴族のあいだでは、玉の輿を逃した親不孝者として、ヴィオレータのことは密かな語り草になっているのかもしれないが、国王が非公表と決めた内容について、おおっぴらに騒ぐ者がないだけ、気が楽だ。
いちばん立ち直るのが早かったのは、意外にも床に伏せっていた母だった。決まったものはしかたがないとばかりに、まず仕立て屋を呼び、新しい肌着を何着も注文した。気候も伯爵領付近の地方での流行もわからないからと、持参するドレスについては婚家の女性であるアンヘルの母に挨拶の手紙を出しつつ質問する。それから、伯爵領に近い地域に嫁いだ知己に、次々と手紙で娘の結婚を知らせた。
「人脈は大事ですよ、ヴィオレータ。あなたは口下手なほうだけれど、誠実に話せば、ひとの信頼は得られます。お母さまの知り合いには、不慣れなあなたによくしてくださるようにと、お願いをしておきましたから、存分に頼りなさい。お母さまと同じような年周りの女性というものはね、頼られるのも好きなものなのです。せいぜい甘え上手におなりなさい」
そう言って、最後に気にかけてくれたのは靴だった。
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